173.新高山城 その2

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで、楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います

Introduction

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが(城跡入口まで2km弱)、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います。新高山城一気通貫ツアー、さっそく出発しましょう。

本郷駅前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

ここに行くには

それでは、本郷駅から城跡に向かいます。交差点のようなところを、ここは左に、

本郷駅からの道路を歩き、ここは左に曲がります

次は右に進んでいくと、右側に施設の建物が見えてきます。ここは本郷生涯学習センターで、パンフレットなど情報収集をすることができます。

道なりですが、ここを右です
本郷生涯学習センター

そこから沼田川の方に向かいますが、歩行者用の橋があるので、そちらを渡ります。

歩行者用の橋が横断歩道の先にあります

橋を渡るところから、視界が開けてきます。橋を過ぎたら、横断歩道を2つ、気を付けて渡っていただくと、沼田川の川沿いの道に出ます。2つの山の城跡が一望できます。

横断歩道を2つ渡ります(手前と右奥)
沼田川沿いの道

道が分岐しますが、どちらでもいいので、川沿いを行きましょう。

道の分岐点

山がぐんぐん迫ってきます。突き当りを左に曲がれば、神社のところで、道は合流します。

突き当りを左に
先ほど分かれた道の合流点、右に行きます

ごつごつした岩山の姿もわかります。城跡の入口に到着しました。その向こう側には駐車場もあります。

新高山城の山
城跡入口(大手道入口)
ビジター用駐車場

特徴、見どころ

山城をひたすら登る

それでは、これから大手道入口に入っていきます。この先に登山道入口もありますが、その手前の道の脇にある神社(荒神社)も、かつて城の曲輪だったかもしれないのです。最初から厳重だったのです。

城周辺の地図

大手道入口から入って右側の丘が神社の敷地になっています
荒神社

案内の通り進んでいくと、大きな案内板の前に出ます。ここが登山道の入口です。新高山城は、標高200メートル近い山に築かれ、曲輪が山全体にあったそうですが、ビジターは整備された中央の登山道を進んでいきます。安全優先で登りましょう。

案内の通り進みます
登山道入口前の案内板

それでは登っていきます。左側の峰の裾を進んでいきますが、ただならぬ気配を感じます。実は左側は「鐘の段」という大きな曲輪の裾部分になっていて、訪問者は常にチェックされていたのではないかと思うのです。

「鐘の段」の裾の道を進みます
曲輪側からの視点
「鐘の段」中心部、別の道からいくことができます

道は、小川を渡って、となりの峰に移っていきます。そして、その峰にも階段状にたくさんの曲輪がありました。今度は右側の方です。石積みの跡も見られます。

小川を渡って隣の峰へ
今度は右側に曲輪群があります
石積み跡か

その曲輪の一つが「番所跡」です。今でもよく整地されているのがわかります。

番所跡入口
番所跡(内部)

更に登っていくと、開けた場所に至ります。中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」です。説明パネルには、小早川隆景が、父親の毛利元就没後に建てたとありますが、前回の記事でご説明した通り、元就の生前にこの城に招待したときから、同じか似た名前の寺があったので、そのときには、ここに「御会所」や能舞台があったと考えられます。儀式や祝宴が行われた場所です。そのあと寺を立て直したのかもしれません。寺は廃城時に移転したので、今では池の跡や、瓦の破片などが見られるそうです。背後の石の壁も、なにやら庭園の一部のように思えてきます。

匡真寺跡
現地に残る瓦の破片
石材も少し残っているようにも見えます

山上から本丸へ

道は更に険しくなってきました。本当に登山になってきました。かなり登ったせいか、景色がいいです。もうすぐ中の丸です。立派な石段があります。これが門の入口として残っているそうです。

中の丸手前からの景色
中の丸への石段

中の丸は、弓なりの形をしていて、山上の曲輪群をつないでいました。要の曲輪ということです。つながれる方の名前(本丸、西の丸、東の丸、北の丸など)を見てもよくわかります。本丸の反対の方に、高台になっている場所があって、そこから先には西の丸などがあります。司令塔のような場所だったのでしょう。

中の丸跡
城の縄張り図(現地説明パネル)に中の丸範囲を加筆(赤ライン)
中の丸(高台)から見た西の丸方面、こちら側はビジター向けとしては未整備
中の丸(高台)から見た本丸方面

