207.西方城 その2

今回は、栃木県栃木市の西方に来ています。一面に、青々とした田んぼが広がっていますだ。ここは、昔から「西方五千石」といわれる米どころで、今はイチゴの産地でもります。この美田につながる用水を開いたのも藤田信吉と言われています。そして向こうに見えるのが城山で、西方城があったところです。西方を象徴する景色と言えるでしょう。

ここに行くには

今回は、栃木県栃木市の西方に来ています。一面に、青々とした田んぼが広がっていますだ。ここは、昔から「西方五千石」といわれる米どころで、今はイチゴの産地でもります。この美田につながる用水を開いたのも藤田信吉と言われています。そして向こうに見えるのが城山で、西方城があったところです。西方を象徴する景色と言えるでしょう。

城山を背景にした西方の田園風景

西方城跡への道のりはわかりにくい所もありますが、山に近づいたところで案内表示を見つけていただければ、高速道路をくぐって駐車場がある城跡登山口まで着けると思います。

西方城跡への案内表示
高速道路下を進みます
登山口にある駐車場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

Introduction

内容としては、山頂部の方がメインとなりますが、登り・山上・下り、それぞれに見どころがありますので、山城の技巧をたっぷりとご紹介します。そして最後に、藤田信吉が陣屋を置いた通称「二条城」にも行ってみましょう。お城の守り本尊が置かれた開山不動尊がゴールになります。

「西方城址散策マップ」、栃木市観光協会ホームページより

城の防御システムの中を登る

登山道は、長徳寺というお寺の脇から登って行きます。谷筋の斜面をまっすぐに登って行きますが、葉っぱが積もって滑りやすくなっている場所があるかもしれないので気を付けましょう。曲がっているところは、竪堀の一部分だったようです。城に着く前から随分厳重です。竹林がきれいなので、こういうのも楽しみましょう。

登山道に入ります
谷筋を進んでいきます、落ち葉が滑りやすいので注意
竪堀だったと思われる部分

そのうち、伏兵が潜むような穴が現れますが、炭焼の跡だそうです。続いて分岐点がありますが、案内の通り右に行きましょう。

炭焼跡
分岐点

道が急に、しかも谷底を通る感じになってきました。しかも曲げられています。:ここは、竪堀そのものだったのです。敵だったらろくに身動きもできず、やられてしまいそうです。

屈曲する竪堀
屈曲する竪堀のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
竪堀の底を進みます

ようやく山の上に着きました、山麓からは約140mの高さだそうです。ここから左(南)が城の中心部ですが、右(北)も堡塁になっています。それでは、北から攻める視点と、堡塁で守る視点で見てみましょう。攻める側からすると、この堡塁には堀もあるし、ずっと回り込む必要があります。ずっと守備兵に監視されているでしょう。守備兵はいつでも側面攻撃できたでしょう。

左側が城の中心部、右側が堡塁
堡塁のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
堡塁を攻める側の視点
堡塁を守る側の視点

山の上も関門の連続

それでは、北の丸に進んで行きましょう。現在の見学者ルートは簡単にまっすぐ入れますが、城があった当時はやっぱり回り込んで入っていたようです。隅のところに櫓跡もあります。ここから本丸に行きつくのに、何段階も関門があるのです。

北の丸入口
櫓跡
北の丸内部

進んで行くと、次の曲輪(郭3-1)への入口があります。最初から折れ曲がっています。そして、細長い通路を歩きます。曲輪に入るときも、また折れ曲がります。これを曲輪の土塁からみたらどうでしょうか。これまたお見通しです。曲がったり、狭い通路を通っているうちに攻撃されてしまいます。

郭3-1への入口
屈曲する進入路のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
最初の屈曲部分
細い通路を進みます
また屈曲して中に入ります
曲輪の土塁からの視点

次に進むときも、違う仕掛けがあります。入口に入るための土橋がすごく細くて、空堀に挟まれています。ここでもまた滞留してしまいます。現代のビジターは安心して進みましょう。この曲輪(郭3-1)には、ビュースポットがあります。こちらは、「西の方」なので、東の方がよく見えます。東の方には、宇都宮氏の本拠地、宇都宮城がありました。なにかあったときは、救援隊の様子もわかったはずです。

