73.広島城 その1

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにします。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

立地と歴史

Introduction

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにしました。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

広島城天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

毛利輝元による築城

戦国時代、有名な毛利元就によって、中国地方の覇者となった毛利氏は、天下人・豊臣秀吉の傘下に入り、大大名の地位を維持していました。その本拠地は、元就の孫・輝元の時代になっても、山城の吉田郡山城のままで、輝元もその改修を続けていました。

「郡山全図」、山口県文書館蔵、現地説明板より


1588年(天正16年)、その方針が覆される出来事が起こりました。輝元自身が初めて上洛し、秀吉に臣下の礼をとることになったのです。これは毛利家にとって一大決心で、その是非について異論もあったそうです。輝元本人も相当緊張し、秀吉を知る小早川隆景・吉川広家に伴われた旅でした。一行は、船200艘・総勢3千人に及びました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


ところが、畿内に入ると、秀吉配下の黒田官兵衛、弟の豊臣秀長などから、予想外の丁重なもてなしを受け、京都の聚楽第で秀吉に謁見後は、いきなり参議に任じられ、貴族身分になったのです(下記補足1)。一方、同じ時期に関東の北条氏も上洛しましたが、当主の氏政ではなく、弟の氏規でした。氏規は、自分だけ無位無官の姿で秀吉に謁見し、嘲りを受ける結果になりました。輝元の上洛は大成功に終わったのです。その中でも、秀吉の名代という立場の、後の小早川秀秋、豊臣秀俊(金吾)と対面する場面もあり、後の毛利氏の運命をも暗示するものでした。輝元は名所旧跡も訪ね、帰りには秀吉の案内で大坂城も見学しました(下記補足2)。これらの経験が、新たな城・新たな城下町建設の直接の動機になったと考えられます。

(補足1)上卿 勧修寺大納言
天正十六年七月二十五日 宣旨
 従四位下豊臣輝元
  宜しく参議に任ずべし
   蔵人頭左近衛権中将藤原慶親奉ず(「毛利家文書」)

(補足2)此の時天守を見せ参らせられ候。関白様が御案内なされ候。小女房達三人召連れられ候。此の内一人は御腰物を御持たせ候。(略)金の間、銀の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重なり。御供の衆にまで、悉く見せ候。(「輝元公上洛日記」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その新たな地として選ばれたのが、太田川下流域のデルタ地帯で、当時は「五ヶ村」と呼ばれていました。元就時代から干拓が進められていました。翌年(1589年)、輝元は現地に赴き、築城を開始したとされますが、帰国直後から指示を出していました(下記補足3)。その頃に「広島」の地名も初めて現れますが、輝元が名付けたとも言われています(下記補足4)。

(補足3)
「佐東御普請、改候ハゝ定而可被仰付候」
(天正16年12月18日 井原元尚宛二宮就辰書状、井原家文書145)

(補足4)
「佐東広嶋之堀普請申付候条、頓上国候て一廉馳走肝要候、不可有緩候、元清普請奉行ニ申付候条、可申談候也」(毛利輝元が井原元尚に、「佐東広島」の「堀普請」のため速やかに安芸に移動し、普請奉行の毛利(穂井田)元清と相談して工事を進めるよう命じている)
(天正17年7月17日 井原元尚宛毛利輝元書状、井原家文書85)

築城当時の推定海岸線(赤線)、OpenStreetMapに加筆

広島の地名の由来にはいくつか説があります。
・人名説:毛利氏の祖・大江広元の「広」+在地の領主・福島元長の「島」
・地形説:デルタ地帯で最も広い島に築城したため
・元来説:元々そういう地名があった
はっきりと確定することはできないかもしれませんが、築城時から当主がそう呼んでいたということです。

工事は段階的に進み、1591年(天正19年)輝元が入城し、本拠地として機能し始めました。ただ、毛利時代にどこまて城ができたかは、はっきりしていません。完成したのは、現在も残る、本丸と二の丸の範囲くらいだろうとも言われています。特に馬出しの形をした、特徴的な二の丸がこの当時からあったかどうかが議論になっています。(発掘の結果からは当時からあった可能性あり、当時の情報を使ったとされる絵図にはなし)あったとすれば、このレイアウトは聚楽第をお手本にしたとも考えられます。ただし、聚楽第自体、伝えられる絵図の通りか確証がないので、まとめて謎になっています。