では、本丸の方に向かいましょう。大石がごろごろして、見るからにすごいです。元は、本丸を取り囲んでいた石垣だったのです。こんな石たちが組み合わさって、壁のようになっていたのでしょう。しかし、これだけ残したのはどうしてなのでしょうか。

本丸石垣跡

いよいよ本丸入口(南西側)です。「(内)枡形」になっています。ただし、正面から入るとちょっと微妙な感じで、そうだと言われないと気が付かないかもしれません。正面右側から見ると、わかりやすいと思います。

本丸入口の枡形跡(正面から)
右側から見た本丸枡形跡

本丸の中は一見なにもないようですが、奥の方に建物跡の礎石があります。確かに石の列があります。ここは本丸なので、当然小早川隆景の御殿があったことが想定されます。しかしこの城には、元就を接待したときの、他の建物の名前も記録に残っているので(「高之間」「茶湯之間」など」どこにあったのだろうと想像すると面白いです。

本丸
本丸御殿跡か
礎石が並んでいます

岩山の頂を楽しむ?

本丸の先にはまだ高い所があります。山頂がある「詰の丸」です。これは、景色が期待できそうです。詰の丸とは、城の最終防衛ラインという意味で、そこに天守が建てられる例もありました。ということは、この城にもそこに天守があったのではと期待してしまいます。実際それはわからないのですが、例の元就接待のときに「高之間」という建物があったという記録があるので、やっぱり一番高いところにあったのでは、と楽しい想像をします。

詰めの丸へ進みます

城っぼくはないけれど、すごくインパクトがある石仏や石碑があります。この山は、城が廃城になった後、修験道の山伏たちの修行の場になったそうです。この石仏たちは、そのときに作られたらしいのです。実は、隆景にも天狗と遭遇したという逸話があって(九州領主時代)、なんだか因縁を感じてしまいます。

詰めの丸にある石仏
とても見ごたえがあります

山頂からの眺めを楽しみましょう。眼下の景色もすばらしいですし、川の向こうに高山城があった山も見えます。海がある三原方面も見渡せるので、周りの状況を把握することもできたでしょう。ここは、下から見たあの岩山の頂上なのだと思うと、城を制覇した気分です。

山頂からの景色
高山城跡も見えます

山頂から道が崖下に向かっているように見えますが、実は、山伏たちの修行の関係で崖に鎖場が設けられたそうです。今でもそこから登っている人もいるとかいないとか。通常のビジターにとっては、とても無理な話ですが・・

崖下に伸びている道?

帰りは、ちょっと寄り道をしていきます。本丸のもう一つの出入口(北側)から下っていきます。ここには門があったと言われていて(大手門か)、外側が枡形になっています。

本丸のもう一つの出入り口

「釣井の段」という井戸があった曲輪に行ってみます。ここでは井戸跡が6つも見られるそうです。一番大きい井戸は直径4.2mとのことです。城は、生活の場でもあったのです。

釣井の段、井戸跡の周りにロープが張られています
井戸跡の一つ
一番大きな井戸跡

中の丸に登って、元来た道に戻ります。本丸に接したところが関門になっていて、堀のようなものもあります。どの方向もしっかり守られていたのでしょう。本丸石垣跡の大石たちのところに戻ってきました。

中の丸から釣井の段を見下ろしています
中の丸が本丸に接するところにある関門
本丸を囲む空堀か
本丸石垣跡に戻ってきました

リンク、参考情報

新高山城跡、三原観光navi(三原観光協会)
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」備陽史探訪の会 平成15年3月徒歩例会資料

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「三原城 その2」に続きます。

7.多賀城 その2

今日は、国府多賀城駅前に来ています。名前がそのものずばりなので、気分が盛り上がります。普通の駅に見えますが、ここ多賀城市の面積の約3分の1は、遺跡なのだそうです。この駅から歩くともう遺跡の範囲に入っていくのです。多賀城があった場所についても丸ごと国の特別史跡に指定されている感じです。城下の町を含めると、もっと広かったのでしょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、国府多賀城駅前に来ています。名前がそのものずばりなので、気分が盛り上がります。普通の駅に見えますが、ここ多賀城市の面積の約3分の1は、遺跡なのだそうです。この駅から歩くともう遺跡の範囲に入っていくのです。多賀城があった場所についても丸ごと国の特別史跡に指定されている感じです。城下の町を含めると、もっと広かったのでしょう。

国府多賀城駅


今回は、その城下にある遺跡をご紹介しながら、復元されたばかりの外郭南門を見学します。続いて謎の多賀城碑から、中心部の政庁跡に向かいます。こちらも結構整備されています。そこからは、広い遺跡をできるだけ回ってみようと思います。東門があったところまで行きます。最後は、外郭の築地の跡をたどって、南門まで戻ってみます。多賀城の大きさも実感できそうです。それでは、多賀城周遊ツアー、さっそく出発しましょう!

