11.二本松城 その3

美しい花で飾られる城跡

その後

明治維新時に起こった戊辰戦争の後、二本松城は廃城となり、わずかに残っていた城の建物も全て撤去されました。山麓の三の丸には製糸工場が設立され、1873年から1925年の間稼働していました。第二次世界大戦後、城跡は今日知られている自然公園の霞ヶ城公園となり、城の建物もいくつか再建されました。1990年以降、城に関する調査研究が行われています。1995年に天守台石垣が復元され、2006年には国の史跡に指定されました。二本松市は現在、山麓にある三の丸に御殿を復元することを検討しています。

城跡の山麓部分
山上からの眺め
三の丸

私の感想

二本松市は菊人形で知られていて、これは菊の花や葉を人形の衣装として飾り付けたものです。霞ヶ城公園では、毎秋菊花展が開催されています。この公園は桜の名所でもあり、春には公園の山は桜に包まれます。事実、その季節に山の頂上から辺りを見下ろしてみれば、まるで花の絨毯のように見えて驚かれるでしょう。よって、もし可能であれば、この城には春か秋に行かれることを特にお勧めします。

山頂から絨毯のように見える桜
菊花展で出展された菊人形 (taken by happy.mom from photoAC)

ここに行くには

車で行く場合:
東北自動車道の二本松ICから約10分のところにあります。
公園に多くの駐車スペースがあります。
電車では、JR二本松駅から徒歩で約20分かかります。
東京から二本松駅まで:東北新幹線に乗って、郡山駅で東北本線に乗り換えてください。

二本松城跡へ電車を使って訪れる場合には、二本松駅から長い距離を歩く必要があります。旧奥州街道が駅の近くを通っているので、二本松駅入口交差点を右に曲がって真っすぐ進んでください。そして、久保丁坂入口交差点を左に曲がってください。そんなに大変ではありませんが、城跡に行くには、久保丁坂という坂を登っていきます。これも城の防御システムの一つなのです。途中には大手門の現存する石垣も見ることができます。坂の頂を超えていったところで、城が築かれた山がついに見えてきます。

二本松駅から城跡への道のり

二本松駅 (licensed by D700master via Wikimedia Commons)
大手門石垣 (二本松城跡オフィシャルサイトから引用)
城跡が見えてきます

リンク、参考情報

二本松城跡オフィシャルサイト、二本松市教育委員会
・「よみがえる日本の城9」学研
・「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「二本松城その1」に戻ります。
「二本松城その2」に戻ります。

30.高遠城 その2

自然の要害による城は、桜の名所となりました。

特徴、見どころ

現在、高遠城跡は高遠城址公園となっていて、桜の名所としてとても有名です。このため、公園は多くの人たちで賑わいます。桜の季節には入園料が必要で営業時間も設定されています。対照的に、桜の季節以外は静かで、入園料はなく、いつでも開いています。これは繁忙期に入園者の数をコントロールするための措置で、公園の門は北と南に2つあるだけです。よって、いつ公園を訪れるか予め決めておく方がよいでしょう。

城周辺の地図

公園北口に向かうルート

公園北口はかつては二の丸の入口でした。もし町の方から来られるのでしたら、この入口から入るのが便利でしょう。城跡への坂道を登った後、恐らくは江戸時代に築かれた大手門石垣が見えてきます。現在の道は三の丸を通って、搦手門に至っています。

坂道を登って大手門跡へ
大手門石垣

道の左手には大手門の建物が見えます。この建物は一時移築され縮小されましたが、現在の場所に戻されています。

大手門建物

三の丸には今も藩校であった進徳館の建物が残っています。

進徳館

そして、中堀の向こうにある公園北入口に到着します。内側には1936年に建てられた観光客向けの休憩所「高遠閣」があります。

公園北口
高遠閣

公園南口を通るルート

城周辺の地図

南口はかつては外堀の外側にあった法幢院(ほうどういん)曲輪の入口でした。この曲輪はもともと寺でした。高遠町歴史博物館から来られるようでしたら、この入口から入るのが便利でしょう。博物館から城跡を見上げると城が自然の地形を利用して作られたことがよくわかると思います。山の崖はかつて敵にとっては自然の障壁でしたが、現在城跡への通路はよく整備されています。

