立地と歴史
有馬氏が島原半島に築城
原城は、1638年の島原の乱終焉の地として知られています。この城は、九州地方の西部、島原半島の突端近くに築かれました。この地方の戦国大名の一つ、有馬氏が15世紀の終り頃に最初にこの城を築きました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。島原半島には、1563年にポルトガルの宣教師が来航し布教を始めた口之津港がありました。キリスト教はこの半島周辺に急速に広まり、この地域は貿易によっても繁栄しました。晴信は、有馬氏が以前に築いた日野江城を居城としていました。彼は、17世紀初めに原城の大改修を行いました。恐らくは新しい本拠地とするためだっと思われます。ところが、彼は原城に移ろうとする前の1612年に、徳川幕府により罰せられてしまいます(岡本大八事件)。彼の息子も1614年に他の地に移されました。
城の位置自然の地形を生かし、本丸には豪華な石垣
原城は、有明海に沿ったいくつもの丘陵の上に築かれました。本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ独立した丘陵に築かれたのです。これらの丘陵の海際は急な崖になっていました。また、自然の地形を生かした広大で深い空堀によって隔てられていました。そして、陸地側は沼沢地となっていました。すなわち、この城の防御力は非常に高かったのです。特に、本丸は周りを全て石垣によって囲まれていました。虎口と呼ばれる入口は大規模で、食い違いの巨石を使って、ジグザグに進むルートが設定されていました。本丸の中には、天守か大きな櫓がありました。これらの構造物は、城主の権威を表していたと考えられます。二の丸と三の丸は土造りで、恐らくは武家屋敷地として使われていました。有馬氏を引き継いだ松倉氏は、原城を使わず、本拠地として新しく島原城を築きました。原城は1615年に一時廃城となりましたが、少なくとも石垣を含む基礎部分はそのまま残っていました。
城周辺の起伏地図松倉氏の圧政により島原の乱が発生
松倉氏は、領内の農民やキリスト教徒に圧政を加えました。1612年以降、徳川幕府はキリスト教信者になることを禁じていました。1637年、島原半島の人々は、同じような状況に陥っていた有明海を隔てた天草の人々と一緒に、松倉氏と幕府に対して反乱を起こしました。彼らは公には、カリスマ的なクリスチャンの少年、天草四郎の下に統率されていましたが、実際には有馬氏や他の大名に以前仕えていた浪人衆によって指導されていたのです。反乱軍は最初、松倉氏の本拠地である島原城を攻撃するも失敗しました。そして、自ら原城を修理し、そこに立てこもることにしたのです。その理由としては、彼らは日本の他の地域のキリスト教徒や、ポルトガルのようなカトリック国からの援軍を待っていたのだと言われています。
3ヶ月の籠城の後に壊滅
1637年の12月に、婦女子を含む3万7千人が籠城を始めました。幕府からの追討軍は、最初は城を強攻しましたが失敗します。幕府軍の指揮官である板倉重昌(しげまさ)までが、銃撃により命を落としました。城が強力であったことと、その反撃の方法が玄人レベルにあったためです。幕府軍は戦術を変え、12万人の兵力で城を包囲することにしました。この籠城戦は3ヶ月近く続きます。しかしその間、反乱軍に対する援軍はついに現れませんでした。1638年2月の終わりに、守備側の兵糧が尽きたことを見計らい、幕府軍は城に総攻撃をかけました。原城は落城し、反乱軍は壊滅しました。
反乱軍の生き残った人々に対する処置は過酷でした。いくらかの逃亡者以外のほとんど全ての人たちは殺されました。多くのクリスチャンたちは、殉教者として自ら処刑されることを望んだといいます。原城は、幕府により完全に破壊され、そして埋められました。処刑された人々の遺体も、城とともに埋められたのです。この地域の領主、松倉勝家は、失政のかどで処刑されました(名誉ある切腹ではなく斬首されました)。島原の乱は、日本の歴史の中の最も大きな悲劇の一つでした。この事件はまた、徳川幕府による鎖国政策の導入を加速することにもなったのです。