27.上田城 その1

上田城を築いた真田昌幸は、真田幸隆の三男として生まれました。昌幸は、当初信玄に近臣として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たちが討たれると、真田家を継ぎました。

立地と歴史

上田城築城と第一次上田合戦

上田城を築いた真田昌幸(生年:1547年〜没年:1611年)は、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれました。父親の幸隆は、信濃国真田郷の小豪族でしたが、武田信玄に仕え、重臣の一人となりました。特に調略を得意とし、後半生は武田氏の西上野での領土拡大に貢献しました(岩櫃城など)。昌幸は、当初信玄に近臣(武藤喜兵衛と名乗っていた)として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たち(信綱・昌輝)が討たれると、真田家を継ぎました。昌幸は、西上野の攻略を進め、1579年(天正7年)には沼田城を落としました。この城が、後の真田氏による領土経営のキースポットになります。彼は武田氏の一部将でしたが、一定程度の領土経営権を与えられていたと言われています。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

やがて主君の武田氏が滅亡し、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で討たれると、旧武田領(甲斐・信濃・西上野)は空白地帯となり、周辺有力大名(徳川・北条・上杉)による争奪戦が起こります(1982年(天正10年)の天正壬午の乱)。上田周辺から沼田までの一帯を勢力圏としていた昌幸は、有利な条件(領土維持)を求め、上杉→北条→徳川と、次々に傘下となる大名を変えていきます。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時、昌幸は山城の砥石城(またはその周辺の館)を本拠にしていたと考えられますが、徳川傘下にいたときに築いたのが上田城でした。上田の地は、徳川・上杉勢力圏の境目にあたり、街道(上州街道・北国街道)と千曲川が交わる地点で、徳川方として確保が必要な場所でした。つまりこの城は、徳川方が上杉方に対抗するために築かれたのです。従って、築城にあたっては、徳川方の全面支援があったと考えられています。平地での築城なので、上杉方からの妨害も受けやすく、築城時の安全確保の必要もありました(下記補足1)。

(補足1)海津よりの注進の如くんば、真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払ふべきの由、何れへも申し遣はし候(天正十一年四月十三日島津左京亮宛上杉景勝書状「上杉年譜」)

戸石城跡

平地の城であっても、自然の要害を生かして築かれました。城の南側は、千曲川の支流が流れ「尼ヶ淵」と呼ばれていて、切り立った崖になっていました。北や西から攻めてくる上杉方に対して、後ろ堅固の城であったと言えます。その北側と西側は、川(矢出沢川・蛭沢川)の流路を変え、元の流路を堀に活用し、新流路を惣堀として、備えとしました。城の中心部分は、かつて他の豪族(小泉氏)の城館として使われていた微高地を利用し、西から小泉曲輪・本丸・二の丸を並べました(梯郭式)。更に東側は沼沢地でしたが、その合間に昌幸や一族の屋敷地(中屋敷、常田屋敷、玄三屋敷)が作られました。築城は、1583年(天正11年)に始まり、2年後に完成したとされています。その頃の城の姿を表すとされる絵図(「天正年間上田古図」)が残されています。

城の南側の崖部分(かつての尼ヶ淵)
惣堀として使われた現在の矢出沢川
堀の一つ、百間堀跡
「天正年間上田古図」、上田市立博物館にて展示

ところが、昌幸は城が完成した時期に、徳川方から上杉方に鞍替えをします。これは、徳川家康が北条氏との和睦の条件として、上野国を北条の領国として認めたことによります。これは真田が沼田を失うことを意味していました。替地も明確でなかったようです(諸説あり)。昌幸はこれを拒否しました(下記補足2)。並みの地方領主だったら飲んだのでしょうが、昌幸は自分が切り取った領土にこだわったのです。上杉の支援があるとはいえ、北条(沼田への攻撃)・徳川双方を敵に回す決断でした。(ただし、上杉のバックにいた豊臣秀吉の存在を考慮したという指摘もあります)家康は激怒し、真田討伐を命じました(下記補足3)。これが第一次上田合戦です(天正13年7月〜11月)。

(補足2)
三河物語
ぬまた(沼田)を小田原(北条)へ渡せと仰せになったところ、さなだ(真田昌幸)は、ぬまたの城は上様よりいただいたものではなく、我らの手柄で取り立取った城なので筋違いの話です(訳:代替案のための弁証法的空間)

(補足3)敵幸ひの所へ引き出し候はば、この度根切り緊要に候(八月二十日徳川家康書状、「宮下家文書」)

沼田城跡

鳥居元忠、大久保忠世らに率いられた約7千の徳川勢に対し、真田勢はわずか約2000人でした。しかも、上田城は対上杉用に築かれた城なので、東側(甲斐)から攻めてくる敵(徳川勢)は想定外でした。そのとき昌幸がとった戦術は、少ない兵を更に分散させて配置することでした。昌幸本人は上田城に、長男の信之(当時は「信幸」)は砥石城に、残りを他の城や伏兵として布陣したのです。そして、敵の正面(東側)に対する防御(神川・染谷城)を事実上放棄し、わざと攻めやすくさせたのです。徳川勢は、数は多いが寄せ集めで、真田勢を見下していたとも言われています。城の東側の神川を越え、中間の沼沢地や障害物(千鳥掛け柵)を通り、一気に二の丸まで攻め寄せました。勢いで敵の統制が緩む隙をついて、真田勢は反撃に移り、砥石城の部隊も加わりました。徳川勢は退却しますが、真田勢の追撃を受け、神川付近で多くの兵士を失いました(1300人、下記補足4)。その後、徳川勢は攻め口を変えますが、戦線が膠着し、ついには撤退しました。この戦いは、真田の独立大名として道を開くとともに、その名を天下に知らしめました。昌幸だからこそできた離れ業と言えるでしょう。

