142.苗木城 その3

武士たちがこの城を長い間守り続けました。

特徴、見どころ

馬洗岩、二の丸、写真スポット

城周辺の地図

頂上から別の道を下っていくと、この辺りでは一番大きい巨石が見えてきます。ちょうど天守台の下にあり、馬洗岩と呼ばれていて、その周囲は約45メートルもあります。自然の力の偉大さを感じさせます。

上から見た馬洗岩
横から見た馬洗岩
天守台の下の方にあります

二の丸は、頂上からはずっと下の方にあり、かつては城主のための御殿がありました。その御殿は曲輪からはみ出すように作られており、ここでも懸け造りの工法が採用されていました。

二の丸
二の丸は天守台からずっと下にあります

更に、城跡全景を見てみたいときは、帰り道に別のルートを通ると写真スポットがあり、そこから見える城跡の姿も壮観です。

足軽長屋跡近くの脇道を行きます
展望台から見た写真スポット(そこだけ木が伐採されています)
城跡全景
天守台もよく見えます

その後

明治維新後、苗木城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。城があった山は、木々に覆われ自然に帰っていきました。しかし、石垣を含む城の基礎部分は健在であったため、1981年に国の史跡に指定されました。この城跡は近年、自然の岩と石垣の組み合わせ、素晴らしい景色などのユニークな特徴により、知られるようになってきました。ビジターから城跡の主要部がよく見えるよう樹木を伐採するようなことも行われています。

天守台を見上げています
天守台で見られる懸け造り、自然石、石垣のコラボレーション

私の感想

苗木城には、自然石を使った最も古い形式から、そこから進化したものまで、6つのタイプの石垣があったと言われています。これは、苗木藩が250年以上続いた平和な江戸時代じゅう、住むには厳しい環境下において、石垣を築き、修繕し続けたことによります。このことに、強い印象を受けました。

城跡入口付近で見られる「谷積み」
大矢倉跡の裏手、北門跡で見られる「打ち込みハギ」
大矢倉跡で見られる「切り込みハギ」
頂上への登り口周辺で見られる「野面積み」

そして、苗木城と似たケースがあることを思い出しました。それは九州にある岡城のことです。この城も、苗木城と同じように岩山の上に築かれました。この城も防御力は最高でしたが、住むにはとても困難なところでした。そのため、明治維新の後は武士たちはあっという間に城から消え去ってしまったのです。

岡城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには車を使われることをお勧めします。
中央自動車道の中津川ICから約10分のところです。城跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、中津川駅から、付知峡倉屋(つけちきょうくらや)温泉行きか、 加子母(かしも)総合事務所行きの北恵那交通バスに乗り、苗木バス停で降りてください。バス停から歩いて約20分かかります。
(期間限定で、中津川駅から城跡まで直行のバスが出ているようです。)
東京か大阪から中津川駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で中央本線に乗り換えてください。

中津川市苗木遠山史料館の駐車場
城跡入口前の駐車場

リンク、参考情報

国指定史跡 苗木城跡 中津川観光協会公式Webサイト
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第4号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城16」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「苗木城その1」に戻ります。
「苗木城その2」に戻ります。

16.箕輪城 その3

戦国時代の武将だとしたら、誰の生き方を選ぶでしょうか。

特徴、見どころ

大手道沿いに残る石垣

また、大手道を丘の西側から登っていくか、二の丸の方から下っていくこともできます。大手道は三の丸を通っていて、あちこちに現存する石垣を見ることができます。石垣を築いた井伊直政は、この道を通る人々に城主としての権威を示そうとしたのです。井伊氏は、後にもっと立派な石垣を使って彦根城を築くのですが、この時点では、彼らの持てるだけの力で箕輪城のこの石垣を築いたのです。

城周辺の地図

大手口
大手口近くの鍛冶曲輪に残る石垣
鍛冶曲輪から三の丸へ
三の丸の現存石垣
彦根城の石垣

その後

箕輪城跡は1987年に国の史跡に指定されました。その後、1998年から2006年の間、城跡を所有する高崎市が発掘作業を広範に実施しました。それ以来、市によって歴史公園として整備されています。

