51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

187.福江城 その2

現在、福江城跡がある福江島には、船で行く方法と、飛行機で行く方法があります。城跡へは船で行く方が近く、福江港から西に約300mのところです。港から歩いて行ったとすると、城の東側石垣と、その前には堀が見えます。しかし、ここはもももと、海岸だった場所で、周りが埋め立てられているのです。お堀の水は、今でも海水が引かれていて、引き潮になるへと、海の方に引いていきます。

特徴、見どころ

海城の正面を歩いてみる

現在、福江城跡がある福江島には、船で行く方法と、飛行機で行く方法があります。城跡へは船で行く方が近く、福江港から西に約300mのところです。港から歩いて行ったとすると、城の東側石垣と、その前には堀が見えます。しかし、ここはもももと、海岸だった場所で、周りが埋め立てられているのです。お堀の水は、今でも海水が使われていて、引き潮になるへと、海の方に引いていきます。

福江港
城周辺の航空写真(Google Mapを利用)
東側石垣と前面の堀(かつては海岸だった)

見えているのは二の丸の石垣で、城の正面である海の方を向いていました。左側(二の丸の東南隅)は砲台跡です。サンプルとして砲台の石垣を見てみると、積まれている石は基本的に、福江島の鬼岳が噴火した時の溶岩からできた、玄武岩の自然石です(野面積み)。ただし、角の部分は石垣を支える重要なところなので、精密に加工された石を使って積み上げています(切り込みハギ)。北の方に歩いていくと、海に出入りするために使っていた水門も見えます。

砲台跡の石垣
野面積みの部分
角の部分は切込ハギになっています
水門

堀を過ぎると、北の丸の入口である大手門跡に着きます。前述の通り、城の正面は海なので、この門もそちらを向いていました。石垣は切り込みハギによって積まれていて、かつては櫓門の建物がありました。北の丸には五島観光歴史資料館があり、城のことや、五島の歴史・文化について学ぶことができます。

大手門跡
五島観光歴史資料館

城の奥の方に行ってみる

北の丸から西、城の奥の方に行ってみましょう。左側の城の中心部分に見えるのは、本丸と内堀です。本丸と二の丸は、現在は高校の敷地となっているので、ビジターは周りから見ることができるだけです。石垣を見ると、入口の跡が見えますが、かつては御築山門があり、堀には橋がかかっていました。通路は行き止まりになりますので、右手後方に折り返します。左手(城の外側)には、石垣が延々と続きますが、北の丸を囲んでいるものです。この近くにはかつて、砲台もありました。

本丸の石垣と内堀
本丸にあった入口の跡
北の丸の石垣
砲台の跡か?(市街地側から)

一旦、福江文化会館の出入口から市街地に出て、西の方に歩いていくと、再び城の堀と石垣が見えてきます。この堀は、最初から堀として作られていて、城の一番西側部分に当たります。堀を渡る石橋や、その奥の門は、修繕しながら、当時のものとして残っています。門は、城の裏門で「蹴出門(けだしもん)」と呼ばれました。その内部は、城を築いた五島盛成の隠居屋敷地で、「五島氏庭園、隠殿屋敷」として現存し、一般公開されています。ただし、不定期の休業日がよくあるらしく、ここがお目当ての方は、事前に管理事務所に問い合わせた方がよいでしょう。

福江文化会館の出入口
オリジナルの堀、石橋、門が残る城の西側
城の裏門「蹴出門」
「五島氏庭園、隠殿屋敷」入口(私が訪れた時も不定期の休業日でした)

城の三方を囲んでいた海は埋め立てられてしまいましたが、石垣はよく残っています。また、もう一つ残っている城の門は、現在は高校の門として使われています。

城の南側の石垣、左側の道路はかつて海でした
高校生はこの門を通って登城していることになります

関連史跡を見る

城に関連する史跡としては、まず「福江武家屋敷通り」が挙げられます。福江藩の中級藩士の住宅地跡が、約400メートルに渡って残されています。屋敷の塀は、城の石垣と作り方が似ているのですが、塀の上には「こぼれ石」という石が無造作に並んでいます。また、石垣塀の隅には「脇石」というかまぼこ状の石があって、こぼれ石を留めています。こういう造りは全国的にも珍しいそうです。その訳としては、敵や盗賊が塀を越えて侵入してきたときに、石が落ちてわかるようにしたとか、石つぶてとして敵に反撃できるようにしたといった説があります。

福江武家屋敷通り
こぼれ石と脇石

通りに面している門や塀の奥は、今では公園や現代の住宅地になっていますが、通りの舗装も石畳になっていて、昔の雰囲気が残っています。

この門の奥は公園のように見えます
この門の奥はアパートのようです
通りの舗装は石畳になっています

次の関連史跡は、港の近くにある「常灯鼻(じょうとうばな)」です。もとは、灯台と、築城工事を容易にするための堤防として作られました。残っているのは灯台部分なので、西側の桟橋を渡ってアクセスします。常灯鼻は、城の石垣と同じ職人集団が作ったといわれ、築城工事前(1848年)には完成していたということです。正式な築城許可は1849年ですので、非公式にゴーサインが出ていたのかもしれません。

常灯鼻
桟橋を渡ってアクセスします

近くで見ると、石垣が城とそっくりだとわかります。こういう史跡が残っていると、城やその歴史にもっと興味が湧いてきます。

灯台跡への登り口

行き当たりばったりの番外編?

