102.上ノ国勝山館 その1

この山城とアイヌの人たちの複雑な関係

立地と歴史

アイヌ人が住む北海道に和人が進出

上ノ国勝山館(かみのくにかつやまだて)は、北海道の渡島半島の西部に、中世に築かれた館です。その当時、北海道は蝦夷と呼ばれていて、アイヌ民族の人たちが住んでいました。彼らは本州に住んでいた日本民族(和人)とは違う言語や生活様式を持っていました。本州の和人が農業を行っていたのとは異なり、狩猟、漁撈、貿易によって生活の資を得ていたのです。

城の位置

イザベラ・バードによるアイヌ男性のスケッチ、19世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

14世紀後半、一部の和人は特に北海道の南端、渡島半島での活動を活発化させていました。そのリーダーたちは居住及び貿易を行うため、いくつもの館を半島沿いに築き始めました。これらの館は道南十二館と呼ばれており、例えば「下ノ国」と呼ばれた半島の東部では志苔館(しのりたて)が築かれました。一方、半島の西部は「上ノ国」と呼ばれていました。(その中間地点が「松前」となります。)

志苔館跡

アイヌの反乱を武田信広が鎮圧

蝦夷地域での日本人を統率していた安東氏もまた、蝦夷の支配を強化しようとしていました。そのことから、1456年にはアイヌ人のリーダーであったコシャマインによって反乱が起こりました。和人の支配に反発したアイヌの反乱軍は、道南十二館のうち、志苔館を含む10個の館までを占領しました。2つの生き残った館のうち一つは、上ノ国にあった花沢館でした。この館は、安東氏の影響下にあった蠣崎(かきざき)氏が治めていました。彼らは明らかに不利な立場にあったのですが、蠣崎氏の食客であった部将、武田信広がコシャマインを矢によって射殺し、反乱を鎮圧しました。

武田信広肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信広は、その当時日本の中心部であった本州の若狭国の出身でした。若狭国と蝦夷は、日本海を通じて盛んに交易を行っていました。例えば、越前焼などの若狭国周辺で作られた焼き物が、蝦夷ではよく使われていました。また若狭国では「若狭昆布」として蝦夷で採れ、若狭で加工された昆布が販売されていました。信広は、この交易ルートに乗って若狭から蝦夷に流れてきたのかもしれません(若狭国守護、武田氏の一族とも言われています)。そして、彼は乱を鎮圧した功績により、蠣崎氏の養子となり跡継ぎに収まっただけでなく、蝦夷における和人のリーダーにも目されたのです。

中世の越前焼の壺、箱根美術館蔵 (licensed by Daderot via Wikimedia Commons)

信広が上ノ国勝山館を築城

やがて信広は1470年に、夷王山(いおうざん)下の丘の上に新しい館を築きました。これが上ノ国勝山舘です。「館」というネーミングは、まさに館、御殿といった感じですが、その規模、建て付けから見ると、それは山城か、もしくは山上の中世都市と言った方がしっくりくるでしょう。信広は、それまでの館がほとんど占領されてしまったという経験から、より強力な館を作ったのだと思われます。館があった丘は両側が深い谷になっており、正面と背面には空堀が掘られました。丘上には多くの住居もあり、全体を柵によって囲まれていました。丘の麓の方には、よく知られた貿易港であった大間港があって、館の領主はこの沿岸沿いで行われる貿易活動をコントロールできるようになっていました。

上ノ国勝山館の模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示

この新しい館の完成後であっても、一部のアイヌ人はなお和人に反抗し、この館を攻撃してきました。信広配下の蠣崎氏は、主にはこの館の強力な防御力のおかげでアイヌの攻撃を撃退することができました。しかし一方では謀略も駆使しており、アイヌの長たちを講和を結ぶと称して宴会に招待し、酔ったところを見計らって、暗殺したりしました(こういったことは松前藩が編纂した「新羅之記録(しんらのきろく)」に堂々と書かれているそうです)。アイヌの人たちは、一度約束したことは決して疑わない性質で、蠣崎のいうことを信じてしまったのです。反面、丘上の館がある中世都市では和人とアイヌが調和して一緒に生活していました。この館跡の墓地では、和人とアイヌ両方の人たちが葬られているのを見ることができます。これらの事実は、和人とアイヌの長く複雑な関係を表していると言えるでしょう。

上ノ国勝山館の正面防御の様子、上記模型より
館周辺のアイヌ人の墳墓群

やがて蠣崎氏はその本拠地を、渡島半島の南端の松前に移しました。貿易を行うにはより便利な土地だったからです。この地で江戸時代に松前藩が成立し、更には(幕末ではありますが)松前城が築かれます。本拠地を移して程なく、蠣崎氏は名乗りを松前氏に変えました。そうするうちに上ノ国勝山舘は、江戸時代の初めには廃城となりました。

松前城

「上ノ国勝山館その2」に続きます。