35.金沢城 その3

金沢城にもう一回行ってみます。今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

特徴、見どころ(金沢城石垣めぐり)

金沢城にもう一回行ってみます。前回「金沢城見学コース」としていくつかご紹介しましたが、城を全般的にご紹介する内容でした。金沢城は「石垣の博物館」と言われていますが、そのときは石垣を十分ご紹介できなかった、と思っていました。そこで、今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフレット

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

「城内ルート」前編

①石川門石垣:まずは「城内ルート」して設定されている10ヶ所の石垣を回りましょう。また石川門に来ました。相変わらず威厳があってかっこいいです。枡形の中の石垣に特徴がありましが、そこが1番目のチェックポイントです。枡形内の石垣が左右で違う積み方をされています。左側(北面)が租加工石積み(打込みハギ)、右側(東面)が切石積み(切込みハギ)になっています。左側の石垣にはマークがたくさんついていますが、「刻印」といってそれぞれの石を積んだ職人やグループを識別するためと言われています。その左側の方が古い形式で寛永期の築造(金沢城調査研究所の分類では4期))、右側の方が明和期の改修時(1765年、明和2年)に積まれたそうです(6期)。なぜこんな目立つところで、違う積み方を残したのでしょうか。江戸時代から「これはおかしい」という意見があったそうです。ただ、石川門の建物は、寛永期に建てたものが宝暦の大火で焼失していて(1759年)、再建されるのが石垣改修後(1788年)ですので、前からあった石垣を単純に再利用したのかもしれませんし、設計者の趣味でわざと残したのかもしれません。こんなところにも門の歴史が見て取れます。

石川門
石川門(隅櫓)
枡形内の石垣
左側の石垣に残る刻印

②内堀石垣:続いて、石川門を越えて、三の丸に入りましょう。復元された櫓や門が並んでいて壮観です。2番目の石垣は、その手前の内堀石垣です。内堀及び石垣自体は、その櫓や門と一緒に復元されたものです(1999〜2000年)。創建は寛永の大火(1631年)の後と言われているので(4期)、その時代のものを想定して復元したそうです。復元の技術も大したものです。

復元された櫓群と内堀
復元された内堀石垣

➂菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣:3番目が復元された櫓群(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓)の石垣です。ついつい櫓の方に目が行ってしまいますが、そのベースとなっている石垣も大事です。この石垣はオリジナルで、創健は寛永の大火後ですが(4期)、その後の火災の被害などからの修復が重なり、結果的に租加工石積みや切石積みが混在しています。出入口など重要なところは切石積みが多いようです。

(右側から)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とその石垣
門(橋爪門)周辺は切石積みになっています

④二の丸北面石垣:菱櫓の角を曲がっていきましょう。4番目の二の丸北面の石垣です。結構古そうな感じがします。ここは租加工積みなのですが、石の大きさを揃えてきれいに積まれています(布積み)。寛永の大火後(4期)に創建され、1666年(寛文6年、5期)に改修されたものが残っています。石垣職人の藩士(穴生)後藤家3代目の権兵衛が携わっていて、後に6代目の後藤彦三郎が、城内で二番目の出来、と称賛しています(一番は鯉喉櫓台石垣ですが一旦壊され、現在は復元されています)。職人の仕事と誇りが今に伝えられているのです。

二の丸北面石垣
城内の直線石垣としては最長(約160m)です

⑤土橋門石垣:二の丸北面石垣と内堀に沿って進んで行くと、5番目の土橋門石垣に至ります(4期創建、西側は5期・東側は7期改修)。何気なく通り過ぎてしまいそうですが、意識して見てみると、きれいな石垣です。門東側の石垣には六角形の亀甲石が組み込まれています(切石積み)。水に親しむ亀ということで、防火の願いが込められたそうです(金沢城は火災につぐ火災でした)。実際に、この門が文化の大火(1808年)の被害を免れたときは、この石垣のおかげだと言われました。そのときの人々の気持ちを表しているのです。

土橋門跡
土橋門石垣(東側)
亀甲石(中央)

「城内ルート」後編

⑥数寄屋敷石垣:城内ルート後編は、土橋門から折り返して中心部に入っていきます。小さな門を通ります。これは現存する「切手門」で、これから行く石垣のところにあった数寄屋敷への通用門だったのです(一旦他の場所に移され、原位置に戻ってきました)。屋敷へ通う女中の通行手形を改めたということで、この名になったと言われます。その後に通り過ぎる洋館は、旧第六旅団司令部庁舎です。軍隊が使っていた頃のもので、これも城の歴史の一コマです。6番目が「数寄屋敷石垣」です。ここもきれいに積まれています(布積み)。石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」の技法が使われています。ここは側室たちが住んだ所なので、積み方も場に合わせたのかもしれません。創建は寛永期(4期)で、その後改修が続けられました。面白いのが、進んだ先です。刻印だらけです。ここは、この城で特に刻印が多い場所です(4期の石を5期に積み直したそうです)。刻印は分担を示したものと聞いていましたが、なんだか遊び心のようなものも感じます。

