164.洲本城 その3

この城の根本的価値とはなんでしょう。

特徴、見どころ

東の丸の見どころ

お時間があれば、東の丸をもっと見学されることをお勧めします。ここには他にも興味深い見所があります。例えば、日月(じつげつ)の池は、城の井戸として使われていました。東の丸の東側には、東二の門跡があり、ここの石垣はこの城では一番古いものです。この門跡の外側では、山裾から山頂まで伸びる東登り石垣を見下ろすことができます。とても素晴らしいものですが、あまり近づきすぎない方がいいようです。一部分が崩れており、近づいて見るには危険が伴うからです。

城周辺の地図

東の丸日月の池
東の丸東二の門跡
東登り石垣

その後

明治維新後、洲本城は廃城となり、山上の城跡は、三熊公園として自然公園となりました。模擬天守は、その公園の呼び物として建設されたのです。城の山麓部分は、裁判所や博物館、一般住居などの市街地となっていきました。山上に残っていた石垣は、調査及び復旧がなされました。その結果、城の山上部分はついには1999年に国の史跡に指定されてした。一方では、模擬天守はもうす建物としての寿命を迎えるものと思われます。ところが、現在の国の史跡に適用される基準下では、天守は、もとあった建物についての明確な根拠資料がなければ、建て替えが認められないかもしれません。地元の人たちは、城のシンボルとして何らかのものを維持したいと考えていますが、山上にどんな城の建物があったのか今だわかっていないのが実態です。何しろ約400年前に建物が撤去されてしまっているのです。洲本市など地元の自治体は城の将来についてどのような決断を行うのでしょうか。

洲本城の模擬天守

私の感想

山の上にこんなにも素晴らしい石垣がよい状態で残っていることに本当に驚きました。日本にはあまり似た状況のところはありません。洲本の人たちが石垣を維持するのに大変な労力を注いできたからだと思います。しかしながら、これらの石垣がこの城の最も重要な要素である割には知られていないように思います。ここの石垣や城の歴史はもっと他の地域の人たちにも知られるべきではないでしょうか。また、登り石垣を含むこの城の石垣が、より完全に近い形で残されていくことを望みます。短期間で成し遂げることは難しいでしょうが、洲本城のことがもっと知れ渡れば、洲本の人たちは模擬天守があってもなくても、この城のことをより誇りに思うことができるのではないでしょうか。

大手門の前の腰曲輪の石垣
本丸南西隅の石垣
オリジナルの天守台の上に立つ模擬天守

ここに行くには

車で行く場合:
神戸淡路鳴門自動車道の洲本ICから約20分かかります。
山頂近くに城跡の駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、洲本バスセンターから歩いて約40分かかります。
大阪または神戸からバスセンターに高速バスが出ています。

山頂近くの駐車場

リンク、参考情報

洲本城跡について、洲本市ホームページ
・「城郭研究の新展開2 淡路洲本城」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城13」学研
・「日本の城改訂版第20号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「洲本城その1」に戻ります。
「洲本城その2」に戻ります。

164.洲本城 その1

淡路島にある素晴らしい城

立地と歴史

独立した淡路国に築かれた城

洲本城は、日本の本州と四国、そして2つの細い海峡(明石海峡と鳴門海峡)に挟まれた淡路島にありました。また、淡路島は播磨灘、大阪湾、紀伊海峡にも囲まれています。この島は、日本の中心とされた京都にも近く、近代以前には、特に海上交通をコントロールしたり監視したりするための重要な拠点と見なされていました。その結果、淡路島は、淡路国として独立した国となっていました(現在では兵庫県の一部となっています)。

城の位置

戦国時代の16世紀、三好氏の配下であった安宅(あたぎ)氏が最初に洲本城を築き、水軍を率いました。しかし、安宅氏は1581年に天下人の豊臣秀吉に降伏しました。秀吉は(一旦仙石久秀にこの城を与えますが)最終的には1585年に、部下の脇坂安治(わきざかやすはる)を洲本城に送り込みます。安治は、大洲城に転封となる1609年までの24年間、洲本藩の藩主としてこの城を統治しました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

