101.志苔館 その1

和人とアイヌ民族の交易の中心地

立地と歴史

道南十二館の一つ

志苔館(しのりたて)は、現在の北海道函館市において中世の日本の武士たちが築いた館です。当時、北海道は蝦夷(ヶ島)と呼ばれていて、原住民としてアイヌ民族が住んでいました。アイヌは、日本の本州に住んでいた日本人(以下「和人」と表記)とは違う言語、違う生活様式を有していました。彼らは、和人が通常農耕により生活していたのとは異なり、狩猟、漁撈、交易によって生活の資を得ていました。本州から蝦夷に渡った最初の和人は、罪人、落ち武者、商人であったろうと言われています。(和人から見て当時の蝦夷は3つの集団に分かれていましたが)その蝦夷に渡った人たちが、和人と交易を行っていた「渡党(わたりとう)」というグループになったのではないかとする歴史家もいます。本州の北端部分を支配していた安東(あんどう)氏が、13世紀以来「蝦夷管領」として渡党の人たちを監視し、コントロールしていました。

イザベラ・バードによるアイヌ男性のスケッチ、19世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

14世紀後半、渡党と和人たちが北海道の南端の渡島半島でさかんに活動しました。そして、そのリーダーたちは半島沿いに居住や交易のためにいくつもの館を築き始めました。志苔館は、道南十二館の一つであり、そのうちで最も東側にあり、恐らくは最初のものだっと思われます。歴史家は、安東氏の配下であった小林氏が志苔館を築いたのではないかとしています。

城の位置

志海苔の町とともに繁栄

館のそばにある志海苔(しのり)の町も、和人とアイヌの間で行われた交易や産業によって繁栄しました。記録によれば、そこには数百件の家屋から成る鍛冶屋町がありました。アイヌの人たちは自分たちで鉄製品を作ることができなかったからです。1968年のことですが、志苔館跡から約100m離れた海岸で大甕に入った約37万枚もの古銭が発見されました。大甕は複数あり、一部が壊れていました。もし、全部が完全な状態であれば古銭の量は50万に及んだだろうとされています。古銭の種類を調べたところ、館があったのと同じ時期に埋められたということがわかりました。この辺りには裕福な商人か領主がいたということになります。歴史家の中には、小林氏が志苔館を築くときの地鎮祭のために、これらの古銭を埋めたのではないかと推測している人もいます。

北海道志海苔中世遺構出土銭、重要文化財、函館市ホームページから引用

志苔館は、南側の海岸から20m以上の高さがある丘の上に築かれました。館は、東西70m、南北50mの方形の区画に建てられました。その区画の外側は、土塁、更には空堀によって囲まれていました。区画の西側が出入口となっており、空堀が二重になっていました。館は普段は居住や交易のために使われたが、緊急事態や戦いが起こったときには城のような基地としても使われたと考えられます。

城周辺の起伏地図

志苔館跡
志苔館跡の現地案内図

アイヌの反乱により2度の落城

館周辺の状況は、1432年に安東氏が南部氏との戦いに敗れ、本州から追い出されたときに劇的に変わりました。安東氏は本拠地を北海道に移さざるをえず、それ以来、和人とアイヌの間の緊張が一気に高まりました。安東氏が北海道を直接支配しようとしたからです。1456年に志海苔の鍛冶屋で事件が起こりました。アイヌの少年がその鍛冶屋に注文した小刀(マキリ)に対して不満を述べたところ、なんと鍛冶屋が少年を殺してしまったのです。この事件はアイヌの人たちを憤激させ、アイヌのリーダー、コシャマインによる反乱に至りました。

アイヌマキリ (licensed by Haa900 via Wikimedia Commons)

小林良景(よしかげ)が所有していた志苔館は、反乱軍により攻撃され、落城しました。良景もまた殺されました。そして、道南十二館のうち、10館までが占領されてしまったのです。翌年、和人の武将である武田信広がコシャマインを討ち取り、反乱を鎮圧しました。その後、志苔館は良景の子、小林良定(よしさだ)により再建されましたが、1512年にまたもアイヌによる反乱がおこり、館は占領されました。良定までもが殺されました。その結果、和人は渡島半島の西部に集結することとし、江戸時代には松前藩の立藩や松前城の築城につながっていきます。半島の東側にあった志苔館はやがて廃城となりました。