切手門とその奥の旧第六旅団司令部庁舎
数寄屋敷石垣(手前側、7期の改修)
数寄屋敷石垣(奥側、5期の改修)
刻印が多く見られる場所

⑦戌亥櫓石垣:続いて、二の丸を通って、本丸に向かいます。極楽橋は渡らず、違うルートの途中に次のチェックポイントがあります。戌亥櫓石垣です。これも寛永期(4期)の創建です(5期・6期に改修)。角のところはともかく、これまでと比べると粗い石を使っています(粗加工石積み)。しかし、当初は隙間に平らな石を詰め込み、切石積みのように見せていたそうです(経年で多くが抜け落ちてしまったとか)。いろんな工夫をしていたのです。

極楽橋のところは通り過ぎます
橋爪門の手前を右に曲がります
戌亥櫓石垣

⑧三十間長屋:三十間長屋にやってきました。ここにも石垣があるのか、と思ってしまいますが、土台のところを見ると、確かにあります。建物に目を奪われて気づきませんでした。こちらは切石積みですが「金場取り残し積み」という、わざと粗い面を残す技法が使われています。よく見ると随分凝っています。この建物も焼失と再建の歴史があって(現存建物は幕末(1858年)の再建)、この石垣の方が古いのです(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。

三十間長屋
三十間長屋石垣

⑨鉄門石垣:9番目は鉄門石垣です。ここは本丸の正門だったので、石垣もきれいな切石積みが用いられています(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。石の形も多角形に加工されています。石垣を見ると、その場所の重要度がわかります。

鉄門石垣
多角形の石が積まれています

⑩東の丸北面石垣:城内ルートの最後は、本丸を下ったところにある東の丸北面石垣です。金沢城で最も古い石垣の一つです。今までに見た石垣と様子が違います。自然石や粗割りした石を積み上げた「野面積み」になっています。前田利家がいた文禄期(1期)に築造されました。そういう石を使ってよくこんなに高く積み上げたと思います(約13m)。今まで残っているわけですから、相当な職人技なのでしょう。10ヶ所の石垣、それぞれ個性的ですごく楽しめましたが、次は他のルートからピックアっプしていきます。

鉄門跡から本丸の森へ
本丸を下っていきます
東の丸北面石

「城内外連絡ルート」より

色紙短冊積み石垣:後半戦、まずは「城内外連絡ルート」から取り上げます。二の丸に戻って、いもり坂を下ります(いもり坂は明治になって作られた通路)。坂の途中から入っていくのは、玉泉院丸庭園に面した、色紙短冊積み石垣です。この石垣は切石積みで、前田綱紀が藩主だった時代(5期)に築かれたと言われています。この頃に金沢藩の石垣技術が成熟し、文化的にも発展していました。金沢城の最盛期と言っていい時期でした。色紙は方形、短冊は長方形ということなので、それらを組み合わせて、滝を表現したそうです。これはもう、庭園の景観の一部になっています。

いもり坂から下っていきます
色紙短冊積み石垣、上の方には滝を落とす石樋の石があります
玉泉院丸庭園、左後方が色紙短冊積み石垣

薪の丸東側の石垣:いもり坂に戻って、また下ります。「薪の丸(たきぎのまる)コース」という標識があります。これは「城内外連絡ルート」の一部で、ここから脇道に入っていきましょう。山道という感じです。でも、それに似つかわしくない石垣があります。これが「薪の丸東側の石垣」です。(租加工石積み、寛永期(4期)創建、寛文期(5期)改修)薪の丸には、伝来の宝物(刀剣・書籍等)を収める蔵があったそうです。それより前は薪を置いた場所で、名前の由来となりました。の石垣も後藤権兵衛が完成させました。

「薪の丸コース」入口
脇道に入っていきます
薪の丸東側の石垣

申酉櫓下の石垣:ここから上に行くと、三十間長屋に着きますが、まっすぐ進みます。山の斜面を進む、みたいです。この先にまたおもしろい石垣があるのです。斜面一杯に石垣が積まれています。それだけでもすごいですが、石垣を見上げてみましょう。石垣が継ぎ足されています。「申酉櫓下の石垣」と呼ばれている場所です。右側(東側)が主に前田利長が治めた慶長期(2期)の石垣で、割石積みといって、自然石積みから粗加工石積みの中間の段階の積み方のようです。城作りを進めていた時期です。左側は、前田利常の時代(寛永期・3期)に本丸を拡張するために継ぎ足されたのです。寛永の大火があった後で、先ほどの鉄門の造営と連動しています。仕上げは、古い方の石垣に合わせたそうです。

