立地と歴史
氏郷、2人の天下人に抜擢される
松坂城は、現在の三重県松阪市にありました。三重県はかつては伊勢国と呼ばれていました。この城は最初は1588年に蒲生氏郷によって築かれ、その後は他の大名たちによって維持されました。氏郷は、日本の人々にさえ、その能力と業績の割にはあまりよく知られていません。これは恐らく、彼自身が40歳で早く亡くなり、彼の跡継ぎもまた早くなくなったことで家が断絶してしまったからだと思われます。その結果、氏郷に関する記録や伝承があまり残っていないのです。彼は、彗星のように現れ去っていった、孤高の大器だったのでしょう。
蒲生氏郷は、現在の滋賀県にあたる近江国出身です。蒲生氏はもともと、戦国時代にこの国にあった観音寺城を拠点としていた六角氏に仕えていました。その後天下人となる織田信長が1568年に近江国に侵攻したとき、蒲生氏は信長に降伏し、跡継ぎであった氏郷を人質として差し出しました。しかし信長は、あまたの他の氏族からも来ている人質たちの中で、氏郷の才能が際立っていることを見抜き、自分の娘を氏郷に娶わせたのです。氏郷は信長の親族となりました。1582年の本能寺の変で信長が殺された後は、氏郷は次の天下人となる豊臣秀吉を支持します。1584年、彼は秀吉により伊勢国12万石の領主に抜擢されました。彼は最初は以前の領主がいた松ヶ島城に住んでいたのですが、新しい本拠地を築くことに決めました。それが松坂城でした。
伊勢国の範囲と城の位置天下人を見習い、城と城下町を建設
氏郷は、新しい城の主要部分を、以前の城の近くにあった丘の上に築きました。丘上にはいくつもの曲輪が置かれましたが、全て高石垣により囲まれていました。この石垣は、氏郷の故郷である近江国から、石工の職人集団である穴太衆を招いて築かれました。また、主要部はこれら石垣と、食い違い虎口、複雑な通路に沿って建てられた櫓群により強固に守られていました。丘の頂上にあった本丸上段には、三層の天守がありました。三の丸は丘の周辺に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして、水堀がその周りを囲んでいました。氏郷はまた、城の周りに城下町を建設し、「近江商人」として知られていた彼の故郷の商人たちを呼び寄せました。総じて氏郷は、主君の信長や秀吉が行ってきたやり方に習い、彼の考えや経験も加えて、城や城下町を築き上げたのです。彼は最後に、その城の名前を「松坂」としました。縁起がいい言葉である「松」と、そのときの主君、秀吉の城、大坂城から一字もらい受けた「坂」を組み合わせたものでした。
秀吉による天下統一がなされた直後の1590年、氏郷は再び加増移封となり、東北地方の押さえとなるために、会津に入りました。彼の領地は最終的には91万石に達し、日本有数の大大名となりました。彼は、そこにあった城(黒川城)に大改修を加え、松坂城のように高石垣と天守を築きました。彼はこの城を若松城と改名しました。また彼は、東北地方の大名であった南部信直に高石垣を使った城を築くようアドバイスしたと言われています。その城は氏郷の死後完成し、盛岡城となりました。これら2つの城は、東北地方においては非常に稀な、総高石垣による城作りの事例です。氏郷はまた、高名な茶人、歌人であり、クリスチャンでもありました。ところが、1595年に不幸にも病死してしまいます。
困難だった城の維持
氏郷が松坂城を離れた後は、服部氏、古田氏、(紀州)徳川氏によって引き継がれました。前者の2家は、氏郷の時代よりも領地が少なく、氏郷の築いた城を維持していくのが困難でした。徳川氏は御三家の一つでしたが、その本拠地は和歌山城であったため、事情は一緒でした。松坂城の石垣はなんとか修繕されましたが、建物の方は時が経つにつれ劣化していきました。例えば、1644年の暴風雨により天守が崩壊しましたが、再建されませんでした。また、江戸時代末期には裏門の屋根は茅葺きとなっていました。一方、城下町は江戸時代には大いに繁栄しました。城の商人たちは「伊勢商人」として知られるようになります。一例を挙げると、現在の三越百貨店につながる三井越後屋呉服店の創業者、三井高利はこの町の出身です(江戸に出て同店を開業)。