129.龍岡城 その1

二番目の五稜郭

立地と歴史

将軍家の親族、松平家

龍岡城は、現在の長野県にあたる信濃国にありました。この城は江戸時代末期に築かれ、北海道の五稜郭とともに、日本で2つしかない星形城郭の一つとなります。この城を作ったのは、龍岡藩の藩主であった松平乗謨(まつだいらのりかた)です。実はこの時代には、徳川幕府将軍家の親族である、数多くの松平家が存在していました。「徳川」という苗字は、将軍になる資格がある数少ない家系にのみ使用が許されていました(いわゆる徳川宗家、御三家、御三卿)。それ以外の徳川の親族は「松平」と苗字を名乗りましたが、この苗字は初代将軍の家康が「徳川」を名乗り始めるまで、もともと使っていたものだったのです。

松平乗謨写真、明治時代  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この松平家(氏)は大体のところ、3つに分類することができます。1つめのグループは、家康か他の将軍の子どもたちから由来するもので、例えば福井城にいた越前松平家や若松城にいた会津松平家がそれに当たります。彼らは将軍家からとても信頼されていて、多くは広大な領地や巨大な城を有していました。2つめのグループは、家康が生まれる前から存在していた家系で、十八松平とも称されます。実は家康も、このうちの一つ、安城松平家(あんじょうまつだいらけ)出身なのです。彼らも家康の親戚であることには変わらないのですが、家康にとっては競合する相手になりうる存在だったため、1つめのグループよりは信頼されていなかったようです。その結果、2つ目のグループの多くは領地が小さく、その規模の制限から城を持てないこともしばしばでした。最後のグループは、家康や他の将軍と直接の血のつながりはないが、特別な事情により松平姓の使用を許された人たちです。

福井城跡
若松城

松平家の一人、乗謨が築城

松平乗謨は、上記のうち2つ目のグループに属しており、彼の家系は大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)とも呼ばれていました。大給は彼らの発祥の地であり、その地名が他の多くの松平氏と区別するためにも使われているのです。実は、大給松平氏自体も長い歴史のうちにいくつもの支流が生じていました。乗謨は、奥殿藩(おくとのはん)の藩主でしたが、藩の石高はわずか1万6千石であり、城を持つことは許されていませんでした。更には彼の領地は、三河国(現在の愛知県の一部)の奥殿の小さい領地と、龍岡の大きな領地に分割されていました。藩は奥殿を本拠地にしており、そのため奥殿藩と呼ばれていたのですが、藩主は奥殿陣屋と呼ばれた御殿に住んでいました。

復元された奥殿陣屋  (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)

この状況は、日本がいくつかの西洋諸国に対して開国した1854年に変わりました。幕府はこれらの国からの脅威に対抗するため、大名たちへの規制を緩和したのです。乗謨は優れた政治家であり、多くの西洋の文物を学んでいました。彼はこの新状況を、幕府の新しい政策に従い、これまで学んだ知識を使って何かできるチャンスであると考えました。その一つが、本拠地を大きな方の領地である龍岡に移すことであり、もう一つが彼自身の城を築くことでした。それが龍岡城です。

城の位置

乗謨の試みは幕府に承認され、城の建設は1864年に始まりました(公式にはまだ陣屋ということにされました)。この城は西洋式城郭として設計され、星の形のように五つの稜堡(りょうほ)を備えていました。城の形は乗謨の構想に基いており、敵の攻撃がどの方向から来たとしても城を守れるように考えられました。この五芒星(ごぼうせい)の形をした城は、全て当時最新の石垣に囲まれており、亀甲積みや跳ね出し(一番上の列の石垣がはみ出して作られ、敵の侵入を防ぐもの)といった技術が採用されていました。また、水堀が城全体を囲んで掘られ、大砲が全ての稜堡の内側に設置される予定でした。城の内部には、領主のための御殿と練兵場がありました。城はついに1866年に完成し、これは1864年に北海道に築かれた最初の星形城郭として知られる五稜郭に次ぐものでした。乗謨は大変満足し、地元の民衆を招待し、城を見学させたりしました。そして、彼が藩主を務める藩の名前は、龍岡藩と改められました。

龍岡城の平面図、現地説明板より
龍岡城の石垣
北海道にある五稜郭

実験的要素が多い城

しかし、実際には城にはいつくもの弱点もありました。第一に、龍岡城は五稜郭よりもずっと小型でした。その全長は150m程で、約300mの五稜郭の約半分であり、面積では約4分の1でした。石垣の高さは3.5mで堀の幅は最大でも約10mでした。これでは戦国時代であっても不十分だったでしょう。堀は城の全周の3分の2しかカバーしておらず、大砲は1つの稜堡にしか設置されませんでした。その上にこの城は、城から約500m離れた山の上から大砲により容易に砲撃できる位置にあったのです。これらの事実をどう捉えればよいのでしょうか。恐らく乗謨は、この城を戦いにために使うことを想定しておらず、藩の権威を高めることや新技術を導入するための実験場として使ったものと思われます。その後すぐに明治維新を迎えたため、この城の歴史は数年で終わりました。

