125.小机城 その1

かつてはよく知られていた小机領の中心地

立地と歴史

鎌倉街道沿いにあった城

小机城は、現在の神奈川県横浜市の北部の丘陵地帯にありました。現代の日本においては、関東地方を含む日本の中心地は東京です。このため、多くの主要道路は東京に集まり、東京から広がっています。そのうちのいくつかは、横浜市東部の海岸地帯を通っています。しかし、17世紀に始まった江戸時代以前には、関東地方の中心地は、武士の都と呼ばれた鎌倉でした。鎌倉街道と呼ばれた多くの主要道路は、その当時は鎌倉に集まり鎌倉から広がっていました。小机城の近くには鎌倉街道の一つが通っており、かつ鶴見川が流れていました。つまり、城がある地は交通の要衝だったのです。

城の位置

東京を中心とした関東地方の道路網(出展:国土交通省)
鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

「小机領」と「小机衆」

小机城が最初にいつ築かれたかは定かではありません。この城が最初に記録されたのは、1478年に長尾景春が、主家の上杉氏に対して反乱を起こした後です。景春に味方した豊島氏がこの城にいて、上杉氏の重臣であった太田道灌がこれを討伐したのです。それからしばらくして、戦国時代の16世紀に、有力な戦国大名であった北条氏が、関東地方に侵攻するためこの城を橋頭保としました。北条氏は関東地方を制覇しましたが、その後でもこの城の周辺地域を重視しました。彼らはこの地域を、私たちが現在そこを横浜市と言っているように、「小机領」と称しました。また、この地域に住んでいた武士の集団は「小机衆」と呼ばれました。小机城は、この地域と小机衆の中心地であり、北条氏の支城の一つとなりました。現在私たちが想像するよりもずっとよく知られていたはずです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関東地方に侵攻した時の当主、北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

シンプルな縄張り

小机城は、南側から鶴見川へ向かって北に向かって突き出ている丘陵地帯の端に築かれました。城の縄張りはシンプルで、大きな西ノ曲輪と東ノ曲輪が、細長いつなぎの曲輪により隔てられていました。これらの曲輪は全て土造りでしたが、周りを深い空堀に囲まれていました。曲輪の中にどのような建物があったのかはっきりしませんが、土台の上にいくつか櫓が立っていたと考えられています。更に城の主要部の周りには、丘陵の地形に沿って出丸が築かれていました。

城周辺の起伏地図

小机城の想像図(現地説明板より)

城の強化と廃城

1590年に、天下人の豊臣秀吉が天下統一を果たすため北条の領土に侵攻してきました。北条は各地の支城に対して、本拠地の小田原城に武士たちを集めるように命じました。小机城を含む支城においては、より少ない人数で城を守らなければならなくなったのです。小机城の城主(北条氏光といわれています)は、城を守るため農民を徴兵することにしました。このときに、城の空堀はより大きく、よく深くなるよう拡張されたと考えられています。少ない武士や未熟な守備兵でも城を守れるようにするためです。これが、現在私たちが見ることができる城跡となったのです。しかし、実際には戦いは起こりませんでした。北条が秀吉に対して降伏すると、城は明け渡され、ついには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小机城の空堀

「小机城その2」に続きます。

180.岡豊城 その1

城の長い歴史と長宗我部氏

立地と歴史

土佐国の特徴

岡豊城は、現在の高知県南国市にありました。高知県は、四国の4つの県のうちの一つですが、北の方にある3つの県とは四国山地によって隔たっています。その昔、高知県が土佐国と呼ばれていたころ、そこに行くのは簡単なことではありませんでした。そのため、土佐の国はしばしば、配流先または逃亡先の一つとして挙げられていました。しかしそこに住む人にとっては、暖かい気候と豊富な食料により住みやすい土地でもあったのです。

城の位置

四国の起伏地図と土佐国の範囲

長宗我部氏が土佐国に定住し築城

岡豊城は、その初めから最後まで長宗我部(ちょうそがべ)氏によって所有されていました。長宗我部氏の歴史は長く、その始祖は、古代に朝鮮から日本に、土木工事や絹織物の技術を持って渡ってきた秦氏の支族であったと言われています。秦氏は、その技術を日本の中心部(現在の近畿地方)から多くの地方へ広め、移住していきました。その中には現在の長野県も含まれ、そこに長宗我部氏の先祖が住み着いたのです。長宗我部氏の始祖である秦能俊(はたよしとし)は、12世紀に京都で戦に参加して敗れてしまいますが(保元の乱とされています)、そのとき敵から逃れるために土佐国に向かったのです。彼はついには、肥沃な香長平野にあった国府の近くに定住します。そして苗字を土地の名前を組み合わせた、長宗我部(長岡郡の宗我部)と改めました。岡豊城は、同じ時期にその平野沿いに築かれたと考えられています。

岡豊城跡全景  (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

長宗我部の強みの一つは日本の中心部とのつながりを持っていたことであり、例えば、足利幕府の重臣であった細川氏に仕えたり、高位の貴族であった一条氏を土佐国司として招いたりしました。その結果、長宗我部氏は16世紀前半には、土佐七雄(とさしちゆう)の一つに数えられるまでになりました。ところが、本山氏など土佐七雄の他の氏族たちは長宗我部氏に反抗し、1508年に岡豊城の焼き討ちを行いました。そのときの火災の跡が今でも城跡に残っています。長宗我部氏は一時滅ぼされました。

