143.美濃金山城 その1

勇猛な森氏の本拠地

立地と歴史

森氏の過酷な歴史

美濃金山城は、現在の岐阜県にあたる美濃国の東部にありました。この城は、北側を木曽川に、南側を中山道に挟まれた山の上にありました。多くの戦いが起こった戦国時代には、この場所は交通をコントロールできる重要地点でした。この城は最初は16世紀初頭に斎藤氏によって築かれたと言われています。初期の頃には、烏峰(うほう)城と呼ばれていました。その後、1565年に森氏が城主となってからより注目されるようになり、金山(かねやま)城と改名されました。森氏は、戦国時代から江戸時代初期までに3人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。森氏の歴史を見てみると、彼らの厳しい生き様と、その中でどうやって生き残ってきたのかがわかります。

城の位置

城周辺の起伏地図

当主や兄弟が次々に戦死

森可成(よしなり)は16世紀後半の森家の当主で、織田信長がまだ一地方の大名だった頃から仕えていました。そのため、信長が美濃国を手に入れたときに美濃金山城の城主に抜擢されたのです。しかし可成は、信長の命令により他国での多くの戦いにも従軍しなければなりませんでした。そして可成は、1570年に近江国(現在の滋賀県)での浅井・朝倉連合軍との戦いの中で戦死してしまいます。可成の息子、長可(ながよし)が父の跡を継ぎ、彼もまた信長の下で活躍しました。

浮世絵に描かれた森可成、落合芳幾作「森三左エ門可成」、1867年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
森長可肖像画、常照寺所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長可は、その勇猛さから鬼武蔵(官位として武蔵守を称していたことに由来)と呼ばれました。彼の三人の弟は信長の小姓となり、その内の一人、乱丸(蘭丸)は日本の歴史の中でも有名人です。信長が殺された1582年の本能寺の変を描く現代のドラマでは、信長役とともに、乱丸役も必ず演じられるからです。信長は実際乱丸を気に入っていたようで、長可が別の領主(信濃川中島)となった後、乱丸を3代目の美濃金山城主としました。しかし事実として、その小姓となった兄弟は三人とも本能寺の変で討ち死にしてしまいました。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』楊斎延一作、1896年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浮世絵に描かれた森乱丸、落合芳幾作「森蘭丸長康」、1867年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後に一人だけ残った跡継ぎ

本能寺の変後、長可は美濃金山城に戻ってきて、信長の後継者となった豊臣秀吉に従いました。1584年、秀吉と徳川家康との間で小牧長久手の戦いが起こりました。長可は遊撃部隊に加わったのですが、家康はそれを察知し、密かに待ち伏せし奇襲攻撃をかけたのです。不幸にも長可は、銃撃により戦死してしまいました。その結果、森家の跡継ぎとしては、一番下の弟である忠政(ただまさ)だけが残ったのです。長可はその死の前、遺言を残しておりその中で、忠政は美濃金山城主になってはらなないと書いていました。彼の真の意図は不明ですが、忠政にこれ以上戦いに参加して死ぬことがないように配慮したとも考えられます。

「小牧長久手合戦図屏風」豊田市郷土資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

忠政は結局、秀吉の指示により、美濃金山城城主を含む長可の地位を継承しました。彼は秀吉に仕えましたが、彼の兄を殺したが秀吉死後の次の天下人と目される徳川家康に主君を変えました。この決断にはいくつもの理由があったでしょうが、生き残るためには冷静な判断が必要だったのです。1603年、彼はついに美作国の国主となり、それまでよりずっと大きい領地を手に入れました。ちなみに、既に1600年には美濃金山城から他の領地(兄の長可がいた信濃川中島)に移されていました。

美作津山城跡にある森忠政像

織豊系城郭の一つ

美濃金山城そのものについては、森氏によって改築され、強化されていました。この城があった山には階段状にいくつもの曲輪がありました。頂上には本丸が、中腹には出丸があり、その間には二の丸と三の丸がありました。この城は、当時信長、秀吉とその部下たちが日本中で築いた典型的な織豊系城郭の一つでした。このタイプの城には主に3つの特徴がありました。石垣を作ること、建物を礎石の上に築くこと、屋根に瓦を葺くことです。それ以前、これらの物は寺院、高級官庁や皇居にしか使われていませんでした。信長は、彼が築いた安土城に見られるように、彼と部下たちの城でそれらを使い始め、権威と権力を見せつけたのです。美濃金山城の曲輪も石垣で囲まれていました。少なくとも本丸の建物は、礎石の上に建てられ、屋根瓦が乗っていました。しかし、1600年に忠政が他の城に移された後に廃城となってしまいました。