上に行くと三十間長屋です
本丸南斜面に積まれた石垣
申酉櫓下の石垣

「城外周コース」+おすすめ

本丸南面の高石垣:最後のセクションは「城外周コース」と独自のおすすめをミックスしてご紹介します。これも前回とかぶりますが、百間堀を歩いてみます。スタート地点は「本丸南面の高石垣」です。明治になってから改修されたそうですが、すばらしいです。かつては慶長期(2期・割石積み)に創建された城内随一の高石垣(約24m)でした。その上に櫓があったのだから、壮観だったでしょう。

鯉喉櫓台から見た本丸南面の高石垣、往時は上から3段目の石垣が上まで伸びていました

蓮池堀縁の石垣、東の丸東側の石垣:百間堀跡も、ここが堀だったと思うと、すごいです。ここも飽きないコースの一つでしょう。堀跡のすぐ横の石垣は、「蓮池堀(百間堀)縁の石垣」で、少し新しいのですが(元和期・3期・粗加工石積み)、その上にそびえるのが、これも城内最古の「東の丸東側の石垣」(文禄期・1期・自然石積み)です。途中に小段が設けられていますが、高さ21mで、当時としては日本有数でした。強いお城を作ろうという意思を感じます。

百間堀跡
手前が蓮池(百間堀)縁の石垣、奥が東の丸東側の石垣

三の丸東面の石垣:石垣は、石川門の下まで続くのですが、興味深いことがあります。石垣は、ずっと古い感じのものが続いています。この三の丸東面の石垣は、江戸後期に大改修されたのですが(7期)、古い堀縁の石垣に合わせて、荒々しく仕上げられたのです。金沢城の石垣はかくあるべしというのがあったのでしょうか。

三の丸東面の石垣

河北門の石垣:次は独自のおすすめで、城内に飛びますが「河北門の石垣」です。復元された門ですが、一ノ門左右の石垣はオリジナルです。他の部分の石垣は復元されたのですが、さすが三御門の一つらしく、すばらしいです(切石積み)。強さと美しさがバランスされていると思います。オリジナルは、宝暦の大火後、石川門よりも早く改修されたそうです(6期)。それだけ大事な門だったということでしょう。

河北門一ノ門とオリジナルの石垣
復元された門の建物と石垣

大手門の石垣:ラストは城内をショートカットして、大手門(尾坂門)跡に来ました。なんといっても、ここには大手門らしい鏡石があります。右側の角にある石が、城内最大のものだそうです。築かれたのも早い時期(慶長期・2期)で、割石積みの手法です。こうやって見てくると、本丸や大手門の周りに古い石垣があって、城の中心部が別のところ(二の丸など)に移ってから、いろんな石垣が築かれたことがわかりました。城の石垣と歴史がリンクしてます。

大手門跡
城内最大の鏡石
突き当りにも多くの鏡石があります

リンク、参考情報

金沢城と兼六園 リーフレットダウンロード
石川県金沢城調査研究所Youtubeチャンネル
・金沢城調査研究パンフレット「金沢城を探る」
・「石垣の名城 完全ガイド/千田嘉博編著」講談社

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その4」に続きます。

35.金沢城 その2

金沢城公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

今回は出発地として、金沢駅前に来ています。鼓門がすっかり駅のシンボルになっています。駅から金沢城公園までは少し離れているので(約2km〜)、バスなどに乗っていかれるのがいいと思います。公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。実際に行かれるときは、お時間に応じて、選択されたらいいと思います。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

金沢駅鼓門

百間堀〜石川門コース

ここは「広坂」交差点の近くです。向こうに城の高石垣が控えています。城がどんなところに築かれたのかよくわかります。道路がまっすぐ城がある台地を貫いていますが、これがかつての百間堀です。手前に見えるのが、外堀の「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」で、いずれも復元されたものです。

広坂交差点付近
「いもり堀と鯉喉櫓台

本丸南面の高石垣は、何段にも分かれて積まれています。実はもとはひと続きだったのが、明治時代に崩れてしまい、今のように積み直されたそうです。

本丸南面の高石垣

歩いている通り(お堀通り)が百間堀跡で、長さ150間(約270m)、幅40間(約70m)にもなったことで、その名がついたと言われています。今もその迫力は変わりません。台地の方(右側)から攻めてくる敵を防ぐためでした。現在は金沢城公園と兼六園の境界になっています。

