161.岸和田城 その2

現代の岸和田城へは遠回りして旧紀州街道や城下町を通っていくルートをお勧めします。この道を通ることで城と町がどうやって発展してきたかわかるからです。

ここに行くには

現代の岸和田城には、南海鉄道の岸和田駅か蛸地蔵駅から歩いていくことができます。蛸地蔵駅が一番近いのですが、岸和田駅から西の方に歩いて、岸和田駅南交差点を右折し、そして城見橋交差点を左折して行くと、その途中の岸和田市図書館のところに残る東大手門跡の石垣を見ていくことができます。この門は城の初期段階においては正門の扱いでした。また、図書館の入口と組み合わされているのも面白く感じます。両方の駅からのルートは平坦で行くのも簡単です。

城周辺の地図、青破線が岸和田駅から東大手門を通るルート、赤破線が紀州街道を通るルート

蛸地蔵駅  (licensed by Nankou Oronain (as36… via Wikimedia Commons)
岸和田駅
岸和田駅南交差点
城見橋交差点
東大手門の石垣

しかし、ここでは敢えて遠回りして旧紀州街道や城下町を通っていくルートをお勧めします。どうしてかというと、この道を通ることで城と町がどうやって発展してきたかわかるからです。行きはここを通って、帰りに近い方のルートを選んではいかがでしょうか。もし紀州街道を経由するルートを選ばれたなら、岸和田駅前の商店街を街道に行きつくまで進みます。街道には昔ながらの雰囲気が残り、道沿いには伝統的な建物もあります。街道は意図的にジグザグに曲げられていて、もし敵が攻めてきたときには簡単に町に侵入できないようになっていました。城に近づくにつれ、街道が城がある所より低い位置を通っていることに気づかれるでしょう。現在の海岸線は遠いところにありますが、過去にはこの辺りが海岸線か、もしかすると海より低かったかもしれません。城に向かって緩やかな坂を登り大通りを渡ると、二の丸の見事な高石垣が見えてきます。

岸和田駅前商店街
紀州街道
道が意図的に曲げられています
城は街道からかなり高い位置に見えます
旧城下町
二の丸石垣と水堀

なお、車で行く場合は、阪和自動車道の岸和田南ICか貝塚ICから約30分かかります。城の周りにいくつか岸和田市営の駐車場があります。東京から岸和田駅または蛸地蔵駅までは、東海道新幹線に乗って、新大阪駅で大阪メトロ地下鉄の御堂筋線に乗り換え、なんば駅で南海鉄道に乗り換えてください。

特徴、見どころ

城中心部へ通じる門跡

現在は、本丸と二の丸のみがオリジナルの石垣と水堀とともに残っています。本丸には復興された建物もあります。かつては、北大手門と西大手門が城下町側に開いていました。今では、北大手門があった所は岸和田市役所への入口となり、西大手門があった所は駐車場になっていて、となりにはだんじりホールがあります。ここから城跡に向かうことができます。その道すがら、門の石垣や基礎がいくらか残っているのがわかります。二の丸へは、この両側から堀を渡る土橋を通ってアクセス可能です。

城周辺の航空写真

岸和田城模型の赤丸内が北大手門、青丸内が西大手門
北大手門跡
門の石垣が一部残っています
西大手門跡
二の丸の手前の御薬園の石垣が一部残っているようです

元本丸だったかもしれない二の丸

二の丸には御殿や、伏見城から移設されたと伝わる伏見櫓がありました。現在では観光交流センターなどの施設が建っています。この曲輪はかつては実際に、丘陵の端にあって海に臨んた位置にあったように見えます。また、この城がまだ小さかったころには、この曲輪が海を背にして、元は本丸という扱いだったとも言われています。こういうことを知ってみると、ここからもとは海だった市街地を眺めてみたいと思うのですが、その方向には高い垣根が巡らされていて、景色を見ることができません。