安土城想像図、岐阜城展示室より
美濃金山城想像図、戦国山城ミュージアムにて展示

「美濃金山城その2」に続きます。

144.大垣城 その1

天下分け目の決戦場になったかもしれない城

立地と歴史

天下分け目の決戦場

関ヶ原の戦いは、日本の歴史のなかの最も重要な出来事の一つです。徳川家康に率いられた東軍と、石田三成に率いられた西軍が1600年に関ヶ原で戦い、その結果、徳川幕府の設立につながったのです。ほとんどの日本の人たちは関ヶ原のことを知っているでしょうが、大垣城はどうでしょうか。実はこの城は、もし状況が変わっていれば(三成が城に居座っていたならば)この戦いの決戦場になったかもしれないのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成像、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

かなめの所、大柿の城

大垣城は、美濃国(現在の岐阜県)の西部にあり、関ヶ原を通して西日本とつながっていました。最初にいつこの城が築かれたかは定かではありませんが、日本が統一されてきた戦国時代の16世紀後半には重要な存在となっていたのです。天下人の豊臣秀吉は「かなめの所大柿(大垣)の城」と言っており、城主として近親者を送り込みました。この城は平地に築かれたのですが、堀と川に幾重にも囲まれていました。水城のように見えていたのでしょう。

城の位置

1598年に秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成との間に政争が起こりました。家康が、秀吉の幼少の息子でその時はまだ天下人あった秀頼の力を凌ぐのではないかと、三成は疑ったのです。家康は、1600年6月に彼に逆らった上杉氏を討伐するために東日本に向かいました。そして光成は、7月に西日本で家康を倒すために挙兵したのです。東軍と西軍は、大垣城や関ヶ原がある中日本で戦うことが予想されました。三成は、本陣として大垣城に滞在し、大垣城の背後の山にいくつもの陣城(南宮山城など)を築き、そこに同盟者(毛利秀元など)を据えました。三成は、できるだけの準備を行い、そこで家康の攻撃を待っていたのです。彼はまた、関ヶ原周辺に松尾山城などの大きな山城を築き、有力大名の毛利輝元や彼の主人である秀頼を呼び寄せ、彼の味方にしようとしたのです。もし、彼の計画が実現していれば、家康は負けていたかもしれません。秀頼はその時点ではまだ家康の主人でもあったからです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

なぜ三成は城を出たのか

ところが、9月15日、三成は突然城を後にし、関ヶ原で家康と戦い、たった一日で敗れてしまいました。なぜ三成は、彼の計画を捨て、恐らく彼は苦手でも家康は得意であった野戦を選んだのでしょうか。これまでの定説は、家康が大垣城を飛び越えて西日本の方へまっすぐ攻撃しようとすることに気付き(その情報を流すことが家康の謀略だったとも言われます)、同盟者とともに家康を先回りして関ヶ原に布陣したとされています。彼ら西軍は最初の頃はよく戦ったのですが、同盟者の一人、小早川秀秋が戦いの最中に裏切ったことによりついには敗れたというものです。この筋書きは劇的であり、多くの日本人は長い間それを信じていました。ところがそれは、実際の戦いから約60年も後に、江戸時代の軍記物に初めて現れた話だったのです。私もその話は、三成が城をわざわざ離れる理由としては弱すぎるように思います。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究が、三成が大垣城から移動した理由を明らかにしてくれるかもしれません。これらの研究によれば小早川秀秋は、これまでの定説よりももっと前から東軍に味方することが予測されていたとのことです。秀秋は、三成の計画に逆らって松尾山城を占拠し(その城には別の大名が入る予定になっていた)、戦いの前に関ヶ原に移動していたというのです。その場合、三成が大垣城に留まっていると、挟み撃ちにあってしまうことになります。三成は秀秋の動きに気付き、最悪のケースを避けるために止む無く関ヶ原に移動したのです。また、三成は、家康と秀秋に対抗するため、ある山城(玉城~たまじょう)に入ろうとしたが、果たせずに関ヶ原周辺で撃滅されてしまったとする説もあります。関ヶ原の戦いの後、三成の一部の部下はまだ大垣城に残っていました。しかし多勢に無勢であり、東軍に一週間城を包囲され、降伏することになってしまいました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水の都、大垣