武田信広肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松前城

「志苔館その2」に続きます。

102.上ノ国勝山館 その1

この山城とアイヌの人たちの複雑な関係

立地と歴史

アイヌ人が住む北海道に和人が進出

上ノ国勝山館(かみのくにかつやまだて)は、北海道の渡島半島の西部に、中世に築かれた館です。その当時、北海道は蝦夷と呼ばれていて、アイヌ民族の人たちが住んでいました。彼らは本州に住んでいた日本民族(和人)とは違う言語や生活様式を持っていました。本州の和人が農業を行っていたのとは異なり、狩猟、漁撈、貿易によって生活の資を得ていたのです。

城の位置

イザベラ・バードによるアイヌ男性のスケッチ、19世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

14世紀後半、一部の和人は特に北海道の南端、渡島半島での活動を活発化させていました。そのリーダーたちは居住及び貿易を行うため、いくつもの館を半島沿いに築き始めました。これらの館は道南十二館と呼ばれており、例えば「下ノ国」と呼ばれた半島の東部では志苔館(しのりたて)が築かれました。一方、半島の西部は「上ノ国」と呼ばれていました。(その中間地点が「松前」となります。)

志苔館跡

アイヌの反乱を武田信広が鎮圧

蝦夷地域での日本人を統率していた安東氏もまた、蝦夷の支配を強化しようとしていました。そのことから、1456年にはアイヌ人のリーダーであったコシャマインによって反乱が起こりました。和人の支配に反発したアイヌの反乱軍は、道南十二館のうち、志苔館を含む10個の館までを占領しました。2つの生き残った館のうち一つは、上ノ国にあった花沢館でした。この館は、安東氏の影響下にあった蠣崎(かきざき)氏が治めていました。彼らは明らかに不利な立場にあったのですが、蠣崎氏の食客であった部将、武田信広がコシャマインを矢によって射殺し、反乱を鎮圧しました。

武田信広肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信広は、その当時日本の中心部であった本州の若狭国の出身でした。若狭国と蝦夷は、日本海を通じて盛んに交易を行っていました。例えば、越前焼などの若狭国周辺で作られた焼き物が、蝦夷ではよく使われていました。また若狭国では「若狭昆布」として蝦夷で採れ、若狭で加工された昆布が販売されていました。信広は、この交易ルートに乗って若狭から蝦夷に流れてきたのかもしれません(若狭国守護、武田氏の一族とも言われています)。そして、彼は乱を鎮圧した功績により、蠣崎氏の養子となり跡継ぎに収まっただけでなく、蝦夷における和人のリーダーにも目されたのです。

中世の越前焼の壺、箱根美術館蔵 (licensed by Daderot via Wikimedia Commons)

信広が上ノ国勝山館を築城

やがて信広は1470年に、夷王山(いおうざん)下の丘の上に新しい館を築きました。これが上ノ国勝山舘です。「館」というネーミングは、まさに館、御殿といった感じですが、その規模、建て付けから見ると、それは山城か、もしくは山上の中世都市と言った方がしっくりくるでしょう。信広は、それまでの館がほとんど占領されてしまったという経験から、より強力な館を作ったのだと思われます。館があった丘は両側が深い谷になっており、正面と背面には空堀が掘られました。丘上には多くの住居もあり、全体を柵によって囲まれていました。丘の麓の方には、よく知られた貿易港であった大間港があって、館の領主はこの沿岸沿いで行われる貿易活動をコントロールできるようになっていました。

上ノ国勝山館の模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示

この新しい館の完成後であっても、一部のアイヌ人はなお和人に反抗し、この館を攻撃してきました。信広配下の蠣崎氏は、主にはこの館の強力な防御力のおかげでアイヌの攻撃を撃退することができました。しかし一方では謀略も駆使しており、アイヌの長たちを講和を結ぶと称して宴会に招待し、酔ったところを見計らって、暗殺したりしました(こういったことは松前藩が編纂した「新羅之記録(しんらのきろく)」に堂々と書かれているそうです)。アイヌの人たちは、一度約束したことは決して疑わない性質で、蠣崎のいうことを信じてしまったのです。反面、丘上の館がある中世都市では和人とアイヌが調和して一緒に生活していました。この館跡の墓地では、和人とアイヌ両方の人たちが葬られているのを見ることができます。これらの事実は、和人とアイヌの長く複雑な関係を表していると言えるでしょう。