(補足4)
沼田城重臣宛信幸返書
芳札披見、仍従遠州出張候間、去二日於国分寺遂一戦
千三百余討捕備存分に候、然者南衆(北条方)其表可相働候、
於然堅固之備憑入候 恐々謹言
閏八月十二日    真田源三郎  信幸 判
 下豊(下沼田豊前守)、恩伊(恩田伊賀守)、木甚、恩越、發参
去る二日国分寺において一戦を遂げ、千三百余り討ち取り、備へ存分に任せ候
芳しい書状を拝見した 遠州より徳川勢が攻めて来たが、去る2日国分寺に於いて一戦し、1300人余り討ち取り備えは十分である。そこで、北条方がそちらに攻めて来るに違いないので、堅固の備えを頼み入る(「恩田家文書」、訳:おぎはらの洋ラン日記)

上田城二の丸
神川

豊臣大名の城に、そして第二次上田合戦

その後、昌幸が選んだ道は、豊臣秀吉への服従でした。秀吉は昌幸を「表裏比興の者(表と裏を使い分けるくせもの)」と呼び、一時討伐を決意しましたが許しました(下記補足5)。昌幸は、家康の与力大名となりますが、家康もまた、信幸を重臣の本多忠勝の娘(小松姫、形式上は家康の養女)の婿としたのです。こうして真田は豊臣政権下の大名となったのです。秀吉の天下統一の過程で、一時沼田城は北条のものとなりますが、小田原合戦の結果、真田の下に戻ってきました。

(補足5)
真田の事、先度この方において仰せ出し候如く、表裏比興の者に候間、成敗を加へらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相動くべく候条、その方より一切に見続等これあるまじきの由に候。(八月三日上杉景勝宛増田長盛・石田三成書状「上杉家記」)

天正十四年(一五八六)十一月二十一日付 真田昌幸宛羽柴秀吉書状(真田宝物館蔵)其の方事、家康存分これ有りと雖(いえど)も、此方(こなた)に於いて直(じき)に仰せ聞けられ候。殿下も曲事に思し召し候と雖も、此の度の儀は相免ぜられ候条、其の意を成し、早々罷り上るべく候。猶、様子仰せ含めらるべく候。委細尾藤左衛門尉申すべく候也。
   十一月二十一日(朱印)(羽柴秀吉)
     真田安房守とのへ
家康がお前を恨んでいる件については、自分から直接言い聞かせてやった、自分もけしからぬことだとは思うが、今度だけは許してやるので上洛するように(訳:秀吉と真田)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田城は豊臣大名の城として、改修が進められました。第一次上田合戦のときには「殿守(天守)も無き小城」であったとされていますが、この改修で天守が建てられたのではないかとも言われています。現在の本丸堀などから、金箔瓦や鯱瓦が発掘されています。近隣で同様のものが使われた松本城高島城小諸城には天守がありました。また、江戸時代に作られた城の絵図(「上田城構之図」)には「御天守跡」という記載があります。一方で、金箔瓦は本丸以外(二の丸や小泉曲輪)でも発見されているので、天守以外で使われていたともいえます。また、天守があった可能性がある本丸北西隅には、天守台石垣の痕跡がないことから、否定する向きもあります。天守があったとしても、三層程度だったであろうという意見もあります。いずれにせよ、初期とは全く違う豪華な櫓や門を備えた城になっていたとは言えるでしょう。

発掘された金箔瓦の一つ、上田市立博物館にて展示
松本城
高島城
小諸城跡の天守台石垣
「御天守跡」の記載がある古地図「上田城構之図」部分、協力:上田市マルチメディア情報センター

また、弱点だった東側については、三の丸や大手門が整備され、城下町に寺町を作り、防御を固めたと考えられています。

三の丸の大手門跡
集められた寺の一つ、月窓寺

そして秀吉が亡くなると、運命の天下分け目の戦い(1600年(慶長5年))を迎えます。真田勢は当初、家康の上杉征伐に加わるべく行動していましたが、西軍奉行からの家康弾劾の書状(下記補足6)を受け取り、昌幸・次男の信繁(幸村)は西軍に、信幸は東軍に味方(下記補足7)することにしたのです(犬伏の別れ)。これは、個々の立場に基づくものとも言えますが、昌幸がこれまで見てきた大名家の存亡から、真田家を残すための決断であったと思われます。

(補足6)
慶長五年(一六〇〇)七月十七日付 真田昌幸宛長束正家等連署状
 急度(きっと)申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの)申し談じ、楯鉾(たてほこ)に及び候。内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。
   七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
         増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
         徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所

(補足7)
慶長五年(一六〇〇)七月二十四日 真田信幸宛徳川家康書状(真田宝物館蔵)
今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事寄特千万に候。猶本多佐渡守(正信)申すべく候間、具(つぶさ)にする能はず候。恐々謹言。
   七月二十四日 家康(花押)
     真田伊豆守殿

「犬伏密談図」、協力:上田市立博物館

石田三成らの西軍決起を知った家康以下東軍は、上杉征伐から引き返し、西に向かいました。その内、家康の跡継ぎ・秀忠率いる3万8千の徳川本体は、中山道を進みました(下記補足8)。その途上で、昌幸のこもる上田城を攻略することにしました。周辺で唯一西軍に組している有力大名だったからです。3千名程度といわれる上田勢は、今度は時間稼ぎの戦術に出ました。

