140.玄蕃尾城 その1

賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家の本陣

立地と歴史

羽柴秀吉に対抗して築城

玄蕃尾城は、越前国と近江国の国境にあった城で、現在では福井県と滋賀県の県境にあたります。この城は、1583年に起こった賤ヶ岳の戦いの当時、越前国を領有していた柴田勝家によって築かれました。1582年の本能寺の変により天下人の織田信長が亡くなった後、重臣であった勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、主導権を巡って互いに争いました。秀吉は、勝家が併せて領有していた北近江に侵攻し、勝家の本拠地であった越前国との国境近くに多くの陣城を築きました。勝家も秀吉に対抗して、その国境周辺に陣城を構築しました。玄蕃尾城は、これらの陣城の中心であり、勝家の本陣だったのです。この城の名前の一部「玄蕃」は朝廷の官職の一つであり、高い地位にある武士に与えられました(もしくは自称していたことも考えられます)。しかし、誰に与えられた官職名から由来していたのかは不明です(佐久間「玄蕃」盛政からとも言われますが、朝倉氏の家臣である朝倉「玄蕃」助景連が築城し、名前の元になったという説もあります)。

城の位置

柴田勝家像(北ノ庄城跡現地説明板より)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

山上に築かれた曲輪群

この城は、標高445mで国境にも位置していた中内尾山の頂上に築かれました。またこの城からは、城の近くにある両国の境を通っていた刀根(とね)峠を押さえることができました。城の曲輪群は山の峰の北側から南側に沿って築かれました。城の正面口は南側に開いており、刀根峠と秀吉が侵攻した近江国の方角に向いていました。そのため、城の南面は2つの直列した曲輪群によって厳重に守られていました。一方城の北側には、城では最も大きな曲輪があり、駐屯地として使われていました。本丸は城の中心部にあり、恐らく勝家がいたと思われます。そこには天守か大櫓があり、防御のための馬出しまたは張出と呼ばれる3つの小さな突出した曲輪が付随していました。

城周辺の起伏地図

玄蕃尾城の縄張り図(現地説明板より)

佐久間盛政の攻勢と秀吉の反撃

1583年の4月16日、勝家の同盟者、美濃国の岐阜城にいた織田信孝が秀吉に対して兵を挙げました。秀吉は、4月17日にこれを鎮圧するために美濃国に向かいました。このとき勝家は、秀吉側に攻撃を仕掛ける絶好の機会だと思ったのです。勝家配下の佐久間盛政は、4月19日に秀吉の陣城を占領するために前進してきました。ところが、それは秀吉の罠だったのです。盛政は陣城を一つ攻略し(中川清秀が守っていた大岩山砦)、もう一つの陣城、賤ケ岳砦をも手に入れようとしました。それから秀吉は直ちに元の陣地に引き返し、4月20日には盛政に対し反撃を開始したのです。勝家と盛政は、ついには秀吉により倒されました。1626年に出版された小瀬甫庵による、比較的古い秀吉の伝記である「甫庵太閤記」は、勝家は盛政に対して最初の攻撃の後引き返すよう忠告したにも関わらず、盛政の不用意な行動が彼らの滅亡を招いたと記述しています。多くの日本人は長い間、これを定説として受け入れてきました。

佐久間盛政を描いた錦絵、楊斎延一作、1893年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田利家の撤退が勝敗を決したか

最近の研究によれば、盛政の行動は致命的ではなかったとのことです。勝家のもう一人の同盟者で、秀吉が天下人となった後大大名となった前田利家は、秀吉の反撃と同時に勝家の承諾なしに自陣から撤退したのです。これこそ秀吉の勝利と勝家の敗退へ導いた決定的な要因だったのです。甫庵はどうしてこの最も重要な事実を述べなかったのでしょうか。それは、甫庵は前田家から扶持をもらっていたからなのです。前田家の始祖である前田利家の行動は、恐らく秀吉と約束されていたのでしょう。しかし後の人々はそれを勝家への裏切りと取るかもしれません。甫庵は、前田家の恥になるかもしれないこの事実を記録できなかったと考えられるのです。よって、彼は敗戦の責任を他の誰かに押し付ける必要がありました。玄蕃尾城は強力でしたが、あくまで他の陣城と連携して力を発揮するようになっていました。勝家は、同盟者が責務を果たせない以上、この城から撤退せざるをえなかったのです。

前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「玄蕃尾城その2」に続きます。

36.丸岡城 その1

越前国北部にあった城

立地と歴史

柴田勝豊が戦国時代に築城

丸岡城は、現在の坂井市にあたる、越前国の北部にありました。この城には日本に12基ある現存天守のうちの一つがあります。この城は、最初は戦国時代の1576年に柴田勝豊によって築かれました。彼の親族である柴田勝家が越前国を領有しているときでした。1583年に柴田氏が羽柴秀吉に倒された後は、松平氏などいくつかの氏族がこの城を所有しました。この城の初期の頃について詳細は分かっていませんが、その頃から初代の天守がそこにあったと考えられています。初代天守のために作られた現存する石垣が、現在ある天守より古いものだからです。

城の位置

丸岡城の現存天守
丸岡城天守の石垣

本多成重が丸岡藩として独立

1624年、松平氏の家老であった本多成重(なりしげ)が丸岡藩の創始者として、独立した丸岡城城主となりました(彼の父、本多重次が家族に宛てた手紙が「日本一短い手紙」として有名であり、現在の丸岡城でも顕彰されています)。彼は城の大改修を始め、現在ある天守の再建築などを行いました。この改修は、成重の息子の代になって完了しました。

天守内にある本田成重のイラストレーション(左側、右側は父親の本多重次)

天守がある本丸は丘陵の上にありました。二の丸御殿がある二の丸は、本丸脇の平地にありました。これらの曲輪は、内堀に囲まれていましたが、その内堀は五角形のような形をしていました。この堀の形は、敵が攻めてきたときに、その敵を混乱させるためにこのようになったと言われています。また、武家屋敷があった三の丸と外堀が、内堀の更に外側にありました。

天守内にある城の模型(左側が本丸、右側が二の丸)
越前国丸岡城之絵図、江戸時代(出展:国立公文書館)

有馬氏が幕末まで統治

1695年、本多氏はお家騒動のために徳川幕府により改易となってしまいます。その後、有馬氏が丸岡城と丸岡藩の領主となりました。有馬氏は、江戸時代末期まで城を維持し、藩を統治しました。(キリシタン大名として有名な有馬晴信の家系に当たります。)

有馬氏の家紋、有馬瓜  (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

「丸岡城その2」に続きます。

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。