城周辺の航空写真

『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

広島城のシンボル、五重の天守は毛利時代に建てられたことが確実です。但し、これも細かいことを言うと、初期(1592年頃)に建てられたか、それとも後期(1598年頃)なのか議論があります。初期説の根拠は、佐竹氏の部将(平塚瀧俊)が、この頃広島を通り「石垣や天守が見事である」と書き残していることです(下記補足5)。秀吉もほぼ同じ頃に広島城を訪れ、「御殿」に上がって「内外」を全て見て感心したそうです(下記補足6)。輝元に似合いであるとも評しています(下記補足7)。一方、天守の様式から、それより遅い時期の建築との意見もあります。その天守は、大坂城天守を模したとも言われ、金箔瓦・千鳥破風などの装飾がなされました。

(補足5)
ひろ嶋と申所にも城御座候、森(毛利)殿の御在城にて候、これも五・三年の新地に候由申し候えども、更に更に見事なる地にて候、城中の普請等は聚楽にも劣らさる由申し候、石垣・天守等見事なる事申すに及ばず候、町中はいまた半途にて候、
(「名護屋陣ヨリ書翰」)

(補足6)
御堀きハより一御門を御入候て、甲丸両所 御覧候て、城取之様躰、思召候より 御仰天候、左候て、御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候て、御感斜ならず候、
(「安国寺恵瓊外二名起請文」毛利家文書1041号)
(補足7)
殊更広島普請作事様子被御覧候、見事ニ出来、輝元ニ似相たる模様、被感思召候
(毛利家文書875)

広島城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


大坂城と対照的なのは内装で、古写真によると非常に質素で、普段は倉庫として使われました。戦いになった場合は、最期の場になると考えられていたようで、厳重に守られていました。天守そのものに石落とし・狭間などがある他、天守の両側には小天守が2つ連結していて、そこからしか入れないようになっていました。

天守3階の古写真、広島城広報誌「しろうや!広島城 No.70」より引用
「安芸国広島城所絵図」に描かれた天守・南小天守(下)・東小天守(右)、出展:国立公文書館

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、減封となり、広島城を去ることになりました。その後に安芸・備後の領主となった福島正則が広島城に入城しました。

実は重要、福島正則時代

正則は秀吉の縁者で、若年より奉公したと言われています。なんといっても、賤ケ岳の七本槍の中で、一番の恩賞をもらっているのが目立ちます(下記補足8)。その後は、ひたすら武の道で、秀吉の天下統一に貢献しました。

(補足8)今度三七殿御謀反に依って、濃州大柿居陣せしむるの処、柴田修理亮は柳瀬表に罷り出で候条、一戦に及ぶべきため、一騎懸け馳せ向い候の処に、心掛深きに付て、早懸着候て秀吉眼前において一番鑓を合せ、其の働き比類なく候条、褒美として五千石宛行い畢んぬ。弥々向後奉公の忠勤に依って、領知を遣わすべきもの也、仍て件の如し、
天正十一 八月四日 秀吉御居判
                福島市松殿
(「福島文書」、京都大学国史研究所蔵)

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

荒くれ者のイメージがありますが、粗暴な面があったことは確かなようです。一方で、素朴で信心深く、キリスト教の宣教師の話に聞き入ったというエピソードもあります(下記補足9、正則の清州城主時代)。

(補足9)尾張の国では、信徒の仇敵であった関白殿の甥(豊臣秀次)が、神の正義の裁きで追放されてから、太閤の縁者で福島殿と呼ばれる大名がその後任になった。この人は日本中で最も残酷な一人という評判である。しかし彼はいつか大坂で、修道士ヴィセンテの説教を聞いたことがある。そのときヴィセンテが、正しい理由もなく人間を責苦して殺す行為の、如何に非難されるべきことであり、道理に反することであるかを述べたところ、彼は突然、ヴィセンテの言は全く正しいといった。それから彼は自分の残酷さを抑えるばかりでなく、キリシタンに対して非常に親切な態度をとるようになった。(「日本年報(1595年)」)

正則は、関ヶ原の戦い(1600年)において、豊臣恩顧の大名でありがなら、黒田長政などとともに徳川の東軍に味方しました。そしてその勝利の勲功第一として、毛利の後釜として、広島城に入ったのです。当然、長門・周防(現在の山口県)のみに減封となった毛利氏への押さえも期待されたでしょう。しかし、彼の統治は、1619年の「改易」までの20年足らずでした。