整備された郭馬出
大堀切を渡る土橋と石垣も整備されました
大堀切の底を通る通路

私の感想

長野業政やその一族が、主君や自らの領地を守るために一心に尽くす姿に感銘を受けました。しかしその一方で、小幡氏や真田氏のようにまるで違う生き方をした武将たちも存在したのです。もしあなたが戦国時代の武将だったとしたら、どの生き方を選ぶでしょうか。ついでながら、その武将たちの生き方を現在に例えるならば、長野氏の人生は長い間同じ会社で働く人、小幡氏の場合は転職を繰り返す人、真田氏は自ら事業を起こす人といった具合でしょうか。戦国時代の武将たちの生き方を学ぶことで、現在の自分自身の生き方にも参考になるのではないでしょうか。

長野業政木造、長純寺蔵(高崎市ホームページより引用)
「長篠合戦図屏風」に描かれた小幡信真、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
真田幸隆の後継者で独立を目指した真田昌幸の肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

ここに行くには

この城跡に行くのには、車を使われることをお勧めします。
関越自動車道の高崎ICか前橋ICから約30分かかります。城跡にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、高崎駅から伊香保温泉行の群馬バスに乗り、城山入口バス停で降りてください。バス停から歩いて約5分のところです。
東京から高崎駅まで:上越新幹線に乗ってください。

搦手口の前にある駐車場
大手口近くの駐車場

リンク、参考情報

箕輪城跡(観光情報) 高崎市
・「箕輪城と長野氏/近藤義雄著」戒光祥出版
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書

これで終わります。ありがとうございました。
「箕輪城その1」に戻ります。
「箕輪城その2」に戻ります。

141.郡上八幡城 その3

最古の木造再建天守

特徴、見どころ

松の丸、城の裏手

天守の他には、腰曲輪の上段にある通路を通って、松の丸に行ってみることもできます。そこには「凌霜隊(りょうそうたい)」の記念碑があります。この隊は、明治維新のとき、郡上藩が新政府を支持した際、脱藩しました。そして、若松城で新政府軍と戦っていた、幕府を支持する諸藩の軍に加わったのです。

腰曲輪上段(桜の丸と松の丸の間の通路)
腰曲輪上段を通って松の丸へ移動
松の丸の内部
凌霜隊の記念碑

頂上にある駐車場は、もとは城の背後にあった堀切の一つでした。そこでは、1600年の戦いにおいて激戦が展開されました。そこには井戸の跡があり、戦いで戦死した武士の首を洗った場所だと言われています。

頂上にある駐車場
「首洗い」井戸跡

その後

明治維新にしたがって郡上八幡城は廃城となり、全ての城の建物は撤去されました。1932年、当時の八幡町長であった仲上忠平(なかがみちゅうへい)は、町の活性化のために天守を再建することを提案しました。他の町民も賛成し、再建のための寄付が募られました。その再建天守は、その当時現存していた大垣城天守の外観を参考に建設されました。しかし、その大垣城の天守は1945年の大垣空襲により焼け落ちてしまうのです。また再建天守は、町から見上げた時にどのように見えるかということも考慮して建てられました。その再建が完成したのは1933年のことです。

大垣城の古写真、右側が天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
郡上八幡城の再建天守

私の感想

郡上八幡を訪れてみて、美しい城を街のシンボルとして築いた、その目的は十分達成されているように思いました。街のどこからでも天守のよき姿を望むことができるからです。そして、オリジナルの天守がそこにあろうとなかろうと、この城は街の人たちにとって今でもとても大切で、欠くべからざる存在なのだということがわかりました。

街から見える天守
腰曲輪の石垣
天守からの眺め

ここに行くには

車で行く場合は東海北陸自動車道の郡上八幡ICから約15分かかります。
公共交通機関を使う場合は、郡上八幡城下町プラザから歩いて約20分かかります。
東京か大阪から城下町プラザまで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で東海道線に乗り換え、岐阜駅で降ります。そして、岐阜バス高速八幡線に乗り、城下町プラザバス停で降りてください。

山麓にある駐車場
山の中腹にある駐車場

リンク、参考情報

郡上八幡城 日本最古の木造再建城
・「新 八幡城ものがたり(改訂版)」郡上市
・「よみがえる日本の城16」学研

これで終わります。ありがとうございました。
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