154.田丸城 その1

織田信雄の本拠地

立地と歴史

織田信雄が伊勢国司として居城

田丸城は、ほぼ現在の三重県に相当する伊勢国の中心部にあった城です。この城には長い歴史があり、最初は南北朝時代の1336年に北畠氏によって築かれました。北畠氏はその後も戦国大名として生き残り、戦国時代の16世紀後半に至るまで伊勢国の国司を務めていました。そのときはこの城は支城の位置づけでした。この城が有名になったのは、1575年に織田信雄(のぶかつ)が伊勢国司になったときです。そして、信雄は同じ年にこの城を本拠地として居城とし、改良しました。織田氏と北畠氏はそれまで戦っていたのですが、講和の証として信雄が北畠氏の養子に入っていたのです。

伊勢国の範囲と城の位置

織田信雄肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人たちに利用される

信雄は、日本の歴史の中でも最も適正な評価が難しい人物の一人でしょう。彼は、天下人の織田信長の息子の一人でした。信長が北畠氏を自らの勢力に取り込むために利用されたのです。信長は実際、伊勢国を完全に織田の支配下とするために、信雄に彼の義父(北畠具教(とものり))を殺害するよう命じました。歴史家はよく、信雄は愚かで無能であったと言います。例えば、彼は1579年に独断でとなりの伊賀国に攻め込み、それに失敗したことで、信長から叱責を受けました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北畠具教肖像画、伊勢吉田文庫所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1582年の本能寺の変で実父の信長が殺された後は、今度は次の天下人となる豊臣秀吉に利用されます。秀吉は、柴田勝家や織田信孝を倒すときや、徳川家康を従えようとするときに、信雄を当て馬に使ったりしました。(賤ヶ岳の戦いでは、形式上は信雄は秀吉の部下ではなく、信孝に切腹を命じたのも信雄とされています。また、秀吉と対立した信雄が家康と組んで戦った小牧・長久手の戦いでは、秀吉は電撃的に信雄と講和することで家康を孤立させました。)そしてついに1590年、秀吉は天下統一を果たした直後、信雄が領地を移動することを断ったことを口実に、彼を改易し追放してしまいました。これは秀吉が、これまで主筋であった織田氏を完全に凌駕した瞬間でした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

教養人でもあった信雄

しかし、確かに信長、秀吉、家康といった天下人たちに比べれば劣っていたとしても、信雄は本当に無能だったのでしょうか。信雄は、最終的には家康により、大和国の宇陀松山や上野国の小幡を含む以前よりは小さな領地を与えられました。信雄は、最初の領地伊勢から、最後の領地のときまで、大過なく統治しています。彼はまた、高レベルの教養人でもありました。南朝の貴族であった北畠氏の養子になっていたからです。これは、彼が小幡で築いた現存している日本庭園、楽山園(らくさんえん)を見ると理解できます。そして、彼が戦国大名としてどうだったのか知りたければ、田丸城を見ればよいと思います。

織田信雄の最後の領地の位置

宇陀松山陣屋の春日門跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)
小幡陣屋跡
楽山園

城は徳川氏に受け継がれる

田丸城は、伊勢神宮に程近い(約10km離れていますが)丘の上に、主要部として北の丸、本丸、二の丸が築かれました。本丸には三層の天守もありました。三の丸は、これら主要部の丘の麓にあり、全体を内堀と外堀により二重に囲まれていました。堀の内側や三の丸にはに三つの門があり、その内側の通路は曲げられていて、敵が容易に攻められないようになっていました。この構造は、後の時代に桝形と呼ばれる四角い防御空間に発展していきます。天守台を含む石垣も築かれましたが、天守に関する詳細は不明のままです。この城を見る限りは、信雄はよい城の立地を選択していますし、城自体もよく築かれています。ところが、この城は1580年に放火により焼け落ちてしまい、信雄は他の城(松ヶ島城)に移らざるをえませんでした。

田丸城の天守台石垣
「田丸城宝暦年間之図」、現地説明板より、名称を赤字で加筆

その後、この城は蒲生氏により復旧され、稲葉氏、藤堂氏、そして最後には徳川氏に引き継がれました。特に稲葉氏は、この城の大改修を行い、城の主要部が石垣により囲まれました。1619年以降は、徳川御三家の一つ、紀伊藩が江戸時代を通じてこの城を保有しました。この藩の本拠地は和歌山城でしたが、重臣の久野氏の居城となったのです。久野氏は、老朽化や地震などの自然災害による破損があっても、この城の維持修繕に努めました。

