191.中津城 その2

一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。

特徴、見どころ

民営となっている模擬天守

現在、中津城跡は「中津城公園」という観光地として整備されています。そのように言う理由は、城跡の本丸石垣の角に、大変よく目立つ五層の天守があるからです。しかし、これは模擬天守であり、元はオリジナルの他の櫓があった場所に建てられたものです。以前城主であった奥平家が経営していた会社が、観光振興のために建設したのです。その経緯によりこの天守では、奥平家歴史資料館として奥平氏が支配した中津藩の歴史を主に展示しています。しかし赤字運営のために、奥平家は天守を他の民間会社に売却しました。現在の中津城は、唯一の民間経営の城とされていて、現地では民間企業らしくお客を呼び込む従業員の姿が見られるかもしれません。もし、城の創立者である黒田孝高のことをより知りたければ、天守の手前にあって、中津市が運営している黒田官兵衛資料館に行ってみてはいかがでしょう。

中津城の模擬天守
模擬天守の入口側
天守(奥平家歴史資料館)の中の様子
展望台から見える中津川の眺め
黒田官兵衛資料館の展示の一部

黒田時代と細川時代の石垣が共存

城に関する歴史的遺物は、石垣や水堀など、主に本丸にあります。本丸北側の石垣を見てみると、石垣は右側の古い部分と左側の新しい部分に分かれています。古い部分のかつては角であった継ぎ目がはっきりと見て取れます。一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。左側の新しい石垣の石は自然石で、右側の古い石垣の石は前者よりずっと加工されているのです。その理由は、創始者の黒田孝高が新しい城の建設を急ぐために、近くにある古代山城の唐原山城(とばるさんじょう)の石を運んできて使ったからだそうです。

城周辺の航空写真

左側が細川時代の新しい石垣、右側が黒田時代の古い石垣
天守の石垣は細川時代のものか?

本丸は今でも中津川沿いに位置していますが、その間は遊歩道があるコンクリートの護岸壁となっています。川と城を一緒に眺めながら遊歩道を歩いてみるのもよいでしょう。古代山城にあった石を使って築かれた石垣が、川沿いに並んでいます。この石垣の上に建物を築くことで、川の方から見た城の見栄えが良くなるようにしていたと思われます。しかし今ではその石垣の上に現代の住居や神社の建物があって、面白いコントラストとなっています。本丸の端には水門の石垣があって、過去には城と川が直接つながっていたことがわかります。

川沿いの遊歩道へ
川沿いに残る黒田時代の石垣
この石垣台の上に天守のような大櫓があったかもしれないようです
石垣の一部には現代住宅が乗っかっています
水門跡の石垣 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

川の反対側には、孝高が最初に築いた別のタイプの石垣があります。この石垣は長く伸びていますが、そんなに高くはありませんし、細川氏の時代に使われていたものより小さな自然石を使って築かれています。最近になって手前にある水堀と一緒に修繕されて、その周りを歩いてみることができます。

川と反対側にある石垣と堀
向かい側には遊歩道と中津市歴史博物館があります

本丸の新旧正門

更には、神社の鳥居がある本丸の正面入口では、その石垣の断面を見ることができます。それは、この入口が明治時代にこの石垣を壊した場所に作られたからで、鳥居は昭和になってから建てられました。

本丸の正面入口
石垣の断面(内部に見える石垣が黒田時代のもので、細川時代に積み増しているようです)
入口のもう片側の石垣は上半分が撤去されていましたが復元されています

この現在の正面入口の近くには、オリジナルの本丸正門である椎木門(しいきもん)跡があります。この場所は今も石垣に囲まれています。この門の背後には防衛のために別の石垣で囲まれた扇形のスペースがあったのですが、今では一部しか残っていません。

椎木門跡
扇形の石垣のうち残存部分
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(赤枠内が残存部分)
今は門の内側は開けています

「中津城その3」に続きます。
「中津城その1」に戻ります。