堀幅は大きくありません
裏側は堀なし

城周辺の起伏地図

「龍岡城その2」に続きます。

137.福井城 その3

この城跡は、今も福井県の中心地であり続けています。

特徴、見どころ

初期の北ノ庄城跡

福井城から約300m南の方にある、柴田勝家が築いた北ノ庄城跡も訪れてみることをお勧めします。その城に関しては石垣の基礎部分(根石)しか見ることはできません。福井城がその北ノ庄城跡地の上に築かれたからです。

越前北ノ庄城址
こちらは福井城の石垣
初期北ノ庄城石垣の根石

しかし、他にも勝家、彼の妻(お市の方)、三人の娘(茶々、初、江)の銅像を見ることができます。この女性たちは日本の歴史で大変よく知られているのです。三姉妹の一人(茶々、後の淀殿)は天下人、豊臣秀吉の側室となりました。もう一人(江)は、福井城の創始者の結城秀康の弟、徳川秀忠の正妻となりました。

柴田勝家の銅像
勝家の妻(お市の方)の銅像
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像

その後

明治維新後、福井城は廃城となりました。城の全ての建物は撤去され、城の中心部を除く区域は市街地となっていきました。1873年、元城主であった松平氏は城の中心部に松平試農場を開設し、1921年に他に移動するまでそこに存在していました。1923年には、代わりに福井県庁が本丸に移ってきました。それ以来、城跡はかつて福井城がそうだったように、地方政府の中枢となっているのです。

松平試農城、福井県文書館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸にある県庁(右側)と県警本部(左側)の建物

私の感想

本丸は通常城の中心でした。そして江戸時代にはその周辺地を支配するために、そこには福井城のようにだいたい天守及び(または)御殿がありました。現存している本丸の多くは現在、歴史公園、神社、博物館のような施設のために使われています。ところが福井城の本丸は、今でも地方政府(県)によって使われているのです。私が思うに、本丸が県庁として使われている唯一の事例です。ある人は、このことを「日本で最強の県庁」と言ったりしています。

福岡城本丸(歴史公園となっている例)
高岡城本丸(神社となっている例)
大坂城本丸天守(博物館となっている例)
最強に見える福井県県庁

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約15分かかります。
城跡周辺にいくつか駐車場があります。
平日には県庁の地下駐車場を使うこともできます。
(県庁受付で駐車券にスタンプを押してもらうことが必要です。)
公共交通機関を使う場合は、JR福井駅から歩いて10分以内で着きます。
東京から福井駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線の特急に乗り換えてください。
大阪からは:特急サンダーバード号に乗ってください。

福井駅

リンク、参考情報

福井城址、福井県公式観光サイト
・「結城秀康/志木沢郁著」学研M文庫
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「福井城その1」に戻ります。
「福井城その2」に戻ります。

137.福井城 その2

城跡には、公園とオフィスビルが同居しています。

特徴、見どころ

今も現役の本丸入口

現在、福井城跡は史跡公園であると同時に、県庁を含むオフィスビルの敷地としても使用されています。城跡の範囲は、本丸を含む内堀の内側となります。

城周辺の航空写真

公務員の人たちが、福井藩の武士たちがそうしていたように、内堀にかかった御本城(ごほんじょう)橋を渡り、本丸南側の正門を通って通勤しています。過去においてはこの門は、2つの門の建物と石垣によって囲まれた防御のための四角い空間(桝形と呼ばれます)により構成されていました。今は部分的に残っている石垣に登って、門の周辺を見渡すことができます。

御本城橋を渡って正門へ
本丸正門の古写真(現地説明板より)
現在の本丸正門
石垣の上に登っていきます
石垣の上から見える本丸入口

天守台石垣は必見

本丸の中を歩き回ることはできますが、かつては御殿があった場所にあるオフィスビルの外に限られます。

本丸の遺跡がオフィスビルに近接しています

本丸の北西隅にある現存している天守台石垣は必見です。天守台は2段になっていて、上段の上に大天守と小天守が乗っていました。石垣は大変立派なのですが、所々崩れていたり、歪んだりしています。これは、1948年に発生した福井地震によるものです。

天守台石垣
大天守が乗っていた上段部分
一部崩れている石垣

下段には、「福の井」と呼ばれる井戸が復元されています。実はこの井戸の名前が、後からついた城の名前である福井の由来であるという人もいます。

復元された福の井

復元された門と橋

天守台近くでは、本丸の西側出入口に山里口御門という門の建物と、内堀にかかった御廊下橋(おろうかばし)という屋根付きの橋が、最近伝統的工法により復元されました。

復元された山里口御門と御廊下橋

城主は藩の政治を行うために、本丸外にある御座所と呼ばれる住居からこの橋と門を通って、本丸にある御殿に通っていたのです。

山里口御門と御廊下橋の古写真(現地説明板より)

私たちも同じようにこの復元された橋を渡ることができます。また、門の二階に上がると、その内装と城に関する展示を見学することができます。

御廊下橋を渡ります
山里口御門
山里口御門の二階内部

今に残る内堀と本丸石垣

また、内堀の外側を歩いて回ってみてはいかがでしょうか。

内堀の外側から見た本丸

例えば、本丸の南東角にある巽(たつみ)櫓の石垣はすばらしいものです。巽櫓は3階建てであり、天守が燃えてしまった後は天守の代用と見なされていました。もともと、本丸の四つの角には天守もしくは櫓がそびえていたのです。

巽櫓の石垣
巽櫓の古写真(現地説明板より)

「福井城その3」に続きます。
「福井城その1」に戻ります。