正則は、領国の防衛体制を固めるため、本城・広島城を中心として、6つの強力な支城を整備しました。(亀居城・三原城・鞆城・神辺城・尾関山城・五品嶽城)例えば三原城では、海岸に10基もの櫓を建設し、養子の正之を城主としました。山城の神辺城にも多くの櫓を築き、家老の福島正澄を入れています。

三原譲模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
神辺城想像図、現地説明パネルより

そして、広島城についても、後の絵図に見られる姿は、正則の時代に完成されたと考えられます。城は、内堀に加え、中堀・外堀によって三重に囲まれました。更に、西側の太田川などを城の外郭としました。城内には88基もの櫓が建てられていたと言います。絵図の太田川の部分を見ても、櫓がずらりと並んでいるのがわかります。

「安芸国広島城所絵図」、出展:国立公文書館
「安芸国広島城所絵図」の太田川周辺

従来のイメージとは異なり、正則は内政にも力を注ぎました。毛利時代は、伝統的な地元領主層の力が強く実施できなかった、本格的な検地を行い(一部例外あり)、大名が領民や収穫高を直接把握し、家臣に給米を支給するスタイルに改めました。領地の村々が再編成され、それが現在の行政区分にもつながっていきます。これだと年貢が重くなるのではと思いますが、他の大名との比較では逆に年貢率は低かったとのことです。(領地が拡大したため、余裕があった模様)また、正則の性格もあって、寺社も保護されました。正則は、広島城と広島藩の基盤を立派に整備したのです。

そんな正則がなぜ改易になったのかというと、個人的には、徳川秀忠など幕府トップとの意思疎通に齟齬が生じたからだと思うのです。1611年(慶長16年)加藤清正などとともに徳川家康・豊臣秀頼の会見を実現させた正則は、将軍・秀忠から帰国を許されますが、感激のあまり辞退したというのです。そして、その後豊臣氏滅亡まで、帰国が許されることはありませんでした。後に幕閣の重鎮・本多正純も秀忠によって改易されますが、その理由の一つが「(一旦)宇都宮藩拝領を断った」ことだとされます。正則も、このときから「意に沿わない者」と認識されたのではないでしょうか。(もちろん幕府側の豊臣恩顧大名に対する警戒心もあったでしょう。)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正則の広島藩は、毎年のように天下普請に動員されるようになります。名古屋城で正則が不平を言ったところ、加藤清正にたしなめられたエピソードはこの頃のことです。正則は江戸に留め置かれ、豊臣氏滅亡に際して、ほとんど何もできませんでした。

名古屋城

そして、1617年(元和3年)大洪水により広島城が損傷します。久々に帰国していた正則は、翌年から城の修繕を始めますが、かなり大規模なものだったようです(新規の普請も含む可能性)。豊臣氏滅亡後に出された武家諸法度により、その場合は幕府の許可が必要になっていましたが、その届け出が事後か、または手続きが滞留していました。(本多正純がわざと遅らせたという説は事実でないようです。)それが1619年(元和5年)になって秀忠の知るところとなり、一時は正純の取り成しによって、城の相当部分を破却することでゆるされることになりました(元和5年4月)。(本丸以外は全て破却、または新規普請分を破却という条件だった模様)しかし破却されたのは本丸の一部であり(人手不足という面もあり)、ついに元和5年6月、秀忠は正則を「改易」したのです。正則は一部破却でゆるされると思ったのか、もしくは開き直ったのでしょうか。

正則が崩したとされる本丸石垣

正則は、粛々とその決定を受け(そのときも江戸にいた)家臣は一糸乱れぬ行動で城を引き渡したそうです。そのため、「改易」後の行先が、遠方の津軽から、信濃川中島(4万5千石)に変更になりました(下記補足10)。ついでながら、後に宇都宮を改易された本多正純は、大幅に減らされた所領(由利本荘)も断ったため、流罪(横手にて幽閉)になってしまいました。

(補足10)「挙動厳正なりと世もって称嘆しければ、かの家人どもは、みな諸家より旧禄を加倍して召抱られしに、(福島)丹波一人はかたく辞して任をもとめず。入道して世を終りしとぞ(「徳川実紀」)

