170.浜田城 その3

城は見る人の視点によって全然違うものです。

特徴、見どころ(歴史ファン向け)

参道入口から中ノ門跡へ

もし歴史にすごく興味がある方だったら、神社の参道の入口まで戻って、先ほど見えた中ノ門跡に至るオリジナルのルートを探してみてはいかがでしょう。丘の麓にはかつては御殿や武家屋敷があったのですが、今では住宅地になっています。よって、その住宅街の間の細い道をぬって進んでいくと、突然中ノ門の大きな石垣が突然現れます。この石垣はオリジナルでとても見栄えがしますが、一部は崩壊防止のためのネットで覆われています。

城周辺の地図、赤破線は推定オリジナルルート

神社の参道(左)を外れて住宅街(右)へ
住宅街の細い道を進みます
突然石垣が現れます
ネットで覆われている部分

門跡を通り過ぎると、谷に沿った歩道を進んでいきますが、周りに古い石垣も見えますので恐らくはオリジナルのルートに近い道なのでしょう。そうすると、神社のとなりの中腹部分に到着します。

オリジナルルートに沿った歩道
古い石垣も見えます
中腹部分に到着

二の丸と三の丸を通ってみる

もう一回、門の建物を通り過ぎて、左に曲がってみましょう。でもその次はまっすぐの道の方に行かないで、今度は右の方に曲がります。ここはオリジナルルートで、石垣に囲まれた二段の曲輪群に入って行きます。しかし、石垣は昭和時代に積み直されています。その修繕の前には、こられの石垣に使われた石は既に崩れてしまっていたとも言われています。下段の曲輪は三の丸で、上段は二の丸となります。二ノ門が両者の間に築かれていました。桝形と呼ばれる防御のための四角い空間がその門の背後に設定されていて、今でもその形がわかります。二の丸からは、一ノ門跡を通って本丸に再度たどり着くことになります。

今度は右の方に曲がります
三の丸に入ります
二ノ門跡
二ノ門の復元CG、現地説明板より
二ノ門背後の桝形
本丸に通ずる一ノ門跡

私の感想

浜田城跡を訪れてみて、同じ場所であっても、訪れる人の目的(くつろぎに来ているか、歴史を学びに来ているかなど)によって全然違う印象を持つものだということがわかりました。これは、過去の人にとっても同じようなものでした。記録によれば、浜田城から武士たちがいなくなった後、地震によって崩れてしまうまでは、まだ残っていた天守の中で子どもたちが遊んでいたというのです。この頃であっても、高い身分の武士と低い身分の地元民の間では、城に対して全然違う印象を抱いていたのでしょう。

本丸の天守跡周辺
本丸の復元CG、現地説明板より

ここに行くには

車で行く場合:中国自動車道の浜田ICから約15分のところです。城跡の西側と南側に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR浜田駅から歩いて約20分のところです。
東京か大阪からは、飛行機、高速バス、電車を組み合わせての行程がおすすめです。

城跡西側の駐車場

リンク、参考情報

「浜田城」歴史の散歩道その1~その6、浜田市
・「よみがえる日本の城6」学研
・「日本の城改訂版第60号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「城山公園整備事業に伴う県史跡浜田城発掘調査報告書」浜田市教育委員会

これで終わります。ありがとうございました。
「浜田城その1」に戻ります。
「浜田城その2」に戻ります。

128.要害山城 その2

ハイカーと歴史ファンのための場所

特徴、見どころ

ハイキングコースを兼ねた城跡

現在、甲府市にある要害山城跡はハイキングコース上にあり、また史跡にもなっています。山の上にある城跡の最高地点は、山麓にある登城口から約250mの高さのところにあります。したがって、城跡を訪れるには、少々長めで辛いハイキングの準備が必要となります。頂上まで30分以上の登りとなります。登りの前半は純粋なハイキングで、自然の曲がりくねった山道を進みます。その途中でいくらか石垣を目にしますが、恐らく城があった時代より後に築かれたものでしょう。