(補足8)いよいよ真田安房守敵対申す由、中納言(秀忠)追々進発せしめ候。その方落ち度無き様、取り合ひの儀頼み入り候。もし大敵に及び候はば、この方へ注進これあるべく候。出馬、即時に踏みつぶし申すべく候(八月十三日仙石久秀宛徳川家康書状、「改撰仙石家譜」)

(慶長5年)
9月2日:秀忠、小諸城に到着(「但馬出石仙石家譜」)
9月3日:昌幸、信幸を通して秀忠に助命を嘆願(「佐竹家文書」)
9月4日:昌幸が降参しないので、秀忠が染屋台に本陣を進め、信幸の軍が、信繁が籠る砥石城に攻撃に向かう
9月5日:信繁が上田城に撤収、昌幸は降伏勧告に応じず
9月6日:徳川軍が稲の刈り取りをしようとしたところ、阻止する城兵と戦闘となり、大手門まで追うが、命令により撤収
     (「寛永諸家家系図伝」など徳川方史料)
9月8日:秀忠に、家康からの上洛命令が届く(下記補足9)
9月11日:秀忠、小諸城から出発(下記補足10)

(補足9)
わざわざ使者を以って申し入れ候、よって内府より急ぎ上洛せしむべき由申し越され候間、先ず先ず明日小諸まで罷り越し候。
その表万事油断なきの様、いよいよ仰せ付けられるべきの儀、肝要に存じ候。
なほ口上に申し含め候の条、詳にする能わず候。
恐々謹言。
         江戸中納言 秀忠御判
九月八日 羽柴右近殿 御陣所
(森家先代実録、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

(補足10)一書令啓上候、然者、黄門様(秀忠)十一日ニ小諸を御出、
九月廿三日 青常陸介 内修理亮 酒右京太夫
石田様
(堀文書、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

9月6日に戦闘がありましたが、小競り合いだったという説や、徳川方がまた大損害を受けたという説もあり、はっきりしません。
明確に言えるのは、
・秀忠軍は約10日間を費やしたが、上田城を攻略できなかった。
・総攻撃を行わず、家康の指示により関ヶ原に向かった。
・結果的に9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

昌幸は、秀忠軍の足止めに成功したのです。しかし、関ヶ原ではわずか一日の戦いで東軍が西軍に勝利し、まもなく上田城は接収されました。信幸などによる助命嘆願の結果、昌幸・信繁は、一命を取り留め、紀伊国九度山に配流となります。昌幸は、いつか罪を許されることを期待していましたが、11年後に亡くなりました。信繁がその後、大坂の陣で活躍することは余りにも有名です。

真田信繫肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田は信幸の領地となりましたが、城は破却され、中心部は埋められました。信幸は、三の丸の屋敷で政務を執っていたのです。大坂の陣後の1622年(元和8年)には、松代城へ加増転封になりました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
松代譲
「元和年間上田城図」、上田市立博物館にて展示

仙石忠政による上田城復興

廃城同然となっていた上田城を復興したのは、真田信之に代わって藩主となった、仙石忠政(生年:1578年〜没年:1628年)でした。彼はそれまで小諸藩主で、第二次上田合戦のときには父親の仙石久秀とともに参陣していました。久秀は、信長・秀吉に仕えた武将で、家紋は信長より拝領したものと言われています。忠政は久秀の三男でしたが、長男(久忠)は検校(盲目)、次男(久範)は関ヶ原で西軍に加わったため、跡継ぎとなりました。忠政は1622年(元和8年)に藩主となり、1626年(寛永3年)から幕府の許可を得て、上田城の復興に取りかかります。このときの将軍は家光でしたが、秀忠も大御所として健在でした。忠政を移したときに将軍だった秀忠は、修理料として銀子を与えたと言われています(補足11)。自らを含め二度も徳川軍を退けた上田城を、どのように見ていたのでしょうか。

(補足11)上田城は先年破却せしままなれば、修理の料として銀子二百貫目を賜うべし、心のままに修理すべき旨、懇の命(「改撰仙石家譜」)

仙石忠政肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

忠政は、家臣に復興工事に関する細かい指示書を出していて、復興への熱意を感じさせます。それによると、真田時代の城の姿の復元を目指していたことが伺えます(下記補足12)。埋められた堀を、掘り返していることから、少なくともレイアウトは真田時代を踏襲したと考えられます。現在、門や櫓のところに残る石垣は、そのときに築かれましたが、一部の古い形式の石垣は、真田時代のものか、その時代の石を転用した可能性があります。

(補足12)なわばりの時、古城の堀にゆがみがあるときには堀の両側を掘って直にせよ(「寛永三年仙石忠政築城覚書」、訳は「信濃上田城」による)

忠政が築造した二の丸北虎口石垣
真田時代に遡る可能性がある本丸西虎口土橋下南石垣

そして本丸には、天守はないものの、七つの櫓と、二つの櫓門を建設しました(内部の御殿はなし)。二の丸などにも建物を建てる計画でしたが、工事開始から2年後に忠政が亡くなり中断されました。以後、基本的な城の構造は、忠政が復興したものが引き継がれました。復興後の姿が、信州上田城絵図(正保城絵図)として残されています。現在の残る城跡の基にもなっています。中断したとはいえ、わずか2年で城を復興した忠政にとって、上田城はどういう存在だったのでしょうか。

