134.富山城 その2

オリジナルとイミテーションが混在する城跡

特徴、見どころ

かなり変化した外観

現在、富山城跡は富山城址公園として一般に公開されています。公園の現状は、いくつかの点で元々あった状態からかなり異なっています。まず第一に神通川が1899年に、城の北側から他の場所に河道が付け替えられています。今は松川という小川が、元の河道の一部を流れているのみです。次に、公園として残っているのは本丸とに西の丸のみで、その間にあった水堀は埋められ、つながっています。最後の点として、城の建物は残ってはいませんが、模擬の建造物がいくつか作られています。この点については、この後述べます。

城周辺の航空写真

元の神通川の河道を流れる松川
公園の内部

オリジナルの石垣、水堀、移築門

現存しているもののうち、一番の見どころは、石垣、水堀の一部、そして東出丸から移設された千歳御門でしょう。もし南側から公園に入られるのであれば、唯一残っている土橋を渡って行けます。この土橋は、これもまた唯一残っている水堀を渡って、石垣がある鉄(くろがね)門と呼ばれる正門跡に通じています。

土橋の前にある二の丸跡
公園に通じる土橋
土橋を渡って行きます

石垣には、鏡石とよばれる5つ大きな飾り石がはめ込まれれいます。これらの鏡石はとても見栄えがしますし、過去には城主の権威をも示していたのでしょう。この場所は、もっとも元の富山城らしいと言えるでしょう。

鉄門跡
鉄門跡の石垣とその中の鏡石
鏡石は迫力があります

他の現存している石垣は、城の北東部分の裏門跡のところにあります。千歳御門は、その石垣の傍らにあります。

裏門の石垣
千歳御門と裏門石垣

イミテーションの石垣、模擬天守

その一方で、もう一つのこの城の特徴であった土塁は、ほとんど見ることができません。本丸の外周は、もともと土塁を使って作られており、石垣部分をつないでいました。ところが、土塁の外側部分は、最近模擬の石垣により覆われてしまっています。内側部分もまた、以前に石が積み上げられています。

左側がオリジナル、右側がイミテーションの石垣
土塁の内側も石積みされています

オリジナルの石垣がある場所には説明板があり、その石垣の情報を得られるのですが、現代になって築かれた石垣には何の説明もありません。観光客が、昔はどのような城だったのか知ろうとしても、混乱するか誤解しかねません。

オリジナルの石垣の説明板
模擬の石垣には何の説明もありません

鉄門の石垣の上には、模擬天守として、富山市郷土博物館が建てられています。その中では、富山城のことをより学ぶことができます。1954年の開館以来、長い期間が経過し、今では富山市のシンボルになっています。模擬天守であってもオリジナルの石垣によく合っています。

鉄門の石垣の上に建てられた模擬天守
模擬天守の公園内から見た姿

裏門の石垣の上にも、櫓のような外観の美術館が建てられています。富山市民の人たちは、富山城には元から天守があり、城全体が石垣に覆われていたと思っているかもしれません。

裏門の石垣の上に建てられた美術館

「富山城その3」に続きます。
「富山城その1」に戻ります。

134.富山城 その1

基本的に土塁と水堀によって築かれた城

立地と歴史

越中国の中心地

富山市は、富山城の城下町として発展し、現在は富山県の県庁所在地となっています。この城は、最初は16世紀前半に神保氏によって築かれました。その場所は、現在の富山県にあたる越中国の中心部の平地でした。その地域はまた、北陸街道と飛騨街道という主要な2つの街道が交わる地点でもありました。その当時、そのような場所に城を築くことは危険だったかもしれません。そのときは戦国時代の真只中であり、多くの戦いが起こっていたからです。越中国の戦国大名たちは通常は防衛のために、増山城のような山城に住んでいたのです。富山城の場合は、神通川や水堀が城を囲んでおり、それが防御の手段となっていました。

城の位置

増山城跡

佐々成政が越中国を統一

上杉氏、一向宗、織田氏といった多くの戦国大名たちが、富山城をめぐって戦いました。最終的には1582年に、佐々成政がこの城を手に入れ、越中国全域を支配しました。しかし、成政が天下人の豊臣秀吉に反抗したことで、1585年には秀吉が越中国に侵攻しました。同じ年に成政は秀吉に降伏し、富山城は破壊されてしまいました。秀吉は、越中国を前田利長に与えました。利長は、後の江戸時代に加賀藩の初代藩主となりました。1605年に、利長は藩主の座を、後継ぎ(弟の前田利常)に渡し、藩の本拠地であった金沢城から、隠居のために富山城に移ってきました。後継ぎの利常はまだ若年であったために、利長はまだ藩の実権を握っていました。彼は、新しい本拠地として富山城を再建したのです。

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
金沢城

前田利長が城を完成

利長は、このとき富山城の形を完成させたと言われています。大河である神通川が、本丸の北側を自然の障壁として流れていました。川には浮橋が渡されていて、後には名所にもなりました。本丸を守るために、二の丸が南にあり、東出丸が東にあり、西には西の丸がありました。それぞれの曲輪は独立していて、水堀に囲まれていました。それらの曲輪は、本丸とはそれぞれ一本の土橋のみでつながっていました。曲輪は基本的には土塁により形作られていましたが、本丸の正門など3か所の主な門の周りは石垣で覆われていました。また、本丸には御殿があり、門の石垣の上には櫓が築かれていたと考えられています。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南にあり、武家屋敷地として使われていました。しかし城は、1609年に起こった不慮の火災により不幸にも焼け落ちてしまいます。城にとっては、2度目の災難でした。利長はやむを得ず高岡城に移りました。

越中国富山古城絵図、金沢市立玉川図書館蔵(富山市郷土博物館の展示より)
歌川広重「六十余州名所図会」より「 越中 冨山 船橋」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高岡城跡

富山藩の本拠地

1639年、利長の甥、前田利次が、富山藩として支藩を設立することを許されました。彼は一時新しい城を築くことを考えましたが、財政難のため、富山城を再利用することにしました。その代わりに、彼は城下町を守るために外郭土塁と水堀を作らせました。利次の息子、正甫(まさとし)は産業を振興し、特に製薬に力を注ぎました。この製薬業での成功は、全国的に有名な「富山の薬売り」につながります。富山藩は天守を築くことも計画しましたが、これも財政難のために諦めました。その代わりに、東出丸に千歳御殿を作り、祭礼のときには庶民が立ち入ることを許可しました。そのほか、この城は江戸時代にを通じて、何度も火災、洪水、地震などによる被害を受けました。その度に藩は城を修復してきたのです。比較的簡単な構造の土塁や水堀は、多くの災害から城を守るのに適していたのかもしれませんし、維持修復を行うのも容易だったのでしょう。

富山城址公園にある前田正甫銅像 (licensed by Miyuki Meinaka via Wikimedia Commons)
現存する千歳御殿の正門

「富山城その2」に続きます。