70.岡山城 その2

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

岡山駅前の桃太郎像

岡山駅からの正面コース

岡山駅から岡山城までは、2キロくらいあるので、路面電車やレンタルサイクルを利用するのもいいでしょう。

路面電車
岡山市コミュニティサイクル 「ももちゃり」

駅前の「桃太郎大通り」をまっすぐ進むと、道の途中は、すっかり市街地になっていますが、外堀や中堀だった場所がわかるようにパネルが設置されています。

外堀跡
中堀跡

交差点に突き当たった場所は、内堀の中でした。右の方に向かうと、数少ない現存する城の建物の一つ、西の丸西手櫓が姿を現します(国の重要文化財に指定)。かつては、堀に向かってそびえていました。

突き当たりの交差点
西の丸西手櫓

次は、西の丸を回り込んでみましょう。西の丸の石垣が続きます。歩いている道も、堀だったのでしょう。やがて、石山門跡に着きます。建物は残念ながら戦災で燃えてしまいました。入口へは橋が堀を渡っていました。

西の丸石垣
石山門跡

更に進むと、今度は岡山城創建の地が見えてきます。石山の城(旧本丸)です。石垣は、池田氏の時代のもののようです。東側の入口から見ると、今は駐車場になっています。ちなみに、この辺から見える天守の姿は、スマートに見えて面白いです。

石山の城
石山の城への入口
西側から見た天守

いよいよ本丸です。本丸へは、内堀にかかる橋(目安橋)を渡っていきます。渡った先の本丸入口は枡形(四角い防御空間)になっています。内下馬門(うちげばもん)跡です。

目安橋
内下馬門跡

本丸は、三段構成になっていて、高い方から順に、本段、中の段(表向)、下の段と呼ばれています。特に中の段は、小早川・池田時代に拡張されました。門跡から進んでいくと、中の段の隅にある大納戸櫓跡の石垣が見えます。小早川氏の時代に築かれたと言われています。最初に歩いている低い場所が下の段です。

大納戸櫓跡
下の段、中の段の石垣が見えます

本段の石垣も、中の段の入口にかけて改修されています。宇喜多時代の石垣を、小早川・池田時代にかけて継ぎ足したり、修理したりしました。中の段の入口、鉄門(くろかねもん)跡を登っていくと、本段への入口、不明門(あかずのもん、再建)前に着きます。

本段(右)から中の段の入口(左)にかけての石垣
鉄門跡
不明門

旭川沿いの搦手?コース

次のコースは、京橋から旭川沿いに城にアクセスします。京橋は、宇喜多秀家の時代に最初に架けられたそうです。

現在の京橋
川沿いに展示されている江戸時代の京橋の橋脚

川沿いに東門跡、素軒屋敷櫓(そけんやしきやぐら)跡が現れます。こんなところにも門や櫓があったのです。続いて、二の丸伊木長門屋敷内櫓跡もあります。二の丸の重臣の屋敷内にも櫓があったようです。天守も見えてきました。

東門跡
素軒屋敷櫓跡
二の丸伊木長門屋敷内櫓跡
南側から見た天守

本丸に着いたら、石垣を見学しましょう(本段南東部の高石垣)。すごい迫力です。宇喜多秀家時代に築かれたもので、自然石を積み上げた野面積みの手法によります。高さが約15メートルあって、当時は屈指の高石垣でした。見ているうちに、安土城の石垣を思い出しました。やはり、安土城のやり方を引き継いでいるものがあるのでしょう。

本段南東部の高石垣
安土城二の丸の石垣

川沿いに戻って、天守の方に進むと、宇喜多時代と小早川時代の石垣の継ぎ目を見ることができます。後の小早川時代の方が、小さい石を使って積まれています。急いで作ったからなのでしょうか?池田氏の時代に作られた門(六十一雁木下門跡)の跡を見て進むと、天守台石垣に至ります。

2つの時代の石垣の継ぎ目、左側が宇喜多時代、右側が小早川時代
六十一雁木下門跡

オリジナルの天守が焼けたとき、外側の石垣の方に崩れてきたそうです。そのため、石垣も焼けてしまっています。まさに歴史の証人です。

天守台石垣
天守を見上げています

天守の近くにある、本丸裏手の廊下門(再建)から入ると、このコースも本丸・中の段に到着です。

天守のビュースポット
廊下門

天守登閣→御殿めぐり

それでは、不明門から本段の中に入っていきましょう。本段はお殿様の住居なので、普段はこの門が閉ざされていて、こういう名前になったと言われています。本段の中には、オリジナルの天守の礎石が並んでいます。天守焼失後に現在地に移されました。

