93.人吉城 その3

1877年に人吉地域にとって大きな出来事がありました。維新三傑の一人である西郷隆盛が、西南戦争として知られる反乱を政府に対して起こしたのです。

特徴、見どころ

丘上部分に登る

次に向かうのは城のうち、丘上にある部分です。恐らくは城の初期段階から存在したと思われますが、最終段階に至って石垣により近代化されました。現在建物はありませんが、その基礎や石垣が残っています。まず、丘上の本丸、二の丸、三の丸への唯一の入口であった御下門(おしたもん)跡を登ります。幅広い石段を登り、右に曲がって丘の端部分の直下を回り込んでいきます。城があった当時であれば、城の守備兵は侵入してくる敵に対して丘上から攻撃できたはずです。

城周辺の地図

御下門跡
石段を登って行きます
丘上からは狙われやすくなっています
丘下を回り込んでいきます

まずは丘の周辺部を広く占めている三の丸に入ります。この曲輪はほとんどが土造りであり、城が現役であったときから広場になっていました。ここは、市街地を望むビュースポットになっています。

三の丸
三の丸から見える市街地

二の丸、そして本丸へ

二の丸は、三の丸よりも高い位置にあり、石垣と2つの守りの固そうな門の跡(中の御門、埋御門)に囲まれています。ここにはもう一つの御殿があって、丘下に御館が築かれるまでは城の中心部とされていました。

三の丸から見た二の丸
中の御門跡
埋御門跡
二の丸内部

本丸は、城の中ではもっとも高い位置にありますが、大きくなく、かつて天守もありませんでした。その代わりに、この曲輪は相良氏にとっての宗教的な場所として使われていたようです。ここの石段や基礎の石は丸みを帯びていて、長い歴史を感じさせます。

本丸へ至る石段
本丸内部
丸みを帯びている石段の石

その後

明治維新後、人吉城は廃城となり、全ての城の建物は売られるか、撤去されました。堀合門(ほりあいもん)という御殿の一つの門だけが、重臣の新宮氏の屋敷に移築され残っています。1877年に人吉地域にとって大きな出来事がありました。維新三傑の一人である西郷隆盛が、西南戦争として知られる反乱を政府に対して起こしたのです。西郷率いる軍勢は、南方の鹿児島から熊本城への攻撃を始めましたが、人吉の多くの武士たちも人吉党として西郷軍に加わりました。ところが西郷軍は熊本城攻略に失敗し、人吉地域の方に撤退することになりました。人吉党の面々が西郷に対して、人吉は山に囲まれた天然の要害であるからと勧めたのです。

堀合門
西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
熊本城

西郷の本営は人吉の永国寺に置かれ、参謀たちは新宮氏の屋敷に宿営しました。彼らは相当な長い期間、人吉に留まれると考えていましたが、政府軍の反応はとても速いものでした。球磨川を挟んで北側の政府軍と、南側の西郷軍との間で銃砲戦が起こりました。西郷軍は丘上の人吉城の三の丸周辺から砲撃を行ったのですが、敵には届きませんでした。彼らの装備が旧式だったからです。その結果、西郷は再び撤退の憂き目となり、各地を転戦し、ついには本拠地の鹿児島城で最後のときを迎えました。人吉党はその前に降伏していました。

城周辺の地図

西郷軍の砲台があった人吉城三の丸
鹿児島城跡

城跡としては、人吉城公園として整備され、1961年には国の史跡に指定されました。川沿いの城の建物のうちいくつかは近年になって復元されました。隅櫓、大手門脇多門櫓などです。人吉城歴史観は2005年にオープンしましたが、前述のとおり、現在は臨時閉館となっています(2023年9月時点)。

復元された建物群
休館中の人吉城歴史観

私の感想

球磨川の大河なる流れとともに、人吉城跡の雄大な眺めに大変感銘を受けました。同時に、自然は城にぴったりの地形を提供するなどいい事も、災害のような悪い事も両方与えるものだということも理解できました。私は城跡が一日も早く完全復旧するように心から願っていますし、そうなったらもう一回行ってみたいと思います。歴史館の不可思議な地下室も見てみたいですし、初期に人吉城であった地区も含めて、もっと広大な範囲を歩いてみたいです。

球磨川にかかる橋から見た城跡の全景

ここに行くには

車で行く場合:九州自動車道の人吉ICから約10分かかります。城跡内にビジター向け駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR人吉駅から歩いて約20分かかります。
東京または大阪から人吉駅まで:鹿児島空港か九州新幹線の新八代駅から高速バスに乗って、人吉ICバス停で降り、駅行きの産交バスに乗り換えてください。