「信濃国上田城絵図」部分、出展:国立公文書館

仙石氏は3代84年間、上田を統治しました。

藤井松平氏による統治

1706年(宝永3年)但馬出石藩主の松平忠周(ただちか)が、仙石氏と交代で上田藩主になりました。この家系は藤井松平氏と呼ばれていて、家康以前からの松平一族でした(いわゆる「十八松平」の一つ)。忠周は当時、将軍徳川綱吉に側用人として仕えていました。幕府中枢にいたため、より江戸に近い領地に転封になったと見られています。彼は、徳川吉宗政権でも老中を務めました。藤井松平氏は基本的に、仙石氏が復興した上田城や藩の仕組みを維持しました。

松平忠周所用具足、上田市立博物館にて展示

しかし、この時代の上田城の敵は天災(洪水、地震、大火)でした。特に、忠周の子の忠愛(ただざね)の代には、1732年(享保17年)の千曲川洪水により、城の南の崖が大きく崩壊しました。その後4年をかけて、石垣の修築・造成が行われました。主にこの時に築かれた崖を覆う石垣は、現在目にすることができます。以降、経年劣化や大雨により破損した石垣の修理が幕末まで6回行われました(幕府への届出記録による)。

尼ヶ淵に面する石垣

藤井松平家の藩主の中から、幕末に活躍した松平忠固(ただかた)を紹介したいと思います(生年:1812年~没年:1859年)。幕末の政治家の中では有名な方ではありませんが、日本の開国に尽くした人物の一人です。藩主になったとき(1830年)上田で凶作が続き、対策として養蚕を奨励したのが後の開国政策につながったのかもしれません。ペリーが来航した時老中になっていた忠固は、当初より開国だけでなく、通商開始も主張し、徳川斉昭と渡り合いました。また、アメリカの総領事ハリスと通商条約の交渉を行ったときに、忠固は、堀田正睦に次ぐ次席の老中でした(正睦が首相兼外務大臣とすれば、忠固は財務大臣)。条約調印のときも、勅許が必要とする正睦や井伊直弼に対し、必要なしと主張していました。彼には開国・通商が日本の国益になると確信していたのです(補足13)。条約が調印されると、直弼により、正睦とともに罷免されてしまいますが(1858年)、翌年に亡くなるまで上田の物産(生糸など)輸出の準備のために働いていました。

(補足13)交易は世界の通道なり、決して忌むべきの事にあらず、寧ろ之を盛んにするを要す、即ち皇国の前途亦宜しく交易に依りて大に隆盛を図るべきなり。(忠固の言葉とされるもの、「日本を開国させた男、松平忠固」より)

松平忠固所用具足、上田市立博物館にて展示

その後

明治維新後、上田城は廃城となり、城の建物と土地は競売にかけられました。その結果、城地の多くは桑園や麦畑になったそうです。そこに現れたのが地元の豪商・丸山平八郎でした。彼は材木・生糸などで富を築いていて、本丸部分を買い上げ、最後の城主だった松平氏を祀る松平神社の用地として寄付しました。その後この神社には、真田氏や仙石氏も合祀され、現在の真田神社になっています。また二の丸部分には、刑務所や伝染病院があった時期がありましたが、上田市が買い上げ、城跡全体が公園として活用され、国史跡にも指定されました(1934年、昭和9年)。建物については、城に唯一残っていたが西櫓でした。他の櫓のうち、北櫓・南櫓は遊郭で使われていましたが、転売されそうになり、それを憂えた地元の人たちが買い戻し、原位置に移築復元しました(1949年、昭和24年)。両櫓をつなぐ本丸東虎口櫓門は1994年(平成6「年)に復元されました。現在上田市では、本丸にあった7つの櫓全てを元通りに再建することを目指して活動しています。

真田神社
現存する西櫓
現存する南櫓・北櫓と、その間の復元された本丸東虎口櫓門
7つの櫓が揃った上田城本丸の模型、上田市立博物館にて展示

「上田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.岡山城 その1

岡山城は、岡山県の県都・岡山市に今でもそびえている城です。天守はその黒さから「烏城」とも呼ばれています。この記事では、岡山城が完成するまでのストーリーをご説明します。

立地と歴史

Introduction

岡山城は、岡山県の県都・岡山市に今でもそびえている城です。天守はその黒さから「烏城」とも呼ばれています。オリジナルの天守は、1945年(昭和20年)6月29日の岡山大空襲で焼失しましたが、1966年(昭和41年)に外観復元されました。また、城の堀とも言うべき旭川を挟んで、日本三名園の一つ、後楽園もあり、人気の観光地になっています。これら優美な姿は、一遍に現れたのではなく、3つの大名家の関わりによって出来上がりました。城を築いた宇喜多氏、城を受け継いで近代化した小早川氏、そして完成させた池田氏です。そして、現在の岡山市の繁栄の基にもなりました。この記事では、岡山城が完成するまでのストーリーをご紹介します。

現在の岡山城天守

「戦国の梟雄?」宇喜多直家による築城

宇喜多直家は一代で、現在の岡山県周辺地域(備前・美作国)の戦国大名にのし上がりました。しかしその手段が卑劣だったということで「戦国の梟雄」「戦国三大悪人(の一人)」などと呼ばれてもいます。実はそのような評判は江戸時代初期からのことでした。当時の作家・小瀬甫庵の「甫庵太閤記」に取り上げられているのです(下記補足1)。

(補足1)直家義も露程も知らず事ども、甚だもって夥し。かつ記すに、先主浦上備前守宗景を隠謀をもって弑し、舅中山備中守を属託にふけり殺害し、作州ゑびの城主後藤を聟に取り、毒して殺しけり。かやうの類悪のみにて、備作の城主をあまた生害し、その領知を奪取て、威猛く富溢れ出、一往栄え侍れども、天その不義をば赦し給わずなり。(略)まことに無道の報、直家にかぎらず。松永弾正忠久秀、斎藤山城守道三、この両人等も直家にひとしく、才高くして利を好み、義を疎にせしが、何も後絶にけり。(甫庵太閤記)

