82.大洲城 その1

多くの大名たちが大洲城とその地域を発展させてきました。

立地と歴史

宇都宮氏が最初に築城

大洲城は、四国の伊予国の南部(南予地方)にあった城で、その場所は現在の愛媛県大洲市にあたります。この城は最初は14世紀に宇都宮氏によって、地蔵ヶ嶽と呼ばれた丘の上に築かれました。この立地は、大洲宇和島街道と肱川(ひじかわ)との結節点の近くであり、交通の要衝でした。宇都宮氏は、やがて15世紀後半から16世紀にかけての戦国時代には伊予国の戦国大名の一つとなります。(その後中国地方の毛利氏の四国出兵により、大名の地位を追われました。伊予国は毛利氏の親族、小早川隆景が一時治めました。)

伊予国の範囲と大洲城の位置

藤堂高虎が近代化

豊臣秀吉が天下統一を果たした後、秀吉の家臣であった藤堂高虎が1595年に大洲城(を含む南予地方)を領有しました。彼は宇和島城を本拠地としていましたが、大洲・宇和島両方の城を近代化したのです。高虎によってどのように大洲城が近代化されたのか詳細はわかっていません。その遺跡は現在の大洲城の地下にあるからです。しかし、高虎が城の基本的な構造を作り上げたと考えられています。本丸は、城の東から北へ向かって流れていた肱川沿いにありました。二の丸は、川の反対側の丘の麓にありました。本丸・二の丸両方の曲輪は、南側と西側を内堀に囲まれていました。また、三の丸と外堀がそれらの外側にあったのです。堀の水は、肱川から引かれており、そのため、この城は川城というべきものでした。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊予国大洲城図、出典:国立国会図書館

脇坂安治が天守築造か

1609年、脇坂安治(わきざかやすはる)が洲本城から大洲城に移され、大洲藩の初代藩主となりました。彼が本丸に四層の天守を建てたと言われています。また、歴史家の中には安治が洲本城の天守を大洲に移したのではないかと考えている人もいます。最近の調査によると、双方の天守台の大きさがほとんど同じだったからです。台所櫓と高欄櫓という2基の二階建て櫓が天守の両側に建てられ、渡櫓によって連結されていました。他にも多くの櫓がそれぞれの曲輪の重要地点に建てられました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
洲本城の天守台石垣と模擬天守
大洲城天守と台所櫓の古写真、現地説明板より

加藤氏が幕末まで継承

1617年、加藤氏が米子城から大洲城に転封となり、城と大洲藩を13代に渡って江戸時代末期まで統治しました。大洲藩は大藩ではなく(石高6万石)、裕福ではありませんでしたが、産業振興に努めました。例えば、砥部焼、和紙、木蝋などです。また、藩校の明倫館を設立し、藩士の教育を行いました。幕末の頃には、藩士の一人、武田斐三郎(あやさぶろう)が藩校修了の後、西洋軍学を学びました。彼はついには北海道の函館に、日本で初めての西洋式城郭である五稜郭を建設しました。そこで徳川幕府の指揮官として活躍したのです。

加藤氏の初代、加藤貞泰肖像画、大洲市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田斐三郎 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭

大洲城に関しては、平和の時代には二の丸が城の中心部となり、御殿や倉庫が建てられ、大手門やいくつかの櫓によって囲まれていました。

元禄五年大洲城絵図に描かれた二の丸、城内展示より

「大洲城その2」に続きます。

83.宇和島城 その1

藤堂高虎が築き、伊達氏が維持した城

立地と歴史

藤堂高虎が築城

宇和島城は、過去には伊予国といった愛媛県の南部地方(南予地方)にある城です。伊予国は、15世紀後半から16世紀までの戦国時代には多くの戦国大名によって分割されていました。後に宇和島城が築かれることになる山には、板島丸串(いたじままるぐし)城という城があり、西園寺氏が居城していました。豊臣秀吉が天下統一事業を進めているとき、秀吉の家臣、藤堂高虎が1595年に南予地方の領主となりました。高虎は、築城の名手として知られるようになるのですが、このとき初めて独立した領主になったのです。彼は本拠地として、もと板島丸串城だった山を選びました。そして1596年に宇和島城の築城を始めたのです。

