162.出石城・有子山城 その2

有子山城跡本丸の上には休憩所と説明板しかありません。しかし、麓から約300mの高さがある頂上からの眺めは最高です。本丸の石垣は、麓から見えていたあの石垣です。

特徴、見どころ

神社の参道を通って有子山城跡へ

前節でご説明しました通り、出石地区には出石と有子山という2つの城跡があります。後者(有子山)の方が前者(出石)より古い城跡となりますので、この記事では最初に有子山城跡を訪れるという形にしたいと思います。有子山城跡への入口は、有子山稲荷神社の入口にもなっていて、その神社は出石城跡の最も高い位置にあります。したがって山の麓からは神社参道の石段を、数多くの赤い鳥居をくぐりながら登って行くことになります。

城周辺の地図

有子山稲荷神社の参道

その間、出石城跡の何段もの曲輪群や、すばらしい石垣、復元された建物も目にします。神社の建物より上の方に、山頂への登山口があります。登山にはハイキングの装備と、野生動物を避けるためのアイテム(熊鈴かラジオ)が必要です。

右側が出石城跡の本丸、二の丸です
有子山稲荷神社
有子山城跡への登山口
野生動物には気を付けましょう

自然の障壁としての急坂

道はとても急で、山の峰の上をまっすぐに登っていきます。これは城にとっては自然の障壁となったでしょう。その途中でやや緩やかになりますが、代わりに道筋が曲がりくねり、それから細くなって人工の堀切を越えていきます。これは恐らく、防衛のため意図的に作った関門でしょう。

峰上の急坂
道がジグザグになっている箇所
その後ろは堀切を渡る土橋になっています
堀切部分を上から見ています

その後、山道はまた急になり、城巡りのビジターにとってはきつすぎるかもしれません。しかし、やがて頂上付近のエリアにたどり着き、道は右に曲がって回り道となります。それまで見てきた城跡は土造りでしたが、周辺に石垣が残っているのがわかります。それは恐らく、道の下方に井戸曲輪があって、石垣は井戸を崩壊や埋没から防ぐために築かれたのでしょう。

道はまた急になります
ここから右に曲がり平らになります
道の下に井戸曲輪があります
井戸の上にある石垣

頂上の6段の曲輪群

山道は今度は左に曲がり、頂上にある城の主要部分に向けて再び登り始めます。主要部分は6段の曲輪群となっていて、全て自然石か粗く加工された石を使った石垣によって囲まれています。城のために築かれた石垣としては古い部類に属していて、恐らくは藤堂高虎によって築かれたのでしょう。

城主要部の地図

城の主要部に登っていきます
石垣が見えてきました

参考までに先ほどの山道を登らないでまっすぐに行くと、石垣に使った石を切り出した場所があります。

先ほどの分岐点をまっすぐ行くと石切場です
こちらが石切場です

曲輪群は下の第6曲輪から一番上の本丸まで一直線に並んでいます。多くの石垣は、崩壊を防ぐためにワイヤーネットで覆われています。

第6曲輪の石垣
左上が第5曲輪の石垣、右下が第6曲輪の石垣

本丸の上には休憩所と説明板しかありません。しかし、麓から約300mの高さがある頂上からの出石地区の眺めは最高です。本丸の石垣は、麓から見えていたあの石垣です。

第2曲輪から本丸へ
本丸の上
本丸からの景色
本丸の石垣

山の上とは思えない広さの千畳敷

千畳敷は主要部のとなりにあって、人工の巨大な堀切によって隔てられています。そこに行くには、第4曲輪の上から通じる道をたどります。千畳敷はほとんどが土造りなのですが、山の頂上部分としてはとても広く、城主の館か大軍の駐屯地として使われたと思われます。

第4曲輪の脇から道が出ています、石垣は第3曲輪のものです
本丸と千畳敷を隔てる堀切
千畳敷
千畳敷から見た本丸

「出石城・有子山城その3」に続きます。
「出石城・有子山城その1」に戻ります。

162.出石城・有子山城 その1

出石は古い城下町を残していることで知られていて、多くの観光客が訪れ、山の麓にある出石城跡を含むエリアでの散策、食事、買い物などを楽しんでいます。晴れた日にその山を見上げてみると、その頂上には石垣があるのがわかります。それがもう一つのこの地区にある城跡で、出石城の前に築かれた有子山城です。

立地と歴史

出石にある2つの城跡

出石城は、現在の兵庫県北部にある豊岡市の出石地区にありました。出石は古い城下町を残していることで知られていて、多くの観光客が訪れ、山の麓にある出石城跡を含むエリアでの散策、食事、買い物などを楽しんでいます。晴れた日にその山を見上げてみると、その頂上には石垣があるのがわかります。それがもう一つのこの地区にある城跡で、出石城の前に築かれた有子山城です。このような城跡群があることで、この地区には長い歴史があり、豊かな文化が育まれたことがわかります。