要するに「義」を疎かにし、「才」能を「利」得のために使う者は、滅びる運命にあるということの典型例として、直家の名を挙げているのです。甫庵の考え方(儒教の忠孝)に基づき、結果論から語っているようにも思いますが、結果的に平和になった江戸時代の人々に受け入れられました。宇喜多家は大名としては滅びたので、抗議の声もあがらなかったでしょう。

宇喜多直家像(復元、岡山城にて展示)

この傾向に拍車をかけたのが、直家の前半生を記した記録が、江戸時代後期に書かれた軍記物の「備前軍記」くらいしか残らなかったことです。宇喜多家にあった記録は、没落により散逸してしまったからでしょう。ここでは敢えて直家の生い立ちを「備前軍記」に基づいて簡単に記してみます。

1534年(天文3年)島村観阿弥が宇喜多氏の居城・砥石城を奇襲、祖父・能家は自害、直家(6歳)は父親(興家)とともに流浪
1543年(天文12年)浦上宗景に仕官(直家15歳)、その後元服して乙子城を預けられる
1549年(天文18年)浮田大和を攻め、砥石城を落とした手柄で、新庄山城(奈良部城)を預けられ居城とする
1559年(永禄2年)舅の中山信正を、亀山城で酒宴で油断させて自ら斬る、城を乗っ取る、また、祖父の仇・島村観阿弥を砥石城からおびき寄せ討ち取る、城も取り返す
1561年(永禄4年)龍の口城の穝所元常を美少年の小姓を使い、酒を飲ませて生害
1566年(永禄9年)備中の大名・三村家親を、部下に鉄砲で生害させる
1568年(永禄11年)金川城の娘婿・松田元堅を討つ
1570年(元亀元年)岡山城主・金光宗高(別書では娘婿)を切腹させる
1573年(天正元年)岡山に移転
1577年(天正5年)主君の浦上宗景を天神山城に攻め、宗景は落ち延び、浦上氏滅亡
1578年(天正6年)妹聟の虎倉城主・伊賀久隆に毒を盛る
1579年(天正7年)三星城主・後藤勝基を(別書では娘婿)攻め自害させる

まさに、目的のためにはたとえ身内相手でも手段を選ばずといった感じですが、他に直家の詳しい経歴がわかるソースがないため、これがそのまま直家の「戦国の梟雄」イメージを作り上げ、現代まで続いているのでしょう。現在では、島村観阿弥への仇討ちが他の史料で確認でなかったり、必ずしも直家が単独で行ったのか疑問を持たれるケース、年次の誤り(例:浦上氏滅亡は実は2年前、伊賀久隆没は3年後)、「酒を飲ませる」パターンなど誇張された表現などが指摘されています。しかし仮にグレーな部分が全て事実だったとしても、程度の差はあれ、戦国時代は生き残りのため親族間であっても謀略・寝返りは普通に行われていました。これらのストーリーは、直家の戦国大名としての優れた能力をも示しているのではないでしょうか。「主君」を攻めるという件についても、当時は完全な上下関係ではなく、有力大名と地方領主の関係で力関係によって下剋上となったのです。

直家が最後の本拠地とした岡山の近くには、瀬戸内海が湾のように入り組んでいて、旭川の河口がすぐ南にありました。そのデルタ地帯の「石山」という丘を中心に城を構えたとされています。後の岡山城よりはずっと小規模でした。1572年(元亀3年)に毛利氏と宇喜多氏が和平を結んだときの文書に「岡山」という地名が初めて見られるということです(十月二日付小早川隆景書状「乃美文書」)。「備前軍記」には、直家が岡山を選んだ理由と経緯が書かれています(下記補足2)。こういったところも、直家の先見性を示しています。

(補足2)(これまでの城と比べて)岡山は城下が殊のほか広大で、城の東を流れる大川は、海に通じて運送の便もよく、行く行く繁昌する条件を備えた土地であった。しかし、岡山の城はこれまで金光宗高の居城で、城の規模も小さく、家臣の屋敷も少なく、このままでは居住できなかったので、城の郭を押し拡げ、或いは作り添え、新規に縄張りを行い、土居や堀を改築することにした。そのためこの地にあった寺社を外に移転した。(「現代語訳 備前軍記」より引用)

中世当時の岡山周辺の推定海岸線(岡山城にて展示)
直家時代の城の範囲(緑色部分、岡山城にて展示)

また後に羽柴秀吉が毛利氏と対決するため、備前国に駐留した時に出した掟書には、岡山に城下町があったことがわかります(下記補足3)。

(補足3)
一 岡山町で売り買いするときには、従来どおり「かわり(為替か)」を取り交わして買うこと。
一 町中において、在陣の者たちは無礼な振る舞いをしないこと
一 備前国衆と喧嘩口論があった場合は、理非を問わず、在陣の者に非があること。
(羽柴秀吉掟書写「諸名将古案」訳は「宇喜多直家・秀家」より)