城周辺の地図、中心の緑枠が政庁跡、赤枠が外郭ライン、黄色戦は城の主要通路

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

いきなり多賀城南門登場

それでは、国府多賀城から、多賀城跡に向かいます。駅前広場から上がったところが:小高い丘のようになっています。ここは「館前(たてまえ)遺跡」と呼ばれているところです。ここには、四面庇付きの立派な建物が建っていて、多賀城に赴任してきた国司の館ではないかと言われています。つまり、国司公邸ということです。ここから通勤していたのでしょう。

館前遺跡
現地説明パネルの復元イメージ

多賀城に通勤する気分で先に進み、駐車場を越えると、こちらも最近オープンした「多賀城跡ガイダンス施設」に着きます。是非、現地見学の前に立ち寄って、多賀城の事前学習をしていただきたいです。

多賀城跡ガイダンス施設
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復元されたばかりの外郭南門に向かいましょう。こちらもオープンしたばかりなので、門の色が映えています。発掘調査の成果に基づき、多賀城創建1300年を記念して復元されたのです。城が一番華やかだった頃(第2期)の姿を復元しました。奈良時代にできるだけ近い工法で建てられました(高さ約14メートル、幅約11メートル)。門につながっていた築地塀も一部復元されています。塀も高くて頑丈そうです(版築工法で復元、高さ4.5メートル)。

外郭南門に向かいます
復元された外郭南門と築地塀(一部)

門は二階建てなので、敵が来たら二階から矢を放てるようにしたように思えます。しかし、二階は使わないようになっていたそうです(現地ガイドの方による)。つまり、威厳を見えるために二階建てにしたというのです。戦国時代とかの城の門とは発想が違います。

多賀城碑から政庁跡へ

次は、外郭南門から政庁の方に向かいます。しかし、まず忘れてはいけないのが国宝の多賀城碑です。現在も本物が、覆堂に守られて立っています(日本三古碑のひとつ)。覆堂は水戸黄門(徳川光圀)のアドバイスで建てられたと言われています(仙台藩が建て、現在に改修)。通常は中には入れませんが、囲いの格子から見ることはできます。しっかり見たい方は、東北歴史博物館展示のレプリカがおすすめです。文字はよく見えませんが、一番上の大きな文字は「西」とあります。初っ端に、なぜ「西」と記したのかも謎の一つなのです。石碑は西の方を向いているのでしょうが、なぜわざわざ書いたかということです。都のある方角を意識したという説もありますが、はっきりわかっていないのです。古代の人たちに聞いてみるしかないかもしれません。

多賀城碑は覆堂に守られています
中の多賀城碑

現代の道を渡って、今度は復元整備された政庁南大路を歩きます。幅は約13メートルで復元してありますが(これも第2期)、約23メートルの時代もあったそうです。まさに多賀城のメインストリートと言えるでしょう。排水施設まで復元しています(実際には暗渠)。ここにも「南門跡」があります。これは第1期の南門跡で、復元された南門は第2期のものなのです。南側に城を拡大して建て直したということでしょう。

政庁南大路
排水暗渠施設
第1期の南門跡

第1期の南門跡の上の方にもなにか見えます。「城前官衙(じょうまえかんが)」といって、役所の建物が集まっていたところです。ここにはどうやら鎮守府が置かれていたところらしいのです。ここで発掘された木簡などから、鎮守府の業務が行われていたことがわかったからです。地道な積み重ねで歴史がわかってくるのです。休憩所のようなところもあります。実は、ここは城前官衙の中心的建物を復元した場所で、わざと屋根を透明にして、その作り方をわかるようにしています(構造展示)。

城前官衙
鎮守府の業務が行われていたことを示す木簡、現地説明パネル
官衙主屋(構造復元)
屋根が透けています

いよいよ政庁跡です。石段を上がっていくというのもなかなかいいですが、これも発掘の成果をもとに復元されました。やはり政庁だけあって、高台の上にあるという感じがします。南門の方を振り返ると景色もいいです。