川沿いにあるビジター向け駐車場

リンク、参考情報

人吉城の見学について、人吉市
・「中世相良氏の展開と地域社会/稲葉継陽・小川弘和編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城12」学研
・「戦況図解 西南戦争/原口泉監修」サンエイ新書

これで終わります。ありがとうございました。
「人吉城その1」に戻ります。
「人吉城その2」に戻ります。

161.Kishiwada Castle Part3

The only thing I would ask the city to improve on the castle would be to open the views from the Main and Second Enclosures.

Features

Outside of Main Enclosure

The Main Enclosure is only connected to the Second Enclosure by the earthen bridge which is the same as the past. It looks like a castle island floating on the moat which must have had a defensive design.

The aerial photo around the castle

The earthen bridge to the Main Enclosure
The Main Enclosure looks like an island

However, if you go around the back side, you will find its back entrance ruins with stone steps, where a bridge to the outside was built. The bridge can not be seen in the drawing of the castle submitted to the shogunate. The reason for it could be that it was built after the drawing had been submitted or it was removed from the drawing intentionally.

The back entrance ruins of the Main Enclosure
The bridge in the back was not seen in the drawing (the upper right part)

The high stone walls surrounding it also look technical as they are curved elaborately to counterattack the enemies’ sides. They also use the lips as their base which is a rare case in Japanese castles. Some historians think that the reason may be to support the sandstones used for the walls which are weaker than the other types of stones. That’s why the stone walls were partially repaired in the present time, using granite to make them durable.

The stone walls are curved elaborately
These stone walls were built on the lips
The white stones seem to have been used for the repair

Inside of Main Enclosure

The inside of the Main Enclosure has the reconstructed Main Tower, a gate, a corner turret and white walls. They have different designs from the original ones compared with those in the drawing. For example, the current Main Tower has three levels with many decorations while the original one had five levels with a simple roofing. In case like the current Main Tower of Kishiwada Castle, which was rebuilt but has a different design, should be called “reconstructed”. The enclosure also has a modern Japanese dry garden, called Hachijin-no-Niwa or the Garden of Eight Battle Formation, which was built in the same period as the current Main Tower and was designated as a National Scenic Beauty in 2014. The builders might also have created the Main Tower freely without its original design as a modern building.

The reconstructed buildings in the Main Enclosure
The reconstructed Main Tower
The Garden of Eight Battle Formation

The tower is used as a historical museum inside and an observation platform on the top floor. The floor has a good viewing spot where you can enjoy the scenery of the area around including Osaka Bay. However, you can’t see anything on the outside from the enclosure except for the platform due to the high white walls on the top of the stone walls.

A view of the city area towards Osaka Bay from the platform
This is also not a good view point because of the walls

Later History

After the Meiji Restoration, Kishiwada Castle was abandoned and all the castle buildings were demolished. The castle land excluding the Main and Second Enclosures was turned into the city area. There was probably no other way to use it, other than modernizing the city of Kishiwada. After a long time, people in Kishiwada wanted to rebuild the Main Tower of the castle though they needed donations for it. As a result, it was finally completed in 1954 as the three-level Main Tower, but actually a modern concrete building has become a symbol of the city. Some people had argued that it should have been a five-level wooden one which was the same as the original tower, but there was a budget problem and the former lord, the Okabe Clan supported the original reconstruction plan. Kishiwada City is currently struggling to consider the earthquake-resistance measures of the reconstructed Main Tower due to its old age and the stricter regulations than before. It is also continuing to repair the remaining stone walls by replacing collapsed sandstones with new granite stones.

The current Kishiwada Castle

My Impression

I think the more you visit the current Kishiwada Castle, the more you will be interested in its history. The castle started out as a small one facing the sea, and it developed into the only one in Izumi Province, and finally became the symbol of the city. However, the only thing I would ask the city to improve on the castle would be to open the views from the Main and Second Enclosures. Currently, visitors can’t see the views below from them because of the walls or hedges probably for the safety reasons. I think the city will be able to replace them with other fences which can provide the views so that visitors can fully understand how the castle was developed more.