岸和田城模型の二の丸部分、赤丸内が伏見櫓
現存する二の丸石垣、手前側が伏見櫓があった場所
現在の二の丸内部
垣根のため、眺望はよくありません

「岸和田城その3」に続きます。
「岸和田城その1」に戻ります。

57.篠山城 その3

実用的に築かれた城

特徴、見どころ

三の丸から石垣を仰ぎ見る

平らで四角い形の三の丸は、内堀の外、かつ外堀の内側にあります。三の丸を歩いてみると、城の主要部を囲むすばらしい高石垣がよく見えます。特に、天守台石垣はとても良いです。自然石、あるいは粗く加工された石を使って、18mもの高さに積み上げられています。当時の優れた石工集団である穴太衆(あのうしゅう)によって築かれたものです。

城周辺の地図

三の丸
三の丸から見える主要部の高石垣
外側から見た天守台石垣

2つの個性的な現存馬出し

この三の丸には、大手門跡の他に二つの出入り口があります。東門跡と南門跡です。残念ながら両方とも桝形は残っていないのですが、馬出しの方は健在です。東門の方の馬出しは四角い形の公園として残っていて、内堀にかかる細くまっすぐな道を進んでいくと着きます。この馬出しは石垣に囲まれていて、前方と両側を内堀とは別の水堀にも囲まれています。よって、馬出しが過去にはどのように機能したのかよくわかると思います。

東の馬出しに向かいます
馬出しは「東馬出公園」になっています
東馬出しを外側から見ています

南門の方の馬出しにも四角い区画が残っていますが、こちらは石垣ではなく、土塁によって囲まれています。土塁だけを使って作られた馬出しの中では、唯一の現存事例となります。

南門跡
こちらも細い道を通っていきます
南馬出しの内側
土塁によって四角く囲まれています

お時間があるようでしたら、いくつかの現存建物がある御徒町(おかちまち)武家屋敷群を歩いて回ってはいかがでしょうか。城跡の西側にあって、これらの建物が一般公開されています。

一般公開されている「武家屋敷安間(あんま)家史料館」

私の感想

篠山城は、建設の目的からして、極めて実用的に築かれた城だと思います。そのために、天守が築かれなかったということにもなったのでしょう。この城は、大阪城名古屋城姫路城のようなメジャーな城に比べれば、それほど大きくはありません。しかし、その分少ない兵で守れるように設計されています。私がこの城を見たときの第一印象は、まるで兵站基地のようだと思いました。想像するに、篠山城は徳川幕府方が攻勢に出ても、守勢に回っても柔軟に機能を発揮できるようになっていたのではないでしょうか。

この三の丸には兵員や物資をそれなりに収容できるように思います

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の丹南篠山口ICから約10分かかります。城跡の中や周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR篠山口駅から篠山営業所行きの神姫グリーンバスに乗って、二階町バス停で降りてください。徒歩約5分で城跡に到着します。
東京から篠山口駅まで:東海道新幹線に乗って、新大阪駅で京都線に乗り換え、大阪駅で宝塚線に乗り換えてください。

三の丸内にある駐車場
大手門跡前にある駐車場

リンク、参考情報

篠山城大書院の公式ページ、withsasayama
・「史跡 篠山城跡大書院/市教育委員会・篠山城大書院編」丹波篠山市
・「よみがえる日本の城19」学研
・「日本の城改訂版第10号」デアゴスティーニジャパン
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「篠山城その1」に戻ります。
「篠山城その2」に戻ります。

57.篠山城 その1

大坂城包囲網構築のために築かれた城

立地と歴史

天下人にとって重要だった丹波国

篠山城は現在の兵庫県丹波篠山市にありました。兵庫県は大きな県で、関西地方の西側全体をカバーしてしまっているほどです。しかし篠山城は、当時は兵庫県よりずっと小さい丹波国に属していました。それでも丹波国は日本の以前の首都、京都の北西すぐ背後にある丘陵地帯の位置にあったのです。つまり、丹波を制することは、京都を守護することと、西日本の大名たちが中央政界に影響を及ぼす何らかの行動を起こしたか監視するために、とても重要だったのです。

