162.出石城・有子山城 その3

次に、出石城跡の紹介をします。最初は城跡の手前にある谷山川にかかる登城橋を渡り、登城門に入っていきます。そして、左側に二の丸の立派な石垣を見ながら、緩い石段を登っていきます。

特徴、見どころ

気軽に行ける出石城跡

次に、出石城跡の紹介をします。ここは気軽に訪ねることができます。この城跡は、山の麓にある何段もの曲輪群から構成されています。ビジターは通常、最初は城跡の手前にある谷山川にかかる登城橋を渡り、登城門に入っていきます。そして、左側に二の丸の立派な石垣を見ながら、緩い石段を登っていきます。その石垣に使われている石は、山上の有子山城のものよりも加工され且つ新しく見えます。築かれた時代の違いが見て取れます。二の丸の内部には現在は何もありませんが、かつては藩庁の建物がありました。

城周辺の地図

登城門
登城門
左側が二の丸の石垣
二の丸内部

本丸は、二の丸の上方にあり、前面の両端に都合2基の再建された櫓(東隅櫓と西隅櫓)があります。これらの櫓の姿は、もともと本丸にあった建物とは違っていますが、木材を使った伝統的工法により建てられ、現存する石垣ともよく調和しています。

西隅櫓
西隅櫓の内部、時折公開されます
東隅櫓

本丸にはかつて御殿がありました。現在はその代わりに感応殿(かんのうでん)という神社が建っていて、最後の領主であった仙石氏の初代、仙石久秀を祀っています。

本丸内部
感応殿

もっとも高いところにある稲荷曲輪

稲荷曲輪は、城ではもっとも高い位置にあります。また、13.5mのもっとも高い石垣の上にあります。他の日本の城では通常、本丸がもっとも高い位置で、もっとも高い石垣がある場所なので、出石城のケースはとても珍しいと言えます。ここにある有子山稲荷神社の建物は、城の初期段階から存在していて、現在の建物は江戸後期に再建されたものですが、とても古風に見えます。

稲荷曲輪の高石垣(右側)
有子山稲荷神社
稲荷曲輪からの景色

城下町の見どころ

城下町の一部は、以前三の丸だったところで、大手門、東門、西門が設けられていました。大手門と西門があったところには、一部残っている石垣を見ることができます。また、この地区で唯一残っている武家屋敷である「家老屋敷」を見学することができます。この屋敷で面白いことは、平屋建てのように見えるのですが、実は二階部分として隠し部屋が設けられていることです。

城下町周辺の地図

大手門石垣
西門石垣
家老屋敷
家老屋敷の隠し二階、右側にいる主人が左側の階段から誰が来るのか真ん中の壁穴を通してわかるようになっています

その後

明治維新後、出石城は廃城となり、1871年には城の全ての建物が撤去されました。地元の人たちはその代わりに同年、蜃鼓楼(しんころう)という名の太鼓台を、大手門のところに新しく建設しました。1881年には時計台に変わるのですが、この地区のシンボル的な存在になっています。出石地区は鉄道路線から外れてしまったことで一時衰退するのですが、城の建物を再建したり、城があった時代に始まった出石そばや出石焼を宣伝することなどにより、観光業に力を注ぎました。また2007年には、伝統的建造物群保存地区に指定されています。その結果、魅力的な古い街並みが今でも見られる観光地となったのです。

蜃鼓楼
出石そば、通常は皿そばにして何杯も食べるスタイルです

私の感想

事実として、出石地区に行くには、どのような交通手段を使っても結構時間がかかります。しかし、それでも多くの観光客がここを訪れています。それは、出石と有子山という2つの城跡を含む、多くの見どころ、名物名産があるからでしょう。城跡以外のものも、この地区の長い歴史に根ざしています。私の場合は、出石にまた行くのであれば、山名氏が最初に本拠地とし、最初訪れたときには知らなかった此隅山城跡に行ってみたいです。また、城巡り以外のことでは、白い地肌と彫刻が特徴的な出石焼を再度購入したいと思っています。

出石の街並み
出石焼

ここに行くには

車で行く場合:播但連絡道路の和田山ICから約30分かかります。
出石城跡の周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR豊岡駅から出石行きの全但バスに乗って、終点まで行ってください。
東京から豊岡駅まで:東海道新幹線に乗って、京都駅で山陰本線に乗り換えてください。

豊岡駅、真ん中辺りがバス乗り場

リンク、参考情報

出石城跡、豊岡市観光公式サイト
絶景を求めて出石城下町からハイキング!【有子山】、豊岡市観光公式サイト
・「よみがえる日本の城19」学研
・「シリーズ中世西国武士の研究5 山陰山名氏/市川裕士編著」戒光祥出版
・「山陰・山陽の戦国史/渡邊大門著」ミネルヴァ書房
・「城郭研究の新展開1 但馬竹田城/城郭談話会編」戒光祥出版
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「出石城・有子山城その1」に戻ります。
「出石城・有子山城その2」に戻ります。

162.出石城・有子山城 その1

出石は古い城下町を残していることで知られていて、多くの観光客が訪れ、山の麓にある出石城跡を含むエリアでの散策、食事、買い物などを楽しんでいます。晴れた日にその山を見上げてみると、その頂上には石垣があるのがわかります。それがもう一つのこの地区にある城跡で、出石城の前に築かれた有子山城です。

