141.郡上八幡城 その1

小さな町にある城ですが、苦難の歴史がありました。

立地と歴史

遠藤氏が戦の本陣として築城

郡上八幡は、古い町並みや自然の美しさ、夏には郡上おどりが開催されることにより観光地としてよく知られています。この街はもともと郡上八幡城の城下町であり、この城は最初1559年に牛首山という山に築かれました。戦国時代の間、日本のほとんどの人々は自らの力で身を守り、コミュニティを運営していかなければなりませんでした。現在の岐阜県の郡上市に当たる、かつて美濃国郡上郡と呼ばれたこの小さな地域でも事情は同じでした。この地域では、遠藤氏と東(とう)氏が覇権を争っていました。やがて遠藤氏が勝利を収めますが、その戦いで本陣として使われた場所がそのまま郡上八幡城となりました。城の名前にある「八幡」は、遠藤氏が山麓に勧請した神社の名前に由来します(現在も同じ場所に八幡神社があります)。この頃の城は、単純な土造りの山城だったと言われています。

郡上八幡の自然と一体化した街並み

郡上八幡城の位置

16世紀後半の城主であった遠藤慶隆(よしたか)は、斎藤氏や織田氏など中部地方の有力な大名の下で働かなければなりませんでした。小さな地域の領主は単独では力不足のため、その領土を維持するためには、より有力な大名から保障してもらう必要があったからです。一方、将来働くに足る次のリーダーを見極める必要もありました。慶隆の場合1583年に、岐阜城にいた織田信孝に味方して豊臣秀吉と戦ったのですが敗れてしまいます。残念ながら彼は間違った選択をしたことになりますが、秀吉に降伏し、このときは大目に見られました。しかし、やがて慶隆は1588年に秀吉により、郡上八幡城城主からかなり小さな領地に左遷されてしまったのです。

遠藤氏の家紋、亀甲に花菱  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

稲葉氏による城の近代化と遠藤氏の巻き返し

その後、稲葉貞通が郡上八幡城主となり、山頂にあった本丸周辺に石垣を築き、城の大改修と近代化を開始しました。本丸には天守台石垣も作られたのですが、天守が実際に築かれたかどうかはわかっていません。また本丸は、腰曲輪と三重の石垣によって囲まれました。その上に、本丸の背後の他の山に連なっている部分は、深い堀切により二重に遮断されました。郡上八幡城は、自然の地形だけでなく、先進的な構造によっても守られる強力な城となったのです。

稲葉貞道肖像画、月桂寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、遠藤慶隆も捲土重来の時期を伺っていました。その時は、1600年に関ケ原の戦いが起ころうとしていた頃にやってきました。彼は、稲葉貞通が西軍に味方したことを知ると、徳川家康率いる東軍に加わることにしました。彼は、関ケ原に先駆けて家康の了承を得たうえで、郡上八幡城への攻撃を開始しました(八幡城の戦い)。慶隆と貞通の両軍は激戦を繰り広げ、特に本丸背後での戦いは熾烈でした。恐らくは慶隆が(自分が元いた城であり)過小評価していたよりずっと強化されていたため、城は持ちこたえました。しかし、関ケ原の戦いで東軍が勝利したため、慶隆は最終的には城を取り返すことができたのです(稲葉貞通も東軍に寝返ったのですが、九州の臼杵城に転封となりました)。慶隆は徳川幕府の下、初代郡上藩藩主となりました。

