57.篠山城 その3

実用的に築かれた城

特徴、見どころ

三の丸から石垣を仰ぎ見る

平らで四角い形の三の丸は、内堀の外、かつ外堀の内側にあります。三の丸を歩いてみると、城の主要部を囲むすばらしい高石垣がよく見えます。特に、天守台石垣はとても良いです。自然石、あるいは粗く加工された石を使って、18mもの高さに積み上げられています。当時の優れた石工集団である穴太衆(あのうしゅう)によって築かれたものです。

城周辺の地図

三の丸
三の丸から見える主要部の高石垣
外側から見た天守台石垣

2つの個性的な現存馬出し

この三の丸には、大手門跡の他に二つの出入り口があります。東門跡と南門跡です。残念ながら両方とも桝形は残っていないのですが、馬出しの方は健在です。東門の方の馬出しは四角い形の公園として残っていて、内堀にかかる細くまっすぐな道を進んでいくと着きます。この馬出しは石垣に囲まれていて、前方と両側を内堀とは別の水堀にも囲まれています。よって、馬出しが過去にはどのように機能したのかよくわかると思います。

東の馬出しに向かいます
馬出しは「東馬出公園」になっています
東馬出しを外側から見ています

南門の方の馬出しにも四角い区画が残っていますが、こちらは石垣ではなく、土塁によって囲まれています。土塁だけを使って作られた馬出しの中では、唯一の現存事例となります。

南門跡
こちらも細い道を通っていきます
南馬出しの内側
土塁によって四角く囲まれています

お時間があるようでしたら、いくつかの現存建物がある御徒町(おかちまち)武家屋敷群を歩いて回ってはいかがでしょうか。城跡の西側にあって、これらの建物が一般公開されています。

一般公開されている「武家屋敷安間(あんま)家史料館」

私の感想

篠山城は、建設の目的からして、極めて実用的に築かれた城だと思います。そのために、天守が築かれなかったということにもなったのでしょう。この城は、大阪城名古屋城姫路城のようなメジャーな城に比べれば、それほど大きくはありません。しかし、その分少ない兵で守れるように設計されています。私がこの城を見たときの第一印象は、まるで兵站基地のようだと思いました。想像するに、篠山城は徳川幕府方が攻勢に出ても、守勢に回っても柔軟に機能を発揮できるようになっていたのではないでしょうか。

この三の丸には兵員や物資をそれなりに収容できるように思います

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の丹南篠山口ICから約10分かかります。城跡の中や周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR篠山口駅から篠山営業所行きの神姫グリーンバスに乗って、二階町バス停で降りてください。徒歩約5分で城跡に到着します。
東京から篠山口駅まで:東海道新幹線に乗って、新大阪駅で京都線に乗り換え、大阪駅で宝塚線に乗り換えてください。

三の丸内にある駐車場
大手門跡前にある駐車場

リンク、参考情報

篠山城大書院の公式ページ、withsasayama
・「史跡 篠山城跡大書院/市教育委員会・篠山城大書院編」丹波篠山市
・「よみがえる日本の城19」学研
・「日本の城改訂版第10号」デアゴスティーニジャパン
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「篠山城その1」に戻ります。
「篠山城その2」に戻ります。

57.篠山城 その1

大坂城包囲網構築のために築かれた城

立地と歴史

天下人にとって重要だった丹波国

篠山城は現在の兵庫県丹波篠山市にありました。兵庫県は大きな県で、関西地方の西側全体をカバーしてしまっているほどです。しかし篠山城は、当時は兵庫県よりずっと小さい丹波国に属していました。それでも丹波国は日本の以前の首都、京都の北西すぐ背後にある丘陵地帯の位置にあったのです。つまり、丹波を制することは、京都を守護することと、西日本の大名たちが中央政界に影響を及ぼす何らかの行動を起こしたか監視するために、とても重要だったのです。