How about using this fence, partially used in the Second Enclosure, more?
This is a good view point because of the fence

That’s all. Thank you.
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161.岸和田城 その3

一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。

特徴、見どころ

本丸の外側

本丸と二の丸は過去と同じように、一本の土橋のみでつながっています。本丸は堀の上に浮かぶ城の島のように見え、防御力を重視した設計となっています。

本丸周辺の航空写真

本丸へ渡るための唯一の土橋
島のように見える本丸

しかし、背面の方に回ってみると、石段がある裏門跡があるのがわかります。ここには外部に通じる橋がかかっていました。幕府に提出された絵図面にはこの橋は描かれていませんでした。その理由として考えられるのは、その絵図面が提出されてから橋がかけられたか、もしくは意図的に描かなかったかどちらかでしょう。

本丸背面の裏門跡
絵図面(には橋は描かれていません(右上部分)

本丸を囲む石垣は、敵の側面に反撃を加えられるよう巧みに曲げられ、技巧を尽くして築かれているように見えます。また、石垣の基礎として犬走りがありますが、他の城ではあまり見ることができないものです。歴史家は犬走りが作られた理由として、石垣に使われている砂岩が他の種類の石よりもろいため、それを支える意味があったのではないかと考えています。そのせいか、現代になって石垣の一部分は花崗岩の石を使って置き替えられ、耐久性を補っています。

巧みに曲げられている本丸石垣
犬走りの上に石垣が築かれた部分
白い石が修復に使われた花崗岩のようです

本丸の内部

本丸の内部には、復興された天守、門、隅櫓と白壁が建てられています。これらの建物は、城の絵図面にあるものと比べるとオリジナルとは違うデザインになっています。例えば、現在の天守は三層建てで様々な装飾がなされていますが、オリジナルの方は五層建てですが、シンプルな屋根の形をしています。現在の岸和田城の事例のように、元とは違う設計で再建された建物は便宜上「復興~」という風に呼ばれています。また、本丸には「八陣の庭」という名の現代的な石庭があり、現在の天守と同じ時期に作られ、2014年には国の名勝に指定されています。現在の天守の設計者は、元の設計にとらわれず、現代の建物として自由にこの天守を創造したのかもしれません。

本丸に復興された建物群
復興天守
八陣の庭

天守の中は歴史博物館となっていて、最上階は展望台にもなっています。展望台からの見晴らしはよく、大阪湾を含む周辺地域を見渡すことができます。しかし、この展望台以外からの本丸からの眺望はよくなく、石垣の上の高い白壁のために周りは何も見えません。

展望台からの大阪湾方面の眺望
白壁のため、本丸平地からの眺望はよくありません

その後

明治維新後、岸和田城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。本丸と二の丸を除く城の敷地は市街地へと変わっていきました。恐らく岸和田の街を近代化するためには、そうするしかなかったのでしょう。長い時が過ぎ、岸和田の人たちは城の天守を再建したいと思うようになりました。そのためには市民の寄付も必要でしたが、その結果、3層建ての天守として1954年に完成しました。実際にはコンクリート造りの現代建築なのですが、今や市のシンボルとなっています。建築の際には、オリジナルの天守と同じく5層しかも木製とするべきだという議論がありましたが、予算の制約があったことと、元藩主の岡部家の支持があったことで原案(3層)に落ち着いたそうです。岸和田市は現在、復興天守の耐震対策をどうするか頭を悩ませています。経年劣化と以前より厳しくなった耐震基準のためです。また、石垣の修繕もずっと続けていて、崩れた砂岩の部分を新しい花崗岩で置き替えています。

現代の岸和田城

私の感想

思うに現在の岸和田城に行けば行くほど、その歴史に興味が沸いてくるような気がします。この城は海に面した小さな城としてスタートしましたが、和泉国では唯一の城として発展し、そして今では市のシンボルとなっています。しかし、一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。現在ビジターは、恐らくは安全を配慮したために設置された壁やフェンスによって、そこからの景色をよく眺めることができません。やろうと思えば、外が見えるようなフェンスなどに交換できるはずです。そうすれば、ビジターがこの城がどのように発展してきたのかより理解を深められるのではないでしょうか。

二の丸の一部にあるこのようなフェンスにできないでしょうか
このフェンスからの眺望はいいです

リンク、参考情報

岸和田城、岸和田市公式ウェブサイト
・「岸和田城と岡部家 岸和田城常設展示図録」岸和田市教育委員会
・「よみがえる日本の城1」学研
・「日本の城改訂版第89号」デアゴスティーニジャパン
・「大阪府中世城館事典」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
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