「八幡城の戦い」を描いた絵画、郡上八幡城天守内で展示

郡上一揆とその後の青山氏の統治

その郡上藩で1758年、郡上一揆として知られる大事件が起こります。そのときは、遠藤氏と井上氏の後を継いで金森氏が統治していました。金森頼錦(かなもりよりかね)は藩主であると同時に幕府の重要な役職(奏者番)を兼ねており、多額の経費が必要でした。しかし残念なことに郡上藩は小藩であり、必要な収入を得られませんでした。そこで彼は、幕府の高官の協力のもと、年貢の徴収法を(定免方から検見法に)改めることで税収の増加を図りました。この決定に、藩の農民たちは怒り、山麓にあった米の収蔵庫(御蔵会所)の所に集まります。彼らは藩に対して増税を取りやめるよう請願(強訴)しますが、拒絶されました。そこで、農民たちは江戸藩邸(出訴)、幕府老中(駕籠訴)、そしてついには将軍(目安箱投函による箱訴)への訴えにまで及びました。この事件により、多くの農民たちが処刑され、幕府役人が罷免され、そして金森氏は郡上八幡城主から改易となりました。

金森氏の家紋、裏梅鉢 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
郡上義民顕彰碑 (licensed by のりまき via Wikimedia Commons)

その後は青山氏が藩主となりましたが、同様の事件が起こらないよう農民たちには気を使いました。また、人々が町中で自由に踊ることを許し、これが郡上おどりの起源になったと言われています。郡上八幡城に関しては、青山氏は城の中心地を山の上から山麓にある二の丸に移し、御殿を建てました。これは、平和な時代に藩を統治した江戸時代の領主の典型的なやり方です。その二の丸は、本丸と呼ばれるようになり、以前本丸だったところは、桜の丸と松の丸の二つに分けられました。

青山氏の家紋、青山銭 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
街中にある郡上おどりの像
江戸時代の郡上八幡城と城下町の模型、郡上八幡城天守内で展示

「郡上八幡城その2」に続きます。

193.臼杵城~Usuki Castle

「丹生島」と呼ばれた島の全体が城そのものでした。
The whole of an island called “Niu Island” was the castle itself.

西側から見た「丹生島」の全景~The whole view of “Niu Island” from the west

立地と歴史~Location and History

臼杵城は、もともと「丹生島城」と呼ばれていて、こちらの方が歴史ファンにはなじみがあるかもしれません。なぜならここは戦国時代に大友氏と島津氏の間で起こった有名な「丹生島城の戦い」の舞台となったからです。大友氏は北部九州地方において6箇国を領有し、その本拠地は豊後国の府内、現在の大分市にありました。
Usuki Castle was originally called “Niu Island Castle” which is rather popular among history fans. Because there was a famous battle between the Otomo and Shimadu clans called “the Battle of Niu Island Castle” in the Warring States Period, Otomo clan had their territory of six provinces in the north part of Kyushu region, whose home base was in Funai of Bungo Province, now called Oita City.

16世紀中頃の大友氏の勢力圏~The Otomo clan’s territory in the mid 16th century(licensed by Alvin Lee via Wikimedia Commons)

大友宗麟は、1561年に毛利氏との戦いに敗れた後、より防御力の強い拠点を作る必要を感じました。宗麟は、臼杵湾にある岩でできた丹生島に新しい本拠地を作る決断をします。この島は約4kmの外周があり、海面から15mの切り立った岩崖がありました。更には、この城は引き潮のときは砂浜経由で行き来できましたが、満ち潮のときは完全に陸地から離れていました。もし戦いが起こった場合、十分な兵糧か水軍による補給があれば、長期間の籠城が可能となっていました。
Sorin Otomo found his clan in need of building a more defensive site after they were beaten by the Mori clan in 1561. He decided to build their new base castle on the rocky Niu Island in the Usuki Bay. The island was about 4 km surroundings in length, and 15m height from sea surface with vertical rock cliffs. In addition, the castle was accessible through the sandy beach at low tide, or completely isolated from land at high tide. If a battle happened, it could persevere for a long time with enough supply of its own or from the Navy.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

「丹生島」の切り立った岩の崖~The vertical, rocky cliff of “Niu Island”