不明門
オリジナル天守の礎石

現在の外観復元天守の中は歴史博物館になっていますが、最近リニューアルされました。例えば、「城主の間」が再現されていたり、3大名家の「それぞれの関ヶ原」の展示があったりします。

現在の天守(外観復元)
天守地階
城主の間(天守2階)
それぞれの関ヶ原・宇喜多パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・小早川パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・池田パート(天守3階)

天守5階には、金鯱が展示されています。実際に屋根に乗っているものも、同じ階から間近に見ることができます。最上階(6階)では、屋内からではありますが、周りの景色を楽しむことができます。天守1階には休憩コーナがあって、城の解説ビデオを視聴することができます。

展示されている金鯱(天守5階)
屋根の上の金鯱(天守5階から)
最上階からの景色(後楽園)
天守1階

その解説ビデオで殿様の一日を再現していたので、少しトレースしてみましょう。帰りは、天守の脇から廊下門の方に出てみます。お殿様が、本段の御殿から、政務を行った表書院に通ったルートだったからです。お殿様は、門の上の渡り廊下を渡ったのです。

天守から廊下門のところに出ました。

廊下門から、表書院に向かい、中の招雲閣で政務を行い、南座敷で書画に親しみました。現在では、地面の上に間取りが表現されています。そして家老と相談があるときには、茶室で行ってました。

奥が天守、左側が廊下門、手前が表書院のあった中の段
表書院の招雲閣(奥)、南座敷(手前)跡
茶室跡

それから中の段で面白いのが、掘り出された宇喜多時代の石垣が見学できることです。中の段を広げるときに埋められたものです。元は、門の一部だったのでしょうか。

宇喜多時代の石垣

殿様気分で後楽園へ

後楽園に行く前に、現存する月見櫓もチェックしていきましょう。この櫓は池田時代に立てられているので、天守台の石垣や、天守の建物とは雰囲気が違います。石落としが、ばっちりこちらを狙っていて、となりの石垣には銃眼が並んでいます。内側から見たときの優雅な姿とは全然違います。守りのために漆喰で塗り固めたので、戦災を生き残れたという話もあります。現在は、国の重要文化財に指定されています。

現存する月見櫓(外側)
石垣に並ぶ銃眼
内側から見た月見櫓

それでは、後楽園に向かいましょう。

城と後楽園を結ぶ月見橋
後楽園入口(正門)

ここでは、園外の景色も一体として考えているそうです。岡山城もその一つです。

後楽園と借景(操山)
後楽園と借景(岡山城)

かつては、タンチョウが放し飼いにされていました。現在は、秋冬にタンチョウの園内散策が披露されています。

現在の鶴舎

これが、藩主の居間だった延養亭(えんようてい)で、戦災で焼失しましたが復元されています。

延養亭

となりに、鶴鳴館(かくめいかん)という接待用の建物があったのですが、これも戦災で焼失し、戦後に岩国の吉川家のお屋敷(明治時代建築)を移築して、同名の建物として継続しています。

鶴鳴館(移築)

築山(唯心山)は、創建者・池田綱政の子、継政が作りました。ここからだと、芝生や池がよりきれいに見えますが、その中には田んぼ(井田、せいでん)もあります。それは後楽園(御後園)の当初の姿の名残りと言われています。

唯心山
唯心山からの景色(井田)

現存する建物の一つ、流店で休憩するのもいいでしょう。最後は、これも現存する廉池軒(れんちけん)の前にきました。池田綱政のお気に入りの場所だったそうです。貢献した家臣をここに招いたりもしていたそうです。

流店
廉池軒

リンク、参考情報

岡山城公式ウェブサイト
川面に映える金烏城 岡山城、岡山市
岡山後楽園
宇喜多直家公の足跡を巡る、岡山市・瀬戸内市観光連携事業実行委員会
・「現代語訳 備前軍記/土肥経平原著 柴田一編著」山陽新聞社
・「宇喜多直家・秀家/渡邊大門著」ミネルヴァ書房
・「「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家/大西泰正著」角川新書
・「宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性/大西泰正著」平凡社
・「シリーズ・実像に迫る13 宇喜多秀家/大西泰正著」戎光祥出版
・「歴史群像名城シリーズ12 岡山城/学研」
・「よみがえる日本の城5」学研
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「百間川小史」国土交通省岡山河川事務所
・「池田家文庫絵図展(図録) 岡山藩の教育」岡山大学付属図書館、岡山市デジタルミュージアム