百間堀跡

左側もすごい石垣が続きます。「東の丸東面の石垣」です(本丸の東側を「東の丸」といいます)。ここも段積みになっていますが、当初からこのスタイルでした。城でもっとも古い石垣の一つで、高さはトータルで21mもあるそうです。おそらく、前田利長が、利家から命じられて築いたものでしょう。

東の丸東面の石垣

石川門が見えてきました。門に行くのには、道路のこちら側(西側)からは登れないので、向こう側(東側)に渡って、改めて頭上の橋(石川橋)を渡ります。

石川門
石川橋

かつての石川橋は、堀にかかる土橋だったとのことです。兼六園ともつながる城の代表的な入口です。城としては搦手門(裏門)に当たりますが、防衛上は正門なみに大事な場所でした。橋から見る百間堀(跡)も壮観です。

石川橋と石川門
石川橋から見る百間堀跡

石川門の櫓(隅櫓)は大変見栄えがします。味方にとっては頼もしく、敵にとっては脅威だったでしょう。最初の門(一の門、高麗門)を入ると、枡形(防御用の四角い空間)です。枡形の左右の壁で石垣のデザインが違います。左側が江戸前期(寛文年間〜、粗加工石積み)で、右側が江戸後期(明和年間〜、切石積み)です。改修を重ねた結果、こうなったようです。さすが石垣の博物館です。

石川門隅櫓
一の門
枡形の石垣

枡形の内側にある鉄砲狭間も見逃さないようにしましょう。表側からは見えないようになっています(隠し狭間)。次の門(二の門、櫓門)は、とにかく重厚です。
ず:あれ、表からは見えなかったよね。石川門の内側が三の丸です。

枡形内側の鉄砲狭間
二の門
三の丸

大手門~二の丸コース

次は大手門口にやってきました。傍らには、唯一そのまま残っている大手堀があります。昔はここに大手門があり、尾坂門とも呼ばれました。大手門らしく、正面に「鏡石」を配しています。何度も通路が曲げられているので、ここも枡形だったのでしょう。石垣は初期(慶長)の頃のものですが、現在残っている絵図には、建物は描かれていないそうです(石川県HP)。早くに火事で燃えて再建されなかったのかもしれません。

大手門口
大手堀
大手門の鏡石

中に入ると、広々としています。ここは新丸(広場)で、初期には重臣の屋敷地でしたが、つ:やがて、城外に移転していき、藩の役所や細工所(工房)が置かれました。

新丸広場

次は、三の丸の入口・河北門への坂道を登っていきましょう。この門は、幕末まで実質的な城の正門として機能しました。陸軍による撤去後、2010年に130年ぶりに復元されました。右側には、「出し」(出窓)がついた、ニラミ櫓台があります。とても見栄えがするけど、敵だったらそこから狙われてしまうでしょう。枡形の中に入ると、中は石垣があまりないように見えます。実は「枡形土塀」といって、中に隠し石垣が仕込まれていて、それも復元したそうです。櫓門の中に入ることもできます。

河北門への坂道
河北門
河北門枡形
河北門内部

門の内側が三の丸で、折り返して、二の丸の入口・橋爪門に行きましょう。今度は、右側に菱櫓があって、五十間長屋が橋爪門の続櫓までつながっています、これらも2001年に復元されました。

河北門(右側)を出て折り返します
菱櫓(右側)
五十間長屋が橋爪門続櫓までつながっています

橋爪門は、二の丸の正門です。二の丸御殿までの最後の門として格式も高かったのです。2015年に復元されました。中の枡形はかなり広く、周りの塀は二重で、なんと出し付きです。門を出ると、二の丸に到着です。

橋爪門
橋爪門桝形
門を出ると二の丸です

二の丸御殿の復元工事が始まっています。今後が楽しみです。

二の丸御殿跡

五十間長屋(など)の中に入ってみましょう。

五十間長屋入口付近

こちらは、つながっている橋爪門続櫓の中です。先ほど通った枡形が見えます。

橋爪門続櫓内部
橋爪門枡形が見えます

五十間長屋の中を進みましょう。中を歩いた方が、かえってその長さを感じることができます。

五十間長屋内部

端のところにあるのが菱櫓です。床を見ると、ゆがんで作られているようにも感じます。これは、菱櫓の平面がわざと菱形(平行四辺形?)に作られているからです。大手門と搦手門両方を視野を広く監視するためと言われています。

菱櫓内部
五十間長屋と菱櫓の継ぎ目

本丸コース

次は、二の丸から本丸に行ってみることにします。極楽橋を渡ります。尾山御坊(金沢御堂)のときからあったと言われる橋です。現存している三十間長屋が見えてきます。

極楽橋

なにか普通の倉庫にも見えます。確かに普段は倉庫として使われたそうですが、反対側に回ってみると、出し(出窓)が付いています。出し周辺からは、玉泉院丸や鼠多門の方を眺めることができます。きっとこちら側を監視する役割があったのでしょう。

