196.佐土原城 その3

この城跡に出かける前にはどこまで行けるのか確認しておきましょう。

特徴、見どころ

一部通行可能な大手道

山上へ向かう大手道は、2023年5月の時点では修復中のため途中から通行止めになっています。そのため、このルートの全部を通ってみることはまだできません。しかし、山麓から修復地点の手前まで登って行くか、頂上の方から下ってみることはできます。このルートは基本的に山の別の峰に沿って進んでいて、その入口部分は両側を垂直に削られた崖に囲まれた、大きく且つ深い谷の底を通っています。現代のビジターは築城者の見事な仕事による素晴らしい景色を楽しむことができますが、過去にこの城を攻撃しようとする敵にとっては、守備側からどのような反撃を受けるのか脅威に感じたでしょう。入口からは狭い道が、峰を右側に見ながら続いていて、過去には守備兵がその峰から攻撃してきたでしょうし、現代では土砂崩れが発生して道を簡単に壊してしまいそうです。

城周辺の地図

大手道への案内板
大手道入口
右側の峰に沿って進んでいきます
ここから通行止めです

修復地点から上の方は、大手道は右に曲がってもう一つの峰を越えて本丸に至ります。その峰を越える部分には、人工の堀切が掘られていて、その地点も防衛拠点となっていました。

大手道は堀切を越えて本丸に至ります
堀切から下の通行止め地点

その後

明治維新により、佐土原藩の親戚筋である薩摩藩が、日本の政治の実権を握りました。両藩の藩主はもともと同じ島津氏であったことで、佐土原藩も維新の事業に加わりました。佐土原藩の最後の藩主となった島津忠寛(ただひろ)は、本拠地をより便利な地である広瀬に移そうとしました。彼は1869年に、そこに新しい城の建設を始め、佐土原城を廃して建物は全て撤去されました。ところが1871年に中央政府が廃藩置県を行うことになり、工事は中止となってしまいました。

島津忠寛写真、「宮崎県史 別編 維新期の日向諸藩」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城跡は長い間、恐らく山麓の平地だけでしょうが、畑地となっていました。その平地にあった二の丸の発掘が1989年に行われ、1993年にはそこにあった御殿が復元されました。本丸の発掘も1996年に行われ、天守台の基礎部分が発見され、それとともに天守でよく使われた金箔瓦も見つかっています。それをもって、今のところ佐土原城には日本で一番南に位置する天守があったのではないかとされています。それらの成果をもとに、2004年に城跡は国の史跡に指定されました。

山上の本丸

私の感想

私は、佐土原城跡に都合3回行っています。最初は何年も前であまりよく覚えていません。2回目の訪問は2022年で、自然災害により山上への2つのルートが全て通行止めになった直後でした。とてもがっかりしました。そのニュースも、シラス台地の崩れやすい性質のことも全然知らなかったのです。1つのルートが再開したというよい知らせを聞いてから、やっと山上を再び訪れることができました。そのとき山頂周辺を歩き回ったのですが、まだ通行止めになっている箇所があり、通路の脇には倒木がありました。そのことで、この城跡を維持する難しさと、それが敵が攻めてくるのを防ぐことにもなっていたのだと実感しました。もし、この城跡に行かれるのでしたら、道が開いているかどうかチェックしてから出発してください。

もう一つの主要曲輪、南の城は立ち入り禁止でした
竹ではありますが、風雨でたくさん倒れていました

ここに行くには

車で行く場合:東九州自動車道の西都ICから約10分のところです。城跡の前に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、宮崎駅から西都バスセンター行きの宮崎交通バスに乗って、交流センター前バス停で降りてください。
東京または大阪から宮崎駅まで:飛行機で宮崎空港に行ってから、宮崎空港線に乗ってください。

復元御殿前の駐車場

リンク、参考情報

宮崎市佐土原歴史資料館
・「よみがえる日本の城18」学研
・「日本の城改訂版第89号」デアゴスティーニジャパン
・「三位入道(短編集「奥羽の二人」より)/松本清張著」講談社

これで終わります。ありがとうございました。
「佐土原城その1」に戻ります。
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17.Kanayama Castle Part3

This castle might have become more popular.

