142.苗木城 その2

石垣と自然石が融合している城跡

特徴、見どころ

城跡の入口から中心部へ

現在、苗木城跡には建物は残っていませんが、石垣と自然石を組み合わせた壮大な城の基礎部分を今でも見ることができます。まず、城跡の入口から入ったすぐ後の足軽長屋跡から、展望台がある山頂のすばらしい遠景が見えてきます。

城周辺の地図

城跡のジオラマ、現地説明板より
城跡入口
足軽長屋跡
城跡の遠景
現地にあるかつての城の想像図

それから、自然石と加工された石が混ざったような壁沿いに、城跡の中心に向かって歩いていくと、三の丸の着きます。この曲輪の場所には、もともと防御のための深い空堀があったのですが、後に建物の敷地を増やすために埋められました。

自然石と石垣が混在している壁面
城跡の中心部へ
大矢倉跡から見た三の丸

大矢倉跡、そして山頂へ

その手前は大矢倉跡で、巨石と石垣を組み合わせた台座が残っています。その天辺まで登っていくと、山の頂がもっと間近に見えます。

大矢倉跡
大矢倉跡から見た城跡中心部
城跡中心部から見た大矢倉跡

山頂に登っていくためには、岩肌に沿った狭く曲がりくねった通路を歩いて行く必要があります。その道沿いには、多くの門や建物の跡があります。過去には、このような狭いスペースに建物がひしめき合っていたのです。

坂下門跡
武器蔵跡
玄関口門跡
山頂に至る通路付近のかつての城の想像図、現地説明板より

そして、ついに山頂の本丸に到着します。そこは今はなにもありませんが、それでも広いとは感じないと思います。かつては城主の居間などいくつかの建物がありました。

山頂の本丸

本物の天守にも劣らない展望台

天守台は、そこにある巨石そのものであり、かつての天守の代わりに今では展望台がその上に乗っています。その展望台も、元の天守と同じように懸け造りで作られています。その柱は、天守と同じ柱穴を使って立てられています。天守がどんなに素晴らしかったか、容易に想像することができます。

元天守だった場所
展望台が天守台の岩の上に乗っています
懸け造りの展望台
柱は天守と同じ柱穴を使っています

その上、展望台のデッキは元の天守の最上階と同じ大きさ、高さに設定されています。そこからは、木曽川や中津川市街を含む周辺地域の絶景を楽しむことができます。きっと城主も同じ景色を眺めていたことでしょう。

展望台のデッキ
展望台からの眺め

「苗木城その3」に続きます。
「苗木城その1」に戻ります。

142.苗木城 その1

岩山の上に築かれ、維持された珍しい城

立地と歴史

中山道を見張る城

中山道は日本の主要街道の一つであり、江戸時代には五街道の一つに指定されていました。特に江戸時代以前には、中山道は西日本と東日本の間に大軍を移動させるのにはもっとも便利なルートでした。現在中津川市となっている岐阜県東部の地域には、盆地の中心部に中津川宿があり、そこから街道が東側の山間部に向かっていました。そのため戦国時代の大名は、この街道の重要地点を監視するためにこの地域を手に入れたがっていました。苗木城は、木曽川沿いにある高森山に築かれ、川を挟んで宿場とは反対側にありました。つまり、この城は中山道で何が起こったのか見張るためには絶好な位置にあったのです。

城の位置

城周辺の起伏地図

歌川広重「木曽街道」より「 中津川」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

遠山氏が築き、何とか最後まで維持

戦国時代の16世紀、遠山氏は東美濃と呼ばれた地域における地方領主の一つでした。彼らは岩村城を本拠地としていましたが、16世紀の初頭に支城として苗木城を築いたと言われています。しかし遠山氏は、武田氏や織田氏のような他のより有力な戦国大名からの影響を受けていました(両方にうまく従うか、どちらかの勢力下に入るかせざるを得なかったのです)。彼らもこの地域を領有したがっていたからです。例えば、武田、織田の両氏が1572年から1582年の間戦っているとき、この城は取ったり取られたりしていました。

岩村城跡
当時の武田氏当主、武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の織田氏当主、織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両氏が没落した後は、豊臣秀吉配下の森氏がこの城を占拠しました。その当時の城主だった遠山友忠(ともただ)・友政(ともまさ)父子は、浜松城にいた徳川家康のもとに退避せざるを得ませんでした。関ヶ原の戦いが起こった1600年、彼らは家康の承認を得たうえで苗木城の奪還に成功します。家康が徳川幕府を設立した後は、遠山氏はこの城を苗木藩として江戸時代の終わりまで統治しました。

現在の浜松城
苗木藩初代藩主となった遠山友政肖像画、中津川市苗木遠山史料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

岩山に築かれた城、巨石の上の天守

苗木城は、日本の常設の城としてはとても特殊な立地にありました。城が築かれた山は岩山であり、急崖に囲まれていました。この立地は守備兵にとってはありがたく、攻撃するのはとても難しいです。しかし城主が城を拡張しようと思ってもそのための余地はとても少ないということにもなります。当時は、城の建物や内部の通路は、自然の地形を石垣で囲んだ上か、石垣台の上に築くのが一般的でした。しかし苗木城の場合には、建物や通路のために岩の表面を削ったりするのは困難でした。よって、自然の岩と石垣を組み合わせた台の上か、谷を埋めた上に築かれました。更に建物が必要な場合は、自然石の上に直接築かれたりしました。例えば、苗木城の天守は、山の頂上にある巨石の上に築かれました。

自然の岩と石垣が組み合わされた苗木城大矢倉の台座
苗木城天守台となった巨石

伝統的に、日本の人たちが自然石の上に建物を築こうとする場合には、懸け造りという工法を採用しました。これは岩か崖の急斜面に、多くの柱や梁を組み合わせて格子のようにした基礎を築くというものです。この工法を使った建物は、京都の清水寺のように、今でも古い神社や寺で見ることができます。この工法が使われた理由は、これらの建物が築かれた岩や崖がある山自体が、信仰の対象だったからと言われています。多くの城が築かれた戦国時代や江戸時代初期には、この工法が城にも応用されたのです。苗木城はこの好例でしょう。他には仙台城でのケースが知られています。

懸け造りの清水寺本堂 (licensed by Kakidai via Wikimedia Commons)
仙台城跡

苗木藩は1万石の石高しかなく、これは独立した大名としては最低限のものでした。そのため、城の建物は板葺きで、板壁か土塀が使われていました。瓦葺きや漆喰塀などはとても高価で使えなかったのです。しかしそれでも彼らは、平和であった長い江戸時代の間じゅう、厳しい状況下で建物を維持し続けたのです。それはどのような非常事態にも備えるため、そこにいることが最大任務だったからです。

苗木城想像図、現地説明板より

「苗木城その2」に続きます。