三十間長屋
三十間長屋の出し

鉄門(くろがねもん)跡を通って、本丸の中心部に行きます。いくつか櫓跡があります。まず、北西の戌亥櫓跡です。今まで回った城の建物をよく見渡すことができます。

鉄門跡
戌亥櫓跡
戌亥櫓からの眺め

本丸の中心部は現在「本丸の森」と呼ばれています。次は、南東の辰巳櫓跡です。金沢の街を一望できます。ここは、最初に見た本丸南面の高石垣の天辺です。見張りをするにも最適な場所だったのでしょう。しかし、寛永の大火のときは、ここに飛び火したそうです。

本丸の森
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からの眺め

最後は、北東の丑寅櫓跡です。向かい側は兼六園で、この下は先ほど歩いた百間堀跡です。

丑寅櫓跡
丑寅櫓跡からの眺め

この辺から下ると、三の丸の方に出ますが、その途中に、現存する鶴丸倉庫があります。

鶴丸倉庫

鼠多門~玉泉院丸コース

最後のコースの出発点として、尾山神社に来ています。ここも人気の観光スポットです。実はこの場所は、城の金谷出丸で、これから通る鼠多門を通じて城の中心部とつながっていたのです。それでは、神社の裏手から進んで行きましょう。ずっとブリッジを歩いていきます。つ:鼠多門、鼠多門橋がともに2020年に復元されています。橋の下は道路(お堀通り)ですが、かつては外堀でした。「鼠多門」の名前の由来ですが、:壁の色から来ていると言われていますが、建設時にネズミがたくさんでできたからという設もあるそうです。門の内部の見学もできます。

尾山神社(神門)
鼠多門橋と鼠多門
鼠多門
鼠多門内部

門を入ったところが玉泉院丸です。復元された庭園がきれいです。向こうの方に見える建物が三十間長屋です。現在では庭園の借景になっています。

玉泉院丸庭園
三十間長屋が見えます

玉泉院丸の上手のいもり坂を登って(登り切ったところが二の丸です)色紙短冊積石垣を見に行きましょう。違った色や形の石が組み合わされています。本当に見せるための石垣です。

色紙短冊積石垣

リンク、参考情報

金沢城公園(公式ホームページ)
水土の礎
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説/大西泰正著」平凡社
・「隠れた名君 前田利常: 加賀百万石の運営手腕/木越隆三著」吉川弘文館
・「家から見る江戸大名 前田家・加賀藩/宮下和幸著」吉川弘文館
・「研究紀要金沢城研究第19号」石川県金沢城調査研究所
・「研究紀要金沢城研究第20号」石川県金沢城調査研究所
・「日本の城下町と金沢城下町 城下町金沢学術研究1」金沢市
・「史跡金沢城跡保存活用計画 令和3年3月」石川県
・「福井の戦国歴史秘話40 凄惨な一揆弾圧を伝える瓦」福井県観光営業部ブランド営業課

「金沢城その1」に戻ります。

「金沢城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城~Kanazawa Castle

加賀藩100万石の領主、前田家の城
The castle for the Maeda Clan, the lord of the Kaga Domain with one million koku of rice

立地と歴史~Location and History

寺院から城へ~Changing from Temple to Castle

金沢城は、石川県金沢市の最も有名なシンボルの一つであり続けています。城は、金沢平野に突き出した小立野大地の端に位置しており、犀川と浅野川に挟まれています。この地には最初、戦国時代の16世紀、大坂城の前身と同じように、一向宗の信者が住む尾山御坊がありました。加賀国(現在の石川県)は当時「百姓の持ちたる国」と呼ばれ、御坊はまるで城のように作られていました。
Kanazawa Castle is still one of the most famous symbols of Kanazawa City, Ishikawa Prefecture. The castle is located on the edge of the Kodachino Plateau sticking out to the Kanazawa Plain between Saigawa River and Asano-gawa River. This site was first used as the grounds for Oyama-Gobo Temple where the followers of the Ikko Sect lived like the former Osaka Castle in the 16th Century of Sengoku Period. Kaga Province (what is now Ishikawa Prefecture) was called “a country owned by peasants” at that time, and the temple was designed to look like a castle.