空堀に挟まれた土橋
郭3-1からの眺め

この先は、二の丸の入口も、本丸の入口も同じようになっていて、やっと本丸到着です。敵だったら無理そうです。曲輪の中は、今までと同じように見えるかもしれませんが、本丸の土塁は、やっぱり図太いですので、歩いてみましょう。発掘調査では石積みが発見されました。歩いてみると、周りがすごく急だとわかります。本丸の西側を歩いているのですが、この先にかつては西の丸がありました(ゴルフ場開発時に消滅)。城山の山頂もこの辺りです(標高221m)。八幡宮のお社もありますので、お城めぐり安全祈願をしましょう(転ばないように、など)。

二の丸入口
本丸入口
本丸内部
本丸土塁
土塁下の急斜面
城山山頂
八幡宮

巧みな入口の造り

これから帰り道になるので、本丸の反対側から下っていくのですが、城の入口を守る仕組みがまだまだ出てきます。それでは、本丸から下っていきましょう。結構急な坂で下ったところも土塁と堀で守られています。

本丸を下ったところにある空堀

ここから先がまたすごいのです。進んだところが出丸のようになっています。そこから出る通路が曲げられていて、上の曲輪から側面攻撃できるようになっているのです。その通路の先が分岐点になっています。逆から見ると、城の南、東、西からの通路が合流している場所なのです。無茶苦茶重要な場所です。そのため、東の丸に向かっては、通路がさらに曲げられています。東の丸の方から登ってみると、またよくわかります。攻める立場になると、これは大変と思えます。

その先にある出丸
その出丸から出ている通路、右に曲がっています
通路の先が分岐点になっています
屈曲する進入路のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
出丸から通路を見た視点、側面攻撃(横矢)ができるようになっています
南の丸から見た視点、出丸が立ちはだかっています
東の丸の方から見た視点

下りの道に戻りましょう。左側に曲輪のようなものが見えてきます。「水の手」とあります。この上が井戸跡になっています。今でも石材が散らばっているので、石垣があった可能性があります。籠城戦にはなくてはならないものです。

「水の手」曲輪
内部には石材が散らばっています

今度は「連続する枡形虎口」です。さっきと同じように、攻める側から見た方がわかりやすいと思います。それでは、下の方から入っていきましょう。まず入口が曲げられています。しばらくまっすぐいくと、出口も曲げられています。入口と出口の両方が枡形になっていたのです。連続枡形の外側が東の丸です。

「連続する枡形虎口」の標識
連続する桝形虎口のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
下から入って右に曲がります。「馬出し」の表示があります
出口のところは左に曲がります
東の丸

山頂の方が見えるようになってきました。だいぶ下ってきました。また、分岐点に出ました。ここは登ったときにも遠った場所で、ここまで戻ってきたのです。逆側から歩いてきたビジターがいましたが、ここを左側に曲がったのでしょう。次来た時には違うコースを楽しめるということです。

山頂部を仰ぎます
登りのときに通った分岐点に戻ってきました

信吉のいた場所へ

最期のセクションは、城跡の山麓部、通称「二条城」に行きましょう。山頂部とは、別の方向に行きます。ちょっと通路が心もとない感じです。「主郭(本丸)」の方に行きましょう。「イノシシ注意」とあります!(山頂部への道でも同様の表示がありました)。なんとか道は続いています。「山麓」とは思えない険しさです。

登山口を左手の方に進みます
「西方城址散策マップ」の二条城部分、栃木市観光協会ホームページより
主郭(本丸、通称「御城」)への分岐点
山麓部とは思えない険しさです

大きな曲輪(郭22-2、通称「北曲輪」)に着きました。山麓だけでも本格的なお城という感じがします。それでは山麓部の本丸に向かいましょう。その手前に、巨大な細長い空間があります。帯曲輪でしょうか、高い土塁に囲まれています。本丸は季節柄、草木に覆われてしまっています。草木の少ない外側を歩いてみましょう。土塁の高まりはちゃんと残っています。それに石材も残っています。最近の発掘調査でも、石積みが見つかっています。その結果によると、結城氏時代に、山麓部は山頂部とともに使われたと想定されています。歴史もだんだんわかっていくのでしょう。隅に近いところには、櫓台のような高まりがあります。この向かい側には天守台のような区画もあるそうです。夢があります。

