128.要害山城 その1

武田氏の詰めの城

立地と歴史

武田信虎が武田氏館とセットで築城

要害山城(ようがいやまじょう)は、かつては甲斐国と呼ばれていた山梨県の現在の県庁所在地、甲府市にありました。甲府市はまた、守護の武田信虎が1518年に守護所を定めて以来、甲斐国の国府でもありました。戦国時代の間、ほとんどの地方領主はただ権威があるというだけでは守護に従いませんでした。甲斐国における状況も同じでした。信虎は、武力をもって地方領主を彼に従わせる必要がありました。そうしなければ、有力な地方領主または彼の親族でさえも信虎に取って代わろうとしたのです。守護所は、信虎が甲斐国の統一を果たした後に完成し、武田氏館(または躑躅ヶ崎館(つつじがさきかん))と呼ばれ、武田氏の本拠地にもなりました。

城の位置

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館は、一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築かれ、土塁と水堀に囲まれていました。これは、当時の日本の守護所の典型的なスタイルであり、京都の将軍の御所に倣ったものです。武田氏館の完成は、甲斐国における信虎の権威が確立したことを意味しました。彼はまた、甲斐国の強力な戦国大名にもなったのです。しかし、信虎にとって、守護所を作っただけではまだ不十分でした。今後、地方領主が忠誠を尽くしてくれるかどうか不確かであり、その上に他国の戦国大名がいつでも甲斐国に攻めてくる可能性があったからです。そのため、信虎は1520年に館の北方約2km離れた山の上に別の城を築きました。これが要害山城です。この城の主な目的は、緊急事態に対処するためでした。戦いが起こったときには、信虎とその家族が館からこの山城に避難できるようにしたのです。

武田氏館の模型、甲府市藤村記念館にて展示
武田氏館(躑躅ヶ崎館)跡と要害山の航空写真、甲府市藤村記念館にて展示

今川氏との戦いで真価を発揮

要害山城を使う機会は、早くも1521年にやってきました。甲斐国の南、駿河国の有力戦国大名、今川氏が甲斐国侵攻のため、重臣の福島正成(くしままさしげ)率いる軍勢を送り込んできたのです。信虎は実際に、彼の妻を館から要害山城に避難させ、彼自身は今川の軍勢と戦いました。この戦いの最中に、息子の武田信玄が要害山城で生まれたと言われています(麓にある積翠寺(せきすいじ)で生まれたとする説もあります)。結果、信虎は敵を完全に撃退し、甲斐国の統一を確固たるものにしました。武田氏館と山城である要害山城の連携はうまくいったのです。

甲府駅前にある武田信玄像

城周辺の起伏地図

要害山城は、戦いが起こったときの詰めの城とされたために、実用的に作られていました。城の構造は、自然の地形が利用されましたが、部分的に石造りの箇所もありました。山の峰に沿って、多くの曲輪が築かれました。これらの曲輪は基本的に土塁によって囲まれていました。また、虎口と呼ばれる防御を強化した入口が設けられ、ここには石垣による部分もありました。城の中心部分に向かう通路は、これらの曲輪を通り、ジグザグに曲げられて設定されました。敵の進撃を遅らせ、簡単に城を攻撃できないようにするためです。敵が容易に移動できないよう、山の斜面には竪堀も作られました。いくつかの曲輪は人工的な堀切により隔てられていました。頂上にある主郭は、居住地区であり、石庭も作られました。城主とその家族が住むためのものでした。

要害山城の縄張り図、現地説明板より
要害山城の虎口に使われた石垣(3番目の門跡、2番目の「門跡」標柱がある場所)

甲府城の築城により廃城

信玄とその息子の勝頼は、要害山城を維持しました。ところが、勝頼は不幸にも1582年に織田信長により倒されてしまいます。この城は、織田氏、徳川氏、そして豊臣氏配下の加藤光泰によって引き継がれました。光泰がこの城を恐らく石垣を築くなどして改修したと言われています。一方徳川氏と光泰は、平地に高石垣を使った甲府城を築きました。そのような立地でも守るに十分なものでした。その結果、要害山城は江戸時代の初期には廃城となりました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加藤光泰肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲府城跡

「要害山城その2」に続きます。

127.新府城 その3

城と館の複合体だったのでしょうか。

特徴

これもまた謎の出構

最後に、城の北側部分でに残る出構をご覧になってはいかがでしょう。山側から2つの土手が突き出す構造になっていて、この城独特のものです。歴史家は、これが鉄砲の陣地として使われたのか、堀の中の水量を調整するために使われたのか思案しています。このようなものは他の城には見られないので、答えは見つかっていません。

城北側の地図

西出構
西出構の上
出構の周りは水堀でした
東出構

その後

新府城跡は、1973年に国の史跡に指定された後に整備されました。韮崎市は、城跡の公有地化を進め、現在では98%が公有地となっています。また、韮崎市は1988年に城跡の発掘を、2005年には史跡としての整備を始めました。そのため、現在いつでもこの城跡を訪れ、見学できるようになっているわけです。