博物館周辺から城跡を見上げます
公園南口

南口から入り、法幢院曲輪を通って外堀にかかる白兎(はくと)橋を渡って行きます。

法幢院曲輪
白兎橋
外堀

堀の内側にある南曲輪からまた土橋を通って二の丸の方に歩いて行きます。

南曲輪
二の丸に向かいます
二の丸

桜が見事であろう本丸

防御を重視した縄張りのため、本丸に行くには二の丸を通って行く必要があります。本丸は城の中心部であり、今も内堀に囲まれています。この堀は今なお深いですが、ほぼ乾いた状態であるため、堀の底に行ってみることもできます。

内堀の底

入口の前の内堀には桜雲橋がかけられていて、桜の季節にはこの辺りが一番の写真スポットと言われています。

桜雲橋

本丸入口には、問屋門という古い門がありますが、町の方から移築されたものです。

問屋門

本丸の中からは、この周辺地域の景色をよく見渡すことができます。

本丸
本丸からの景色

本丸には太鼓櫓がありますが、もともと搦手門脇にあり人々に時を知らせていました。1877年に現在地に移築され、更には1912年に立て直されたのです。

太鼓櫓

「高遠城その3」に続きます。
「高遠城その1」に戻ります。

9.久保田城~Kubota Castle

佐竹氏による土造りの城
The castle made of earth by the Satake Clan

立地と歴史~Location and History

佐竹氏が新しく作った城~New Castle Satake Clan built

佐竹氏は古代の終わり頃から常陸国(現在の茨城県)を拠点としてきました。16世紀後半、彼らは水戸城に住み、その領土は54万8千石もの石高に相当しました(その当時の日本で8番目の大大名)。ところが、1602年に徳川幕府により東北地方の秋田に移されてしまいます。1600年に起こった関ヶ原の戦いにおいて、幕府をはっきりとは支持しなかったからです。その領土は20万石まで削減されましたが、新しい土地で新しい城を築くことを決心しました。それが久保田城でした。
The Satake Clan had been based in Hitachi Province (what is now Ibaraki Prefecture) since around the end of the Ancient times. In the late 16th century, they lived in Mito Castle and their territory was worth as much as an earning of 548 thousand Koku in rice (the 8th largest lord in Japan at that time). However, they were transferred to Akita in Tohoku Region by the Tokugawa Shogunate in 1602, as they didn`t firmly support the Shogunate when Battle of Sekigahara happened in 1600. The size of their territory was reduced (to 200 thousand Koku in rice), but they decided to build their new castle in the new land. This was Kubota Castle.

城の位置~The location of the castle

お家芸だった土の城~Building Castles of earth was their Specialty

久保田城は、旭川沿いの標高40mの神明山の上に築かれました。この城には天守はなく、ほとんどが土造りによるものでした。その理由としては、佐竹氏には石垣や天守を作る技術がなかったからとか、幕府の権威を恐れたためと言われてきました。佐竹氏が秋田に移った当時は、他の大名たちにとっては、石垣と天守がある城を作るのが普通でした。しかしながら、土造りの城を作ることは佐竹氏のお家芸だったのです。その証拠として、水戸城も挙げられます。佐竹氏はそこで技術を進化させ、佐竹氏の後の徳川氏はその土造りの城を最後まで使い続けました。佐竹氏は土造りだけで強力な城を作ることができたのです。
Kubota Castle was built on a 40m high mountain called Shinmei-yama alongside Asahigawa River. The castle was almost all made of earthworks with no Main Tower. It has been said that the reason for it is that Satake had no ability and techniques for building stone walls and a Main Tower, or they feared the Shogunate`s authority. In the same period as Satake moved to Akita, it was usual for other lords to build a castle with stone walls and a Main Tower. However, building a castle of earthworks was the specialty of the Satake Clan. There is evidence also with Mito Castle, Satake Clan improved this technique, and it was used by the Tokugawa Clan following Satake as a castle of earthworks till the end. That meant Satake could build a strong castle using only earthworks.

