145.興国寺城 その3

沼津市おすすめの観光地

その後

興国寺城が廃城となった後、この区域は畑になりました。1857年、大きな地震と飢饉の後、人々は降伏を願い城跡に穂見神社を建てました。沼津市は1982年以来、城跡の調査と発掘を続けてきました。1995年には城跡は国の史跡に指定されます。沼津市はこの城跡に水堀を復元し、歴史公園として整備しようと考えています。

穂見神社
空堀
沼津市の整備計画を示す説明板

私の感想

私は、興国寺城は単に北条早雲が旗揚げをした城だと思っていました。しかし、この城は早雲の後、100年以上の歴史を持っているのです。この城はとても重要な位置にあり、立地にも恵まれているからです。興国寺城跡は、沼津市のおすすめの観光地だと思います。天気が良ければ、城跡から富士山の頂を望むこともできます。

現存している石垣
土塁に囲まれた本丸
富士山の頂も見えます

ここに行くには

車で行く場合:
東名自動車道路の沼津ICから約20分かかります。
城跡の中に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、原駅から歩いて30分かかります。または沼津駅から富士急シティバスの東平沼行きか富士駅行きに乗り、東根古屋バス停で降りてください。
東京から原駅または沼津駅まで:
東海道新幹線に乗り、三島駅で東海道線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

興国寺城跡、沼津市公式ウェブサイト
・「城の政治戦略/大石泰史」角川選書
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書
・「興国寺城跡」沼津市教育委員会

これで終わります。
「興国寺城その1」に戻ります。
「興国寺城その2」に戻ります。

145.興国寺城 その1

この城は、平和のシンボルか、戦いのシンボルか?

立地と歴史

興国寺城は、現在の静岡県沼津市にありました。沼津市域はかつては駿河国(現在の静岡県中心部)に属していました。戦国時代の16世紀には多くの戦国大名がこの国を手に入れようしていました。

城の位置と駿河国の範囲

この城は、愛鷹山の丘陵地の南端に位置していました。南側には沼地があり、東側と西側は自然の障壁となっていて、城を守っていました。城はこのような山や沼地の自然の地形を生かして築かれたのです。この城はまた、交通の要所でもありました。山の裾野を走る根方街道が城のすぐ脇を通っていました。更に、城のすぐ近くから竹田街道が海沿いの東海道に通じていました。

城周辺の起伏地図

現在でも2つの街道が接続しています。

この城には、主には三つの曲輪が階段状に配置されていました。本丸は最も高い所にあり、北からの敵の攻撃を防ぐために背後に大きな空堀がありました。城にの両側には沼地に船を乗り出すための船着き場さえありました。

駿州真国寺古城図部分(興国寺城の図とされている、出展:国立国会図書館)

この城自体は地味なのかもしれませんが、その歴史はよく知られています。これは歴史書に、興国寺城は有名な戦国大名、北条早雲が最初に城主になった城だと書かれているからです。早雲は15世紀後半に活躍した初期の戦国大名で、駿河国の今川氏を支援しました。そのため1487年に今川氏からこの城を与えられたのです。彼の出世物語はこの城から始まり、関東地方の一部を手に入れたのです。彼の子孫は、その足跡を継ぎ、関東地方の残りの地をも獲得しました。

北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、この城が早雲と同じ時期に存在したこと示す他の証拠は見つかっていません。公的文書にこの城のことが最初に現れるのは1549年になってからです。そのとき、今川義元が興国寺に対して、新しい城をそこに作るので他の地に移るよう命じたのです。真相はどこにあるのでしょうか。ある歴史家が面白い仮説を述べていて、早雲が主となった城というのは、興国寺という名の寺であったというものです。興国寺はそもそも寺の名前であるわけですから、興国寺城は、興国寺に由来してつけられた名前と考えられるのです。

今川義元銅像(桶狭間古戦場公園、taken by HiC from photoAC)

その歴史家はまた、なぜこの城が作られたのか、もう一つの推測を行っています。この城が作られたとき、駿河国周辺の地域では、今川氏、北条氏、武田氏の間で和平の機運が高まっていました。城は基本的には戦いのために築かれますが、興国寺城は平和のシンボルとして、3氏の会談の場として作られたのではないかというのです。3氏は善得寺で同盟のための会談を行ったとされていますが、その寺は実は興国寺のことかもしれないということです。

当時の武田氏当主、武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながらこの同盟は1568年に破られてしまい、興国寺城は戦に巻き込まれていきます。城主は、今川氏から北条、武田、豊臣、そして徳川氏というように頻繁に入れ替わりました。城主の数が増えるに従い、城の範囲は拡大していったようです。1601年、徳川配下の天野康景が最後の城主になり、興国寺藩を設立しました。彼は善政を行いましたが、彼の領民と他の領民との諍いが起きたことをきっかけに、城から出奔してしまいました。1607年に藩は取り潰しとなり、城もついには廃城になりました。

天野康景、小牧長久手合戦図屏風より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「興国寺城その2」に続きます。