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金沢城Kanazawa Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置~The location of the castle

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金沢城Kanazawa Castle
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

しかしながら後に、この百姓たちは1580年に有力な戦国大名、織田信長によって滅ぼされて、御坊は破壊されてしまいます。信長は配下の佐久間盛政を送り込み、御坊の跡地に金沢城を築かせました。城は最終的には1583年に、前田氏の始祖、前田利家のものとなります。前田氏は、徳川幕府により100万石の収量がある加賀藩の領有を許されました。江戸時代を通じて最大の藩でした。
Later on, however, the peasants were defeated by a great warlord, Nobunaga Oda, in 1580 and the temple was destroyed. He sent his man, Morimasa Sakuma to build Kanazawa Castle on the ruin of the temple. The castle was last owned by Toshiie Maeda, the founder of the Maeda Clan in 1583. The clan was granted the Kaga Domain, also earning one million koku of rice, by the Tokugawa Shogunate, which was the biggest domain throughout the Edo Period.

前田利家肖像画、個人蔵~The portrait of Toshiie Maeda, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田氏が城を拡張して維持~Maeda Clan develops and maintains Castle

前田氏は、城を拡張し、いくつもの曲輪を築きました。最も高い所にある「本丸」、二番目に高い「二の丸」、そして低い所の「三の丸」などです。大きな水堀である「百閒堀」は、城と、城の弱点の一つであった台地の山側との間に掘られました。「総構え」と呼ばれる最も外側にある土塁が、台地上にある城を取り囲んでいる平地に築かれました。
The clan developed the castle building into several enclosures, with the highest enclosure being the the Main Enclosure or “Honmaru”, the second highest being the Second Enclosure or “Ninomaru”, then the Third Enclosure or “Sannnomaru” below, and so on. A large water moat called “Hyakken-Bori” was dug between the castle and the mountain side of the plateau which was one of the weak points of the castle. The outermost earthen walls of the castle called “So-gamae” were built on the plain area surrounding the castle on the plateau.

江戸後期の金沢城絵図、現地説明板より、注記付加~The illustration of Kanazawa Castle in the late Edo Period, from the signboard at the site, adding notes
街中に部分復元された総構え~The partly restored So-gamae earthen walls in the town area

本丸上には、天守も築かれましたが、1602年に落雷により焼失してしまいました。その後、城は火災に何度も襲われました。前田氏は、その度に城を修復しましたが、城の姿は少しずつ変わっていきました。例えば、1631年の火災の後は、城の中心部は本丸から、二の丸にある二の丸御殿に移りました。1759年の火災の後には、「大手門」は再建されませんでした。元通りとなった河北門が代わって城の正門となりました。
The Main Tower was also built on the Main Enclosure, but it was struck by lightning and burned down in 1602. After that, the castle suffered from fires several times. The Maeda Clan restored the castle each time, but the appearance of the castle changed little by little. For example, after the fire in 1631, the center portion moved from the Main Enclosure to the Ninomaru Main Hall on the Second Enclosure. After the fire in 1759, the Main Gate or “Ote-mon” was not rebuilt. The restored Kahoku-mon Gate became the front gate of the castle instead.

大手門跡~The ruins of the Main Gate
現代に復元された河北門~The recently restored Kahoku-mon Gate

前田氏による城の特色~Maeda Clan also develops Features

前田氏が江戸時代を通して城に住み、修復し続けたことにより、城には興味深い特徴が備わっていきました。一つは様々な石垣です。前田氏は、火災や他の災害で被災した石垣を、その時々の最新の技術やスタイルにより再建しました。その結果、城は「石垣の博物館」と言われるようになりました。
As the Maeda Clan continued to live in and repair the castle all through the Edo Period, the castle developed interesting features. One of them is the variety of stone walls. The clan rebuilt the stone walls which were damaged by fires and other accidents using the latest technologies and style of each time period. As a result, the castle has been called “a museum for stone walls”.

江戸後期に築かれた鉄門石垣~The stone walls of Kurogane-mon Gate built in the late Edo Period
江戸中期に築かれた様々な刻印がある数寄屋敷石垣~The stone walls of the Suki houses with various markings built in the middle Edo Period

一方、石垣の上の多くの建物には、海鼠壁(四角い瓦を盛り上げた漆喰により連結して覆ったもの)、白い鉛瓦、出窓が付いた櫓といった共通の意匠上の特徴があります。これらにより城の建物はとても美しくなっています。
On the other hand, the many buildings on these stone walls had common design features such as Namako-kabe wall (covered with square tiles joined with raised plaster), white lead roof tiles, and bay window style turrets. These features made the castle buildings very beautiful.