Features

Living and Religious places in Castle

The enclosures on the upper tiers were used as another pivot point as well as a place for living. The team found traces of kitchen stoves and a well, which were restored with a hut on the Southern Upper Tier Enclosure at the same time as the stone walls. The Southern Enclosure on the top of the tiers is used as the rest house, which is another viewing spot.

The map of the main portion of the castle

The restored hut on the Southern Upper Tier Enclosure
The restored kitchen stoves in the hut
The Southern Enclosure and the rest house on it
A view from the Southern Enclosure

To reach the Main Enclosure on the top of the mountain, you will pass and see a larger pond being covered with stone mounds as well, called Hi-no-ike or the Sun Pond. This is actually not a reservoir but a well, which had been famous as a holy place since the Ancient Times before the castle was built. That’s why people in the castle used it for religious services.

The Sun Pond
The Sun Pond viewed from above

Main Enclosure is used as Shrine

Around the top of the mountain is the Main, Second, Third Enclosures, but you can not access the two of the latter because they are privately owned. You will eventually go to the Main Enclosure on the top, which is now used as Nitta Shrine. As for the castle ruins, you can walk around the enclosure, called Musha-bashiri or the Defense Passage, and see the partially remaining original stone walls which are also uncertain as to who first built them.

The Second Enclosure is not allowed to enter
Nitta Shrine in the Main Enclosure
A view from the Main Enclosure
The remaining stone walls behind the Main Enclosure
The Defense Passage around the Main Enclosure

Later History

After Kanayama Castle was abandoned, the Tokugawa Shogunate banned people from entering its mountain area to provide Matsutake mushroom to the shoguns during the Edo period. In fact, the Matsutake produced at the mountain was served to the Imperial Families until 1964.

A view of the Eastern hiking course, there are still Japanese red pines that could provide Matsutake mushroom, but they can’t produce it now because of aging

The shogunate also conserved the former area of the Nitta Manor by building religious facilities such as Serada Toshogu Shrine, Kinryuji and Daikoin Temples as they had declared the shoguns were a branch of the Nita Clan, which meant they were descendants of the Minamoto Clan. Even the shogunate needed the authority to govern the whole country. As for castle ruins, Kanayama Castle ruins were designated as a National Historic Site in 1934. Ota City has been excavating and developing them as a historical site since 1995.

Serada Toshogu Shrine
Kinryuji Temple
Daikoin Temple

My Impression

When the Yura Clan was banished from Kanayama Castle, only the lord’s mother, Myoinni was against the idea of Hojo Clan keeping the castle. Even after she gave it up, she joined Maeda’s troops to attack the Hojo Clan in 1590 when she was already 77 years old. That caused the Yura Clan to survive while the Hojo Clan to decline in the end. I guess if she and the Yura Clan could still stay in the strong Kanayama Castle even with only a few defenders, there might have been a dramatic event at the castle when Hideyoshi invaded the Kanto Region like Nagachika Narita fought with Mitsunari Ishida at Oshi Castle.

The ruins of Ushiku Castle  (licensed by Monado via Wikimedia Commons)
The ruins of Oshi Castle

How to get There

I recommend using a car when you visit the castle ruins because there are no buses that go directly to the ruins available. It is about a 10-minute drive away from Ota-Kiryu IC on the Kita-Kanto Expressway. There are several parking lots at the foot, halfway up, and at the top of the mountain.
If you want to use public transportation, it takes around 1 hour from Ota Station. It would be better to take a taxi from the station.
From Tokyo to Ota Station: Take the JR Ueno-Tokyo Line from Tokyo Station and transfer to the Ryomo limited express on the Tobu Isesaki Line at Kitasenju Station.