関ヶ原の戦いの後、大垣城はまだ東日本と西日本をつなぐ重要地点とされていました。いくつかの大名家がこの城を居城とし、改良を加えました。例えば、石川氏は外堀を完成させ、松平氏は天守を四層に改築しました。その天守は本丸にあり、城主の御殿がある二の丸とつながっていました。両方の曲輪は内堀に囲まれていました。そして、合わせて三重の堀が城を囲んでいたのです。また、城下町が水路や川によって城と一体化されていました。そのため、現在の大垣市は水の都と呼ばれてきたのです。1635年以来、戸田氏がこの城と、大垣藩と呼ばれた城の周辺地域を江戸時代末期まで支配しました。

大垣城の四層天守の古写真、現地説明板より
「美濃国大垣城絵図」部分、出典:国立公文書館
上記絵図の大垣城中心部分
大垣藩戸田氏の初代、戸田氏鉄の銅像

「大垣城その2」に続きます。

38.岩村城 その1

悲しい逸話が伝わる壮大な山城

立地と歴史

三大山城の一つ

岩村城は、美濃国(現在の岐阜県)の東部にあった大きな山城でした。この城は、備中松山城高取城とともに日本三大山城の一つとされています。基本的に山城は、多くの戦いが起こった戦国時代に築かれました。ところが、平和な江戸時代においては、ほとんどの城が統治の便益のために平地に移るか再築城されました。これらの三大山城は、江戸時代末期までそのまま残存した稀な事例なのです。特に岩村城の場合は、その当時において現役だった城では、標高717mという最高地点にありました。

城の位置

城周辺の起伏地図

備中松山城
高取城跡

女城主おつやと悲劇の結末

13世紀に遠山氏が最初にこの城を築いたと言われていますが、定かではありません。記録に残っているのは、戦国時代の16世紀初めに遠山氏がこの城を本拠地としていたということです。遠山氏は、この地域に根付いていた地方領主の一つであり、岩村衆と呼ばれた地方領主のグループを率いていました。しかし遠山氏は、武田氏や織田氏のような他のより強大な戦国大名からの影響を受けていました。例えば、武田氏のために働かなければならないとか、一方で織田氏出身の姫を妻として迎えたりしていました。これらのことにより、2つの大名の間でバランスを取っていたのです。1571年、遠山氏の当主が亡くなったとき、織田信長は、息子の一人を遠山氏の跡継ぎとして送り込みました。前の城主の妻だったおつやは、織田氏出身で信長の叔母にあたりました。彼女は、まだその跡継ぎが若年だったので実質的な城主となりました。日本では数少ない女城主として知られています。

岩村氏の家紋、丸に二つ引き (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

おつやに試練が訪れます。武田信玄が信長と戦うことを決意したのです。彼女の領地は、信玄と信長との間の緩衝地帯であり、双方とも手に入れたいと思っていたのです。信玄は、配下の秋山虎繁とその軍勢を、1572年に岩村城に送り込みました。城は軍勢に取り囲まれましたが、その強力な防御力によりしばらく持ちこたえました。虎繁は、おつやと結婚することで武田に降らないか交渉を持ちかけました。そして、おつやはそれを受け入れたのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秋山虎繫肖像画、松本楓湖筆、恵林寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、このことは信長を大いに怒らせました。信玄の死や、長篠城の戦いでの敗戦などにより武田氏の勢力が衰え始めると、信長は1575年に岩村城に軍勢を派遣することにします。城は再度の籠城戦となり、相変わらずの防御力により5ヶ月間耐えました。攻撃側は、もし降伏すれば命は助けると交渉してきました。虎繁とおつやはそれを受け入れます。しかしそれは虚偽であり、二人は処刑されてしまったのです。戦国時代の中でも大きな悲劇の一つでした。

長篠城跡
岩村城絵図(いわゆる正保図)、江戸時代(出展:国立公文書館)

松平氏が城を近代化

その後、いくつかの大名がこの城を治めました。徳川幕府が設立された後の1601年、松平家乗(いえのり)が城主となり、併せて初代岩村藩主となりました。彼が入城する前は、この城は恐らく大規模ではあるものの、シンプルな山城であり、御殿などの建物は高所にありました。しかし家乗は、統治がやり易いよう、御殿を山麓の方に移しました。彼はまた、諸曲輪を囲む石垣を築くことで山城部分の近代化を図りました。例えば、山頂にある本丸には、2基の二階建て櫓が石垣の上に築かれ、2つの門もありました。しかし、その内部は江戸時代後半には空となっていました。戦いが起こったときなど非常事態に備えて、そのように作られたのかもしれません。更に、家乗は城下町も整備しました。今訪れてもその雰囲気を残した街となっています。

復元された山麓御殿の門と櫓 (taken by HiC from photoAC)
岩村城の石垣
上記絵図の本丸部分
旧城下町の街並み (taken by rupann7777777 from photoAC)

「岩村城その2」に続きます。