久野氏が修築した田丸城本丸の石垣

「田丸城その2」に続きます。

48.松坂城 その1

孤高の大器、蒲生氏郷が築いた城

立地と歴史

氏郷、2人の天下人に抜擢される

松坂城は、現在の三重県松阪市にありました。三重県はかつては伊勢国と呼ばれていました。この城は最初は1588年に蒲生氏郷によって築かれ、その後は他の大名たちによって維持されました。氏郷は、日本の人々にさえ、その能力と業績の割にはあまりよく知られていません。これは恐らく、彼自身が40歳で早く亡くなり、彼の跡継ぎもまた早くなくなったことで家が断絶してしまったからだと思われます。その結果、氏郷に関する記録や伝承があまり残っていないのです。彼は、彗星のように現れ去っていった、孤高の大器だったのでしょう。

蒲生氏郷肖像画、会津若松市立会津図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

蒲生氏郷は、現在の滋賀県にあたる近江国出身です。蒲生氏はもともと、戦国時代にこの国にあった観音寺城を拠点としていた六角氏に仕えていました。その後天下人となる織田信長が1568年に近江国に侵攻したとき、蒲生氏は信長に降伏し、跡継ぎであった氏郷を人質として差し出しました。しかし信長は、あまたの他の氏族からも来ている人質たちの中で、氏郷の才能が際立っていることを見抜き、自分の娘を氏郷に娶わせたのです。氏郷は信長の親族となりました。1582年の本能寺の変で信長が殺された後は、氏郷は次の天下人となる豊臣秀吉を支持します。1584年、彼は秀吉により伊勢国12万石の領主に抜擢されました。彼は最初は以前の領主がいた松ヶ島城に住んでいたのですが、新しい本拠地を築くことに決めました。それが松坂城でした。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊勢国の範囲と城の位置

天下人を見習い、城と城下町を建設

氏郷は、新しい城の主要部分を、以前の城の近くにあった丘の上に築きました。丘上にはいくつもの曲輪が置かれましたが、全て高石垣により囲まれていました。この石垣は、氏郷の故郷である近江国から、石工の職人集団である穴太衆を招いて築かれました。また、主要部はこれら石垣と、食い違い虎口、複雑な通路に沿って建てられた櫓群により強固に守られていました。丘の頂上にあった本丸上段には、三層の天守がありました。三の丸は丘の周辺に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして、水堀がその周りを囲んでいました。氏郷はまた、城の周りに城下町を建設し、「近江商人」として知られていた彼の故郷の商人たちを呼び寄せました。総じて氏郷は、主君の信長や秀吉が行ってきたやり方に習い、彼の考えや経験も加えて、城や城下町を築き上げたのです。彼は最後に、その城の名前を「松坂」としました。縁起がいい言葉である「松」と、そのときの主君、秀吉の城、大坂城から一字もらい受けた「坂」を組み合わせたものでした。

松坂城の現存高石垣
伊勢国松坂古城之図部分(出展:国立公文書館)

秀吉による天下統一がなされた直後の1590年、氏郷は再び加増移封となり、東北地方の押さえとなるために、会津に入りました。彼の領地は最終的には91万石に達し、日本有数の大大名となりました。彼は、そこにあった城(黒川城)に大改修を加え、松坂城のように高石垣と天守を築きました。彼はこの城を若松城と改名しました。また彼は、東北地方の大名であった南部信直に高石垣を使った城を築くようアドバイスしたと言われています。その城は氏郷の死後完成し、盛岡城となりました。これら2つの城は、東北地方においては非常に稀な、総高石垣による城作りの事例です。氏郷はまた、高名な茶人、歌人であり、クリスチャンでもありました。ところが、1595年に不幸にも病死してしまいます。

現在の若松城
盛岡城の現存石垣

困難だった城の維持

氏郷が松坂城を離れた後は、服部氏、古田氏、(紀州)徳川氏によって引き継がれました。前者の2家は、氏郷の時代よりも領地が少なく、氏郷の築いた城を維持していくのが困難でした。徳川氏は御三家の一つでしたが、その本拠地は和歌山城であったため、事情は一緒でした。松坂城の石垣はなんとか修繕されましたが、建物の方は時が経つにつれ劣化していきました。例えば、1644年の暴風雨により天守が崩壊しましたが、再建されませんでした。また、江戸時代末期には裏門の屋根は茅葺きとなっていました。一方、城下町は江戸時代には大いに繁栄しました。城の商人たちは「伊勢商人」として知られるようになります。一例を挙げると、現在の三越百貨店につながる三井越後屋呉服店の創業者、三井高利はこの町の出身です(江戸に出て同店を開業)。