脇坂安治が大幅に強化

洲本城は、もともと土造りの単純な山城であり、三熊山の上に築かれました。その頂からは、周辺の海域(東側の大阪湾と南側の紀伊水道)を見渡すことができます。安治は、洲本城を大幅に改修し、山の上に石垣や天守を含む多くの櫓を築きました。こういった城の構造は、秀吉やその部下たちによって成された典型的な築城方法でした。この築城方法は、秀吉の天下統一事業の間、日本中に広まりました。城をより強化することで、人々に権威を誇示していたのです。安治はまた、山麓に御殿を築き、城下町を開設しました。彼は最後に、登り石垣と呼ばれる階段状の石垣を、山麓と山頂をつなぐ直通ルートとして建設しました。登り石垣は、安治を含む数名の大名が、朝鮮侵攻の際、連絡あるいは防衛のために開発したものです。洲本城にあるものは、現存する数少ない登り石垣の一つです。安治は、日本に戻った後、登り石垣を洲本城に応用したのです。これにより、洲本城は完成したとされています。

城周辺の起伏地図

本丸の石垣
登り石垣

一時は廃城に

ところが、安治が転封となった後、洲本城は他の大名たち(池田氏、蜂須賀氏)によって使用されませんでした。これは、淡路国がその大名たちの所領の一部になったこと(池田氏は播磨国、蜂須賀氏は阿波国が本拠)、淡路国では他の城を支城として使ったこと(岩屋城や由良城)がその理由です。更には、洲本城は、1615年に徳川幕府により発せられた一国一城令により一時廃城となってしまいます。山上の全ての建物は、当時淡路国と阿波国(現在の徳島県)を治めていた蜂須賀氏によって撤去されました。一説によると、洲本城が廃城となる前に、その天守が脇坂安治により大洲城に移設されたとのことです。大洲城の天守の形式が、安治が洲本城にいた時に一般的であった天守の形式の一つに該当するそうです。

淡路島にあった支城群の位置

大洲城

蜂須賀氏の支城として石垣を維持

1631年、蜂須賀氏は、何らかの理由で洲本城を淡路国の支城として復旧しました(交通の便のためとも言われています。それまで使っていた、大阪湾入口近くにあった由良城は廃城となりました)。蜂須賀氏は、家老の稲田氏を城代として城に派遣しました。しかし、城の中心部は山の麓に設定され、城主の御殿が再建されました(御殿は城主である蜂須賀氏のためであり、稲田氏は別の屋敷に住んでいました)。山の部分は基本的には脇坂氏が築いた石垣のみが維持され、新しい門がいくつか添えられただけでした。これは恐らく、蜂須賀氏にとって、本拠地の徳島城とは違い、洲本城はあくまで支城の一つであり、山上は非常時にのみ必要な場所だったからでしょう。この城の珍しい形態は、19世紀半ばの江戸時代末期まで維持されました。

淡路国(洲)本城下之絵図、江戸時代(出展:国立国会図書館)山上部分は既に石垣のみとなっています
山麓部分の城跡 (licensed by Reggaeman via Wikimedia Commons)

「洲本城その2」に続きます。

169.米子城~Yonago Castle

この城には2つの天守が並び立っていました。
Two main towers stood in a row at the castle.

立地と歴史~Location and History

海に面した城~A castle facing the sea

米子市は、中国地方の鳥取県西部にあり、ゆったりした雰囲気を感じる所です。戦国時代には中国地方のほとんどを毛利氏が支配していました。その一族である吉川広家は、天下人の豊臣秀吉に海の近くに新しい城を築くよう命じられ、それは1592年の秀吉の朝鮮侵攻の補給基地の役割がありました。この辺りは朝鮮に近かったからです。それが米子城でした。
Yonago City has a relaxed atmosphere, located in the western part of Tottori Prefecture, Chugoku Region. In the “Sengoku”, or Warring States Period, the Mori clan governed most of this region. Its relative Hiroie Kikkawa was ordered to build a new castle near the sea by the ruler Hideyoshi Toyotomi as a supply base for Hideyoshi’s invasion of Korea in 1592. Because the area is close to Korea. That was Yonago Castle.