土造りの水戸城~Mito Castle made of earthworks

自然地形を生かした巧みな配置~Clever Arrangement using Natural Terrain

城の中心部は、内堀に囲まれ、二段になっていました。上段は「本丸」であり、下段は「二の丸」になっていました。中心部の周りは「三の丸」となっていて、外堀に囲まれていました。更には、三の丸の外側且つ川の内側には「西曲輪」「北の丸」が設置されていました。本丸には御殿があり、領主が住んでいました。本丸には5つの門がありましたが、外部からは二の丸を通らなけらば行けないようになっていました。佐竹氏は、自然の地形を生かしながら巧みな配置を行い、20年以上の工事の後、城を完成させました。
The center of the castle had two tiers, surrounded by the inner moat. The upper tier was called “Honmaru” or the Main Enclosure, and the lower tier was called “Ninomaru” or the Second Enclosure. Around the center, there was “Sannnomaru” or the Third Enclosure, surrounded by the outer moat. In addition, “Nishikuruwa” or the Western Enclosure and “Kitanomaru” or the Northern Enclosure were placed outside the Third Enclosure inside the river. The Main Enclosure had the Main Hall where the lord lived, and four turrets instead of the Main Tower. It also had five gates, but anyone from the outside the castle had to go through the Second Enclosure to reach it. Satake complete the castle with clever arrangement and using natural terrain after over 20 year construction.

出羽国秋田郡久保田城画図部分、江戸時代~Part of the illustration of Kubota Castle in Akita District, Dewa Province, the Edo Period(出典:国立公文書館)

佐竹氏は江戸時代の期間中、久保田藩を統治しましたが、その支配は安定しませんでした。秋田は強風地帯であり、藩の民衆は風害による飢饉や、洪水や風雨による被害に苦しみました。これらにより一揆が頻発し、藩は予算不足に陥りました。久保田城も度々火災に見舞われますが、その都度再建されました。
Satake governed their Kubota Domain all through the Edo Period, but their governance was not stable. Akita was a very windy area, so the people of the Domain suffered several famines from dry winds, flood and water damage. It often caused riots, as a result, the Domain lacked resources. Kubota Castle also suffered fires, but was repaired and restored each time.

最後の藩主、佐竹義堯の銅像、千秋公園~The statue of Yoshitaka Satake, the last lord of Kubota Domain

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

城跡の千秋公園へ~To Senshu Park as Castle Ruins

現在、久保田城跡は千秋公園となっています。観光客は通常南から中土橋を通って現存する外堀を渡って三の丸や二の丸に向かいます。過去は東側にある黒門が城の正門でした。二の丸には広い敷地があり、かつては官庁や倉庫などの建物がありました。佐竹史料館では、久保田藩や佐竹氏に関する展示を行っています。
Now, the ruins of Kubota Castle has become Senshu Park. Visitors usually go across the remaining Outer Moat through Nakadobashi Bridge on the south to the Third and Second Enclosures. In the past, Kuro-mon Gate on the east was the front entrance of the castle. The Second Enclosure has a large space where buildings such as offices and warehouses were built. Satake Historical Museum exhibits the histories of Kubota Domain and the Satake Clan.

外堀~The Outer Moat
城に向かう道~The road to the castle
黒門跡~The ruins of Kuro-mon Gate
二の丸~The Second Enclosure

本丸への長い坂~Long Slope to Main Enclosure

本丸へは、「長坂」と呼ばれる長く曲がりくねった階段を通って登っていきます。この場所はとても重要だったため、一部石垣が使われています。「長坂門」という門がちょうど曲がっている箇所に立っていました。階段を登り切った所には、本丸の正門である表門が復元されています。門の傍らには「御物頭御番所」という警護所が城で唯一の現存建物として残っています。
You can walk up to the Main Enclosure through a long and curved stairways called “Nagasaka” or the Long Slope. Stone walls have been partly used, as this spot was very important. A gate called “Nagasaka-mon” stood at the curved part. At the end of the stairways, Omote-mon Gate, the front gate of the Main Enclosure has been restored. There is the guardhouse called “Omono-gashira Gobansho” which is the only remaining building in the castle beside the gate.