政庁跡への石段
政庁跡に着きました
外郭南門の方を振り返っています

政庁にも南門があって、ここが入口でした。政庁跡も復元整備によって、礎石と建物の範囲が平面展示されています。これも第2期です。それに一部の礎石はオリジナルということです。似たようなレイアウトの太宰府跡を思い出しました。

多賀城政庁南門跡
大宰府政庁南門跡

こちらは周りを囲っていた築地跡で、当時は高さが3,4メートルあったらしいです。その築地に続いていたのが「東殿(とうでん)」「西殿」で、その内側に「西脇殿(にしわきでん)」などがあり、石敷広場を囲んでいました。ここで儀式が行われていたようです。

築地跡(左側)と西脇殿跡(右側)
石敷広場

その奥の一段高いところにあったのが(基壇の上)正殿です。ここには、36もの礎石があって(内オリジナルは11)、二重にめぐっています。:内側に建物本体の身舎(もや)を支える柱が立っていて、外側は庇を支えていました。四面庇付きで、相当格式が高い建物でした。こういう痕跡で、どんな建物が建っていたがわかるのです。そういうことを知ると、芭蕉ではありませんが「夢の跡」という気分がします。

正殿跡
正殿跡に残る礎石群

多賀城の広さを感じよう

後半は、多賀城の範囲をできるだけ回ってみます。まずは、北畠顕家関係になります。とはいっても、多賀城の歴史ではものすごく最近(1952年)に建てられた多賀城神社のことです。顕家当時の遺跡は発見されていないということですので・・。戦前に建てられてた「後村上天皇御坐之處」の碑もここにあります

多賀城神社
「後村上天皇御坐之處」の碑

多賀城神社の脇からの道を歩きますが、この近くを、城を東西に貫く道路が走っていました(東西道路)。その道路沿いに史跡が点在しているのです。まずは「六月坂地区(ろくがつざか)地区」といわれている場所で、古代多賀城としては遅く、平安時代に行政的な役所として作られたらしいのです。国府の役割が中心になった時期なので、仕事量が増えたのかもしれません。ここにも、四面庇付きの建物がありました。現在は、政庁跡とともに桜の名所になっています。

四面庇付き建物跡
倉庫跡
桜の時期の政庁跡

次に進んで行きましょう。今度は「北門跡」とあります、多賀城に北門はなかったはずですが・・・これは外郭の北門ではなくて、城内にあった役所群の北門ということなのです。これも平安時代とあるので、この頃は役所として拡大していたのかもしれません。

役所群の北門跡
上記の説明パネル

その向こうの方にも、土塁で囲まれた本格的な遺跡があります。これが外郭の東門(とうもん)跡です。説明パネルの復元イメージを見ると、立派な感じです。こちらも南門ほどではないけれど、城を代表する門の一つだったのでしょう。

外郭東門跡
説明パネルの復元イメージ

ところが、少し離れたところにも「東門跡」があります。どうなっているのでしょう。先ほどは平安時代、こちらは奈良時代の東門跡ということです。整理しないとこんがらがってしまいます。

奈良時代の東門跡、奥の方に先ほどの平安時代の東門跡が見えます

このセクションの最後には、外郭の北東隅まで行ってみます。トレッキングのようになってきました。この道に沿って、築地があったそうです。

北東隅に向かいます

隅に着いたでしょうか。その先は、沼になっているそうです。北側は自然の障壁にも守られていたのです。

外郭北東隅

築地をめぐって南門に帰還

最後のセクションは、もう一つの隅(南東隅)に向けて、なるべく築地跡を歩いてみます。多賀城の大きさを更に実感できそうです。北東隅から折り返して、2つの東門跡の間を歩いていきます。また建物跡らしきものが見えてきました。ここは「大畑地区」といって、やはり平安時代の役所が立ち並んでいたそうです。この辺一帯は官庁街だったのです。今は散策にちょうどいいコースになっています。