「岡山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

13.白河小峰城 その3

旧奥州街道に沿って北の方に行き、阿武隈川が近くなってきたら、左の方に振り向いてみて下さい。素晴らしい光景を見ることができます。それは、小峰城東側石垣という、川に沿った丘の上に広がる180mもの長さの石垣です。

特徴、見どころ

本丸の周りを歩いてみる

城の他の見どころの場所にも行ってみましょう。本丸のもう一つの門であった桜之門跡から外に出て、城主要部分の下段にあたる帯曲輪を歩きながら、本丸石垣を眺めてみます。

本丸周辺の地図

桜之門跡

月見櫓跡が帯曲輪の入口の脇にあるのですが、残っている石垣だけでもとても強力そうに見えます。

帯曲輪入口
下の二の丸から見た月見櫓跡
裏側から見た月見櫓跡

帯曲輪は、本丸の西側と北側を囲んでいます。本丸の長大ですばらしい石垣を眺めながら、リラックスした気分で歩いてみることができます。これらの石垣はとてもよく維持されているように見えるのですが、2011年の東日本大震災のときにはひどく崩壊してしまい、白河市はその後8年間もかかって修復したのです(2019年に修復完了)。

帯曲輪西側
本丸の素晴らし石垣
帯曲輪北側
本丸北面の地震被害と復旧を記した説明板

そうするうちに腰曲輪の、矢之門というもう一つの門の跡に着きます。右側には、本丸の北東隅にそびえる三重櫓の姿が目に入ってきます。しかし、もし敵がここを通ったとしたら、守備兵は櫓の石落としや狭間から猛烈な攻撃を加えていたことでしょう。

矢之門跡
櫓の守備兵がまるでこちらを狙っているようです

城の外側に行ってみる

もう一つのおすすめは、元三の丸だった所に行ってみることです。城の主要部分の東側に当たります。そこは既に市街地になってしまっていて、公共施設が多くあります。このエリアの中に、城の中で唯一現存している建物があります。元は二の丸の太鼓門の脇にあった太鼓櫓です。この建物は民間に売却され茶室に改造された後、1930年から現在の位置に移されているのです。

城周辺の地図

茶室となった太鼓櫓

更に東の方に進んでいくと、国道294号線(旧奥州街道)にぶつかります。その国道に沿って北の方に行き、阿武隈川が近くなってきたら、左の方に振り返ってみて下さい。素晴らしい光景を見ることができます。それは、小峰城東側石垣という、川に沿った丘の上に広がる180mもの長さの石垣です。実はこの石垣は、バイパス工事を行うにあたって、丘の杉林を伐採したことにより最近発見されたものなのです。この石垣は、北方からの脅威から城を守るために建設されたに違いありません。またこの石垣は、北に向かって開いている城の搦手門につながっています。しかし残念ながら、工事現場が間にあるために、今石垣を眺めている位置からは、搦手門に直接行くことはできません。

小峰城東側石垣
阿武隈川にかかる橋から石垣を見ています
石垣の付近は工事現場で立ち入り禁止です
搦手門跡

私の感想

白河小峰城の、よく残されている基礎部分や復元された建物群を見てみると、北からの潜在的脅威から城を守り抜きたいという、築城者の丹羽長重の強い意志を感じました。長重は、当時でも数少ないそういったことを確実に短期間で成し遂げられる数少ない大名の一人だったのでしょう。また、幕末の戊辰戦争に起こった歴史は、そんな強力な城であっても弱点があり、十分な兵力と指揮能力がなければ生き残れないということを教えてくれていると思います。

阿武隈川から見える白河小峰城三重櫓

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の白河中央スマートICから約10分かかります。
公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR白河駅からすぐ近くとなります。駅のホームからも三重櫓の姿がよく見えます。
東京から白河駅まで:東北新幹線に乗って、新白河駅で東北本線に乗り換えてください。目的地は次の駅です。

白河駅のホームから見た白河小峰城跡

リンク、参考情報

小峰城跡、白河市公式ホームページ
・「シリーズ藩物語 白河藩/植村美洋著」現代書館
・「人物叢書 松平定信/高澤 憲治著」吉川弘文館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「よみがえる日本の城17」学研
・「日本の城改訂版第103、145号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「白河小峰城その1」に戻ります。
「白河小峰城その2」に戻ります

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。