馬出し跡
本丸
出構

私の感想

私は、新府城は、その以前に武田氏館と要害山城が組み合わされたように、城と館の複合体であったと思うのです。要害山は、武田氏館の周辺で戦いが起こったとき、緊急のために使われる山城でした。新府城は、先の2つの城が混合されたものだったのです。そのため、ある人にとっては、館として映ってしまうのではないでしょうか。しかし、新府城は少ない兵士によって守るには大きすぎました。織田信長の軍勢がこの城に向かっていったとき、武田勝頼のほとんどの家臣は降伏するか、勝頼の下から去っていきました。勝頼は、彼らだけでこの城を守るのは不可能だと認識したのでしょう。新府城はその潜在能力を発揮することはなかったのです。

武田氏館の想像図(現地説明板より)
要害山 (licensed by さかおり (talk via Wikimedia Commons)
新府城跡の模型(韮崎市民俗資料館)

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の韮崎ICから約10分のところにあります。
城跡の東側を通る山梨県道17号線沿いに駐車場があります。
電車で行く場合は、JR中央線の新府駅から歩いて10分程のところにあります。
東京から新府駅まで:新宿駅から特急あずさ号かかいじ号に乗り、甲府駅で中央線に乗り換えてください。

山梨県道17号線
駐車場から見た新府城跡

リンク、参考情報

新府城跡、韮崎市
新府城跡、韮崎市観光協会
・「歴史群像135号、戦国の城 甲斐新府城」学研
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書
・「新府城と武田勝頼」新人物往来社

これで終わります。ありがとうございました。
「新府城その1」に戻ります。
「新府城その2」に戻ります。

24.武田氏館 その1

人は城、人は石垣、人は堀だったのでしょうか?

立地と歴史

武田信虎が守護所として築城

躑躅ヶ崎館とも呼ばれた武田氏館は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市にありました。この館が甲府市発祥の地だと言えるのです。甲斐国(現在の山梨県)の守護であった武田信虎が1519年に最初にこの館を作りました。館は、守護の公邸ということだけでなく、武田氏の本拠地でもありました。よって、日本の城の一つとして分類されています。

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その立地は、北側に山が控えていて、南側にはその周辺から扇状地が広がっていました。信虎は城下町やその周辺地を見渡すことができました。彼は、館を一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築き、土塁と水堀で囲みました。これは当時の日本の守護の典型的な館の築き方で、京都の将軍の御所にあやかったものでした。更に、彼は館の北、約2kmの所にある山にもう一つの城を緊急事態のときのために築き、要害山城と呼ばれました。例えば、信虎とその家族は、戦いが起こったときは館からこの山城に避難できたわけです。実際に、彼の息子、武田信玄は1521年の信虎と今川氏との戦いの最中に要害山城で生まれました。これらの城のネットワークは、当時としては安全を確保するための十分な防御態勢だったのです。

城の位置

武田信玄の言葉と城との関係

日本の最も有力な戦国大名の一人であった武田信玄もまた、1551年に家族と関係者のための西曲輪を加えるなど、館を拡張しました。それ以外に、丸く突き出た形の防御陣地である馬出しが、東側の大手門の前に築かれました。また、北側には信玄の母の館が築かれたと言われています。それぞれの曲輪は10m近い高さの土塁と5mの深さがある水堀に囲まれていました。

武田氏館の想像図(現地説明板より)

ところが、この館は多くの人たちに誤解されているようなのです。これは、江戸時代の17世紀の軍学書である甲陽軍艦に記載されている信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀・・」から来ているのです。この言葉の意味するところは強い城を築くより人の心を掴むことが大事ということなのですが、後の多くの人たちは、これを信玄が、織田信長や上杉謙信のような他の戦国大名と比べて、なぜこのような小さな城しか持たなかったかということへの理由として考えているのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館自体は、信長の安土城や謙信の春日山城より随分小さいものです。しかし、それはその時代や状況が異なっていたからです。信玄の場合は、館は守護の公邸としてスタートしました。当時としては、このような館が守護の住む所として普通でした。武田氏はこれに、城のネットワークや馬出しを状況に応じて加えていったのです。彼らとしてはそれで十分でした。

武田氏館跡

武田勝頼が本拠地を移す

1582年、信玄の息子、武田勝頼は本拠地を大きな新しい城、新府城に移すことを決めました。状況が変わったからです。勝頼は信長の脅威に直面しており、武田氏館より強力で大きな城を必要としていたのです。武田氏館は一時廃城となります。勝頼は、不幸にも信長により滅ぼされてしまい、武田氏館は織田氏や徳川氏により再び使われることになりました。1590年、徳川氏が近くに甲府城を築いたときに武田氏館はついに最後のときを迎えました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「武田氏館その2」に続きます