海鼠壁の構造モデル~The structural model of Namako-kabe wall
河北門の櫓台にある出窓~The bay window at the turret base of Kahoku-mon Gate

特徴~Features

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石川門Ishikawa-mon Gate
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

石川門~Ishikawa-mon Gate

現在、金沢城は金沢城公園として一般に公開されています。その全周は2.2kmですが、高さ(約40m)があるためもっと大きく見えます。公園にはいくつか入口がありますが、最も有名なのは、城の3つある現存建物のうちの一つ、石川門です。この門は城の裏門だったのですが、やがて金沢城三御門の一つになりました。この門は、これも前田氏が造営した有名な庭園、兼六園の反対側にあります。かつては百間堀があった道路にかかった橋を渡って門に入ることができます。この門の構造は桝形門と言われていて、敵を防ぐ強力な防御力を得るために櫓や石垣で囲まれた四角い空間から成りたっていました。また、この門では、再築された時期が異なることによる複数のタイプの石垣を見ることができ、とても面白いものです。
Now, Kanazawa Castle is open to the public as Kanazawa Castle Park. Its perimeter is 2,2km, but it looks much larger because of its height (up to about 40m). The park has several gates, and the most popular one is the Ishikawa-mon Gate which is one of the three remaining buildings in the castle. The gate is the back gate of the castle, and eventually became one of the three important gates in the castle. It is located opposite to a famous garden called Kenrokuen which the Maeda Clan also created. You can go across the bridge over the road, where the Hyakken-bori moat once existed, to enter the gate. The structure of the gate is called Masugata-mon style which has a square space surrounded by turrets and walls to provide strong protection against enemies. The gate also has different types of stone walls because some parts of the walls were rebuilt several times. They look very interesting.

石川門に向かう~Going to the Ishikawa-mon Gate
元百間堀だった道路~The road which was once the Hyakken-bori moat
石川門の櫓~The turret of the Ishikawa-mon Gate
石川門の石垣~The stone walls of the Ishikawa-mon Gate (taken by オム・ライス from photo AC)

復元された建物群~Group of Restored Buildings

門の内側は三の丸で、河北門が右側に見え、橋詰門、五十間長屋、そして菱櫓が左側に見えます。これらは全て最近になって復元されました。河北門、橋詰門は金沢城三御門の残りの二つです。三の丸から見る河北門は、門の内側です。この門の正面は、新丸という更に低い位置の曲輪に面していて、ここには大手門がありました。橋詰門などは二の丸にあって、かつては曲輪を守っていました。この曲輪には二の丸御殿がありましたが、今は広場になっています。
The inside of the gate is the Third Enclosure where you can see Kahoku-mon Gate on the right, and Hashizume-mon Gate with Gojukken-nagaya Row House and Hishi Turret on the left. They have all been restored recently. These gates are two of the rest of the three important gates. What you see of Kahoku-mon Gate from the Third Enclosure is its back side. The front side of the gate faces a lower enclosure called Shinmaru which had the Main Gate. Hashizume-mon Gate, etc., are on the Second Enclosure, and protected its entrance in the past. The inside of the enclosure once had the Ninomaru Main Hall, but is a square now.

河北門(裏側)~Kahoku-mon Gate (Its back side)
五十間長屋と菱櫓~Gojukken-nagaya Row House and Hishi Turret
橋詰門(違う角度から)~Hashizume-mon Gate (from a different angle)

本丸周辺~Around Main Enclosure

本丸へは三の丸、二の丸両方から行くことができます。三の丸からは、東丸を通過して登っていきます。ここには、この城では最も古い石垣の一つと、現存する鶴丸倉庫があります。本丸は、城では最も高い位置にあり、早くに放置されたためか、林のようにも見えます。本丸の端からは、街並みを望むことができます。ここにはかつて30m近い高石垣がありましたが、明治時代に崩壊してしまいました。同じ場所で現在見ることができる階段状の石垣は、日本陸軍によって再建されたものです。
You can go to the Main Enclosure from both the Third and Second Enclosures. From the Third Enclosure, you will walk up to the Main Enclosure through the Higashi-maru Enclosure. Here you can see one of the oldest stone walls in the castle and the remaining “Tsurumaru” Warehouse. The Main Enclosure is the highest point of the castle and looks like a forest probably because it was abandoned earlier. You can see a town view from the edge of the enclosure. It once had nearly 30m high stone walls which collapsed in 1907 during the Meiji Era. The terraced stone walls we see now at the same place have been rebuilt by the Japanese Army.