丹波国の範囲と城の位置

天下普請による築城

1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康が、豊臣氏を支持する石田三成を倒したことで、1603年に徳川幕府を設立し、征夷大将軍となりました。しかし、幕府の統制に従わない豊臣氏が大坂城に居座っていたことで、情勢はまだ不安定でした。更には、西日本には豊臣恩顧の大名がたくさんいて、将来幕府に反抗することも考えられました。こういった情勢に対する家康の策略は、大坂城の周辺に強力な城をいくつも築き、豊臣氏を封じ込めるとともに、豊臣氏と豊臣恩顧の大名を引き離すことでした。その城とは、名古屋城伊賀上野城彦根城、膳所城、京都の二条城、亀山城、そして篠山城です。これらの城塞群は幕府の命令に基づく天下普請により築かれ、豊臣恩顧の大名も自費によって動員されたのです。天下普請の間接的な目的としては、大名たちの財力を削ぐこと、そして強力な城のネットワークを見せつけることで、幕府に反抗しようとなどとは思わせないようにすることでした。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が築いた大坂城包囲網

篠山城の建設は1603年に始まり、姫路城主の池田輝政が総奉行を務め、15ヶ国から20もの大名が動員されました。城の縄張りは、築城の名手とされた藤堂高虎が担当しました。篠山城は、篠山盆地の篠山という名の丘陵に築かれました。城の主要部は丘上にあり、自然の地形を利用しつつ、高石垣がその丘を覆いました。それ以外には、シンプルな四角い曲輪群で構成され、二重の水堀に囲まれていました。こういった縄張りの城は、建設するのが容易である一方、城の防御が弱くなってしまうという懸念があります。

池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の主要部、篠山城大書院展示室にある城の模型より
城は二重の堀に囲まれていました、上記模型より

藤堂高虎の縄張り

この城が敵に容易に攻撃されないよう、高虎は城の出入り口の防御を固めるため、「桝形」を採用しました。桝形とは、防御のための四角い空間で、門や石垣により囲み、敵が来てもここで足止めできるようになっていました。もう一つの高虎が採用した防御システムは「馬出し」でした。馬出しとは、城の入口から突き出した四角い曲輪で、堀に囲まれた細い通路によってのみつながっていました。その馬出し曲輪の前にも別の堀がありました。そのため、曲輪の出入り口は両側面にあり、そこから守備兵が反撃のために出撃できるようになっていました。高虎はこれらの仕掛けを、自分自身の城である今治城で確立していて、今治城も篠山城と同時期の1604年に完成しました。

篠山城の大手馬出しと大手門の桝形、上記模型より
今治城
今治城の桝形、現地説明版より

天守は築かれず

こういった先進的な防御システムの一方、篠山城の本丸頂上には天守は築かれませんでした。実は、天守台石垣は築かれたのですが、天守自体は築かれなかったのです。その理由は、幕府がそういった決定を下したためで、天守がなくてもこの城は十分強力だと判断したとされています。他の理由としては、篠山城の建設工事に従事していた大名たちが、名古屋場建設の方に移らなければならなかったという事情もありました。そのため、篠山城はわずか1年半ほどの工事期間で完成しました。本丸には天守の代わりに櫓群が築かれ、二の丸には城主のための御殿が築かれ、城の主要部として機能しました。

篠山城天守台
天守が築かれなかった本丸、上記模型より
篠山城二の丸に復元された御殿の一部、大書院

この城の最初の城主は、徳川家康の親族とされた(松井)松平康重でした。1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした後は、江戸時代末期まで城主だった青山氏など、いくつもの譜代大名が入れ替わりで城主となり、篠山藩として西日本の外様大名の監視に当たりました。

松平康重肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の全体図、現地説明版より

「篠山城その2」に続きます。

81.松山城 その3

城の建物と石垣両方を堪能

特徴、見どころ

本壇とそこに立つ天守

この城のハイライトは、本丸後方にある天守を含む本壇でしょう。まさに壮観であり、現存する建物と復元された建物がうまくミックスされています。

本壇正面

本壇周辺の地図

天守に到達するには一ノ門、二ノ門、三ノ門(いずれも現存)がある本壇内部のジグザグの通路を通っていかねばなりません。その途中には狭間を備えた現存する土塀もあります。狭間からは(昔の守備兵がそうしたように)他のビジターの姿も見えたりします。