直家がメジャーな存在になると、他の記録にも現れるようになり、その動向がはっきりしてきます。しかしそれは、最後の試練に悩む姿でした。直家が戦国大名化したとき、中国地方は織田信長と毛利輝元が対決するフェーズに入っていました(1576年(天正4年)足利義昭が毛利氏を頼って以後)。直家は毛利氏の傘下で、織田軍と戦っていたのです(上月合戦など)。毛利氏は当初善戦していて、1578年(天正6年)には上月城を落とし、別所長治(三木城)・荒木村重(有岡城)が織田方から離反していました。しかし翌年には三木城包囲戦が始まり、有岡城は開城されました。直家はその動きを見ていたものと思われます。そして、羽柴秀吉の仲介で織田方に寝返ったのです。この決断は織田方の先鋒として毛利と戦うことを意味し、熾烈な戦いが続きました。やがて直家は病に倒れ、1582年(天正10年)正月までに亡くなったとされています(「信長公記」に宇喜多秀家が信長から家督継承の許可を得たという記事あり)。秀吉は中国戦線のテコ入れを図り、4月に岡山城に入城、5月に有名な備中高松城の戦いが始まり、6月に本能寺の変を迎えます。直家の判断は正しかったことになります。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
備中高松城跡

「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家による大拡張

直家の跡を継いだのは若干11歳の秀家でした。宇喜多勢はこの後、羽柴から豊臣となった秀吉とともに、天下統一事業に加わります。叔父の宇喜多忠家がバックアップしていましたが、秀家は若年で異例の出世を遂げ、最後は五大老の一人に上り詰めます。(秀吉没時 秀家27歳、徳川家康57歳、前田利家61歳、毛利輝元46歳、上杉景勝44歳、伊達政宗でさえ32歳)この主な要因は4つあると考えられています。

宇喜多秀家肖像画、岡山城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1.宇喜多直家・秀家親子に対する秀吉の恩義
秀吉が天下を取るための最も大切な時期に、秀吉軍の主力として戦いました(下記補足4)。

(補足4)備前・美作両国の宇喜多直家は、さきに播磨の別所長治が寝返った時、「西国(毛利方)」から離脱した。秀吉陣営の領域は度々危機に見舞われたが、並々ならぬ覚悟をもって尽力してくれた。だから直家が没すると、その嫡男を取り立てて、温床として秀吉の婿に迎え、「羽柴」の名字を与えて「羽柴八郎」と名乗らせた。さらに「分国の外」にも所領を与えた。(「天正記」二、現代語訳を「宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性」から引用)


2.樹正院(豪姫)に対する秀吉の愛情
樹正院は前田利家・芳春院(まつ)の子ですが、秀吉・北政所の養女となり、秀吉から溺愛されました(下記補足5)。その婿となったのが秀家でした。樹正院が出産後に大病を患ったときには、秀吉は野狐の祟りと考え、伏見稲荷社に祈祷を命じ、万一のことがあれば、稲荷社を破壊し、毎年日本国中で狐狩りを行うとまで言っています。

(補足5)大こうひそのこにて候まゝ、ねよりうへのくわんにいたしたく候(略)八郎ニハかまわす候(太閤秘蔵の子であるから、北政所より上の官につけたい、秀家にかまうことはない。)(豊臣秀吉書状、賜芦文庫所蔵文書、現代語訳は「宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性」から引用)


3.秀吉と秀家との良好な関係
秀家が、気まぐれであった秀吉の勘気に触れた記録はないそうです。朝鮮侵攻初期には、秀家を日本の関白か朝鮮の支配者にすると言っていました。特筆すべき武功はないが、出陣(紀州・朝鮮など)したときには積極性を見せているので、それが気に入られたかもしれません(下記補足6)。秀吉が好んだ能、茶道、鷹狩りに莫大な経費をかけ、上方の屋敷では秀吉の御成を受けて豪華な饗宴が開かれました。(イケメンだったからかもしれないが、知られている肖像(上記)は、昭和に描かれた想像画です。)

(補足6)就其大明国へ先懸同備之事、備前之宰相都ニ相残儀迷惑之由、達而申越候条、(天正20年6月13日付豊臣秀吉朱印状、「成仏寺文書」)


4.身内を引き立てようとする秀吉の意図
跡継ぎの秀頼を除き、弟の秀長、切腹した秀次、その弟の秀勝・秀保と、一門が次々と亡くなっていました。一門と呼べる大名が秀家くらいになっていたのです(小早川秀秋は他家の養子扱い)。秀頼を補佐する次代のリーダーと見込まれていたのかもしれません。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀家は、大名としても約50万石(諸説あり)もの領地を有していました。岡山城は、その本拠地に相応しいものとして大拡張されました。工事が始まったのは1590年(天正18年)とされていますが、その2年前から工事の準備が始まった記録があります(下記補足7)。まず、城の中心部が「石山」から東の方にあった「岡山」に移されました。中心部の本丸は、自然石をあまり加工しないで積まれた、野面積みの高石垣で、最高15メートルあり、関ヶ原前では屈指の高さでした。本丸から西と南側に多くの曲輪を作り、三重の堀で囲みました。当時は、旭川が分流して城の周りを流れていましたが、流れを一本化して本丸の北と東に、天然の堀として通しました(下記補足8)。
城の堀も、元の川の流れを利用したものと言われています。城下町も整備し、西国街道を城下町や旭川に沿って付け替えました。秀家はあまり領国にいなかったようですが、朝鮮から指示を出した文書が残っています(下記補足9)。

(補足7)其元(岡山)普請之事、大石如何程取置候哉、承度候、岡山之詰衆徒ニ戻申候間、其方御呼越候て普請可被仰付候、(天正16年7月26日付花房秀成書簡、「湯浅家文書」)

(補足8)中納言秀家卿当城普請のとき、先づ二流の朝日川を、石を以て西の流をせき入、東一方へ流したり、今の川筋は是也(地誌「和気絹」)