豊岡市の範囲と城の位置

出石の街並み
手前が出石城跡、背後が有子山城跡
山上の石垣をズームアップ

日本有数の守護大名、山名氏

有子山城は、中世の時代に最も有力な守護大名の一つであった山名氏によって築かれました。山名氏は新田氏の支族で、東日本の関東地方の出身です。足利幕府が設立される頃、その当時の当主であった山名時氏が、初代将軍の足利尊氏の幕府創業に大いに貢献しました。そのため尊氏は、まだ敵方(南朝)の活動が活発であった中国地方の北部、山陰地域の平定のために時氏を送り込んだのです。時氏とその後継者たちは武力をもってその地域を征服し、ついには日本で66ある国のうち、11までの国の守護になりました。よって、山名氏は「六分の一殿」と称されるに至りました。

山名氏の家紋、五七桐に七葉根笹  (licensed by Houunji 1642 via Wikimedia Commons)
山名氏が守護となった11ヶ国  (licensed by ja:User:味っ子 via Wikimedia Commons)

ところが、3代将軍の義満は山名氏の勢力が過度に大きくなることを恐れ、1391年の明徳の乱と呼ばれる戦いにより山名氏を征伐しました。山名氏の勢力は一時衰えますが、15世紀になると山名宗全が現れ、かつてのような勢力を回復します。1467年から1477年の間に戦われ、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において、細川勝元率いる東軍に対抗して、宗全は西軍の総大将を務めました。山名氏は再び多くの国の守護となり、現在の兵庫県北部にあたる但馬国の出石地区を本拠地としました。山名氏の当主は最初は、後の有子山城から約5km北にある此隅山城(このすみやまじょう)を居城としていて、宗全はこの城から2万6千人の軍勢を率いて出陣し、京都で東軍と戦ったのです。

山名宗全肖像画、「本朝百将伝」より  (licensed by Musuketeer.3 via Wikimedia Commons)
細川勝元肖像画、龍安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中央政府で確固たる地位を築いていた細川氏と違い、山名氏は自国の領土を武力によって維持する必要がありました。しかし、戦国時代になって下剋上が国中に広まっている中で、それが難しくなっていったのです。山名氏はやがて、赤松氏や尼子氏などの他の戦国大名との数々の戦いに敗れ、領地の国を一つずつ失っていきました。その結果、山名の権威は失墜し、その重臣たちまでもが独立を志向しました。山名氏の当主であった山名祐豊(やまなすけとよ)は、何とか最後の但馬国だけは維持しようと、他の国との国境近くに竹田城を築いたりしました。そしてより強大な戦国大名である織田氏や毛利氏に助けを求めようとしました。

但馬国の範囲と城の位置

竹田城跡

山名祐豊が本拠地を有子山城に移転

ところが、1569年に織田氏は但馬国を攻撃します。祐豊の本拠地、此隅山城は落城し、祐豊はそこから逃亡せざるを得ませんでした。このことの背景に、但馬国を織田の勢力圏とするという、織田氏・毛利氏間の密約があったのではないかと言われています。祐豊は、織田信長に会い、但馬国の鉱山からの収益から多額の献金をすることで、1570年に帰還することが叶いました。そして彼はその本拠地を、此隅山城よりずっと高く険しい山にある有子山城に移し、二度と落城することがないよう改修しました。祐豊は普段は山麓にある屋敷に住んでいて、それが出石城とその城下町の起源となります。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

1570年代になると、織田氏と毛利氏は対立するようになります。祐豊は、どちらの側に付いてよいのか逡巡します。そうするうちに織田氏は1580年に但馬国を再び攻撃しました。後に天下人となる羽柴秀吉の弟、羽柴秀長を派遣したのです。その侵攻の理由の一つとして、生野銀山などの但馬国の鉱山を手に入れたかったのではないかと言われています。秀長の軍勢は有子山城を包囲し、恐らくは援軍の望みがなくたったことで、祐豊はついに降伏しました。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

羽柴秀長が有子山城を改修

その後、秀長は有子山城に居座り、但馬国の本拠地として城を改修しました。それまでこの城は土造りでしたが、山頂にある城の主要部分は、石垣を築くことで強化されました。後に築城の名手と称されるようになる秀長の重臣、藤堂高虎が携わったと言われています。主要部のとなりの千畳敷曲輪は、国中の領主たちが援軍として集結しても十分兵員や物資を収容できるよう拡張されました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城の想像図、出石「家老屋敷」にて展示

小出吉英が出石城を築城

城はそれから、豊臣秀吉が天下人となった後、その親族である小出氏に引き継がれました。小出氏は、天下の権が豊臣氏から徳川幕府に移ってもなんとか生き残りました。1604年に小出吉英(こいでよしひで)が山麓の屋敷を大改修し、出石城としました。恐らく統治の利便のためだったでしょう。そして、代わりに山上の有子山城を廃城としました。山麓の新しい城とその城下町は、出石藩として江戸時代の間繁栄しました。その後、仙石氏が藩主となり、江戸時代末まで統治しました。