三の丸から本丸へ~Going to the Main Enclosure from the Third Enclosure
東ノ丸北面の古い石垣~The old stone walls at the northern side of Higashinomaru Enclosure
鶴丸倉庫~Tsurumaru Warehouse
本丸~The Main Enclosure
本丸からの眺め~A view from the Main Enclosure
本丸にある階段状の石垣~The terraced stone walls at the Main Enclosure

二の丸と本丸の間には、「極楽橋」という橋が渡されており、その名前の由来は尾山御坊の時代に遡るといいます。極楽は仏教徒にとっての天国のことです。本丸のこの橋の近くには、残りの現存建物である三十間長屋があります。金沢城の3つの現存建物はいずれも重要文化財に指定されています。
Between the Second and Main Enclosures, you can go across a bridge called “Gokuraku-bashi” which derived its name from the period of Oyama-Gobo from the Ikko Sect Buddhists. Gokuraku means Buddhists’ Paradise. Near the bridge on the Main Enclosure, there is the other remaining building called Sanjukken Row House. The three remaining buildings in Kanazawa Castle are all designated as Important Cultural Properties.

極楽橋~Gokuraku-bashi Bridge
橋の横から見る~The side view of the bridge
三十間長屋~The Sanjukken Row House

その後~Later History

明治維新後、金沢城は日本陸軍によって使われました。金沢は軍都となり、市民の10%(2万人)が軍と関係がありました。城にある軍の遺跡としては、石垣、トンネル、第7旅団司令部建物などを現在見ることができます。ところが、今残っている3棟を除く元からあった全ての城の建物は、1881年の火災により焼けてしまいます。
After the Meiji Restoration, Kanazawa Castle was used for the Japanese Army. Kanazawa became a military base where about 10% of citizens (20,000) were associated with the military. We can now see the ruins of the military in the castle such as stone walls, tunnels and the building for the Headquarters of the 7th Brigade. However, all the original castle buildings were unfortunately destroyed by the fire in 1881, except for the three remaining buildings.

第7旅団司令部建物~The building for the Headquarters of the 7th Brigade
陸軍によって作られたトンネル~A tunnel built by the Japanese Army

第二次世界大戦後、1949年から1995年まで、城は金沢大学として使われました。1996年以来、石川県は歴史公園として整備を進めています。伝統的建物を復元している中で、県は公園の名前を、金沢城址公園から金沢城公園と改めました。最近、石川門の反対側にあり、市街地に近い「鼠多門」という門が2020年7月に復元されました。これで、城を訪れ、楽しむことがもっと容易にできるようになりました。行政側は今、二の丸御殿を復元できるかどうか検討しています。
After World War II, the castle was used for Kanazawa University between 1949 and 1995. Since 1996, Ishikawa Prefecture has been developing it as a historical park. While restoring the traditional buildings, the prefecture renamed the park from Kanazawa Castle Ruins Park to Kanazawa Castle Park. One of the castle gates called “Nezumita-mon”, on the opposite side of Ishikawa-mon Gate, near the town area, was restored recently in July 2020. This made it easier for people to visit and enjoy the castle more. Officials are also considering if they should restore the Ninomaru Main Hall now.

Leaflet|国土地理院
1970年代の城周辺の航空写真~The aerial photo of the area around the castle in the 1970s

復元された鼠多門~The restored Nezumita-mon Gate (taken by ローランの歌 from photo AC)

私の感想~My Impression

公園の名前の変更は、行政側の大変な努力と、日本の歴史を伝え、観光を盛り上げようとする決意を表しています。伝統的建物を復元し維持していくには多額の予算を必要とします。更にこのような建物の使用は、法律により厳しく制限されています。よって、建物の用途はほとんど観光のためということになるでしょう。余計なお世話かもしれませんが、少し心配です。この挑戦がこの先成功するよう望みます。
The renaming of the park shows the officials’ unusual effort and determination to preserve the history of Japan and increase tourism. Restoring and maintaining traditional buildings requires a huge budget. In addition, the uses for such buildings are strictly limited by law. That means these buildings are mostly for tourism. Counting others’ money is not my business, but I am a little concerned about it. I hope their challenge will be successful in the future.

復元された建物群~The restored buildings

ここに行くには~How to get There

車で行かれる場合は、北陸自動車道の金沢森本ICから約20分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
If you want to go there by car, it takes about 20 minutes from the Kanazawa-morimoto IC on Hokuriku Expressway. There are several parking lots around the park.
鉄道を使う場合は、金沢駅から、北陸鉄道バスか金沢循環バスに乗って、兼六園下バス停で降りてください。そこから歩いて約5分です。
When using the train, take the Hokuriku-tetsudo bus, Kanazawa Loop bus, or Kenrokuen Shuttle from Kanazawa Station, and get off at the Kenrokuen-shita stop. It takes about 5 minutes from the stop on foot.

リンク、参考情報~Links and References

金沢城公園Kanazawa Castle Park
・「よみがえる日本の城8」学研(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第5号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「石垣の名城完全ガイド/千田嘉博著」講談社(Japanese Book)
・「列島中央の軍事拠点(地域のなかの軍隊)」吉川弘文館(Japanese Book)

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