郭22-2
本丸下の帯曲輪
本丸内部
本丸土塁、奥には櫓台のような高まりがあります

本丸を下ったところから、最終目的地の開山不動尊に行きます。本当はもう一つ下って、藤田信吉の陣屋があったとされる曲輪(郭32-1、通称「二城」)を通りたいのですが、ここからかなりの急坂で、草木に覆われてもいますので、別ルートを通ります。道なき道を行く感じですが、出口がありました。ここも、城の出入口の一つだったのでしょう。建物が見えてきました。これが開山不動尊のお堂です。廃れていたのを。藤田信吉が復興したと言われています。剣の印がかっこいいです。ところで、帰り道ですが、来た道を戻るのが、確実だと思います(不動尊の参道から下はまともに通れない状況でした)。攻めるも引くも、楽にはいかないということです。

下に見えるのが郭32-1
上の方の曲輪から外に出られました
反対側から見た出入口
開山不動尊

関連史跡

関連史跡として、例幣使街道の宿場の一つ、栃木宿に来てみました。蔵の街として有名です。蔵や古い建物が、今でも現役で使われているところがいいです。

油伝味噌
平澤商事

ここは、とちぎ山車会館のとなりにある蔵の街市民ギャラリーです。これも蔵です。約200年前に作られた土蔵で、蔵の内装を生かして、展示会などに使われているのです。実は、ここで以前、西方城についての企画展も行われていました。かなり勉強になりました。

蔵の街市民ギャラリー

リンク、参考情報

西方城址・二条城址、栃木市観光協会
歴史探訪⑦国指定史跡 西方城跡、歴史のなかの栃木
・「戦国の猛将 藤田信吉/志村平治著」戒光祥出版
・「関東の名城を歩く 北関東編/ 峰岸純夫・齋藤 慎一編 」吉川弘文館
・「なんで西方城 なるほど西方城」企画展
・「二条城跡」2020年3月栃木県教育委員会、公益財団法人とちぎ未来づくり財団

「西方城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

128.要害山城 その3

よりよい史跡にするためにやっていただきたいこと

特徴、見どころ

強力な城の後方の防御

お時間があれば、城の背後の側も見ていただきたいです。それは後方の峰はとても狭まっていて、オリジナルの城の通路や遺跡が峰に沿って昔ながらのごとく残っているからです。主郭とその後方にある曲輪は、人工的に作られた堀切によって隔てられていて、後方からの敵の攻撃を防げるようになっていました。その堀切は崩れないように部分的に石垣によって支えられていて、日本の城では稀な事例です。

主郭の後方を区切っている石垣のある堀切

城周辺の地図

その上、2つの土造りの物見台が、堀切で区切られた後方に、峰に沿って並んでいました。物見台台もまた一部が石垣あるいは石積みによって支えられていましたが、これもまた誰が築いたか、または改修したのか分かっていません。

物見台
物見台を支える石垣
通路は物見台の脇を通ってより細くなります

通路は物見台の脇と間を通っていて、見張り台の間を通っている部分は両側が竪堀によってカットされていてとても細くなっています。物見台の上の守備兵は、敵が攻めてきても容易に捕捉し、反撃できたことでしょう。

物見台の間の通路
細くなっている通路から物見台を見上げます
物見台から通路を見下ろしています

その後

江戸時代には、武田不動尊の石像が2番目と3番目の門跡の間にある曲輪の場所に作られました。それ以来、その曲輪は不動曲輪と呼ばれるようになりました。明治維新後、城があった場所はますます荒廃していきました。そこで地元の人たちは、城跡を保存するため、1929年に「武田信玄公誕生之地」の石碑を建てました。石碑の題字は、旧日本海軍の有名な提督、東郷平八郎が揮毫しました。城跡は1991年以来、国の史跡に指定されています。

武田不動尊
本丸に立つ「武田信玄公誕生之地」の石碑

私の感想

要害山城を訪れる時には、武田氏館と両方同時にご覧になることをお勧めします。両方見ることによって武田氏がどのようにその本拠地を守ろうとしていたのか理解できるからです。この2つの城はセットで1つの城のように機能していたのです。ただ、1つだけ甲府市にお願いしたいです。武田氏館においては、ここ最近発掘や研究が頻繁に行われています。ところが、要害山城に限っては同じように発掘や研究が進んでいるようには思えません。現地においても、歴史ファン向けにもっと説明板などが必要ではないでしょうか。また、遺跡一部はかなり草木に埋もれたりしてわかりにくくなっています。武田氏館とセットであるものとして、将来この山城についても整備を進めていただきたいです。