出石城の想像図、出石「家老屋敷」にて展示

「出石城・有子山城その2」に続きます。

194.佐伯城 その1

関ヶ原の戦いの後、大名の多くは城を平地や低い丘陵に築きました。しかし毛利高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

立地と歴史

毛利高政が築城

佐伯(さいき)市は、九州地方の大分県南東部に位置していて、農業、林業、漁業が盛んなことで知られています。特に佐伯港は県で最も多くの水揚高があります。この市は、毛利高政が最初に築いた佐伯城の城下町を発祥としています。彼はまた、城と町を含む佐伯藩の創始者でもあり、藩は17世紀から19世紀の江戸時代の間、ずっと継続しました。

佐伯市の範囲と城の位置

佐伯港

高政はもとは、現在の愛知県西部にあたる尾張国の出身で、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕えていました。天下統一がなった後、1592年に秀吉により朝鮮侵攻に派遣され、武将として活躍します。秀吉はこの貢献に応え、1595年に高政に対して豊後国(現在の大分県)の日田(ひた)郡と玖珠(くす)郡を領地として与えました。以前の領主であった大友氏は秀吉により改易されていたので、その後釜になったのです。高政は、その領地にいる間、角牟礼(つのむれ)城などいつくかの城を改修しました。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城跡

1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康率いる東軍と、豊臣家を支持する石田三成率いる西軍との間で1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こりました。高政は西軍に加わりますが、東軍が勝利します。彼は直ちに東軍に降伏しますが、他の西軍に加わった大名たちの行く末からすると高政も、家康が設立した徳川幕府によって改易や処刑といった処分を受けても不思議はありませんでした。しかし、豊後国の別の場所(佐伯)に転封となるだけで済んだのです。彼が生き残った理由としては、高政が懇意にしていた東軍の有力大名であった藤堂高虎が救いの手を差し伸べたことが考えられます。もう一つは恐らく、高政自身が優れた築城術と統治能力を乗っていたことも挙げられるでしょう。彼はまた、優れた銃術家でもありました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利高政が使ったとされる大鉄砲、佐伯市歴史資料館にて展示

関ヶ原後としては珍しい新規の山城

佐伯の地には既に、栂牟礼(とがむれ)城という優れた山城がありました。ところが、高政は1601年に新しい本拠地として新しい山城を築きました。それが佐伯城です。彼がわざわざ山城をもう一つ築いた理由としては、以下が考えられます。まず、新しい城は港や将来城下町となる場所に近く、当地のために便利だったからです。次に、この山城が築かれた山には、かつて八幡神社があり、そのため山自体も八幡山と呼ばれ、聖地とされていました。よってそこに城を築くことで、その権威を利用できたということです。それと、当時は徳川幕府と豊臣氏がまだ対立していて情勢が不安定であったことも挙げられます。日本の各大名たちは次なる戦いに備える必要がありました。大名の多くは城を平地や低い丘陵に築いていたのですが、高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

栂牟礼城想像図、佐伯市歴史資料館にて展示
佐伯城の復元模型、佐伯市歴史資料館にて展示

佐伯城は1605年に完成しました。城を築いた山は標高145mで、山頂からは細長い峰が北と南西方向に伸びていました。その山頂と峰は総石垣で覆われていました。山頂部には本丸があり、天守が建っていました。二の丸は本丸のとなりにあり、廊下橋によりつながっていて、これが本丸への唯一の通路でした。二の丸には城主のための御殿がありました。この場所は決して広くありませんでしたが、城主もその家族も戦のような非常事態に備えるため、そこに住むことを余儀なくされたのです。城には峰の間の谷間に2つの貯水池があり、それぞれ雌池(めんいけ)と雄池(おんいけ)と呼ばれました。長い籠城戦を想定して作られ、ここもまた石垣に囲まれていました。

上記模型の本丸(右)と二の丸(左)部分、赤丸内が廊下橋
現在も石垣に囲まれている雄池

平和な時代となり山麓に御殿を建設

1615年に幕府が豊臣氏を倒した後は、状況は変わりました。幕府の統治は安定しました。これは、日本の大名たちがもう不便な山上の御殿に住まなくてもよいことを意味しました。佐伯藩の場合は、3代目の藩主、毛利高直が1637年に山麓に三の丸と新しい御殿を築いたのです。山頂の本丸にあった天守に関しては、三階建てであったとも言われますが、詳細についてはわかっていません。何らかの理由で城の初期の段階で残念ながら失われてしまったからです。

上記模型にも山麓に御殿があります
現在の佐伯城跡

「佐伯城その2」に続きます。