2つの東門跡の間を進みます(左が奈良時代、右が平安時代)
大畑地区の建物跡

ぴったり築地跡沿いには行けないので、道なりに進んで行きます。なんとなく、台地の縁を歩いているような気がします。城内といっても、結構変化に富んでいます。

大地の縁のようなところを進みます

展望所があります。行ってみましょう。まだ台地の上にいるというのがわかります。南門の屋根も見えます、あそこがゴール地点です。

展望所
展望所からの景色
外郭南門の屋根が見えます

少し戻って、内側に入ります。今度も役所の跡で、作貫(さっかん)地区と呼ばれています。ここは、政庁の近くなので、奈良時代から使われていたのです。しかも、中世にも館として使われていて、土塁や空堀が発見されています。中世ということは・・多賀国府(たがのこう)が関係している可能性もあるのです。もしかすると、北畠顕家がここにいたかもしれないと思うと、わくわくします。

作貫地区の建物跡
中世の土塁や空堀もある発掘現場の模型

作貫地区から政庁跡に行くこともできますが、今回は「隅」に行きたいので、外側の方に戻っていきます。坂をどんどん下ります。道路に出ました。最初のときに渡った、南門と政庁南大路の間の道路です。道路を渡ってみると・・・「外郭南東隅」の案内表示がありました。行ってみましょう。前方の丘っぽいところでしょうか。

台地から下っていきます
道路に出ました
外郭南東隅」の案内表示

案内はありませんが、階段を登ってみます。「外郭南東隅」の標柱がありました!

小丘の階段を登ります
「外郭南東隅」の標柱

ここからは、一部復元された外郭築地跡を見ることができます。(外郭のサイズは、南辺約870m、東辺約1050m、北辺約780m、西辺約660m、多賀城陸奥総社宮HPより)完全復元ではないけれど、なかなか壮観です。最終コーナーを回って、ゴールの外郭南門に向かいましょう。

外郭築地跡

外側の中尊寺ハスも見ものです。道路で区切れたところから外に出ることができます。:それから、その辺りには櫓があったそうで、その土台や説明パネルもあります。

中尊寺ハス
櫓跡
説明パネルの櫓復元イメージ

ラストスパートです。この築地のラインが、南門の脇に復元された塀にミートします。

もうすぐゴールです
外郭南門に戻りました

リンク、参考情報

多賀城市の文化財、多賀城市
史都、多賀城 多賀城市観光協会
東北歴史博物館
・「古代東北統治の拠点 多賀城/進藤秋輝著」新泉社
・「多賀城碑 その謎を解く(第三版)/安倍辰夫・平川南編 」雄山閣
・「日本の遺跡30 多賀城跡/高倉敏明著」同成社
・「多賀城・大宰府と古代の都」東北歴史博物館
・「中世武士選書22 北畠顕家/大島延次郎著」戒光祥出版
・「多賀城市歴史的風致維持向上計画」平成28年10月変更版
・「特別史跡多賀城跡 城前官衙プレオープン資料」宮城県多賀城跡調査研究所
・「特別史跡多賀城跡 政庁南大路が完成しました」宮城県多賀城跡調査研究所
・「城柵の北の平安時代/鐘江宏之氏論文」
・「多賀城創建木簡の再検討/吉野武氏論文」東北大学機関リポジトリ
・「政治拠点としての多賀国府/吉川一明氏論文」岩手大学リポジトリ
・「浸水範囲概況図13」国土地理院
・「北畠顕家卿の上洛遠征路 花将軍、駆ける」伊達市
・Youtube「みやぎ文化財チャンネル」

「多賀城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

8.仙台城 その2

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、前回ご説明した通り、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは「大町(おおまち)」「新伝馬町(しんてんままち)」「名掛丁(なかけちょう)」といって、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。仙台のいろんな所に行きたい人はバスなどを使われる方がよいのですが、お城一択であれば、歩いていくのもいいかもしれません。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

仙台駅
藩政時代の仙台駅周辺、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

仙台駅前から大橋までのルート

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

仙台城下町ルートを歩く

仙台駅から少し北側に歩くと、アーケードの入口が見えます。アーケード下は、先ほど申し上げた通り、3つの町名をまたいだ商店街になっています。現在の仙台の繁栄が目に見える場所です。ちょうど七夕まつりをやっています。すごい人出ですが、飾りが華やかです。この通り(現在名:中央通り)と交差するアーケード街(一番丁通り)が、この七夕飾りに彩られるのです。

アーケード入口
七夕まつりの笹飾り


城下町の中心だった「芭蕉の辻」は、七夕飾りを抜けた向こう側にあります。石碑が立っています。ここは、高札場になっていて、江戸時代後期には交差点四隅に城郭風の建物がありました。見るからに町の中心とわかります。奥州街道と交差していて、商家が軒をつらねていました。「芭蕉」という名称は、松尾芭蕉を連想してしまいますが、残念ながら、ここに住んでいた虚無僧の名前に由来すると言われています。