That’s all. Thank you.
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17.金山城 その3

金山城はもっと有名になっていたかもしれません。

特徴、見どころ

城の生活の場と聖地

谷の上段の方の曲輪群は、防衛の拠点であるとともに生活の場としても使われました。発掘によって、カマドや井戸の跡が発見されています。これらは、石垣と同じ時期に大手虎口南上段曲輪に、小屋とともに復元されています。最上段のところにある南曲輪は、現在休憩所として使われていて、ここも景色がよい所です。

城主要部の地図

大手虎口南上段曲輪に復元されている小屋
小屋の中に復元されたカマド
南曲輪と休憩所
南曲輪からの景色

山の頂上にある本丸に行くには、「日ノ池」と呼ばれる、これも石積みによって覆われていますが、月ノ池よりもっと大きな池を通り過ぎていきます。これは実は貯水池ではなく、井戸なのです。この城が築かれるよりずっと前の古代のときから聖地として人々の間で知られていました。よって、城にいた人たちもこの池を宗教的な儀式の際に使っていました。

日ノ池
上方から見た日ノ池

神社になっている本丸

山の頂上周辺には、本丸、二の丸、三の丸があります。しかし後者の二つの曲輪は私有地となっているので立ち入りはできません。よって、頂上の本丸に行くしかありませんが、そこは現在は新田神社になっています。城跡としては、本丸の周りの武者走りを呼ばれるところを歩いてみると、部分的に城のオリジナルの石垣が残っています。しかし、これを誰が最初に築いたかは不明とのことです。

二の丸は立ち入り禁止です
本丸にある新田神社
本丸からの眺め
本丸裏手にある現存石垣
本丸を囲む馬走り(腰曲輪)

その後

金山城が廃城となった後、徳川幕府は庶民を山域に立ち入ることを禁じ、江戸時代の間、そこで採れる松茸は将軍に献上されていました。実は、金山で採れた松茸は1964年まで皇室に納められていたそうです。

金山一帯は今でもアカマツに覆われていますが、マツタケは老木化のため採れないそうです(写真は東山ハイキングコース)

幕府はまた、以前新田荘だった地域を保護し、世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)、金龍寺(きんりゅうじ)、大光院(だいこういん)などの寺社仏閣を建設しました。幕府は、徳川将軍家も新田氏の支族であると称しました。つまり皇室の子孫ということになります。幕府でさえも全国を治めるのにそれ相応の権威を必要としたのです。城跡としては、金山城跡は1934年に国の史跡に指定されました。太田市は1995年以来、史跡として調査発掘や整備を続けています。

世良田東照宮
金龍寺
大光院

私の感想

由良氏が金山城から追放されたとき、当時の城主(由良国繁)の母、妙印尼(みょういんに、由良成繁の妻)が北条が金山城を接収することに反発し城に籠城しました。結局城は明け渡されますが、1590年には前田軍に合流し、北条攻めに参加します。このとき彼女は77歳でした。このことにより、北条氏がついに滅びてしまった一方、由良氏は生き残ることができました(豊臣秀吉により常陸国牛久城を与えられました)。ところでもし彼女と由良氏が、わずかな守備兵であっても強力な金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょう。秀吉が関東地方に侵攻したとき、忍城で成田長親と石田三成が繰り広げたような劇的な名勝負が、金山城でも起こっていたのではないでしょうか。

牛久城跡 (licensed by Monado via Wikimedia Commons)
忍城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。城跡に直行するようなバス便がないからです。北関東自動車道の太田桐生ICから約10分のところです。いくつか駐車場があり、山麓、中腹、山上それぞれにあります。
公共交通機関を使う場合は、太田駅から歩いて1時間ほどかかってしまいます。それなので、駅からタクシーを使った方がよいでしょう。
東京から太田駅まで:東京駅から上野東京ラインに乗り、北千住駅で東武伊勢崎線の特急りょうもう号に乗り換えてください。

リンク、参考情報

金山城跡、太田市
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス

これで終わります。ありがとうございました。
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