上ノ国勝山館の正面防御の様子、上記模型より
館周辺のアイヌ人の墳墓群

やがて蠣崎氏はその本拠地を、渡島半島の南端の松前に移しました。貿易を行うにはより便利な土地だったからです。この地で江戸時代に松前藩が成立し、更には(幕末ではありますが)松前城が築かれます。本拠地を移して程なく、蠣崎氏は名乗りを松前氏に変えました。そうするうちに上ノ国勝山舘は、江戸時代の初めには廃城となりました。

松前城

「上ノ国勝山館その2」に続きます。

107.秋田城~Akita Castle

古代日本最北の城
The northernmost castle of ancient Japan

立地と歴史~Location and History

蝦夷と城柵~Emishi and Josaku

秋田城は、「城柵」と呼ばれた政府の防衛拠点の代表的なもの一つで、古代に中央政府により東北地方の統治のために設置されました。もともと東北地方には、政府の支配に属さない蝦夷と呼ばれる部族の人々が住んでいました。彼らは政府に属す古代の日本民族とは異なる言語を話し、またそのうちの一部はアイヌ民族の始祖になったと言われています。
Akita Castle was one of the representatives of official defense sites called “Josaku” and was placed for the governance of Tohoku Region by the central government in the Ancient Ages. Originally, people belonging to the Emishi tribe ,who were not subject of the government, lived in the north of Tohoku Region . They spoke a different language from that of the ancient Japanese people living under the government, and some of them were also said to be ancestors of the Ainu tribe.

蝦夷の頭領の一人、阿弖流為の出し物、青森ねぶた祭~The attraction of Aterui, one of the leaders of Emishi, in the Aomori Nebuta Festival (Photo by Aaron Cox from Pexels)

政府はその領土を広げるため、支配下の人々を移住させたり、「蝦夷」の人々を臣民として受け入れようとしました。ところが、蝦夷はしばしば政府に反抗しました。城柵は複合的な拠点で、城としての用途だけではなく、統治や全般的な用途の施設もありました。政府は10前後の城柵を築き、秋田城はそれらの中で最北で、出羽国の北部(現在の秋田県)に位置していました。
The government aimed to spread its domain, so it tried to relocate its own people there and to accommodate “Emishi” people as its subjects. However, Emishi often rebelled against the government. Josaku was a complex mix of sites made not only for the use of castles, but also for government purposes and general facilities. The government built around 10 Josaku and Akita Castle was the northernmost site among those Josaku and it was located on the northern part of Dewa Province (what is now known as Akita Prefecture).

主な城柵の位置~The locations of the main Josaku

最北の地で外交も~Even Diplomacy in Northmost land

秋田城の起源は、733年に現在の山形県(秋田の南)から移転してきた「出羽柵」という城柵です。この移転は、領土拡大計画の一環でした。760年には秋田城と改称されます。この城は他の城柵と同じように、中心部分に政庁があり、外郭には高さ4mを超える屋根付きの築地塀が巡っており、外周は2km以上ありました。この拠点は出羽国の国府でもあり、アジア大陸にあった渤海国との外交を行う役目も担っていました。
The origin of Akita Castle lies in the Josaku called “Ideha-no-ki” which was moved in 733, from a region where now Yamagata Prefecture (south of Akita) is. This movement was done as a part of expansion plan. Then it was renamed Akita Castle in 760. The castle consisted of the Government Office in the center, and roofed mud walls on the outline, similar to other Josakus, which were over 4m high, and their perimeter was over 2km. The site was also the provincial capital of Dewa Province and had a role in the foreign diplomatic relation with Bohai Kingdom on the Asian continent.