一ノ門
二ノ門
三ノ門
現存する筋鉄門東塀(すじがねもんひがしべい)
狭間から人の姿が見えます

そうするうちに天守中庭に到着します。この天守は連立式なので、この中庭は大天守、小天守、その他の櫓群に囲まれていることになります。敵がそれまでに複雑なルートを辿って中庭に着いたとしても、ここでやられてしまうでしょう。

天守群への入口、筋鉄門(すじがねもん)
中庭

現在のビジターは、大天守の地下室である穴蔵から入り、廊下のようになっている他の建物を城に関する展示を見ながら歩いて回ります。実はここ(連立式天守)にある大天守以外の建物は1933年の放火により燃えた後復元されたものです。その際オリジナルと同様に再建されました。よって、そう言われなければ復元されたものとは思えないかもしません。

大天守の穴蔵
連立式の他の建物を先に回ります
復元された小天守への階段
小天守二階
小天守の屋根裏
小天守から中庭を見下ろしています

連立式の建物群を一周した後は、現存する天守にもう一回入ります。最上階の三階に上がるには、急な木造の階段を登っていきます。最上階は開放的で、そこからの景色は更にすばらしいです。

大天守一階
大天守二階
最上階への階段
最上階内部
大天守から西側の眺め(手前が連立式の建物群、奥が市街地と瀬戸内海)
大天守から南側の眺め(手前が本丸、奥が市街地)

素晴らしい石垣群

もしお時間があれば、本丸の裏側の方も見ていただきたいです。こちらにもいくつもの現存または復元建物があるからです。例えば、野原櫓はこの城では最古の部類に入る建物です。二階建ての望楼式の櫓としては唯一の現存事例となります。

本丸周辺の地図

本壇の裏側(左が連立式天守の北隅櫓、右が南隅櫓)
野原櫓

また、搦手門にあたる復元された乾(いぬい)門から外に出て、大手門跡の方に向かって歩いていくと、道すがらすばらしい長大な高石垣を眺めることができます。縦のラインはまるで扇のようで、横のラインはまるで屏風のようでとても美しいです。しかしもともとは城を攻撃する敵を効果的に撃退できるためにこのように作られました。

乾門
本丸北西部分の石垣、向こうに見えるのは野原櫓
本丸北東部分の石垣、一番古い部分とのことです
本壇近くの本丸石垣、見えている建物は本壇二ノ門
石垣が延々と続きます
本丸巽櫓下の素晴らしい石垣

最後に、山麓の方に戻られるときには、県庁裏口を通ってみることをお勧めします。このルートはよく整備されていますし、現存する南登り石垣を間近に見ることができるからです。北側の登り石垣は残念ながらほとんど破壊されてしまったのですが、南側のものは今でも健在で、230m以上もの長さで山坂を覆っています。洲本城彦根城米子城など他の城でも登り石垣が現存していますが、松山城のものはもっともコンディションが良いと言われています。

県庁裏口ルート
ルートに沿っている登り石垣
こちらも延々と続いています
彦根城の登り石垣

私の感想

松山城は、松山市のもっとも有名なシンボルの一つです。市街地を歩いて回ってみると、ほとんどどこからでも山上の建物群を仰ぎ見ることができます。更に、そこに行って見てみると、過去の人たちと同じように、今でも城がどのように築かれ使われたのか理解し且つ追体験できるのです。これは松山市が大変な努力をして、現存している建物などを維持するだけなく、多くの建物を元通りに復元しているからです。私自身もこの城から多くを学びましたし、是非実際に行って見ていただきたいです。

松山城の天守と本壇

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約30分かかります。公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅か伊予鉄道松山市駅から、道後温泉行の市電に乗り、大街道(おおかいどう)停留所で降りてください。公園までは歩いて約5分ほどです。
東京または大阪から松山市まで:飛行機を使い、空港からバスかレンタカーで行かれた方がよいと思います。

リンク、参考情報

松山城
・「よみがえる日本の城10」学研
・「日本の城改訂版第10号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「松山城その1」に戻ります。
「松山城その2」に戻ります。