25.甲府城 その1

徳川幕府の重要な防衛拠点

立地と歴史

加藤光泰が本格的に築城か

甲府城は、甲斐国(現在の山梨県)にありました。甲斐国は、1582年に織田信長に滅ぼされるまでの長い間、武田氏が領有してきました。それ以来、織田氏がこの国を支配するも、徳川氏、豊臣氏、そしてまた徳川氏と、次々と支配者が変わりました。甲府市は、現在の山梨県の県庁所在地ですが、既に武田氏館の城下町でした。徳川氏が最初に支配した1583年に、この城下町の南側に初めて甲府城を築いたと言われていますが、定かではありません。1590年に豊臣秀吉の配下である加藤光泰が甲斐国を与えられました。彼は、甲府城を大幅に改良し、大規模な石垣を築いたものと思われます。というのは、豊臣は穴太衆と呼ばれる石垣を築くことができる職人集団を従えていたからです。徳川方はそういった組織は持っていませんでした。同時に、この城の基本構造が完成したと考えられています。

城の位置

加藤光泰肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高石垣と三重の堀で守られた城

城は3つの部分から成っていました。主要部分は内城と呼ばれ、本丸、天守台、その他の曲輪を含んでおり、石垣と内堀に囲まれていました。これらは一条小山と呼ばれた丘陵の上に築かれ、南側の追手門、北側の山手門、西側の柳門という3つの入口がありました。この主要部分の東側は高石垣により厳重に防御されていました。2番目の部分として、内郭と呼ばれた武家屋敷地が主要部分の周りにあり、二ノ堀に囲まれていました。最後に、城下町が内郭の周りにあり、これも三の堀に囲まれていました。

甲府城の古絵図、楽只堂年禄第173巻 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲府城主要部分の模型、正面は東側の高石垣(甲府城稲荷櫓)

江戸を守るための重要拠点

17世紀からの江戸時代において、甲府城は大変重要な地点でした。徳川幕府は、五街道を設置し、それには甲府の町を通る甲府街道も含まれていました。甲府は、将軍の本拠地である江戸(現在の東京)を守るための西の防衛拠点と見なされたのです。このため、幕府は基本的にはこの城を直轄統治していました。例えば、将軍の親族である徳川綱豊が在城しており、彼は後に6代将軍となります。柳沢吉保は幕府の重臣でしたが、1705年に将軍の親族でない者として初めての甲府城主になりました。しかし、その息子の吉里は1724年に大和郡山城に移され、甲府城は再び幕府直轄となりました。

甲府と江戸の位置関係

柳沢吉保肖像画、一蓮寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1868年の明治維新のとき、新政府と幕府との間で戦が起こります。新政府軍の指揮官の一人、板垣退助は幕府よりも早く甲府城を確保するべきと考えました。幕府もまた、近藤勇率いる有名な部隊、新選組を甲府城に派遣します。板垣は急行し、わずかな差で甲府城入城を果たしました。そして彼は新選組を打ち破ったのです。

板垣退助写真、東洋文化協會出版物より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
近藤勇写真、国立国会図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「甲府城その2」に続きます。

24.武田氏館 その3

山梨県有数の観光地

その後

明治維新後、山梨県の人たちは武田信玄の業績の顕彰を始めました。更には、1905年の日露戦争での日本の勝利の後、信玄のような軍神を祀ることが推奨されました。結果として、1919年に武田氏館跡に武田神社が創建されました。この神社と信玄は今では県のシンボルとなり、観光名所となっています。

武田神社
武田神社の鳥居

私の感想

武田氏館跡を訪れてみて、信玄を含む武田氏は、彼らの本拠地を強化することに大変な労力を注いだことが理解できました。ただ実は、この館は信玄のような偉大な戦国大名にしてはやはり少し小さいのではないかと思います。その理由として、信玄は攻撃は最大の防御であると考えていたのではないでしょうか。信玄は彼の生涯を通じて領土を拡張しようとしました。城のスタイルは、よくその創始者や持ち主の性格を表しているとも思うのです。

甲府駅前にある武田信玄銅像 (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)
武田氏館西曲輪入口

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の甲府昭和ICから約30分かかります。
武田神社近くに駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、甲府駅から歩いて30分か、武田神社行きの山梨交通バスに乗ってください。
東京から甲府駅まで:新宿駅で特急あずさ号かかいじ号に乗ってください。

リンク、参考情報

信玄公のまち、古府を歩く(甲府市)
・「武田信玄 伝説的英雄からの脱却/笹本正治著」中公新書
・「日本の城改訂版第20号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書

これで終わります。
「武田氏館その1」に戻ります。
「武田氏館その2」に戻ります。

24.武田氏館 その2

武田と徳川の遺産が神社周辺にあります。

特徴

中心地は武田神社に

現在、武田氏館跡の中心地は武田神社となっています。もし甲府駅からここを訪れる場合は、およそ2kmの緩やかな坂を登っていく必要があります。そして、鳥居がある武田神社の入口が神社の南側に見えてきます。実はこの入口は元からあったものではなく、神社が設立されたときに作られました。入口の両脇には石垣もありますが、これは徳川氏の時代に築かれたものです。神社全体を囲む土塁と水堀は武田氏によって築かれました。

武田神社の入口
徳川氏が築いた石垣
神社を囲む土塁と水堀 (licensed by 前田左衛門佐 via Wikimedia Commons)

神社の本殿は、かつて武田氏の御殿があった敷地の中に建っています。客をもてなすための回遊式庭園も御殿の手前にありました。本殿のとなりには、宝物館があり、武田氏館のことをより学んだり、信玄のモットー「風林火山」が書かれた孫子の旗や甲冑などの武田の遺品を見学することができます。

武田神社の本殿

城周辺の地図

東側は公園として整備

神社の東側には、もう一つの入口、大手門がありますが、元はここが正面口でした。門の周りの石垣は武田の時代からのままのようにも見えます。大手門の前には、門を守るための復元された四角い石積みがあります。これは最近の発掘の成果によるもので、元は徳川氏により築かれたものです。実は、武田氏による丸い形の馬出しの跡が、四角い石積み跡の下に見つかりました。発掘により、この門と石積みの東側にもう一つの曲輪が築かれたことも判明しました。この曲輪もまた、大手門を守るために恐らくは徳川氏により作られたものと考えられています。この曲輪の入口と土塁が公園として復元されています。

東側にある大手門
復元された石積み
復元された大手門東側の曲輪

武田の雰囲気を残す西曲輪

武田神社の西側には、西曲輪が残っています。神社からこの曲輪の方に土橋を渡って歩いて行くことができます。この曲輪に行く出口の両脇に石垣が見られますが、これは信玄の時代に由来するものかもしれません。曲輪の中は今は空ですが、信玄の家族や関係者のための館がありました。古風な土塁や水堀がこの曲輪を囲んでいて、当時の雰囲気が感じられます。更には、南側にあるこの曲輪の正面入口には、桝形と呼ばれる武田の防御システムを見ることができます。曲輪を守るため、括弧形の土塁に囲まれた入口の内側が四角い空間になっています。

神社から西曲輪へ
西曲輪へ向かう出口に見られる石垣
古風な西曲輪の外観
西曲輪南側の入口
土塁に囲まれた桝形部分

「武田氏館その3」に続きます。
「武田氏館その1」に戻ります。