城跡への入口
石垣は後世のものでしょうか
曲がりくねった山道

そうするうちに、「竪堀跡」「土塁」と書かれた標柱が見えてきます。この辺りが城跡の入口となります。これら実際の遺跡は半ば草木に覆われていて、その標柱がなければ気が付かなかったかもしれません。

城跡の入口周辺
遺跡は半ば草木に埋もれています

コース沿いにあるオリジナルの門跡

更に進んでいくうちにコースに沿って門跡などいくつもの遺跡(または遺跡に見えるもの)があります。しかし、このコースは全部が城があった当時と同じとは限りません。最近の調査によると、この城には頂上にある主郭に至るまで8つの門がありました。私が調べた限りでは、現在のコースに沿って進んだ場合、4つしか「門跡」と書かれた標柱がある場所がありません。確かにその場所は防御力が強いように見えます。その場所は8つの門跡のうち、2、3、6、8番目に当たるようです。

城周辺の地図

2番目の門跡が見えてきます
こちらは6番目の門跡

一方で、他にも曲輪に入って行く入口があり、それらは門跡のように見えますが、そこには標柱はありません。その入口は曲輪の正面にまっすぐ入るように作られていて、防御には不利です。つまり、城があった頃のオリジナルの入口ではなく、ハイカーのために後から作られたのでしょう。もしそれが合っていれば、オリジナルの入口のうちいくつかは(恐らく4、5、7番目の門跡)は現在のコースとは別の場所にあるのだと思います。ハイキングには不便な場所だからでしょう。

この入口はオリジナルではないようです

また、1番目の門跡はコース上にあるが、標柱はないようです。そのため、私はそのときは気が付きませんでした。

1番目の門跡辺りと思われる場所(石垣が残っているため)

桝形を築いたのは誰か?

標柱がある4つのオリジナルの門跡のうち、2番目(標柱がある最初の門跡)と3番目(2番目の標柱がある場所)はなかなか見ごたえがあります。これらの門跡は石垣に囲まれ、桝形と呼ばれる四角い空間を形成しています。ハイキングコースは、門から出るのに右に曲がり、それに加えて別の曲輪が背後や進路の先の方に控えています。桝形に敵が入ってきた場合、守備兵は敵の前面と側面に反撃できるようになっていたのです。

2番目の門跡(標柱は最初)、ルートは右に曲がっていきます
背後には別の曲輪があります
曲がった先にある曲輪
3番目の門跡(標柱は2番目)、2番目の門跡と同じような作りになっています
再び右に曲がっていくルート

このような仕組みは、要害山城からずっと後に築かれた他の城でも高石垣を使って作られています。しかし、この城におけるこの仕組みを誰が築いた、または改修したかはわかっていません。もし武田氏が作ったのであれば、随分先駆けたものだったということになりますが、加藤光泰が改修した結果であれば、甲府城のような他の城から要害山城に応用したということになります。

甲府城跡の復元された山手門の桝形
甲府城模型の山手門部分、甲府城跡稲荷櫓にて展示

最大の曲輪、主郭

8番目の門跡は、主郭の入口に当たります。山の頂上にあり、城では最も大きな曲輪で、分厚い土塁に囲まれています。中には、武田信玄の生誕地であることを示す石碑があるだけです。ここからは、甲府市の市街地がよく見えるはずですが、残念ながら木々に阻まれてよく見えません。

8番目の門跡、主郭の入口
主郭の内部
主郭を囲む土塁
「武田信玄公誕生之地」の石碑
残念ながら眺望はよくありません

「要害山城その3」に続きます。
「要害山城その1」に戻ります。

167.新宮城 その2

不思議な雰囲気を持った城跡

特徴、見どころ

丹鶴城公園として整備

現在、新宮城跡は新宮市により丹鶴城公園として整備されています。この公園には実に不思議な雰囲気があります。この公園は、城跡そのものに加え、昭和時代のアミューズメント施設跡と、現在の公園としての設備がミックスされているからです。公園には入口が2か所ありますが、両方とも城のオリジナルのものではありません。西側の正面入口から入ってからしばらくは、丘の上に向かって階段を登っていきます。