長坂~The Long Slope
長坂門跡~The ruins of Nagasaka-mon Gate
復元された表門~The restored Omote-mon Gate
現存している御物頭御番所~The remaining guardhouse

土造りの本丸~Main Enclosure made with Earthworks

本丸の中心には神社と最後の領主の銅像があります。城のようには見えないかもしれませんが、本丸を歩き回ってみれば、城の基礎は土だけですが、とても頑丈にできていることがわかると思います。櫓の一つ、御隅櫓が曲輪の北西角に再建されています。見晴らしをよくするために、元あったものより高く作られています。本丸にはいくつか出入口があるので、登ったり降りたりしてみると、この城がいかに自然の地形をうまく生かしているかが見て取れるでしょう。
The center of the Main Enclosure has a shrine and the statue of the lord of the castle. It may not look like a castle, however if you walk around the Enclosure, you can find the foundation of the castle is made of only earth, but strongly. One of the turrets, Osumi-yagura Turret has been rebuilt at the northwest corner of the Enclosure. It is built much higher than the original one for viewing. The Enclosure has several entrances such as the Back Gate, so you can also walk up and down enjoying how the castle uses natural terrain cleverly.

本丸~The Main Enclosure
再建された御隅櫓~The rebuilt Osumi-Yagura Turret
裏門跡~The ruins of the Back Gate
本丸の土塁~The earthen walls of the Main Enclosure

その後~Later History

明治維新後、久保田城は1872年に秋田県庁舎となりました。この城はまた、秋田県と秋田市の始まりともなったのです。ところが、1880年にほとんどの城の建物は燃えてしまいます。1890年になって以前の領主、佐竹氏が城跡を買い上げ、秋田市に土地を公園として貸し出し、千秋公園と名付けられました。久保田藩の元藩士たちは1892年に公園に桜の苗を寄付しました。そのため、公園は桜の花でも有名になっています。
After the Meiji Restoration, Kubota Castle became the Akita prefectural office in 1872. That meant the castle also was the origin of Akita Prefecture and Akita City. However, most of the castle buildings were burned down in 1880. In 1890, the former lord, Satake Clan bought the castle ruins and lent the land to Akita City as a park named Senshu Park. Former warriors of the Kubota Domain donated cherry plants for the park in 1892, so that’s why the park has also become famous for its cherry blossoms.

御隅櫓と桜~Osumi-Yagura Turret with cherry blossoms(licensed by アラツク via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

久保田城跡は、かつて近代公園として整備されたため、単なる公園としてしか見えないかもしれません。城跡の基礎部分をよく見れば、本当は土でできた城だとも気付いていただけると思います。この城と、これも佐竹氏が築いた水戸城とを比べてみるのもいいでしょう。秋田県は今、かつては苦しめられた風が強い気候を生かし、風力発電を推進しています。一方、現職(2021年3月現在)の秋田県知事は佐竹氏の子孫の方です。秋田は、伝統と革新の両方を重んじているようです。
You may find the ruins of Kubota Castle just like a park, because they were once developed as a modern park. You can also find the ruins was really a castle made of earth if you look at the foundation of the ruins carefully. It may be a good idea to compare this castle with Mito Castle that the Satake Clan built as well. Akita Prefecture is now developing lots of wind farms using the windy climate that they suffered from in the past. On the other hand, the governor of Akita Prefecture right now (Mar2021) is a descendant of the Satake Clan. I think Akita is trying to take good care of both tradition and innovation.

本丸に登る小径~The trail to the Main Enclosure
秋田県の風力発電所~A wind farm in Akita Prefecture(licensed by 8-Forest via Wikimedia Commons)

ここに行くには~How to get There

城跡までは、JR秋田駅西口から歩いて約10分です。
東京から秋田駅まで:秋田新幹線に乗ってください。
車で行く場合:秋田自動車道の秋田中央ICから約20分です。千秋公園に駐車場があります。
It takes about 10 minutes from the west entrance of JR Akita station to the castle ruins on foot.
From Tokyo to Akita st.: Take the Akita Shinkansen super express.
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Akita-Chuo IC on Akita Expressway. Senshu Park offers a parking lot

リンク、参考情報~Links and References

久保田城、秋田市公式サイト(Akita City Official Website)
・「よみがえる日本の城9」学研(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第60号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)