この想定は1586年に南九州から島津氏が大友氏の領地に侵攻したときに現実となりました。宗麟は、天下人の豊臣秀吉に救援を求めましたが、島津氏は秀吉からの援軍が到着する前に全九州地方を征服しようとしました。島津の軍勢はこの城を取り囲み、大友は運命は風前の灯のようでした。そのとき、大友方の最終兵器として「国崩し」との異名を持ち、ポルトガルから輸入されたフランキ砲が火を噴き、島津を駆逐したと言われています。大友は滅亡を免れました。島津は城の攻略をあきらめて撤退し、最後は秀吉に降伏をしました。大友もまた苦難を避けられず、宗麟の子息、義統は後に秀吉により改易されました。
The assumption came true when Shimadu clan’s invasion from the south Kyushu assaulted Otomo’s territory in 1586. Sorin asked the ruler Hideyoshi Toyotomi for help, but Shimadu tried to conquer all of Kyushu region before the reinforcements from Toyotomi arrived. Shimadu’s troops surrounded the castle while Otomo was like a candle flickering in the wind. However, it is said that Otomo’s ultimate weapon, Breech-loading swivel gun imported from Portugal, nicknamed “Destroyer of nations”, eliminated Simadu before Otomo escaped death. Shimadu gave up to capture the castle, withdrew, and surrendered to Toyotomi in the end. Otomo were also not without trouble, because Sorin’s son, Yoshimune was fired later by Toyotomi.

島津軍を率いた島津義弘肖像画、尚古集成館蔵~The portrait of Yoshihiro Shimasu, the head of the Shimadu troop, owned by Shoko Shuseikan Museum(licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

江戸時代には、この城は臼杵藩の所有となり、主に「臼杵城」と呼ばれるようになりました。城の範囲は島の外に広がり、便益のために「大手門」や「三の丸」が設置されました。
In the Edo Period, the castle was in the Usuki Domain, mainly called “Usuki Castle”. Its range spread outside the island setting the main gate “Otemon” and the third enclosure “Sannomaru” for convenience.

「豊後之内臼杵城絵図」部分、江戸時代~Part of the illustration of Usuki Castle in Bungo Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

特徴~Features

臼杵城は「臼杵公園」となっています。公園は今では完全に陸地の一部になっていますが、以前は島だったというのがその形からわかります。なぜなら今では島の代わりに岩山のように見えるからです。
The ruins of Usuki Castle has become “the Usuki Park”. The park is now completely part of land, but you can see the shape of the former island. Because it looks like a rocky hill instead of an island.

城周辺の地図~The normal map around the castle

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

最初は正面口である「古橋口」から登ってみましょう。この入り口は大友時代から存在し、二の丸に通じています。この城は部分的に石垣に覆われ、2つの現存櫓といくつか復元建築物もあるのですが、元は江戸時代に作られたものです。
You can first climb up narrow stairs from the front entrance called “Furuhashi-Guchi”, which has existed from Otomo era, to the second enclosure “Ninomaru”. The castle has been partly covered with stone walls, and had two remaining turrets and some recently restored buildings. Their origin goes back to the Edo Period.

古橋口~The Furuhashi-Guchi(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)
臼杵城の石垣、塀、現存櫓「畳櫓」~The stone walls, plaster walls, and one of the remaining turrets “Tatami-Yagura” of Usuki Castle(taken by おさむし from photoAC)

二の丸はこの島の一番高いところにあり、領主のための館が城の歴史の最初と後半の時期に設けられました。ここにはフランキ砲のレプリカがあります。また余談ですが、丹生島城の戦いで使われた本物の大砲は、東京の靖国神社にある遊就館に展示されています。
Ninomaru was the highest point of the island where the halls for the masters were in the first and the last of the castle’s life. You can see the replica of a breech-loading swivel gun at this spot. In addition, you can also see the genuine gun which was used in the Battle of Niu Island Castle in the Yushukan Museum of Yasukuni Shrine, Tokyo.