(補足9)
一 あまし(天瀬)の内、さふらい(侍)のほか、商売人一人も不可居住事、
一 しやうはい(商売)人之事、よき家をつくり候ハゝ、新町をはしめ、いつれの屋敷にかきらす、あしき家をこほさせ可遣、但二かひ(二階)つくりたるへき事、
一 大河に橋を可懸之あいた、川東へなり共、心まかせに、や敷(屋敷)とり(ら)すへし、請銭之事、いつれの給人雖為進退、一段可為貫別事、
(文禄2年5月2日宇喜多秀家覚書、「黄薇古簡集」)

城の大きさの移り変わり(現地説明パネルより)
秀家時代の城の範囲(濃色部分、岡山城にて展示)
本丸に残る秀家時代の石垣

そして特徴的なのが、城のシンボルである天守です。3重(屋根が複雑なため4重または5重とも表現される)6階で、建物の高さは20メートル以上ありました。当時の天守台石垣は、技術的な問題から、地形に沿って多角形に作られました。岡山城の場合は、不等辺五角形になっています。そのため一階部分も同じ形になっていて、上の階に行くほど、四角形に修正されていきます。その結果、一重目と二重目(4階まで)が大きな櫓(入母屋屋根)の形をしていて、小さな三重目(5階と6階)が望楼として乗っかっています。このスタイルを望楼型といいますが、岡山城天守は、天守の魁である安土城や秀吉大坂城の姿を引き継いでいると言われています。天守の壁は、黒く塗られた下見板張り(横長の板材を階段状に重ねたもの)で、別名「烏城」のもととなりました。屋根には、特別に許された、金箔瓦が使われ、城主の権威を表していました。
城の改修には、秀吉の指導もあったと言われ、1597年(慶長2年)までに完成しました。

天守古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守模型(岡山城にて展示)
発掘及び復元された金箔瓦(岡山城にて展示)

しかし1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると、状況は一変します。秀吉のバックアップで成り立っていた秀家の権威が低下し「宇喜多騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発したのです。浮田左京亮(うきたさきょうのすけ)など重臣たちと、秀家の政策を進める近臣たち(中村次郎兵衛など)が、惣国検地のやり方などを巡って対立したのです。秀家はこの騒動を治めることができず、徳川家康の裁定に持ち込まれました。結果、多くの家臣が宇喜多家を去ることになりました(浮田左京亮は、関ヶ原で東軍に属し、坂崎出羽守と名前を変えて、津和野城主になります)。

坂崎出羽守肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
津和野城跡

1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦では、秀家軍は西軍主力として戦いますが、敗れました。秀家はわずかな家臣とともに美濃山中に潜伏し、樹正院・芳春院の影なる援助もあって、堺から船で薩摩に乗り付け、島津氏を頼ったのです(下記補足10)。生き延びて、自らの復権を願ったのです。そして2年後に徳川・島津の講和が成立すると、秀家は翌年に伏見に出頭しました。島津氏や家康側近の本多正純(弟が宇喜多に仕官していた)などの助命嘆願が功を奏し、八丈島への配流ということで決着しました。秀家はその後も復権を諦めていなかったそうです。そして1655年(明暦元年)、84歳になるまで生き抜きました。「貴公子」というイメージ以上にしたたかな人物だったのではないでしょうか。

(補足10)我ら心中、申し置き候間、宜しき様にその心得たのみ入り候、以上、今度我ら身上の儀に付いて、一命を顧みられず、山中え罷り越され、その以後、方々堪え難き所、付きそい奉公の儀、誠にもって満足の至り、浅からず候、我ら身上成り立ち候わば、その方事、一かどの身躰に相計らうべく候、今度奉公の程、重ねて忘却なく候、向後も我ら身上の儀、諸事由(油)断なく、その心遣い肝要に候、謹言、(慶長六年五月朔日付難波秀経宛宇喜多秀家書状)

関ヶ原の宇喜多秀家陣跡

悲運の城主・小早川秀秋による近代化

岡山城には、徳川方接収の後、小早川秀秋が備前・美作40万石(諸説あり)の岡山藩主として入城しました。もちろんこれは、関ヶ原合戦の論功行賞によるものです。合戦での秀秋の行動は、徳川家康が命じた「問鉄砲」により動揺し、合戦最中に西軍から東軍に寝返ったという「裏切り者」のストーリーとして語られてきました。しかし最近の研究によると、秀秋は合戦途中ではなく、遅くとも合戦当初から東軍に参加していたことが明らかになっています。しかしこれまでのストーリーの影響もあり、岡山城での秀秋は、豪奢放蕩にに走り、乱行を重ね、ついには狂死したとの説話が残っています。事実として、家老の杉原国政を粛清し、別の家老・稲葉正成は出奔しています(下記補足11)。

(下記11)小早川秀秋は入封後間もなく政治を乱し、ただ放鷹など狩猟にのみうつつを抜かし、時には罪なき者を殺害するようなことさえあった。稲葉内匠頭・杉原紀伊守はもちろんこれを諫めた。殊に杉原紀伊守は厳しく諫言したので秀秋は大層憤慨し、村山越中なる者を討手に差し向け、紀伊守殺害を命じた。(「現代語訳 備前軍記」より引用)

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、最近では秀秋の死因は、若年からの飲酒によるものと言われています。また、1602年(慶長7年)に21歳で亡くなるわずか2年間にしては、多くの業績も残しています。家老の粛清も、自身の近臣を中心とした、家臣団の再編成という一面があったのかもしれません。主な業績として挙げられるのは、総検地の実行、寺社の整備・再建、不要な城の破却、そして岡山城の近代化です。関ヶ原前後の新たな戦い方(大規模な集団戦)に対応するものだったと考えられています。