芭蕉の辻の石碑
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)
芭蕉の辻、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

先に進んでいきます。大きな通りに合流します。有名な青葉通りです、バスで行くときにはここを通るのでしょう。橋が見えてきました。大橋です。城がある青葉山も見えてきました。何度渡っても清々しい気分です。広瀬川も見渡せるし、お城と山がだんだん迫ってきて、雰囲気が出ます。

青葉通り
大橋
大橋、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大橋を渡ります
橋から見える仙台城本丸

「仙台城跡」入口に来ました。ここからまっすぐ行くと、大手門跡ですが、その手前を左に曲がると三の丸で、当初は伊達政宗の屋敷があったところです。今は仙台市博物館、とあります。そこは帰りに寄ってみます。坂を登って行くと、左側に櫓が、右側には立派な石垣が見えます。再建された大手門脇櫓と、大手門北側石垣です。この間にどーんと大手門があったのです。その大きさがしのばれます。大手門には復元計画があります。今ここを通っている道路はどうするのでしょうか。それをどうするかも課題の一つで、迂回させる案などが検討されているます。一旦亡くなった城の建物をそのまま建てようとすると、避けて通れない問題です。知恵を絞って進めていくしかありません。

仙台城跡入口
左手は三の丸です(現・仙台市博物館)
大手門跡
大手門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大手門脇櫓(再建)

大手門から本丸まで正面突破

これから大手門跡のところを左側に曲がって、本丸の方に行きます。右側は二の丸で、かつて御殿があったところです。現在は、公園や、東北大学のキャンパスになっています。

青葉山公園、二の丸広場
東北大学キャンパス


それでは、本丸に向かって登って行きましょう。ずーっと一本道の登りで、しかも、くねっています。これも城を守るための仕掛けだと思います。歩くと、そういうのがよくわかります。途中にも関門が設けられていて、「中門(なかのもん)」跡とあります。今は道が続いているだけですが、この門から先は「中曲輪(なかのくるわ)」と呼ばれていました。もう城の中ということです。

本丸に向かう一本道
中門跡


どこからか道が合流しています。ここは「沢門(さわのもん)」跡で、三の丸からの道がここに来ています。帰りはこちらのルートを通ろうと思います。道は大きくカーブしていきます。もうすぐこのセクションのクライマックスです。

沢門跡
カーブの先には・・・

すごい石垣です。もしかしたら、お城そのものの最大の見どころかもしれない本丸北壁の石垣(北面石垣)です。敵を防ぐためでもあるのでしょうけど、城の威厳も表しています。高さが17メートルもあるのです。ところで、現代になって修繕する際に発掘をしたところ、城があったときから何回も改修されたことがわかりました。元は中世の山城だったところに、石垣を築き、その後地震で被害を受けるたびに、改修を重ねたのです。そして、今見る頑丈な姿になりました。現在の石垣(3代目)は、東日本大震災で一部被害を受けたが、300年以上保たれています。

石垣が見えてきました
本丸北壁石垣

かつてはこの上に櫓がありました。しかし事は少々複雑で、最初は三重の艮櫓があったのですが、2代目の石垣のときに地震で崩れてしまい、その後は再建されなかったのです。現在の石垣は3代目ですから、その頃にはもう櫓はなかったことになります。実はこれも現代になって、櫓を再建しようという話がありましたが、今の石垣とは位置がずれた所にあったことがわかって断念されたのです。なかなか思い通りにはいきません。もうすぐ本丸の入口です。

石垣に沿って進みます
本丸入口が見えてきました

本丸跡~景色と政宗像にプラスアルファ

それでは、本丸入口、詰門(つめのもん)跡から入っていきましょう。当初は、ここの両脇にも2基の三重櫓がありました。今は立派な鳥居があります。本丸は現在、宮城県護国神社の敷地でもあります。

詰門跡
宮城県護国神社

神社の石段を登った左手に、大広間の跡があります。本丸の中心だった建物です。現在は、発掘された後に、礎石と間取りが平面表示されています。本丸入口の、西の方から大広間に入ったとすると、紅葉の間、檜の間、孔雀の間、と進んで上段の間に至ったことがわかります。政宗や藩主たちが座った所です。そして、その横には上々段の間がありました。将軍や天皇を迎えるための部屋でした。