立地と歴史

出石にある2つの城跡

出石城は、現在の兵庫県北部にある豊岡市の出石地区にありました。出石は古い城下町を残していることで知られていて、多くの観光客が訪れ、山の麓にある出石城跡を含むエリアでの散策、食事、買い物などを楽しんでいます。晴れた日にその山を見上げてみると、その頂上には石垣があるのがわかります。それがもう一つのこの地区にある城跡で、出石城の前に築かれた有子山城です。このような城跡群があることで、この地区には長い歴史があり、豊かな文化が育まれたことがわかります。

豊岡市の範囲と城の位置

出石の街並み
手前が出石城跡、背後が有子山城跡
山上の石垣をズームアップ

日本有数の守護大名、山名氏

有子山城は、中世の時代に最も有力な守護大名の一つであった山名氏によって築かれました。山名氏は新田氏の支族で、東日本の関東地方の出身です。足利幕府が設立される頃、その当時の当主であった山名時氏が、初代将軍の足利尊氏の幕府創業に大いに貢献しました。そのため尊氏は、まだ敵方(南朝)の活動が活発であった中国地方の北部、山陰地域の平定のために時氏を送り込んだのです。時氏とその後継者たちは武力をもってその地域を征服し、ついには日本で66ある国のうち、11までの国の守護になりました。よって、山名氏は「六分の一殿」と称されるに至りました。

山名氏の家紋、五七桐に七葉根笹  (licensed by Houunji 1642 via Wikimedia Commons)
山名氏が守護となった11ヶ国  (licensed by ja:User:味っ子 via Wikimedia Commons)

ところが、3代将軍の義満は山名氏の勢力が過度に大きくなることを恐れ、1391年の明徳の乱と呼ばれる戦いにより山名氏を征伐しました。山名氏の勢力は一時衰えますが、15世紀になると山名宗全が現れ、かつてのような勢力を回復します。1467年から1477年の間に戦われ、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において、細川勝元率いる東軍に対抗して、宗全は西軍の総大将を務めました。山名氏は再び多くの国の守護となり、現在の兵庫県北部にあたる但馬国の出石地区を本拠地としました。山名氏の当主は最初は、後の有子山城から約5km北にある此隅山城(このすみやまじょう)を居城としていて、宗全はこの城から2万6千人の軍勢を率いて出陣し、京都で東軍と戦ったのです。

山名宗全肖像画、「本朝百将伝」より  (licensed by Musuketeer.3 via Wikimedia Commons)
細川勝元肖像画、龍安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中央政府で確固たる地位を築いていた細川氏と違い、山名氏は自国の領土を武力によって維持する必要がありました。しかし、戦国時代になって下剋上が国中に広まっている中で、それが難しくなっていったのです。山名氏はやがて、赤松氏や尼子氏などの他の戦国大名との数々の戦いに敗れ、領地の国を一つずつ失っていきました。その結果、山名の権威は失墜し、その重臣たちまでもが独立を志向しました。山名氏の当主であった山名祐豊(やまなすけとよ)は、何とか最後の但馬国だけは維持しようと、他の国との国境近くに竹田城を築いたりしました。そしてより強大な戦国大名である織田氏や毛利氏に助けを求めようとしました。

但馬国の範囲と城の位置

竹田城跡

山名祐豊が本拠地を有子山城に移転

ところが、1569年に織田氏は但馬国を攻撃します。祐豊の本拠地、此隅山城は落城し、祐豊はそこから逃亡せざるを得ませんでした。このことの背景に、但馬国を織田の勢力圏とするという、織田氏・毛利氏間の密約があったのではないかと言われています。祐豊は、織田信長に会い、但馬国の鉱山からの収益から多額の献金をすることで、1570年に帰還することが叶いました。そして彼はその本拠地を、此隅山城よりずっと高く険しい山にある有子山城に移し、二度と落城することがないよう改修しました。祐豊は普段は山麓にある屋敷に住んでいて、それが出石城とその城下町の起源となります。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

1570年代になると、織田氏と毛利氏は対立するようになります。祐豊は、どちらの側に付いてよいのか逡巡します。そうするうちに織田氏は1580年に但馬国を再び攻撃しました。後に天下人となる羽柴秀吉の弟、羽柴秀長を派遣したのです。その侵攻の理由の一つとして、生野銀山などの但馬国の鉱山を手に入れたかったのではないかと言われています。秀長の軍勢は有子山城を包囲し、恐らくは援軍の望みがなくたったことで、祐豊はついに降伏しました。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

羽柴秀長が有子山城を改修

その後、秀長は有子山城に居座り、但馬国の本拠地として城を改修しました。それまでこの城は土造りでしたが、山頂にある城の主要部分は、石垣を築くことで強化されました。後に築城の名手と称されるようになる秀長の重臣、藤堂高虎が携わったと言われています。主要部のとなりの千畳敷曲輪は、国中の領主たちが援軍として集結しても十分兵員や物資を収容できるよう拡張されました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城の想像図、出石「家老屋敷」にて展示

小出吉英が出石城を築城

城はそれから、豊臣秀吉が天下人となった後、その親族である小出氏に引き継がれました。小出氏は、天下の権が豊臣氏から徳川幕府に移ってもなんとか生き残りました。1604年に小出吉英(こいでよしひで)が山麓の屋敷を大改修し、出石城としました。恐らく統治の利便のためだったでしょう。そして、代わりに山上の有子山城を廃城としました。山麓の新しい城とその城下町は、出石藩として江戸時代の間繁栄しました。その後、仙石氏が藩主となり、江戸時代末まで統治しました。

出石城の想像図、出石「家老屋敷」にて展示

「出石城・有子山城その2」に続きます。