正則の同僚というべき黒田長政は、正則の改易後、大坂城普請を命じられ、その工事の遅れに関して、
・本拠の福岡城の天守・石垣を崩してでも間に合わせる
・(遅れているのに)追加の工事を承りたい
と将軍・秀忠に言上しています。「大名もつらいよ」といったところでしょう。(もちろん秀忠及び幕閣の側にも、家康なき後も絶対権力を確立するという事情があったでしょう。)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最も長かった浅野時代

正則が改易となった後は、和歌山から、浅野長晟(ながあきら)が、安芸と備後の一部42万石の領主として、広島城に入城しました。浅野氏はこの後、ほとんどが直系の藩主によって、江戸時代末まで比較的安定的な統治を行いました。浅野といえば、赤穂の内匠頭を連想してしまいますが、赤穂藩は長晟の弟の家系で、広島藩は本家だったのです。

浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長晟は、家老を要所に配置し、境目を守らせる体制を取りました。その中には、浅野の縁者でもあった桃山時代の大名茶人、上田宗箇がいました。彼は、和歌山時代の浅野家に来る前には徳島藩にいて、徳島城表御殿の庭園を造っています。広島藩では、浅野家の別邸・縮景園を作庭しました。

旧徳島城表御殿庭園
縮景園

城の方ですが、長晟が入城早々に洪水が起こり、二の丸太鼓櫓が崩れて、再建されました。もちろん、改易事件のことがあったので、手続きは慎重に、建物も以前のままということでした。この後も、このようなことが繰り返しありました。デルタ地帯のお城の宿命でしょうか。

二の丸太鼓櫓(復元)

一方で、城の中心は、本丸御殿に移り、天守や櫓は普段は鍵がかけられていたそうで、藩主が天守に登りたいと言うと、大騒ぎになりました。本丸御殿は、儀式を行う表御殿、藩主公邸の中奥、私邸の奥などに分かれていました。5代藩主・浅野吉長は、世襲の家老が私邸で政務を執っていたのを改め、人材本位で抜擢した年寄が、御殿の役所で政務を行うようにしました。今でいう県庁のような場所になったのです。

本丸御殿の内部模型、広島城天守内で展示

広島城下は、ずっと整備が続けられていて、西国街道沿いに、城下町が発展しました。一方、農地を増やすための干拓も進んで、江戸時代のうちにかなり陸地が広がりました。

時は過ぎ、幕末になると広島藩は動乱の時を迎えました。幕府に反抗した長州藩に対して、幕府は征討を命じ、広島が最前線になりました。家康の想定が現実になったのです。広島には各藩の将兵が集まっていました。広島藩の実権は、改革派年寄の辻将曹が握っていましたが、戦いを避けることに努め、第二次征討ではなんと、幕府に対して出兵を断ったのです。こちらは、家康の時代とは様変わりです。

幕府は長州に敗れ、政局は京都に移っていき、広島藩は、薩長や土佐と盟約を結びました。新政権では広島藩から辻などが参与に登用されたのですが、なぜか明治維新後には、彼らの名前は外されてしまいました。改革が遅れ、十分な財政・軍備がなかったからとも言われます。なお、彼らに関する人事評定の記録も残っています(下記補足11)。

(補足11)重職中遊冶(ゆうや)二溺レ失役不少(明治2年1月人事稟議書記録より、「大久保利通文書」)

そして近現代、天守はどうなる?

明治維新後、広島城には日本陸軍の広島鎮台が置かれました。度重なる洪水対策の結果、城の辺りは安全とみなされたようです。そのため、天守など一部の建物以外は取り壊されていきました。全国の城が試練を迎えたときです。そして、南部に宇品港、中心部に広島駅が開業すると、城と広島に新たな役割が与えられました。大陸侵攻への前線基地です。日清戦争が起こると、兵士は鉄道で広島まで来て、港から船で輸送されたのです。なんと大本営まで、東京から広島城内に移されて、明治天皇が御座所に入りました。広島が臨時首都のようになったのです。以降、広島は軍都として栄えていきます。

後に大本営になった広島鎮台司令部(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太平洋戦争当時の広島城周辺は、軍関係の建物でぎっしりでした。この戦争では動員数も増えたので、一時天守も兵舎として使われたそうです。

1945年7月の城周辺の航空写真、現地説明パネルより

戦争末期、城内には防空作戦室というのがあって、女学生が動員されていました。そのうちの一人が、8月6日、午前8時13分に空襲警戒警報が出たという情報を受け取り、すぐ連絡をしようとした午前8時15分・・・