茅葺きとなっていた裏門の古写真、松阪市立歴史民俗資料館にて展示
歌川広重「名所江戸百景」より「駿河町」、三井越後屋が描かれている (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「松坂城その2」に続きます。

47.伊賀上野城 その1

大坂を守る拠点、攻める拠点となった城

立地と歴史

忍者の国から大坂を守る拠点に

伊賀上野城は、現在の三重県西部にあたる伊賀国にありました。伊賀はこの城よりも、恐らくは忍者の里としての方がよく知られているでしょう。実際、この城が1585年に築かれるまでは、この国は多くの小領主たちによって分割統治されていました。彼らは、自分たちを防御するために、特殊な知識や技能を身に着けていました。更には他の国の大きな戦国大名たちに雇われ、諜報員や特殊部隊として活動していました。それが現在忍者と呼ばれているのです。不幸にも、彼らは1581年に織田信長により征服されてしまいます。その後、信長の後継者、豊臣秀吉が天下統一を進めているとき、秀吉は筒井定次を伊賀の国主として送り込みました。

伊賀国の範囲と伊賀上野城の位置

筒井定次肖像画、義烈百人一首より、国文学研究資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は大坂城を本拠地としてきました。そして、伊賀国は大坂から東日本に抜ける直線ルート上にありました。そのため、定次をそこに派遣し、1585年に伊賀上野城を築かせたのです。したがって、東方から敵が攻めてくるのをこの城で防ぐことが想定されていました。この城の東側には三重の天守がそびえていました。定次は、秀吉の死後、17世紀初頭に徳川家康が最後の天下人になったときにも、何とか生き残っていました。ところが、彼は1608年に家臣が彼の失政を訴えたことにより、徳川幕府から改易されてしまいます。歴史家は、幕府は実際には、定次が幕府とまだ大坂城にいた豊臣氏両方にいい顔をしていたのを快く思わず、排除したかったのだろうと推測しています。

豊臣時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎が大坂攻撃拠点として大改修

幕府は定次の後釜として、四国の今治城にいた藤堂高虎を伊賀国に移しました。高虎は、幕府の創設者、徳川家康に長く仕えている譜代大名ではありませんでした。しかし彼は、宇和島城大洲城、今治城などを築いたことで築城の名手として知られていました。また、幕府が江戸城名古屋城、京都の二条城など著名な城郭を築く際にも手助けをしていました。高虎は、これらのことで幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に対して、伊賀国の西方に位置する大坂城の豊臣氏に十分対抗できるだけの強力な城を築くよう期待したのです。高虎は、伊賀上野城を大改修することでこれに応えました。彼は、もし家康率いる幕府軍が大坂城で戦って敗れたとしても、家康を伊賀上野城に収容することさえ考えていました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
名古屋城

高虎は、丘の上にあり城の中心部であった本丸を、大坂城がある西の方角に向かって拡張しました。彼は、石垣造りの職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を招き、当時としては日本一高い石垣を本丸西側に築きました。この石垣が完成したことについて、高虎の記録史料(「公室年譜略」)は、大坂城の石垣よりも立派なものだと称えています。また高虎は、高石垣の背後に五重の天守の建設を始めました。ところが、その天守は1612年の大風により倒壊してしまいます。二の丸は、丘の麓の南側に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして東西部分それぞれに大規模な大手門がありました。城の建設は、1614年に幕府と豊臣氏の戦いが始まったとき(大坂冬の陣)にもまだ続いていました。しかし、1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした(大坂夏の陣)ことで中止となりました。

伊賀上野城の高石垣
上野城下町絵図、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西大手門の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦時のための居城

高虎は、伊賀上野城を支城として弟(藤堂高清)に与えたうえで、彼自身は津城を本拠地としました。津城は、伊勢国の海近くの平地に位置していました。伊勢も高虎の領地でした。彼は、津城を平時の居城とし、伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城としたのです。その後平和であった江戸時代には、藤堂家の重臣が伊賀上野城及び伊賀国を治め、筒井定次が元々いた場所にあった城代屋敷に居住していました。定次が築いた初代の天守はしばらくの間残っていたのですが、1633年の大風により、これもまた倒壊してしまったと考えられています。

津城跡
伊賀上野城城代屋敷跡
寛永期の絵図に描かれた城代屋敷、伊賀上野城にて展示

「伊賀上野城その2」に続きます。