武田氏館跡
武田氏館の西曲輪北桝形虎口
武田氏館跡では発掘作業が進んでいます
要害山城の竪堀跡の状況

ここに行くには

この城跡を訪れるには車を使われることをお勧めします。バスの本数がとても少ないからです。
中央自動車道の甲府南ICから約20分のところです。城跡への入口の手前に駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、JR甲府駅から積翠寺行きの山梨交通バスに乗って終点で降りてください。バス停から歩いて約15分で城跡入口に着きます。
東京から甲府駅まで:新宿駅から特急あずさ号か、かいじ号に乗ってください。

城跡入口前の駐車スペース

リンク、参考情報

要害山、甲府市
・「武田信玄 伝説的英雄からの脱却/笹本正治著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「要害山城その1」に戻ります。
「要害山城その2」に戻ります。

176.一宮城 その2

山上に突然現れる石垣

特徴、見どころ

よく整備された登山道

もし一宮城跡に車で行かれるのでしたら、鮎喰川と山地に挟まれた狭い地域を通る道路を行くことになります。城を守るためにはよい立地であることがわかると思います。城跡への登山道入口は、一宮神社の反対側にあります。ここから標高144mの山頂まで登っていく必要があります。しかし、登山道には石段があり、よく整備されています。

現地の案内図より

城周辺の地図

登山道入口
石段が作られ、よく整備されています

しばらく登っていくと、登山道に沿った坂に竪堀を見ることができます。これは、敵の攻撃を防ぐための仕掛けです。近くにある分かれ道に入っていくと、倉庫跡があります。

竪堀
倉庫跡 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)

自然の地形を生かした防御システム

登山道の本道の方に戻って進んでいくと、いくつかの曲輪の下にある、切岸と呼ばれる人工的に作られた急崖に至ります。この崖下には、湧水も見られます。ここから更に曲がりくねった登山道が崖を伝って登っていきます。

切岸によって作られた急崖
崖下の湧水
崖を登っていきます

崖を登った後でも、堀切と呼ばれる人工的に作られた谷の底にたどり着くのみです。敵の軍勢は、上方の曲輪から反撃を受けることになったでしょう。この谷によって、城の中心部と、才蔵丸という曲輪が分けられています。ここから左の方に行けば、才蔵丸に着きます。この曲輪は、三の丸とも呼ばれています。「才蔵」とは、かつてこの曲輪を任せられていた部将の名前に由来しています。

崖を登ってもまだ堀切の底です
明神丸入口
明神丸内部

城の中心部へ

谷から右の方に行ってみると、二つの主要な曲輪(明神丸と本丸)がある城の中心部への門跡に至ります。この二つの曲輪は、腰曲輪と呼ばれる細長い曲輪によってつながっています。

城の中心部への門跡
腰曲輪

その門跡から再び右の方に曲がっていくと、明神丸です。この曲輪はまた二の丸とも呼ばれていて、眺望を楽しむためと思われる縁側付きの建物跡が見つかった所です。今でもここからは、東の方角に徳島県中心部の景色がよく見えます。

明神丸入口
明神丸内部
明神丸からの景色

本丸のすばらしい石垣

先ほどの門跡に戻り、その前から見て左の方にいくと、ついに山の頂上にある本丸に到着します。蜂須賀氏が築いたすばらしい石垣が突然現れるので驚かれるかもしれません。この城の石垣はとても珍しく、美しいものです。深緑色の縞模様がある緑泥片岩を使って積み上げられているからです。これらの石は阿波の青石としても知られています。同じ石垣の作り方は、蜂須賀氏が一宮城の後で築いた徳島城でも見ることができます。

本丸の石垣
緑泥片岩が使われています
徳島城の石垣

本丸の中には、若宮神社の小さな祠があるだけです。城主のための御殿の礎石が見つかったのは最近のことで、これも蜂須賀氏によって築かれました。ここからは、鮎喰川を含む周辺地域の景色もよく見渡すことができます。

本丸内部
若宮神社の祠
本丸からの眺め

「一宮城その3」に続きます。
「一宮城その1」に戻ります。

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