130.高島城 その3

市民の力により再建されました。

その後

江戸時代における諏訪氏による支配の後、高島城は廃城となり、ほとんどすべての城の建物は撤去されました。本丸は1876年に高島公園となり、その中に諏訪護国神社が1900年に創建されました。他の曲輪は市街地になっていきました。第二次世界大戦後、諏訪市長は城の一部を再建するための寄付を市民に呼びかけます。半数以上の市民がそれに応え、1970年以来、公園は今見ることができる姿になったのです。

諏訪護国神社
再建中の天守(諏訪高島城にて展示)
現在の天守
現在の冠木門

私の感想

高島城は、諏訪湖や諏訪大社よりは有名でないかもしれません。私自身、この城がかつては湖畔にあったことを知って驚きました。湖の畔に立派な城ができた当時の人たちもきっと驚いたのではないでしょうか。諏訪湖は古代には今より3倍の大きさがあったと言われています。この地域の人たちは、遥かな時間をかけて干拓を続けてきたのです。高島城も確かにこの過程にあったのでしょう。

古代における諏訪湖の推定範囲(「浜の湯」ホームページより引用)
現存する天守の石垣
現存する冠木門の石垣

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の諏訪ICから約15分かかります。
高島公園に駐車場があります。
電車の場合は、JR上諏訪駅から歩いて10分のところです。
東京から上諏訪駅まで:
新宿駅に特急あずさ号かかいじ号に乗ってください。

駐車場の目の前が天守台石垣です

リンク、参考情報

諏訪高島城(公式ホームページ)
古代の「諏訪湖」は広かった!? 高島城(諏訪の浮城)の謎(浜の湯公式ブログ)
・「日本の城改訂版第42、44号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「高島城その1」に戻ります。
「高島城その2」に戻ります。

130.高島城 その2

城の本丸が公園として整備されています。

特徴、見どころ

公園になった本丸と復興天守

現在、高島城跡は高島公園となっています。この公園は、本丸とその北側と東側の内堀からなっています。他の曲輪は市街地となりました。諏訪湖は今では公園から約400m離れたところにあります。そのため、「浮き城」であったことを想像するのは困難です。本丸の石垣と堀は元からあるものですが、天守などの建物は復興されたものです。

城周辺の航空写真

復興された天守は実際には近代的なビルであり、元あった天守に似せて作られました。その屋根は銅板葺きであり、元来の杮葺きではありません。それでも恐らく外観は似ています。天守の中は歴史博物館と展望台になっています。最上階からは遠くに諏訪湖の姿を眺めることができます。時の流れを感じるかもしれません。

復興された天守
天守からの眺め

本丸にある3つの入口

本丸には3つの入口があります。まず、冠木門が本丸北側の重厚な石垣の上に復興されています。この門は本丸の正門であり、二の丸とつながっていました。そして、身分の高い人しかこの門を通ることはできませんでした。

復興された冠木門

川渡門は本丸の西側にあります。現存するこの建物は実は三の丸にあった御殿の裏門で、現在の場所に移築されてきました。城が湖畔にあったときは、この門から船を乗り出すことができました。

川渡門

土戸門跡は、本丸の南側にあります。この門は、正門である冠木門を使えない人たちのための通用門でした。

土戸門跡

城主のための御殿が本丸の中にありましたが、現在は日本庭園と諏訪護国神社があります。

現在本丸にある日本庭園

今に残るものと復興されたもの

現存する本丸を囲む石垣は今なお立派に見えます。元は3基の櫓が石垣の上にありましたが、その内の1基、隅櫓のみが復興されています。

現存石垣の上に復興された隅櫓

本丸の北側では、天守、冠木門、隅櫓、水堀やそれにかかる橋とのコラボレーションを楽しめます。個人的には、ここが写真が映える場所だと思います。

本丸北側の景色

「高島城その3」に続きます。
「高島城その1」に戻ります。

130.高島城 その1

かつては湖畔にあった城

立地と歴史

古い歴史を持つ諏訪地域と諏訪氏

長野県の諏訪地域は、諏訪湖や諏訪大社のような観光地で有名ですが、いずれも高島城と関係があります。諏訪大社は日本最古の歴史書である古事記に出てくる神様に由来すると言われています。その神様は、諏訪氏の祖先であるとも言われており、諏訪氏は戦国時代の16世紀前半まで諏訪郡(現在の諏訪地域と同じ範囲)の領主であり、諏訪大社の大祝(おおほうり)でもありました。そしてその頃は山城に居住していました。

諏訪湖周辺の航空写真

諏訪大社 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

武田信玄による侵攻

信濃国(現在の長野県)のとなり、甲斐国(現在の山梨県)の有力な戦国大名、武田信玄は信濃国に侵攻しようとします。彼は諏訪氏を1542年に滅ぼし、諏訪郡を支配しました。武田氏は1582年に織田信長により滅ぼされますが、信長は同じ年に殺されてしまい混乱が訪れます。諏訪郡の人々は、諏訪大社の大祝であった諏訪氏の親族を新しい領主、諏訪頼忠として迎え入れました。

信濃国の範囲と諏訪郡の位置(ハイライト部分)

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日根野高吉が築城

16世紀の終わりに豊臣秀吉が権力を握ったとき、彼は配下の日根野高吉を諏訪郡に送り込みました。諏訪頼忠は無念にも別の国に転封となってしまいます。高吉は、西日本から当時最先端であった技術を持ち込み、諏訪湖の畔に新しい城を築き、高島城と名付けました。この城は4つの曲輪を持ち、湖に面して一列に並んでいました。一本の道が一番端にある曲輪に通じているだけで、城を守るのに適していました。

高島城の縄張り (licensed by Fraxinus2 via Wikimedia Commons)

本丸は石垣に囲まれていましたが、湖畔に築くのにはとても困難が伴いました。その石垣は実は木組みの筏の上に築かれ、軟弱な地盤でも安定するようになっていました。本丸には三層の天守もあり、その当時の東日本ではまだ珍しいものでした。また、他の城では通常天守の屋根には瓦を使っていましたが、ここの天守の屋根は杮葺きとなっていました。その理由は、木製の屋根板により軟弱な地盤上の天守を軽くすることができ、更にこの地域の寒冷な気候にも耐えることができたからです。

石垣に囲まれた本丸
元あった天守の古写真(諏訪高島城にて展示)

諏訪氏が復活して城を維持

徳川幕府が豊臣氏に代わり天下を取った後の1601年、諏訪氏は諏訪郡に戻ってきました。1600年の関ヶ原の戦いのときに幕府に大いに貢献したからです。諏訪頼忠の子、頼水は高島藩の藩主となり、高島城に居を構えました。平和な江戸時代の間、諏訪湖にたたずむ高島城の姿は、この地域の名所となり「諏訪の浮き城」と呼ばれました。葛飾北斎などの浮世絵師がこの景色を画材として描きました。一方、農地開発と洪水防止のため、諏訪湖の干拓が江戸時代を通じて行われました。高島城は湖から遠ざかっていきます。

諏訪氏の家紋「諏訪梶葉(すわかじのは)」 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
葛飾北斎「富嶽三十六景」より「信州諏訪湖」、江戸時代

「高島城その2」に続きます。