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

原子爆弾がさく裂し、何十万人もの人とともに、城も被災、天守は爆風で倒壊しました。火災のためではなかったのです。散乱した部材は、人々の生活再建の資材として使われたそうです。城の再建に使うどころではなかったのです、どんなに大変な状況だったのか、わかるような気がします。

倒壊した天守、広島城天守内展示より
天守のものとされる木材、広島城天守内で展示

戦後、広島は平和記念都市として生まれ変わりますが、被災して6年後には、城跡で行われた博覧会のシンボルとして、臨時に天守が建てられました。これがきっかけで、天守復元の運動が盛り上がり、被災後13年目に、現在私たちが見る天守が建てられました。火災に強いということでコンクリート造りになりましたが、当時は長く持つとも考えられていたそうです。今度は広島復興のシンボルになったのです。

現在の外観復元天守

1994年には、二の丸の建物も復元されました。こちらは、江戸時代以前の形の復元を目指し、木造で建てられています。

二の丸の復元建物群

こうやって見てくると、この城に天守がなかった期間はほとんどなかったのです。ところで、これからもこの天守を眺めることができるのかというと、できるのです。現在広島市は、有識者会議を開いて、天守、小天守を含めた天守群の木造復元の検討を進めています。ただ、具体的な方針はまだ決まっていません。少なくともそれまでは今の天守を外から見学することになります。ただ、小天守も一緒に復元されることになれば、これはすごいと思います。

内堀から見た天主

「広島城 その2」に続きます。

71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71. 福山城 その1

福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。

立地と歴史

Introduction

福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。また、江戸時代後半には阿部氏が城主となり、激動の幕末に直面しました。その歴史の流れをご紹介します。

福山駅新幹線ホームから見える福山城

放浪武者、水野勝成

水野勝成は、信長・秀吉・家康に仕えた三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれました(生年:1564年~没年:1651年)。伯母が徳川家康の母・於大の方(忠重の姉)なので、家康とは従兄弟同士ということになります。1581年(天正9年)の高天神城の戦いが初陣だったのですが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い(家康方)では兜も被らず突撃するほどの猪武者だったようです。このことを父親から叱責され、同じ年に金銭のトラブルから父親の側近を成敗し、出奔してしまいます。父親・忠重の方も息子を勘当(武家奉公構、他家への奉公を禁ずる)したのです。

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
水野忠重肖像画、東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

勝成は、まず四国攻めをしていた豊臣秀吉に仕えました(家康配下ではないので武家奉公構は通用せず、下記補足1)。

(補足1)摂津国豊嶋郡に於て、神田七百二十八石を扶持せしむ。全く領知すべき者也
       天正十三年九月一日 (秀吉)御判 
     水野藤十郎とのへ
(「水野家見聞覚書」、「放浪武者 水野勝成」より)

しかし何事かあって秀吉の下を飛び出し、名を「六左衛門」と変え、虚無僧の姿で放浪生活に入ったとされています。秀吉からは追手も差し向けられたと言われています。やがて秀吉の九州征伐が開始される(1587年、天正15年)と九州に向かい、肥後の国主となった佐々成政の家臣になります。しかし成政は、肥後国人一揆の責任を取らされ、翌年には切腹させられてしまいます。勝成は後継の小西行長、加藤清正に仕えますが、双方とも短期間で辞め、今度は「城戸乗之助」という名前で豊前国の黒田長政に仕官しました(下記補足2)。1589年、天正17年秋、勝成は主君の長政とともに船で大坂の秀吉の下に向かっていました。ところが勝成は、途中の備後国鞆ノ津でまたも出奔したのです。秀吉とその配下たちとは余程反りが合わないか、秀吉からの追及を恐れたのでしょうか。そして、鞆ノ津は後に彼の福山藩の領地の一部となる場所だったのです。

(補足2)豊前国に一揆が起こったとき、秀吉公より黒田如水と同筑前守(長政)に命じて城井の城を攻めさせた。日向守(勝成)も寄手に加わって出陣した。(「水野勝種記録」、「放浪武者 水野勝成」より)