城周辺の地図

公園の正面入口
正面入口から階段を登っていきます
公園の東側入口

そうするうちに、違う方向から伸びてくるオリジナルの大手道と合流します。合流地点からは、その大手道が下っているのが見えますが、ポールにロープが張ってあって直接その道を通ることはできません。

オリジナルの大手道との合流地点
大手道を見下ろします

その大手道を歩いてみるには、周辺の住宅街の方に回り込んで行く必要があります。

住宅街に残る石垣
丘下に残る大手道

精密な石垣に囲まれた曲輪

丘上には、松ノ丸、鐘ノ丸、本丸、出丸の4つの曲輪が西方から東方に向かって並んでいます。現在では石垣のみが残っています。松ノ丸は、大手道から進んで最初に着く曲輪です。その入口は、桝形と呼ばれる、石垣に囲まれた四角い防御空間となっています。この曲輪からは、川沿いにある水ノ手郭へ向かう通路もあり、ここは防御の要の場所だっだのでしょう。

松ノ丸入口
桝形部分
松ノ丸の内部
水ノ手郭への通路

その次は鐘ノ丸で、この曲輪にも桝形があります。ここの石垣は、切り込みハギと呼ばれる、加工された石を精密に積み上げる方法で築かれています。浅野時代にはこの場所に御殿があったのですが、水野時代には丘の麓の二ノ丸に移転しました。現在は広場になっていますが、恐らくは昭和時代にここに旅館があったときに作られた日本庭園もあります。

鐘ノ丸入口
桝形部分
鐘ノ丸の内部
丘の麓から見た鐘ノ丸の石垣

複雑な構成の本丸

進んでいくと、本丸に到着しますが、ここは更に複雑な構成になっています。基本的に本丸には異なった種類の多くのすばらしい石垣があります。まず、ここには二重の正門跡があり、とりわけ二番目の門跡は、亀甲積みと呼ばれる方法による、この城では最も精巧に築かれた石垣に囲まれています。

本丸周辺の地図

一番目の門跡から二番目の門跡へ
亀甲積みになっている二番目の門跡の石垣

次に、搦手門跡の石垣には、当時としては最も高度な表面加工処理(面取り、谷目地により石表面を高く膨らませる石化粧法)が施されています。

搦手門跡の石垣

更に、本丸を囲む石垣は、屏風折れと呼ばれる、石垣のラインを巧みに曲げる方法で築かれ、城の守備兵が攻めてくる敵の側面を攻撃できるようになっています。

本丸の屏風折れの石垣
屏風折れ石垣の天端部分

本丸の石垣は二段積みになっていて、上段は水野氏によって後から築かれたもので、下段の方は浅野氏によって築かれた古い時代のものです。本丸はまるで石垣の博物館のようです。

二段になっている本丸石垣(下段石垣は草に覆われています)
松ノ丸から見た本丸石垣

しかし残念ながら、天守台石垣は、1952年の台風被害によりほとんど崩れてしまっています。1面のみ残っている状況です。

僅かに残る天守台石垣

一方、本丸には大きく改変されている部分があり、その崩れた石垣を使って作られたのであろう階段や通路があります。これらは昭和時代のアミューズメント施設が建設されたときに設置されたものと思われます。こういった後付けのものについての説明が十分ではないため、ビジターはこれらの石造りのものを見て、少し困惑してしまうかもしれません。

後付けされた石造りの階段
オリジナルの石垣と後付けの造作が混在

「新宮城その3」に続きます。
「新宮城その1」に戻ります。