城の位置~The location of the castle

この城は、湊山と呼ばれる90mの高さの山の上に築かれました。城の背後はちょうど中海に面しており、港として使われていました。初期の城に関する詳細は不明なのですが、頂上には4階の天守がありました。
The castle was built on a 90 m mountain called Minato-yama. The back of the castle just faced Nakaumi Lake, and was used as a port. The details regardomg the first castle are uncertain, but there was a four-story main tower or Tenshu on the top.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

2つの天守が並ぶ~Two Main towers stands

徳川幕府が設立された後は、1600年に米子城と米子藩の領主として、中村一忠が配置されました。一忠は城と城下町の拡張を続け、完成させました。彼はまた、新しく元あった天守より大きな5階の天守を築きました。その当時、大きな天守を築くことが大名たちの間でブームとなっていました。民衆に権威を示すためです。既に古い天守があった場合には、大抵は置き換えられました。
After the Tokugawa Shogunate was established, they placed Kazutada Nakamura as the lord of Yonago Castle and the Yonago feudal Domain in 1600. He continued to improve and complete the castle along with the castle town. He also built a new five-story Tenshu that was larger than the old one. At that time, building large Tenshu was a boom for lords, as they tried to show their authority to people. If there was already an old Tenshu, it was often replaced with the new one.

中村一忠の彫像、観應寺蔵~The statue of Kazutada Nakamura, owned by Kannouji Temple(licensed by Reggaeman via Wikimedia Commons)

しかし、米子城の場合は、元あった4階の天守は残され、単に名前が副天守または四階櫓と変えられただけでした。つまりそれ以来、2つの天守が並び立っていたのです。何と勇壮な姿だったことでしょう。
However, in the case of Yonago Castle, the old four-story Tenshu remained and was just renamed the Sub Main Tower or the Four-Story Turret. That meant two Tenshu were standing in a row since then. They must have looked so great!

米子市立山陰歴史館にあるツイン天守の模型~A miniature model of twin main towers at Yonago municipal historical museum

鳥取藩の所有となる~Tottori feudal Domain owns

1609年、一忠は若くして亡くなり、彼には後継ぎとなる子どもがいなかったため、改易となってしまいました。最終的には米子は池田氏による鳥取藩に属することになります。池田氏は一時、当時の本拠地である鳥取城から、米子城に移り、ここを新本拠地にすることを検討しました。それだけ米子城が魅力的だったのですが、結局は中止になりました。結果、鳥取藩の家老である荒尾氏が米子城とその城下町を江戸時代いっぱい統治しました。
In 1609, Kazutada died young, then his clan was disbanded because he didn’t have children or successors. Lastly the Yonago area belonged to the Tottori feudal Domain owned by the Ikeda clan. The clan once considered Yonago Castle as their new home base by moving from their current home base, Tottori Castle. Yonago Castle was attractive to them, but the plan was canceled. Finally, the Arao clan, chief retainer of Tottori Domain governed Yonago Castle and the castle town until the end of the Edo Period.

米子城古図、鳥取県立博物館蔵~The old map of Yonago Castle, owned by Tottori Prefectural Museum(米子市 Website より引用)

特徴~Features

城周辺の地図~The map aroud the castle

頂上へ上る~Climbing up to the top

現在、米子城の城跡は湊山公園として残っています。基礎の上に石垣がありますが、現存する建物はありません。城を訪れる人は通常は城の正門であった大手門跡から頂上の方に上っていきます。他にもいくつか登り口があります。
Now, the ruins of Yonago Castle remain as Minato-yama Park. There are stone walls on their foundation, but with no remaining buildings. Visitors can usually climb up to the top from the ruins of the Main Gate or Ote-mon which was the front entrance of the castle. There are also several trails to climb.

大手門跡~The ruins of the Main Gate
向こうに見える長屋門は他から移されてきました~The long house style gate over there was moved from another place.

山はそれ程高くありませんので、15分か20分くらいあれば頂にある城の中心地に到達できます。
The mountain is not so high, so you can reach the center of the castle at the peak in around 15 to 20 minutes.

山頂への山道~A trail to the top

2つの天守台~The two stone wall bases for Tenshu

そこには2つの天守のための天守台石垣があります。新しい天守用の方は古い石を使い、三段積みの形式となっています。
There are stone wall bases for two Tenshu. The one for the new Tenshu has a three-layer style using older stones.

2つの天守台~The two stone wall bases for Tenshu
新しい天守用の三段積み石垣~The three-layer style stone walls for the new Tenshu

一方、古い天守(副天守)用には新しい石を使い、一層積みとなっています。これは、江戸時代後期に古い天守が大改装されたからです。この時、天守台が置き換えられたと言います。
On the other hand, the one for the old Tenshu (Sub Main Tower) has a single-layer style using newer stones. This is because the old Tenshu was renovated in the late Edo Period. It is said its base was replaced then.