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加藤清正像、本妙寺蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、勝成に関する確かな記録は途切れ、8年後の1597年(慶長2年)には、備中国三村親成の食客となり、妻子ももうけていました(勝成34歳、下記補足3)。この間、福山城となる地の土地柄や民情も把握していたのではないでしょうか。また、実家とは全く無関係になったわけではなく、家臣を通じて何らかの連絡も取っていたようです。

(補足3)備中の国に三村紀伊守と申す方へ六左衛門殿御懸かり御座候時分、下女一人御召し使いなされ候。その腹に美作守御出生なされ候云々。(「水野記」、「放浪武者 水野勝成」より)

やがて秀吉が亡くなると、1599年(慶長4年)、勝成は伏見の徳川家康の下に出向き、父親の忠重とも15年振りの対面をします。翌年、忠重が不慮の事件で亡くなると、刈谷城主(3万石)を引き継ぎました。直後に関ケ原の戦いが起こりますが、勝成は家康から命ぜられたのは、一城(曽根城)の守備でした。最前線で戦いたい勝成は不満で、独断で大垣城を攻めたのです。これを聞いた家康は罰することもしませんでしたが、加増もしませんでした。それから15年後の大坂夏の陣のとき、勝成は52歳になっていました。かつて黒田家で同僚だった後藤又兵衛軍を破る戦功をあげましたが、最後の場面で家康の本営守備を命じられていたのを無視し、大坂城に突撃するという有様でした。戦後、勝成は大和郡山6万石に加増されましたが、その武功のややには家康の評価は低かったと言われています。勝成の戦う姿勢は、彼の官職名(日向守)から「鬼日向」と呼ばれました。

刈谷城模型、刈谷市歴史博物館にて展示
大垣城
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が亡くなった後、1619年(元和5年)、将軍・徳川秀忠は、安芸・備後の太守・福島正則を改易としました。幕府に無断で城を修繕したというのが理由ですが、結局幕府が正則を危険視していたからでしょう。その遺領のうち、備後10万石が勝成に与えられることになったのです。西国の外様大名の監視が期待されての抜擢ですが、勝成のこれまでの経歴から、その土地を見知っていたことも要因だったと思われます。

福山城以前の福山

水野勝成が放浪武者時代に上陸した鞆ノ津は、瀬戸内海の潮流の分水嶺付近にあり、古代から瀬戸内海を航行する船が潮待ちをする港として栄えていました。戦国時代においても、織田信長によって京都を追われた足利義昭がここにやって来て、信長打倒のための策を巡らせました(「鞆幕府」)。福島正則が領主だった頃には鞆城が築かれました。勝成が福山藩主となって最初に上陸したのもここでした。それ以来、藩の奉行所が置かれ、江戸時代にも朝鮮通信使の寄港地になり、景勝地としても称賛されました。幕末には、坂本龍馬の「いろは丸号事件」の舞台にもなります。

鞆ノ津、現在は鞆の浦と呼ばれる
鞆城跡
朝鮮通信使が宿泊した福禅寺からの眺め

一方、福山城のあった辺りは、古代には瀬戸内海が城の北側まで湾のように入り込んでいました。城の北側には今でも「深津」「奈良津」「吉津」「津之郷」といった地名が残っていて、往時は港だったと考えられます。その後、付近を流れる芦田川が運ぶ土砂により、遠浅の海が干潟のようになっていたと思われます。芦田川はその干潟部分を幾筋にも分かれて流れていました。

中世になると、芦田川の河口付近の三角州に「草戸千軒」という港町ができ、栄えていました(当時は「草津」とも呼ばれていました)。近くの常福寺(現・明王院)の門前町でもあったのです。最近の研究では、戦国大名の山名氏の家臣・渡邉氏が領主として関わっていたと考えられています。鞆ノ津が他地域とのつながりを持つ港だとすれば、草戸千軒は地域内の港という位置づけでした。この町は16世紀初めに衰退したため、江戸時代には既に伝説的存在になっていました(下記補足4)。福島正則の時代には「草戸村」として農地になっていたようです(備陽史探訪:110号)。福山城の築城前には、近くの神島(かしま)という所に町が移っていました。水野勝成も放浪時代に訪れていたかもしれません。

復原された草戸千軒の町並み、広島県立歴史博物館にて展示
現・明王院

(補足4)
「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、木庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有りけるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築きては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれども、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。」
(「備陽六郡志」)