伊予国の範囲と宇和島城の位置

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

板島丸串城は、シンプルな山城でした。高虎はそれを、当時最新の技術と彼の構想によって、近代的な城に作り変えました。その山は、北側と西側が宇和島湾に面していました。そこで高虎は、南側と東側も海水を引き込んで堀としたのです。その海岸と堀から作られる形は五角形のようになっていて、敵が城を攻撃してきたときに惑わせる効果もあったようです。高虎は、山を覆うような石垣や、敵の攻撃を防ぐための桝形と呼ばれる四角いスペースを備えた虎口(入口)も築きました。更には、山の頂上の自然の岩の上に、三層の天守が築かれました。城の建設は、1601年に完了しました。

宇和島御城下絵図、元禄16年(1703年)、宇和島伊達文化保存会蔵(現地説明板より)

その一方でこの城には、本丸、二の丸、三の丸、長門丸といった小さな曲輪がたくさんありました。これは古い山城の特徴の一つであり、前身の板島丸串城もそうでした。宇和島城はその特徴を引き継がざるをえなかった訳です。次に、天守は廃材を利用して建造されましたが、その完成の60年後には老朽化が激しくなってしまいました。また、高虎の伝記によれば、高虎の領地にあった支城の河後森城の天守が、1604年に宇和島城に移築されてきて櫓として使われたとあります。これらの状況を勘案すると、当時の高虎には理想の城を完成させるには十分なリソースがなかったのかもしれません。1600年には、高虎は新しい領地の今治城に移っていきました(領地替えではなく、今治の地を加増され、宇和島城は家臣が城主となりました)。

密集している曲輪の配置図、現地説明板より
河後森城跡

立て替えられた天守

1614年、伊達氏が宇和島城主と宇和島藩主となり、江戸時代末期までこの地を統治しました。2代目藩主、宗利(むねとし)は、1660年代に老朽化と地震の被害による城の大改修を行いました。特に、天守は完全に新しいものに置き換えられます。新しい天守は古いものと同じ三階建てでしたが、外観は全く違っていました。古い方は望楼型であり、新しい方は層塔型でした。しかし、新しい天守における一番重要なことは、それが平和の時代に建てられたということです。天守は、他の建物に連結されるのではなく、独立して本丸の中心にある石垣上に建てられました。そして、天守には見栄えをよくするための装飾が多く付けられ、戦いのための装備はわずかでした。総じて、この天守はしばしば「太平の世を象徴する天守」と言われたりします。それが現在われわれが目にしている天守です。

旧天守(右側)と新天守(左側)との比較、現地説明板より
宇和島城の現存天守

幕末に多彩な人材が結集

8代目藩主の宗城(むねなり)は、幕末の日本政界で大変活躍しました(いわゆる四賢侯の一人とされます)。強力な西洋の蒸気船が日本に現れ、日本が脅威にさらされる中、宗城は藩独自の蒸気船を建造しようとしました。彼はこれを成し遂げるために、異才を放つ人材を招きます。例えば、医者で後に初期の日本陸軍の指導者となる村田蔵六、こちらも医者で幕府から追われる身であった高野長英、そして下層の職人たち(前原功山など)です。彼の試みは成功します(藩としては薩摩藩に次ぐ2番目、純国産では最初との評価もあります)。宗城は、宇和島城を新しい状況に適用させるのは難しいと考え、蒸気船を動く城として作り上げたのかもしれません。

伊達宗城、「徳川慶喜公伝」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
村田蔵六、「近世名士写真 其2」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高野長英肖像画、高野長英記念館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「宇和島城その2」に続きます。