丹波国の範囲と城の位置

天下普請による築城

1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康が、豊臣氏を支持する石田三成を倒したことで、1603年に徳川幕府を設立し、征夷大将軍となりました。しかし、幕府の統制に従わない豊臣氏が大坂城に居座っていたことで、情勢はまだ不安定でした。更には、西日本には豊臣恩顧の大名がたくさんいて、将来幕府に反抗することも考えられました。こういった情勢に対する家康の策略は、大坂城の周辺に強力な城をいくつも築き、豊臣氏を封じ込めるとともに、豊臣氏と豊臣恩顧の大名を引き離すことでした。その城とは、名古屋城伊賀上野城彦根城、膳所城、京都の二条城、亀山城、そして篠山城です。これらの城塞群は幕府の命令に基づく天下普請により築かれ、豊臣恩顧の大名も自費によって動員されたのです。天下普請の間接的な目的としては、大名たちの財力を削ぐこと、そして強力な城のネットワークを見せつけることで、幕府に反抗しようとなどとは思わせないようにすることでした。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が築いた大坂城包囲網

篠山城の建設は1603年に始まり、姫路城主の池田輝政が総奉行を務め、15ヶ国から20もの大名が動員されました。城の縄張りは、築城の名手とされた藤堂高虎が担当しました。篠山城は、篠山盆地の篠山という名の丘陵に築かれました。城の主要部は丘上にあり、自然の地形を利用しつつ、高石垣がその丘を覆いました。それ以外には、シンプルな四角い曲輪群で構成され、二重の水堀に囲まれていました。こういった縄張りの城は、建設するのが容易である一方、城の防御が弱くなってしまうという懸念があります。

池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の主要部、篠山城大書院展示室にある城の模型より
城は二重の堀に囲まれていました、上記模型より

藤堂高虎の縄張り

この城が敵に容易に攻撃されないよう、高虎は城の出入り口の防御を固めるため、「桝形」を採用しました。桝形とは、防御のための四角い空間で、門や石垣により囲み、敵が来てもここで足止めできるようになっていました。もう一つの高虎が採用した防御システムは「馬出し」でした。馬出しとは、城の入口から突き出した四角い曲輪で、堀に囲まれた細い通路によってのみつながっていました。その馬出し曲輪の前にも別の堀がありました。そのため、曲輪の出入り口は両側面にあり、そこから守備兵が反撃のために出撃できるようになっていました。高虎はこれらの仕掛けを、自分自身の城である今治城で確立していて、今治城も篠山城と同時期の1604年に完成しました。

篠山城の大手馬出しと大手門の桝形、上記模型より
今治城
今治城の桝形、現地説明版より

天守は築かれず

こういった先進的な防御システムの一方、篠山城の本丸頂上には天守は築かれませんでした。実は、天守台石垣は築かれたのですが、天守自体は築かれなかったのです。その理由は、幕府がそういった決定を下したためで、天守がなくてもこの城は十分強力だと判断したとされています。他の理由としては、篠山城の建設工事に従事していた大名たちが、名古屋場建設の方に移らなければならなかったという事情もありました。そのため、篠山城はわずか1年半ほどの工事期間で完成しました。本丸には天守の代わりに櫓群が築かれ、二の丸には城主のための御殿が築かれ、城の主要部として機能しました。

篠山城天守台
天守が築かれなかった本丸、上記模型より
篠山城二の丸に復元された御殿の一部、大書院

この城の最初の城主は、徳川家康の親族とされた(松井)松平康重でした。1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした後は、江戸時代末期まで城主だった青山氏など、いくつもの譜代大名が入れ替わりで城主となり、篠山藩として西日本の外様大名の監視に当たりました。

松平康重肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の全体図、現地説明版より

「篠山城その2」に続きます。