そして地域を代表する城としては「神辺城(かんなべじょう)」がありました。後の福山城の北、数kmのところにある黄葉山(こうようざん)にあった山城で、室町時代に山名氏によって築かれたと言われています。福島正則が領主だった時には、石垣の上に天守・櫓がそびえる近世城郭として整備され、重臣(福島正澄)を配置しました。勝成も当初はこの城にいましたが、領内を巡視した結果、干潟の海に突き出た半島状の常興寺山に新城を築くことにしました。これが福山城になります。風水による四神相応の地とも言われますが、やはり勝成の知見・経験に基づく、城下が発展できる場所だったからでしょう。この時期に新城の建設が認められるのは異例で、大規模な近世城郭としては最後のものとされます。それだけ、幕府の期待が大きかったということでしょう。

神辺城跡
福山城模型、旧福山城博物館にて展示

福山城と城下町の建設

城の建設は、1619年(元和5年)から3年間続きました。中心部には本丸が築かれ、その周りを二の丸・三の丸が囲みました(輪郭式)。本丸・二の丸は山部分にあり、ひな段状の高石垣に覆われていて、三の丸は平地にありました。内堀が二の丸と三の丸の間、外堀が三の丸の外側に掘られました。幕府からは資金援助の他、監督をする奉行が2名派遣され、廃城となった伏見城の建物も提供されました。以前の本拠だった神辺城の建物・石材も活用されました。

本丸・二の丸の高石垣

本丸には、五重五階(+地下一階)の層塔型天守が築かれました。他の城に比べ、一階から五階に至る床面積の減り方が少なく、層塔型天守の完成形とも言われています。またこの天守の大きな特徴として、天守背面(北側)を黒い鉄板で覆ったことが挙げられます。風雨を防ぐためだったとも、比較的防御が手薄だった北側からの攻撃に備えるためだったとも言われています。他の3面は漆喰塗の白亜の壁だったので、黒と白のコントラストが目立っていました。本丸には他に、伏見城から移された伏見櫓、伏見御殿、懸け造りが特徴的な御湯殿などがありました。二の丸には、神辺城から移された言われる神辺一番櫓から四番櫓などがありました。城全体では三重櫓が7基、二重櫓が16基もありました。城を含む地は「福山」と名付けられました。その由来は、長寿と多幸を祝う言葉である「寿山福海」から取ったとするなど諸説あります。

福山城の外観復元天守
復元された背面鉄板
伏見櫓(現存)
伏見御殿跡
御湯殿(復元)
神辺一番櫓跡

福山城主(藩主)の水野勝成は、城以上に城下町・地域の開発に力を注ぎました。城の背後(北)の山を開削し、芦田川から水を引き、吉津川として通しました。その途中にの「蓮池」に水を貯め、上水道として城下に配水しました。小田原用水・神田用水などに次ぐ日本でかなり早い事例の一つでした。城の背後の防御という意味合いもありました。また、野上堤防を築き、芦田川を一本化し、城下町の敷地を造成しました。商人たちに無償で土地を与え、地子(税金)も免除したので、自ずから人が集まりました(下記補足5)。元の川の流路は舟入として活用し、水路にかかった天下橋・新橋(木綿橋)の辺りが繁華街となりました。更に藩の収入を増やすため、城下町の外側を干拓し、農地としました。入植する農民には一定期間税を免除し、海岸部でも栽培できる綿花を奨励しました。綿は、福山の特産物になります。勝成は、いかに街を活性化させるか、放浪時代の経験も生かしながら、政治を進めていったのでしょう。

(補足5)当町場荒地の遠干潟に御座候ところ、町並銘々器量次第、敷地を開き住居仕候は、地子諸役等永々御除地に仰付かるべき候由、之により御領分は申すに及ばず、近国所々より相集まり、銘々沼、芦原を埋め、町並家作り出来申候(「福山領分御伝記」

蓮池
かつての舟入
天下橋跡
水野時代の干拓地(沖野上町)

また勝成は、藩士たちに対して誓紙を取ったり、目付を置くようなことはしませんでした。それでも家中は安定していたのです。勝成に対する信頼の高さが伺えます。隣の岡山藩主の池田光政は、勝成を「良将中の良将」と称えたそうです(補足6)。1638年(寛永15年)に島原の乱が勃発したとき、勝成は75歳でしたが、幕府に請われ、現地に出陣しました。「鬼日向」も健在だったのです。翌年には隠居しますが、かえって領内開発に専念し、隠居料さえもつぎ込みます。開発は、水野家4代約80年継続しますが、既に現在の福山市街地の多くができあがってしまった程でした。藩の石高も10万石→13万3千石に増加しました。勝成は88歳まで生き抜きました。