179.河後森城 その1

国と国との境目の城

立地と歴史

国境の紛争地帯

河後森(かごもり)城跡は現在愛媛県の松野町にあり、その場所は高知との県境の近くです。同じように、その城はかつては伊予国にあり、そこは過去においても伊予国と土佐国の境目の近くでした。両国の領主がそれぞれの領地を維持(または拡大)したいがために、このような場所ではしばしば緊張状態が生じました。

伊予国の範囲と河後森城の位置

12世紀以降、渡辺氏がこの城を所有していたと言われています。渡辺氏はやがて南予地方を治めていた西園寺氏の配下となり、西園寺十五将の一人となりました。16世紀前半の土佐国の領主であった一条兼定は、親族の一人を渡辺氏の跡継ぎ養子として送り込みました。実は、これは兼定が伊予国に侵入するための準備だったのです。養子となった渡辺教忠(のりただ)は、1567年に兼定が実際に伊予国に攻め込んだときに、彼の主人である西園寺公広(きんひろ)のために何もしませんでした(出兵要請に応じなかったようです)。公広は激怒し、教忠を河後森城に包囲し、教忠は降伏しました。国境近くのこの城では、このようなことが起こっていたのです。

一条兼定肖像画、龍集寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

馬蹄形の峰に築かれた城

河後森城は、U字形(馬蹄形)の峰を持つ山の上に築かれました。その長く細い峰には、多くの曲輪が一列に並んでいました。本郭は、U字形の中央部分にあり、そこが一番北側に当たりました。本郭のとなりには、U字形の西端から9つの曲輪が並んでいました。その他に3つの曲輪が本郭の東側にありました。更に、古城曲輪と呼ばれる2つと新城曲輪がU字形の東端に作られました。一つ一つは小さいのですが、全部で16もの曲輪があったのです。これらの曲輪は基本的には土造りで、人工的に作られた堀切により隔たれ、山の傾斜も意図的に垂直に加工されていました。その上に、城があった山は南側を除き三方を川に囲まれていました。総じて、この城は天然の要害であったと言えるのです。

城周辺の起伏地図

1580年代に豊臣秀吉による天下統一がなされている間、彼の部下である戸田勝隆(かつたか)が、河後森城を含む南予地方の領主となりました。勝隆は1595年に(朝鮮侵攻の最中に病気で)亡くなり、藤堂高虎がその後を継ぎました。河後森城は、天下統一が進む期間においても土佐国との国境に近い城として重要であり続けました。日本の政治状況がまだ不安定であったからです。伊予国の領主は、長宗我部氏や山内氏といった土佐国の領主の動向を注視し続ける必要があったのです。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下統一の時期に近代化

河後森城は、基本的にはシンプルな山城でしたが、やがて勝隆あるいは高虎によって最新の技術を使った城に進化していきます。例えば、本郭の周りには石垣が築かれました。本郭にはもともと領主の主殿舎がありましたが、天守のような建物が後から追加されました。その現場では発掘により、天守に使われた可能性がある、鯱を含む大型の瓦が見つかっています。高虎の伝記によると、河後森城の天守が、彼の本拠地である宇和島城に移され、櫓として使われたそうです。しかし、今のところ科学的に十分証明されてはいません。とは言いつつ、河後森城はその頃には近代的な城の姿をしていたのかもしれません。

部分的に残る河後森城本郭の石垣
宇和島城

1615年、徳川幕府を設立した徳川家康は、大坂城にいた豊臣氏を滅ぼしました。そのことで、徳川幕府の権威が確立したのです。幕府は日本の全ての大名に対して一国一城令を発令し、幕府の統治をより強化しようとしました。河後森城は、高虎が他の国に移った後伊達氏の所有となっていましたが、この法令により廃城となったとみられます。

河後森城跡

「河後森城その2」に続きます。