二の丸にあるフランキ砲のレプリカ~The replica of a breech-loading swivel gun at Ninomaru(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)
遊就館にあるフランキ砲~The breech-loading swivel gun at Yushukan Museum(licensed by Uploadalt via Wikipedia Commons)

島の後ろ側には本丸があり、江戸初期に天守が建築されました。ここは一時期城の中心地とされたのですが、長くは使われませんでした。恐らく二の丸より低く狭かったからでしょう。「卯寅口」と呼ばれる通用口は、本丸から下って船着き場に通じており、非常時を考え作られました。その外側は今は海ではないですが、この出入口にはまだ船着き場の雰囲気が残っています。
The back side of the island was the main enclosure “Honmaru” where the Tenshu keep was built in the early Edo Period. This place was once set as the center of the castle, but it wasn’t used for long, perhaps because of being lower and smaller than Ninomaru. The back entrance called “Uto-no-Kuchi” goes down from Honmaru to the port for emergency. Though outside is now not the sea, the entrance still has an atmosphere of a port.

本丸にある天守台の石垣~The stone walls for Tenshu at Honmaru(licensed by 小池隆 via Wikipedia Commons
卯寅口~The Uto-no-Guchi(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)

その後~Later Life

明治維新後、この城は公園となりました。天守や他の多くの櫓は廃材として売られるか、自然に崩壊しました。公園は有名になりましたが、桜の名所としてであって史跡としてではありませんでした。例を挙げると、天守台の高石垣が残っていたのですが、景観上の理由で削られてしまいました。最終的には1966年に城跡が県の史跡として指定されました。最近には2001年に「大門櫓」という櫓門が木造で復元されました。
After the Meiji Restoration, the castle was turned into a park. The Tenshu keep and many other turrets were sold as waste materials, or collapsed naturally. The park became famous for cherry blossoms, but not for being a historic site. For example, the remaining high stone walls for Tenshu was filed for landscape. Lastly, the ruins were designated as a prefectural historic site in 1966. Recently, a turret gate called “Daimon-Yagura” was restored in wooden style in 2001.

臼杵城の夜桜~The cxherry blossoms at night in Usuki Castle(taken by seama2 from photoAC)
復元された大門櫓~The restored Daimon-Yagura(licensed by チャコ via Wikipedia Commons)

私の感想~My Impression

臼杵城周辺の地域は、城と同じように岩山に囲まれ、石垣を使った建物も見られます。市街地も見て回られてはいかがでしょうか。また臼杵市は、「臼杵石仏」でも有名です。市街地から約5km離れた所にあります。
The area around Usuki Castle is surrounded by rocky hills and some buildings there use stone walls like the castle. Why not get around the city area as well. Uski City is also famous for “Uski Stone Buddha”, away from about 5 km from the city area.

岩山の上の臼杵城~Usuki Castle on the rocky hill

ここに行くには~How to get There

JR臼杵駅から歩いて古橋口は約15分、卯寅口には約10分かかります。
大分空港から臼杵駅まで:
大分駅行き空港アクセスバス(エアライナー)に乗り、大分駅でJR日豊本線に乗り換えてください。
もしくは、佐伯駅行き空港バスに乗り、臼杵インターチェンジバス停で降り、近くの白馬渓バス停まで歩き、佐伯駅まで大分バスに乗ってください。
It takes about 15 minutes to get Furuhashi-Guchi, or about 10 minutes to get Uto-no-Guchi on foot from the JR Usuki station.
From Oita Airport to Uusiki st.:
Take the Airpor Eepress Airliner bus to Oita station, and transfer at the station for JR Nippo line.
Or take the Express Limousine Bus to Saiki station, get off at Usuki Interchange bus stop, walk to Hakubakei bus stop nearby, and take the Oita bus to Usuki station.

リンク、参考情報~Links and Referencec

臼杵観光情報協会~Usuki-City Tourist Information Organization
・大友の聖将、赤神諒、角川春樹事務所(Japanese Book)
・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)