古い天守用の一層積み石垣~The single layer style stone walls for the old Tenshu

本丸とその他の曲輪~Main and other enclosures

鉄門と呼ばれる正門跡を通り過ぎると、本丸に入っていきます。
Going through the front gate ruins called Kurogane-mon, you will enter the Main enclosure or “Honmaru”.

鉄門跡~The front gate ruins

この曲輪からは、城を囲む市街地、海そして山の素晴らしい景色を堪能できます。但し、周りに柵がありませんので、足元お気を付けてください。
From the enclosure, you can get a great view of the surrounding area such as the city, the sea and mountains, but watch your steps, because there are no fences.

本丸の眺め~A view of the Honmaru
本丸からの眺め~A view from the Honmaru
足元にお気をつけください~Watch your step

本丸には水手門という裏門もあり、かつては港につながっていました。
Honmaru also has the back gate ruins called Mizunote-mon which led to the port in the past.

水手門跡~The back gate ruins
かつて港だった場所~There was the port in the past

城には、他にも山麓に二の丸があり、内膳丸というのもありました。内膳丸は山の中腹なり、見張りや連絡のために使われました。最近の発掘調査により、かつてはこの曲輪から本丸にまっすぐ通じる石垣でできた通路があり、登り石垣と呼ばれました。歴史家は、朝鮮侵攻のときに日本軍が似たような仕組みを作ったことから、これは吉川氏がその時の経験を基に作ったのではないかと考えています。
The castle had other enclosures like the Second enclosure or “Ninomaru” on the foot and “Naizen-maru” enclosure. Naizen-maru is on the midslope and was used for observation and connection. A recent excavation found that this was the direct route made with stone walls called Nobori-Ishigaki from this enclosure to Honmaru in the past. Historians say it might have been built by Kikkawa from the experience of the invasion of Korea where Japanese warriors built similar systems.

内膳丸~Naizen-maru enclosure
内膳丸から本丸を見上げる~Looking up Honmaru from Naizen-maru

その後~Later History

明治維新後、米子城は廃城となり、元藩士に無償で譲渡されました。しかしながら、城をそのまま維持するは大変困難でした。すべての城の建物は、廃材として売られていきました。1933年、米子市が城跡を取得し、しばらくして湊山公園として整備しました。2006年に城跡は国の史跡に指定されました。それ以来、発掘調査が進められています。
After the Meiji Restoration, Yonago Castle was abolished and assigned to former warriors for free. However, it was too difficult for them to keep the castle as it had been. They had to sell all of the buildings in the castle as waste materials. In 1933, Yonago City owned the castle ruins, then developed them as Minato-yama Park after a whole. The ruins were designated as a National Historic Site in 2006. Since then, excavation and investigations have been ongoing.

登り石垣跡~The ruins of Nobori-Ishigaki(licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

もし藩士たちが少しでも城の建物を残していてくれたらと思います。そうであったなら現在の松江城のようになっていたでしょう。どちらにしろ米子城跡に訪れる価値はあります。とてもゆったりできますし、観光客も市民も歴史を学ぶ場になります。
I wish the warriors could have kept some of the castle buildings so I could see them today like Matsue Castle. In any case, the ruins of Yonago Castle are still attractive. Visiting the ruins can be relaxing, an exercise and an opportunity to learn history for tourists and citizens.

2つの天守台を町から見上げる~Looking up the two Tenshu bases from the town

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:山陰自動車道米子西ICから約4kmです。公園に駐車場があります。
電車では、JR米子駅から歩いて約20分です。
米子空港から米子駅まで:米子空港駅から境線に乗るか、空港連絡バスに乗ってください。
If you want to go there by car: It is about 4 km from the Yonago-Nishi IC on San-in Expressway. The park offers a parking lot.
By train, it takes about 20 minutes on foot from JR Yonago station.
From Yonago Airport to Yonago station :Take the Sakai line from Yonago-Kuko station, or take the connecting bus for Yonago station.

米子駅~Yonago Station

リンク、参考情報~Links and References

国史跡 米子城跡(Yonago City Official Website)
・「歴史群像150号、戦国の城/伯耆米子城」学研(Japanese Magazine)
・「よみがえる日本の城6」学研(Japanese Book)