いくつかの曲輪で火災の跡(焼土や炭化物)が発見されています(写真はその内の一つ、二ノ段)

長宗我部元親がこの城を本拠地とし四国を統一

長曾我部氏の跡継ぎであった長曾我部国親は、一条氏の後押しにより1518年に岡豊城に戻ってきました。彼は、一領具足と呼ばれる家臣団を組織し、力を蓄えました。一領具足とは、普段は農民なのですが、非常時には一揃え(一領)の鎧(具足)でもって兵士となる人たちのことを指します。その後彼は、敵であった者たちを親戚として取り込んだり、あるいは一領具足と共に戦ったりして、過去の無念を晴らしました。国親の息子、長宗我部元親は、1575年に土佐国を統一することに成功しました。岡豊城は、長宗我部氏の本拠地であり続けました。この城は、典型的な山城で、山は階段状に加工されていました。しかし、長宗我部氏ならではの特徴も持っていました。礎石の上に櫓がいくつも築かれたと考えられていて、その櫓に使った瓦は、和泉国(現在の大阪府の一部)から来た職人が生産していました。三の段の土塁の内側には、石垣が積まれていました。このような城の構造は、この城があった当時としては全国的に珍しく、元親が日本の中心部につながりがあったためにできたことです。

一領具足の兵士のフィギア(高知城)
長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三ノ段の石垣

豊臣秀吉の天下統一後に廃城

元親は1585年に、ついに四国全体を統一します。ところが、同時に天下人の豊臣秀吉もまた天下統一を進めていたのです。秀吉は、同じ年に10万を超える軍勢を四国に送り込みますが、一方の元親には農民兵を含めても約4万人の兵力しかありませんでした。元親には成すすべがなく秀吉に降伏しますが、土佐一国のみを安堵されました。元親はまた、1588年に本拠地を岡豊城から大高坂山城(現在の高知城)に移し、更に1591年に浦戸湾を臨む浦戸城に移ります。この本拠地の移動は、1592年の朝鮮侵攻の準備を行うため、秀吉による指示によるものと言われています。岡豊城はその際、廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の高知城
浦戸城跡

「岡豊城その2」に続きます。

176.一宮城 その1

阿波国で最大の山城

立地と歴史

一宮氏が南北朝時代に築城

一宮城は、四国の阿波国(現在の徳島県)では最大の山城でした。南北朝時代の14世紀に、一宮氏が最初にこの城を築いたと言われています。この時代には国中で多くの戦いが起こり、武士たちは防衛のために山城を築き始めました。その後阿波国の統治が安定してからは、一宮氏は山の麓にある館に住み、城は緊急のときに使用していたようです。他の氏族も同じようにしていました。

城の位置

戦国時代に長宗我部元親が奪取

戦国時代の16世紀後半、阿波国では再び多くの戦いが起こりました。その当時の一宮氏の当主、一宮成祐(いちのみやなりすけ)は、阿波国の国主であった三好氏の傘下にあって何とか生き残っていました。これは、一宮城のおかげでもあったのでしょう。その後、彼は変心し、長宗我部元親に味方することにしました。元親は、1582年に南の土佐国から阿波国に侵攻していたのです。ところが、成祐は元親に殺されてしまいます。これは恐らく、元親が成祐の変心を疑っていたからとされています(元親が一宮城を手に入れるための謀略という見方もあります)。一宮城は元親のものとなりました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一宮城は、単に大きな山城というだけでなく、城門の前方では、自然の障壁として鮎喰川(あくいがわ)が流れていました。また、城の中には水源や倉庫が確保されていて、長期間の籠城戦にも耐えられるようになっていました。城は阿波国の中心部にも近く、武力で阿波国を統治しようとする戦国大名にとっては、このような強力で立地がよい城は一刻も早く確保する必要があったのです。元親は、重臣の一人、谷忠澄(たにただずみ)を一宮城を維持するために派遣しました。

一宮城跡の鳥観図(現地案内図より)

一時は阿波国の中心地に

1585年、天下人の豊臣秀吉は、四国を制覇するために10万人以上の軍勢を送り込みます。一宮城と約1万人の守備兵は、約4万人の攻撃兵に対して籠城しました。この籠城戦は1ヶ月近く続きますが、元親が秀吉に降伏したために開城しました。秀吉もまた、家臣である蜂須賀家政を阿波国の国主として送り込みました。家政は、本拠地として一宮城を選びました。一宮城は、ついに阿波国の中心地となったと言ってよいでしょう。この城は全て土造りでしたが、家政は山頂にあった本丸に石垣を築きました。また、本丸には御殿が築かれました。他の曲輪には縁側を持つ建物が築かれ、曲輪からの眺望を楽しんだのではないかと推測されています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳島城跡にある蜂須賀家政の銅像
一宮城本丸の石垣

ところが、家政は翌年の1586年に、本拠地を一宮城から海に面した新しい城、徳島城に移しました。この措置は、海上交通ネットワークを構築するための、秀吉の指示によってなされたと言われています。秀吉の天下統一により、状況は急速に変化していたのです。一宮城の絶頂期は、わずか一年間でした。その後この城は、阿波国の統治が不安定であった間は、阿波九城と呼ばれた支城の一つとして存在していました。しかし、1615年に徳川幕府から出された一国一城令から間もなく、この城は廃城となりました。

徳島城跡

「一宮城その2」に続きます。