174.大内氏館・高嶺城 その1

大内氏繁栄の地

立地と歴史

大内氏が山口に町と館を建設

大内氏館は、中世の西日本で強大な勢力を誇った大内氏の本拠地でした。高嶺(こうのみね)城は、大内氏がその最後の時期に築いた、館近くにあった山城です。大内氏はもともと、現在の山口県の一部である周防国国府の在庁官人の一族でしたが、14世紀に足利幕府を支持したことをきっかけに勢力を広げていきました。その結果大内氏は、現在の山口県にあたる周防と長門をコアとする西日本のいくつもの国の守護となりました。彼らと足利幕府の将軍とは複雑な関係にありました。例えば、14世紀後半の大内氏当主の大内義弘は、将軍の足利義満から6ヶ国の守護職を与えられていました。ところが、1399年の応永の乱において幕府と戦い、敗死してしまいます。将軍家は大内氏を頼りたい一方、強大になりすぎることも恐れていたのです。

周防国の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

足利義満肖像画、鹿苑寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大内氏館は最初は、義弘の父、弘世(ひろよ)が1560年に山口を本拠地とした後に築かれました。その当時、各国の守護は京都に頻繁に留まっており、本拠地に帰るときには京都の生活様式や文化を持ち込みました。大内氏館は、そういった風潮の典型例であり、一辺が200m近くある四角い曲輪を土塁と水堀あるいは空堀が囲んでいました。その内部には御殿だけはなく、池泉庭園や枯山水など少なくとも3つの庭園が存在していました。これらは京都の将軍の御所を模したスタイルでした。この館は大内氏の勢力が増すとともに拡張されていき、その北側には築山館(つきやまやかた)と呼ばれる別邸も建設されました。館の周りの山口の町も整備され、度々「西の京」と称されました。

将軍が住んでいた「花の御所」、「上杉本洛中洛外図屏風」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「山口古図」部分、真ん中下の黄色い区画が大内氏館、その上が築山館、山口市歴史民俗資料館にて展示

大内氏は、1399年の敗戦後であっても、代を重ねるごとに勢力を蓄えていきました。15世紀中頃の当主であった大内教弘(のりひろ)は、当時の国際貿易港であった博多がある筑前国を領地に加えました。そして、将軍の名代としてその港経由で明王朝との交易を始めました。築山館は、最初は彼の隠居所として築かれたのです。教弘の息子、政弘(まさひろ)は京都で応仁の乱(1467年から1477年)を西軍の主力として約10年間戦いました。彼はまた、大内氏は百済国の王子の子孫であると称することで、外交と貿易を円滑にし、その権威をも高めました。

大内氏館跡で発掘された輸入茶壷、山口市歴史民俗資料館にて展示
築山館跡全景、山口市歴史民俗資料館にて展示

有力戦国大名として将軍の後見役に

応仁の乱後の戦国時代には、大内氏は最有力の戦国大名の一つとなりました。一方で将軍の権威は衰え、有力戦国大名の助けがなければ存在できなりました。例えば、10代将軍の足利義稙(よしたね)は、細川氏により京都から追放されました。義稙は1500年に政弘の息子、義興(よしおき)が治めていた山口に逃れてきました。義興は、義稙を大内氏館の宴に招待しました。そのときの献立は中世最大の宴とも言われており、三十二献110品以上の料理が供されたとされています。義稙は午後2時から翌日午前4時までの14時間の宴を大内氏館で過ごしたのです。1508年、義興は義稙と大軍を率いて上洛を果たし、義稙を再び将軍職に就任させました。義稙は義興に報いるために、京都がある山城の守護職と朝廷の公卿にあたる官位(従三位)を与えました。

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大内氏館で出された献立のレプリカ

大内氏の勢力は、義興の息子、義隆(よしたか)が当主のときに最高潮に達しました。4ヶ国(長門、周防、筑前、豊前)を完全に支配し、3ヶ国(石見、安芸、備後)に対して同時に侵攻中でした。幕府の力が衰えていき京都が荒廃していくのとは対照的に、山口の町はますます繁栄しました。多くの貴族、高僧、知識人たちが京都から逃れ、山口は彼らを受け入れたのです。有名なイエズス会の宣教師、フランシスコ・サビエルも山口を2度訪れています。彼は、京都にいる天皇ではなく、義隆に貢物を献上し、日本でのキリスト教の布教を許されたのです。サビエルは、義隆の方を国王と認識したのでしょう。

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高嶺城の築城と大内氏の滅亡

ところが、1543年に義隆に不幸が訪れます。出雲国の尼子氏の本拠地であった月山富田城の攻略に失敗したのです。また、大内氏の内部にも義隆が気付かないうちに、重臣や官僚たち、そして外部から大内氏を頼ってきた人たちの間で内部分裂が生じていました。1551年、重臣の一人、陶隆房(とうたかふさ)が義隆に対して反乱を起こしました。義隆は何とか大内氏館から逃れ、海上に逃れようとしたのですが失敗し、ついには自害に追い込まれました。

月山富田城跡

その後、状況は急激に変化しました。隆房(晴賢に改名)は、義隆の親族である義長(よしなが)を大内氏の当主に据えました。しかし、不幸にも1555年に安芸国吉田郡山城の城主、毛利元就との戦いに敗れ、自害して果てました。義長は毛利氏が彼の領土に侵攻してくることに備え、防衛のため、館の近くの山上に高嶺城を築きました。毛利氏は実際に1557年に山口に攻めてきて、義長は城に籠りました。しかし、城自体の防御性は高かったものの、援軍や兵糧がなくてはどうにもなりません。彼は他所に逃れましたが、反撃することもままならず、ついには義隆のごとく切腹せざるをえませんでした。これにより、大内氏は滅亡します。大内氏館は、それまでのいずれかの時期に焼亡しました。高嶺城は、徳川幕府が発した1615年の一国一城令による廃城のときまでは毛利氏が使用しました。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高嶺城の赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示

「大内氏館・高嶺城その2」に続きます。