福江の街を歩いていると、よく見えるのが島のシンボル的な山、鬼岳です。

常灯鼻から見える鬼岳

鬼岳は標高315メートルで、火山に分類されていますが、人による噴火の記録は残っていません。それ以前はるか昔の噴火によって、島の南東部には溶岩海岸が形成されました。山頂の形も噴火のときに臼のような形になり、こういうのを「スコリア丘(きゅう)」というそうです。また、数年に一回野焼きが行われるため、一面が芝生に覆われています。

鬼岳(中腹から山頂を見上げています)
山の形と芝生がとてもきれいです
鬼岳の山頂近く

実は鬼岳も城や藩の歴史に関係があります。福江藩が、異国船警備のため設けた11ケ所の遠見番所(監視所)の場所の一つが鬼岳だったのです。確かに、ここからだったら、海も城も見渡せるので、何かあったらすぐ連絡できそうです。

山頂付近から福江城方面の景色
城とは反対側の景色

また、城の石垣に使われた自然石は、鬼岳の溶岩からできたものですが、城と反対の方に見える溶岩海岸一帯から多くを採取したと言われています。城やその歴史も、五島の自然と結びついていたのです。

鬼岳から見える溶岩海岸一帯

私の感想

私は福江城跡に行くだけなら日帰りで十分と思い、1日で長崎港から往復する日程で現地を訪れました。ところが、実際に行ってみると関連する名所や史跡にも興味を持ち、結果、1日では全く不足でした。溶岩海岸やキリシタン遺産の教会にも行きたくなったのですが、時間がなくなりました。福江城や福江島だけでも、少なくとも1泊2日は必要かなというのが正直な感想です。

あっという間に帰りの船の出航時間です

リンク、参考情報

福江城(石田城)、五島市観光サイト
国指定名勝「石田城五島氏庭園」、五島市
・「よみがえる日本の城21」学研
・「九州の名城を歩く 佐賀・長崎編」吉川弘文館
・「海賊の日本史/山内譲著」講談社現代新書
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「五島キリシタン史」五島市世界遺産登録推進協議会
・「長崎県文化財調査報告書第139集 石田城跡」1997年 長崎県教育委員会
・「石田城」松崎義治氏論文
・「開国前後、長崎における情報収集の収集伝達活動について」沼倉延幸氏論文
トコトコ鳥蔵
東インド会社が行った日本列島への旅について

これで終わります。ありがとうございました。
「福江城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

187.福江城 その1

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

立地と歴史

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

城の位置

五島列島と松浦党、海賊、倭寇

古代には、五島列島は遣唐使のルートの一つ、南路の拠点となり、有名な空海もここから唐に渡りました。中世になると、中小武士氏族の集団である松浦党が進出してきました。松浦党の中心は平戸を根拠地とした松浦氏でしたが、五島列島においては、最北端の島、宇久島には宇久氏が、その南の方にある中通島には青方氏が渡ってきました。彼らは、陸地の支配の他、通常は海上警護や水軍としての活動をしていましたが、場合によっては略奪行為も行ったため「海賊」とも呼ばれました。

復元された、水軍や海賊が使っていた小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

また、中世の五島列島のもう一つの主役として、ここを根拠地の一つとした「倭寇」が挙げられるでしょう。倭寇は主に、室町時代の前期倭寇と、戦国時代に後期倭寇に分けられます。後期倭寇は、日本人よりむしろ中国人が主体で、私貿易と略奪両方を行う、武装商人のような存在であったと考えられています。日本側の武士や住民の一部にも、倭寇に参加した者がいたのではないかと言われています。それよりも松浦党の領主層が、後期倭寇の中国人首領と組んで、勢力を伸ばそうとしていました。

「倭寇図巻」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇久氏→五島氏による福江藩支配

室町時代には、松浦党の一氏族、宇久氏が五島列島全体を支配するようになりました。そして、その本拠地を宇久島から、最大の島・福江島に移しました。16世紀中ごろの当主、宇久盛定(うくもりさだ)は、福江島の福江川河口近くに江川城を築き、貿易を盛んにしようとしました。その過程で出会ったのが、後期倭寇の大物であった明(中国)人・王直です。盛定は1540年、王直に福江での居住と貿易を許し、唐人町を作りました。今でも、唐人町だった周辺には、明人堂(廟堂)や六角井戸(井戸跡)が史跡として残っています。五島は、平戸とともに重要な貿易港になったのです。