秀秋はわずか2年の間に、城の面積を倍近くにしたのです(約60→110ヘクタール)。城域を更に西に広げ、三の外曲輪を築き、外堀で囲みました。全長2.5キロメートルの外堀を、家臣・領民を動員してわずか20日間で完成させたと言われ「二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれました。関ヶ原で領地を減らした毛利氏への備えであったという指摘もあります。また、城の中心部でも本丸を南側に拡張し、新たな櫓や門を整備しました。現在でも本丸に小早川時代の石垣を見ることができます。櫓は、破却した城の建物を移築したものと伝わっています(亀山城天守→大納戸櫓、富山城大手門→石山門)。

外堀(二十日堀)跡
本丸の秀秋時代の石垣(右側)
大納戸櫓模型(岡山城にて展示)

秀秋は跡継ぎを残さず亡くなったため、小早川氏は改易となりました。秀秋の早すぎる晩年は、関ヶ原からその死まで、一気に駆け抜けた日々だったと言えるでしょう。もし彼がある程度長生きしたか、跡継ぎがいたならば、彼の関ヶ原や岡山での業績への評価は、もっと違ったものになったのではないでしょうか。まさに悲運の城主でした。

西国の要・池田氏による完成

小早川氏が改易となった後、その領地のうち、備前一国(28万石)が、姫路城主・池田輝政の子、わずか5歳の忠継に与えられました。母親は家康の次女・督姫(とくひめ)でした。忠継は孫ということで家康に可愛がられたそうです。とはいっても、幼少すぎるので、(母親ちがいの)兄・利隆(としたか、当時20歳)が後見しました。池田一門はこの時点で、播磨・備前・淡路・因幡国を領有したので、その総帥・輝政は「西国将軍」と称されました。やがて、輝政が亡くなると、利隆が姫路藩を継ぎ、忠継が自立します。しかし、忠継はそれからわずか1年程の1615年(元和元年)に病気で亡くなってしまいます。その跡を継いだのは弟の忠雄(ただかつ、当時14歳だが大坂の陣には出陣)でした。一方、姫路藩では利隆が1616年(元和2年)に亡くなると、跡継ぎの光政が幼い(8歳)ということで、鳥取藩に移されていました(姫路藩は本多氏へ)。ところが、1632年(寛永9年)に忠雄が亡くなると、今度はその跡継ぎ・光仲(みつなか)が3歳ということで、光政(当時24歳)が岡山に、光仲が鳥取ということになったのです。姫路や岡山は西国の要であり、幕府は、幼少すぎる藩主では任務(西国大名の監視など)を果たせないと考えていたのでしょう。

姫路城
池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
池田忠継肖像画、清泰院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

池田氏の時代に岡山城は完成しました。まず忠継を貢献した利隆が、二の丸内郭や西の丸の整備を行いました。現存する西の丸西手櫓はこの時建てられたと言われています。次の忠雄の代には、本丸中の段(表向)を大幅に拡張し、政務を行うための表書院を築きました。現存する月見櫓が建てられたのもこの時です。藩政を行うための施設が整ったわけです。防御の面でも、大手門を枡形に改修、強化しました。

備前国岡山城絵図(部分、国立公文書館デジタルアーカイブ)
池田利隆肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西の丸西手櫓
池田忠雄肖像画、清泰院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の本丸模型(岡山城にて展示)
月見櫓

光政が藩主になってからは、岡山藩の民政・文化面での発展が見られます。光政は自ら儒学を修め、その学識によって、藩士・領民を導こうと考えていました。そのため教育の振興に努め、1669年(寛文9年)に藩士の子弟のために岡山藩学校を建設しました。また、前年には領内123ヶ所に手習所を設けて庶民の教育普及を始め、1670年(寛文10年)には統合して、閑谷学校を建設しました。これらの建設は、有能な側近・津田永忠などが行いました。特に閑谷学校は、日本初の庶民のための学校と言われています。一方、城下では、城の防衛のために一本化された旭川が度々洪水を起こし、特に1654年(承応3年)の大洪水の被害は深刻でした。光政は救済事業を行うとともに、事前対策も命じました。それが、堤と放水路を組み合わせた「百間川」の開削です。この工事も津田永忠が担当しました。光政は、1672年(寛文12年)に隠居するまで40年に渡って藩政を行いました。

池田光政肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岡山藩学校跡
閑谷学校
百間川の開削 説明パネル(岡山城にて展示)
百間川 二の荒手

跡継ぎの綱政は、文化教養を好む殿様で、閑谷学校を維持する一方、1687年(貞享4年)から旭川を挟んだ城の背後に、庭園「御後園(ごこうえん、後の後楽園)」の造営を始めました。ちょうど百間川が完成を迎える時期で、造営場所は荒地となっていました。この仕事を担当したのも津田永忠です。当初は綱政の趣味を反映して、田園風景を再現したような姿で、実際に農民が耕作していたそうです。また、庭園は藩主専用で、舟で旭川を渡って、その日のうちに城に帰るといった使い方をしていました。それが、代を重ねるごとに、その時の藩主の好みや時世の変化で姿が変わっていきました。例えば、現在の一面の芝生は、財政難で田畑・農民を維持できなくなったために、切り替えたものとのことです。その他、築山や築池などが行われ、現在の姿に至りました。時代が下ると、接待に使われたり、日を限って領民に公開することもありました。

池田綱政肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の後楽園
「御後園絵図」、1863年(文久3年)(文化遺産オンライン)

「岡山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。