(補足6)私は随分国中を治めんと思っているが、なかなか思うようにならない。然るに隣国故日向守殿の仕置を聞くに、目付横目一人もなく、侍から誓詞を取るということもない。法度書・制法条目などついに一件も出されなかったが、国中よく治まり、家中の者よくなつき、他家よりいくら招いても見向きもしない。然らば徳を以て国中を治められたものと思われる。その頃良将が多かったが日向守のような仕置のことは聞かない。凡そ近代の良将というのはこの日向守殿ならん(「宗休様御出語」、訳は「放浪武者 水野勝成」より)

阿部氏による継承と幕末の争乱

ところが、水野氏5代目の勝岑(かつみね)が1698年(元禄11年)にわずか2歳で亡くなり、水野氏は改易となってしまいます。その後、幕府直轄領・奥平松平氏1代を挟んで、1710年(宝永7年)からは阿部氏が幕末まで城と藩を統治しました。しかし阿部氏の福山藩の内情はきびしいものでした。石高は水野氏時代の初期と同じ10万石でしたが、幕府領時代の検地により15万石と算定され、5万石分を削られていたのです。また、阿部氏10代のうち4人が幕府老中を務めたため出費がかさみました。更にこの時期には日照りと洪水による凶作が度々起こり、農民一揆が絶えませんでした。裕福な商人・豪農などが出資して設立した「義倉」からの貸付・施し・献金などもあって、なんとか藩の運営が成り立っている状態でした、

10人の阿部氏藩主の中では、なんといっても幕末に活躍した阿部正弘が有名でしょう。彼は1843年(天保14年)わずか25歳で老中に抜擢されますが(それまでの最年少、22歳で寺社奉行になったときも最年少だった)、福山にお国入りしたのは藩主になった直後、1837年(天保8)の一回切り(2ヶ月間)だけでした。ペリー来航前後の厳しい政局に幕閣の最高責任者(老中首座)として対峙していたのです。彼自身はいわゆる鎖国政策を維持したかったようですが、「衆議」を重んじ、徳川斉昭・堀田正睦など考え方が異なる大名をも取り込み、開国という結論を導きました。また、広く諮問を行い、優秀な人材の発掘も行いました。幕府の最後の最高幹部となった勝海舟もそのとき登用された一人です。しかし激務が祟ったのか、老中在職中に39歳で亡くなりました(1857年、安政4年)。

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正弘から2代後の阿部正方(まさかた)は、1861年(文久3年)に14歳という若さで藩主になりました。やがて幕府と長州藩が対立するようになると、1864年(元治元年)長州征討(第一次)が発令され、福山藩は幕府軍の先鋒を命じられました。彼と福山藩兵は、西の広島に向かいますが、そこで和睦となります。1865年(慶応元年)の第二次長州征討では、正方は再び出陣しますが、途中で病(脚気)を患い待機となります。藩兵は他藩と連合して長州軍と戦いますが(石州口の戦い)敗れ、撤退することになりました。正方は帰国後、御湯殿で湯治を行うなど治療に努めますが、慶応3年11月、20歳で亡くなってしまうのです。そのわずか2ヶ月後、福山城にとって大事件が起こりました。

阿部正方肖像画、福山市蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1968年、慶応4年)1月、戊辰戦争が勃発すると、各地で朝廷方の攻勢が始まります。中国地方では、尾道で待機していた、杉孫七郎が指揮する長州軍が福山城を攻撃しようとしていました。藩主が亡くなったばかりの福山藩は和平交渉を行おうとしますが、相手にされませんでした。長州軍は、西国大名を監視していた福山城を落とすという実績が欲しかったのです。1月9日、長州軍の攻撃が開始されました。長州軍は、城の弱点とされる北側にある円照寺の山の上から大砲を放ち、一発は天守西側に命中しました。幸い火薬は装填されておらず爆発・火災は発生しませんでした。そして長州兵が城の裏門(赤門)に突撃しますが、福山藩兵も抵抗、長州が兵を引いたところで和平交渉となりました(福山藩が朝廷方に恭順)。これが城で行われた唯一の戦いでした。

「福山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

error: Content is protected !!