政庁と外郭の範囲を示す現地の模型~The model which shows the ranges of the government office and the outline
渤海国の最大領土~The territory of Bohai Kingdom at its peak (licensed by Samhanin via Wikimedia Commons, partly modified)

多くの困難と遺産~Many difficulties and heritage

その期間中、秋田城は多くの災難に見舞われました。例えば830年には、出羽国大地震により大きな被害を受けました。その後、蝦夷の人々による2回の反乱が、878年と939年に起こりました。特に878年の元慶の乱では、城は一時占拠されてしまいます。発掘により、政庁が焼けた跡が実際に発見されました。
During its time, Akita castle faced a lot of adversities. For instance in 830, the castle suffered a heavy loss from the Dewa Great Earthquake. After that, two rebellions by Emishi people happened in 878 and 939 respectively. In particular, during the Gangyo Rebellion in 878, the castle was once captured. Traces of burned Government Office were actually found by the excavation.

現地にある政庁の模型~The model of the Government Office at the site (licensed by 掬茶 via Wikimedia Commons)

この城は10世紀にその歴史的役割を終えたため廃城となりました。しかしながら、城主の官職名「秋田城介」は武士の名誉職として使われ続けました。恐らくもともとの官職が北の地を鎮護するためのものだったからでしょう。
The castle was abandoned by the late 10th century after its historical reason was finished. However, the name of the castle’s lord “Akita-josuke” was used as a warrior’s honorary post, perhaps because the original post had been created for protectors of the northern lands.

安達泰盛、秋田城介で鎌倉幕府の重臣、「蒙古襲来絵詞」より~Yasumori Adachi, the Akita-Josuke and a senior vassal of the Kamakura Shogunate,  from “The picture scrolls of the Mongol invasion attempts against Japan” (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

現在、秋田城跡は「高清水公園」という歴史公園として整備されています。更には最近の2016年、秋田城跡歴史資料館がオープンしました。公園でだけでなく、ここでも城について多くのことを学ぶことができます。公園には見ておくべき場所が三つあります。
Now, the ruins of Akita Castle have been developed as a historical park called “Takashimizu Park”. In addition, Akita City History Museum of Akita Fort Ruins opened recently in 2016. You can learn a lot about the castle at the museum as well as in the park. There are three main parts in the park you should check out.

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

政庁跡~Ruins of Government Office

もし車かバスで公園を訪れた場合、駐車場かバス停からは一番近いところにあります。政庁もまた屋根付きの築地塀に囲まれていました。建物のレイアウトは、古代奈良にあった朝廷の建物に準じていました。城跡が発掘された後は、建物の柱の位置が地面の上にわかるようになっています。東門とともに塀の一部も復元されています。残念ながら、西側の部分は道路建設のために破壊されてしまいました。
If you visit the park by car or bus, it is the nearest spot from the parking lot or the bus stop. The government office was also surrounded by roofed mud walls. The layout of its buildings followed the way of the Imperial Palace in ancient Nara. After the ruins were excavated, the positions of the building columns can be seen on the ground. Part of the walls has also been restored with the Eastern Gate. Unfortunately, the western part was destroyed by the construction of the road.

政庁跡~The ruins of the Government Office
柱の位置を示した建物跡~The building ruins with their columns’ positions
復元された政庁の東門~The restored Eastern Gate of the Government Office

外郭東門~Eastern Gate of Perimeter

政庁跡からは、12mの幅がある「東大路」という城内道路を歩いて行くことができます。この道路は270m続き、屋根付きの築地塀とともに復元された外郭東門にたどり着きます。この塀は、長さが50mあり、発掘後の研究により外郭の一部として復元されました。双方とも近年元来の工法で、城の初期の状態を想定して作られました。また、塀部分は版築という多層の土を押し固める方法が用いられています。
You can walk on the restored 12m wide inner road called “Higashi-oji” from the government office ruins. This road goes on for 270m, then you will reach the restored eastern gate of the perimeter with the roofed mud walls. These walls, which are about 50m long, are part of the restored perimeter based on the study after excavation. The gate and walls were built in the original way recently, assuming the first appearance of the castle. The walls are also made using a method called Rammed Earth, which refers to compressing many layers of earth.

