84.高知城 その2

昔のままの城を感じることができる場所です。

特徴、見どころ

天守と追手門が同時に見れる場所

今日高知城を訪れる観光客の方は、最初は現存する追手門から入って行かれるのではないでしょうか。ここからは、向こうの方に現存する天守も眺めることができます。実は、この2種類の現存する建物を一緒に見ることができるのは大変珍しいことなのです(あとは丸亀城くらいかと思います)。

高知城の天守と追手門
追手門

城周辺の航空写真

杉ノ段から鉄門跡へ

追手門から入って石段を登っていくと杉ノ段に至ります。そこには、山内一豊の妻、千代と一頭の馬の銅像があります。この銅像は、彼女が、夫の一豊が参加する馬揃えのために持参金をはたいて良馬を購入したことで、一豊が出世するきっかけをつかんだというエピソードを示しています。ここから見上げると、三ノ丸の素晴らしい高石垣が目に入ってきます。

杉ノ段への石段
千代と一頭の馬の銅像
三ノ丸の高石垣

更に石段を登って進んでいくと、鉄門(てつもん)跡に着きます。ここは防衛上重要な地点でした。この門は、三ノ丸のとなりにあり、二ノ丸へ向かう経路の途中にあります。そのために、敵を本丸への門と勘違いさせるような詰門を使った巧妙な仕掛けがここに作られたのです。

鉄門跡
鉄門跡から見える詰門

三ノ丸と二ノ丸

三ノ丸は、この城では最も大きな曲輪であり、かつては儀式のために使われた大きな御殿がありました。発掘により、長宗我部時代の石垣がここから見つかっています。

三ノ丸
長宗我部時代の石垣
三ノ丸から見える天守

二ノ丸には、本丸以外のもう一つの領主の御殿があり、領主は通常ここに住んでいました。本丸にあった御殿は日常生活をおくるには狭すぎたからです。現在の二ノ丸は広場となっています。

鉄門跡から二の丸へ
二ノ丸

ほとんど元のままの本丸

二ノ丸から現存する詰門を渡って行くと、ついに本丸に到着します。驚くべきことに、本丸には元あった状態とほとんど変わらないまま、11もの建物が残っています。また、同じ場所にオリジナルの天守と本丸御殿が残っている日本で唯一の例でもあります。

二ノ丸から詰門に入ります
天守から見える本丸の建物群

天守に至るには、まず最初に御殿の方に入る必要があります。双方が直接つながっているからです。この御殿は、本丸の大きさが限られているため、確かにそんなに広くありません。しかし、藩にとって重要な儀式はここで行われました。

本丸御殿の入口
本丸御殿の内部

天守は四層六階です。つまり、六階のうちの二階は屋根裏部屋となっています(3階と5階)。この天守は、望楼型と呼ばれる形式です。高知城の場合は、入母屋屋根を備えた大型の二層櫓の上に、小型の二層望楼が乗っかっています。また、天守の屋根には唐破風や千鳥破風、最上階には漆塗りの欄干付きの回り縁といった装飾がされています。古い伝統と美しさ両方が見られる天守です。

高知城天守

「高知城その3」に続きます。
「高知城その1」に戻ります。

84.高知城 その1

山内氏の独特な城

立地と歴史

高知城前史

高知市の名前は、高知城に由来しており、四国の高知県の県庁所在地です。また高知城は、高知県で最も人気のある観光地です。この城には、大手門、本丸御殿、天守を含む多くの現存建物があります。この城は、大高坂山(おおたかさかやま)という低い山の上に築かれましたが、最初にいつ築かれたかはわかっていません。1588年、現在の高知県にあたる土佐の領主であった長宗我部元親が、岡豊城から、当時大高坂山城と呼ばれた高知城に本拠地を移しました。ところが、彼は大高坂山城にわずか3年滞在した後、浦戸城に再び移ってしまいます。この地域は雨が多い割には水はけが悪かったからと考えられています。

城の位置

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岡豊城跡
浦戸城跡

山内一豊による築城

1601年、山内一豊(やまのうちかずとよ)が徳川幕府により、新しい土佐国の領主として抜擢され、土佐藩の初代藩主となりました。彼は、城下町を作るのに十分な広さがあった大高坂山城を再建し、そこを居城としました。城は、石垣や大規模な建物を築くなど、当時としては最新の技術を用いて築かれました。そして、城が完成した後は、高知城と改名されました。山内氏はこの城と土佐の国を、江戸時代を通して統治しました。

高知城前にある山内一豊銅像
土佐国城絵図(高知)部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
高知城天守内にある城の模型

高知城の特徴

高知城には興味深い特徴がいくつかありました。第一に、この城には大雨が降っても適切に排水ができるよう、多くの石樋がありました。この仕組みは、日本の城ではとても稀であり、現在城を訪れても見ることができます。

石垣にある石樋

次にこの城の天守は、望楼型というこの城を築いた時期にしては古い形式のものでした。一豊が、土佐国に来る前に住んでいた掛川城の天守に似せて作るよう望んだからだと言われています。このため、現代になって掛川の人たちが掛川城の天守を復元するときには、高知城の現存天守の設計を参考にしました。

復元された掛川城天守 (taken by Oshiro-man from photo AC)
高知城の現存天守

天守を含むほとんどの城の建物は、不幸にも1727年の大火により焼け落ちてしまいます。土佐藩がその大火の後城を再建するときには、天守を新しい形式ではなく、最初のものとほとんど同じように作り、1749年に復興しました。これは恐らく幕府が土佐藩に対して、元の形式による再建しか許さなかったからとも、土佐藩の藩士たちが創始者である一豊が建てたものを慕っていたからとも言われています。この天守はまた、天守台石垣の上には立っておらず、山の上にある本丸御殿に直接つながっていました。この点も、古い城の形式を残していると言われています。

本丸御殿とつながっている天守

この城には防衛のために、建物と自然の地形両方を活用していたという特徴もあります。もし、敵が天守に迫るために城を攻撃した場合、山の中腹周辺に築かれた杉の段と二ノ丸を通り過ぎる必要がありました。更に、敵が二ノ丸に入る前に鉄門(てつもん)を通るときには天守が間近に迫り、その近くにある詰門がまるで天守のへの門にように見えたのです。ところが、この門は単に本丸と二ノ丸をつなぐ渡り櫓だったのです。敵は決してその場所からその櫓を渡ることはできません。これは、城の中心部に敵を寄せ付けないための巧妙な仕掛けでした。

追手門から本丸、天守へのルート(土佐国城絵図に赤字で加筆)
現存する詰門
詰門の前から間近に見える天守

「高知城その2」に続きます。