王直の肖像画、明人堂にて展示
唐人町の想像図、明人堂にて展示
明人堂
六角井戸

盛定の子、純定(すみさだ)の時代には、キリスト教の宣教師がやってきて、純定自身もキリシタン大名となりました。やがて、純定の孫、純玄(すみはる)のときに豊臣秀吉による天下統一が進むと、五島列島の支配を認められたことで、名字を「五島」と改めました。その跡継ぎの五島玄雅(ごとうはるまさ)も、江戸幕府からも支配を認められて、初代福江藩主となりました。2代藩主の盛利(もりとし)は、「福江直り」と呼ばれる政策により、藩士を福江に集住させ、藩主の権力を強化しました。中級クラスの藩士の居住地跡が「福江武家屋敷通り」として残っています。五島氏による福江藩は、江戸時代を通じて続くことになります。

福江武家屋敷通り

このように順調に見えた福江藩ですが、思い通りにならないこともありました。鎖国政策により貿易はできなくなりましが、当初は捕鯨などの運上金による収入で藩財政は潤っていました。ところが捕鯨の衰退や飢饉などにより、産業が衰退し財政が悪化すると、藩は対策を迫られます。特筆すべきものとして、領民を人単位で把握し課税する制度、更には領民の(長女以外の)娘を強制的に3年間奉公させる制度の導入があります。これらは当時から見ても悪法であり、江戸時代の後半約100年間に渡って維持されました。他には、対岸の九州の対岸の大村藩から、農民を千人単位で移住させたことです。鎖国とともにキリスト教は禁止され、信者は弾圧されていましたが、この移住者の中には多くの「隠れキリシタン」がいました。福江藩は、弾圧より農民の受入れを優先したため、彼らの信仰が五島で密かに維持されることになりました。これが、結果的に後に五島のキリシタン遺産と文化につながったとされています。

五島列島頭ヶ島に残る頭ヶ島天主堂 (licensed by Indiana jo via Wikimedia Commons)

城の観点からは、江川城が1614年に焼失してから、代わりに後の福江城を築く場所に、石田陣屋を設けました。福江藩の石高は約1万5千石(当初)であり、この石高では城の築造が認められていなかったからです。石田陣屋がどのようであったかわかりませんが、石垣など城のような姿をしていたとも言われています。

江川城があったと思われる場所(ビジネスホテルの傍らに石碑があります)

異国船、海防への対応

後の福江城築城につながる福江藩の特徴として、異国船警備を担っていたことが挙げられます。五島列島は、鎖国下唯一の貿易港であった長崎に近く、貿易船が難破したときの対応や、不審船の監視を行っていたのです。そのため、長崎に「長崎聞役」という情報収集役の役人を駐在させていました。江戸時代後期になると、西欧諸国の船が日本近海に頻繁に現れるようになり、対外的な緊張が高まってきました。その状況下、海防の必要性を感じた福江藩は、1806年に最初の築城許可を幕府に申請しましたが、却下されてしまいます。その後、1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した「フェートン号事件」や、1844年にオランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王の開国勧告書を持参して長崎に入港した出来事がありました。福江藩は、これらの情報も入手し、築城許可を再三にわたって申請していました。そしてついに1849年に築城許可が、北海道の松前城とともに下りたのです。

長崎で貿易が行われた出島(19世紀前半)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フェートン号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
パレンバン号(文化遺産オンライン)
松前城

ついに福江城を築城

福江藩は、石田陣屋を発展させる形で同じ場所に、福江城を築城しました。築城許可後すぐに建設に取りかかったものの、予算不足と、海に面した河口近くの立地のために、工事に15年を要し、完成は1863年でした。現在、福江港近くに「常灯鼻(じょうとうばな)」と呼ばれる灯台跡がありますが、もとは築城工事の際、波除のための堤防として築かれたものです。海防を目的としたことと、日本最後期の築城だったことで、この城にはいくつも特徴がありました。まず、東の海に向かって、南北東三方が海に面し、海が天然の外堀となっていたことです。そして、正面の東側の石垣は厚く作られ、船を乗り出す水門が設けられていました。次に挙げられるのは、中心の本丸を、内堀を挟んで、北の丸、二の丸、厩などが囲んでいましたが、これらの曲輪の隅には、櫓の代わり砲台が築かれたことです。また、藩主の隠居屋敷と庭園が、海から見て一番奥の西側に建設されました。最後に挙げる特徴としては、ご当地らしく、島で調達した丸い自然石を多く使って、野面積みの石垣を築いたことでしょう。

常灯鼻
「肥前國松浦郡五島福江城 絵図面」、「石田城跡発掘調査報告書」1997年長崎県教育委員会より
福江城東側の石垣
福江城の野面積み石垣

しかし、築城後まもなく明治維新となり、1872年には城は陸軍の所管となり、廃城となってしまいました。城の完成後わずか9年後のことでした。

現在の福江城跡

「福江城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。