城内道路~The inner road
復元された外郭東門~The restored Perimeter Eastern Gate
版築で作られた塀、政庁部分より~The wall made of Rammed Earth from the part of the Government Office

古代水洗トイレ~Ancient flush toilet

この城で最も面白い見物の一つに復元された古代水洗トイレがあります。元からあること自体稀ですが、復元されることも稀です。その上に、もう一つ興味ある事実が遺跡から見つかりました。遺跡からの遺物の中に、豚を食べる人から出る寄生虫の卵があったのです。日本の当時の人たちは豚を食べませんでした。そのため、そのトイレを使った人は外国から、恐らくは渤海か中国から来たに違いないのです。この事実は、古書に書いてあるのと同じように、秋田城と外国との関係を証明しているのです。
One of the most interesting attractions of this castle ruins is the restored ancient flush toilet. The original one was rare, and the restored one is also rare. Moreover, one more interesting fact was found at the ruins. The relics from the ruins include eggs of the parasite which lived in a man who ate pork. Japanese people at that time didn’t eat pork, so the man who used the toilet must have come from a foreign country, probably Bohai or China. The fact proved the relationship between Akita Castle and foreign countries while old documents say the same thing.

復元された水洗トイレ~The restored flush toilet
排出口~The outlet

その後~Later History

中世になって、人々は秋田城のことをまだ覚えていましたが、どこにあったかは誰もわからなくなりました。江戸時代に有名な旅行家の菅江真澄が秋田にしばらく滞在して、辺りを歩き回り、どこに城があったか推測しました。最初の国による近代的調査は1924年に行われ、城の土塁が発見されました。いくつかの調査により、城の場所が特定され、1939年に城跡は国の史跡に指定されました。発掘は1959年以降行われています。更には遺跡が宅地として開発されていたため、行政側も土地の買い上げを始め、歴史公園として整備しました。そのおかげで、私たちは公園で復元された施設を見学できるのです。
In the Middle Ages, people still remembered Akita Castle, but no one was sure where it had been. In the Edo Period, a famous traveler, Masumi Sugae stayed in Akita for a while, walked around the area, and speculated where the castle was. The first modern national research was done in 1924, which discovered the earthen walls for the castle. After the place of the castle had been confirmed by several researches, the ruins were designated as a National Historic Site in 1939. Excavations have been done since 1959. In addition to developing the ruins as a residential area, the officials also started intensive purchase of land to develop them as a historical park. That’s why we can see the developed park with restored items.

1970年代の城周辺の航空写真、宅地化が進んでいました~The aerial photo of the area around the castle in the 1970s, it was becoming a residential area

私の感想~My Impression

私は以前、秋田には、日本の他地域とは違う、アジア大陸の人々に近いDNAを持っている人もいると聞いたことがあります。この話がちょうど秋田城と外国とが関係した説に図らずも一致したことになります。また、この城跡では、日本の歴史の一端を学んだり、見たりするのにいい機会を得られると思います。
I have once heard that some people around Akita may have different DNA from that of other areas in Japan, but similar to people in the Asian continent. I was fascinated as it coincided with the theory of a relationship between Akita Castle and foreign countries. I also think that the ruins of the castle can offer us a good opportunity to learn and see part of Japanese history.

高清水公園にある復元された古代池~The restored Ancient Pond (licensed by 掬茶 via Wikimedia Commons)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合は、秋田自動車道の秋田北ICから約15分かかります。秋田城跡歴史資料館脇に駐車場があります。
電車の場合は、JR秋田駅から将軍野線か寺内経由土崎線のバスに乗り、秋田城跡歴史資料館前バス停で降りてください。
If you want to go there by car, it takes about 15 minutes from the Akita-kita IC on Akita Expressway. There is a parking lot beside Akita City History Museum of Akita Fort Ruins.
When using train, take the bus on Shogunno Line or Tsuchizaki Line via Terauchi from JR Akita Station, and take off at the Akitajo-ato-rekishi-shiryokan-mae bus stop.

リンク、参考情報~Links and References

秋田城跡歴史資料館、秋田市(Akita City Official Website)
・「日本の城改訂版第128号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「蝦夷と城柵の時代」熊谷公男編、吉川弘文館(Japanese Book)