大広間跡
大広間、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大広間の間取り、仙台市ホームページより引用
上段の間跡
上々段の間跡

大広間に興味がある方は「仙台城見聞館」に立ち寄ってはいかがでしょうか。大広間の模型や、再現上段の間の展示などがあります。

仙台城見聞館
大広間模型、仙台城見聞館にて展示
再現上段の間、仙台城見聞館にて展示

次は政宗像と思うかもしれませんが、もう少し、まわり道をしてみます。さっき下から見た石垣を、今度は上からながめてみたいのです。詰門の東脇櫓があった辺りから、石垣の天辺を辿っていきます。石垣が張り出した部分からは、石垣を見下すことができます。ということは、敵をここから攻撃できたということでしょう。しかも景色も素晴らしいです。石垣の隅の方に進みます。

詰門の東脇櫓跡か
石垣の張り出し部分からの眺め
石垣の隅の方に進みます

石垣隅に来ましたが、ここには櫓はありませんでした。隅の部分がもっと手前にあった時に櫓が建てられていました。同じ城でも、随分変化したということです。それから政宗像を見れば、お城に来た気がすると思うのです。大広間に櫓と石垣、天守がなくても十分城と言えるでしょう。

石垣隅からの眺め
市街地が一望できます
伊達政宗騎馬像

ところで、懸造はどこにあったのでしょうか?政宗像から少し離れたところにあったのですが、現在、説明パネルはありますが、その頃と同じ地形とは限らないようです。崖のところにあったのだから、仕方ないかもしれません。

懸造跡
崖に面した懸造想像図、青葉城本丸会館にて展示

それから、もう一つの三重櫓・巽櫓の跡はこんな感じです。この近くからの眺めもいいです。

巽櫓跡
付近からの眺め

本丸の裏門、埋門の跡は、駐車場の入口になっています。山の上なのに、いろんな施設から駐車場まであるのです。仙台城の本丸は、諸大名の本丸の中でも有数の広さだったからです。

埋門跡
青葉城本丸会館

それから、本丸の外側、詰門の近くに、本丸北西石垣があります。度重なる地震の被害からの修復が終わったばかりです。そのため、きれいに積み直されています。だた、石の加工の仕方や、積み方が場所によって異なっているのがわかります。城があった時代にも、修復を繰り返していたということです。それを現代も営々と続けているのです。なお、ここに行くには、細い車道を歩いて通らなければいけないので、十分気を付けてください

本丸北西石垣

帰りは政宗が通った道へ

往路で申し上げた通り、帰りは三の丸を通って行きます。当初は政宗の屋敷があったところです。沢門(さわのもん)跡から入っていきます。実は、最初はこのルートが大手道だったと考えられています。ということは、政宗が本丸に通った道だと言えるのです。道が随分くねっています。この辺りに沢曲輪(さわのくるわ)というのもあって、防衛体制を整えていました。当初からある道だけあって、石垣も古そうです。

沢門跡から三の丸に向かいます
曲がりくねる道と古風な石垣

更に下ったところにあるのが、清水門跡です。その向かいにはその名にふさわしい場所があります。その場所は「造酒屋敷」跡といって、お酒を造っていました。その酒造りに使われたという清水が今も流れています。

清水門跡
造酒屋敷跡
酒造りに使ったと思われる清水が沸く場所

その下にある巽門跡の中が三の丸です。政宗より後は、蔵が建てられていたそうです。そして今は「仙台市博物館」になっています。政宗のこと、お城の事がたっぶり勉強できます。

巽門跡
仙台市博物館
仙台城模型、仙台市博物館にて展示

三の丸を反対側の子門(ねのもん)跡から出ていきます。そして三の丸の外側の堀(長沼)を進んで、行きつく先が、また政宗像です!上の部分だけですが、山の上の像にそっくりです!実はこちらは戦前に作られた初代の騎馬像だったのです。それが戦争中の金属供出で撤去され、胸から上だけが残ったのです。今ある騎馬像は跡継ぎで、戦後に作られた2代目です。城のシンボルも受け継がれていたのでした。

子門跡
三の丸外側の堀、長沼
初代政宗像

関連史跡

それから、城の周辺で政宗関連と言えば、政宗の霊廟「瑞鳳殿」、政宗が仙台に造営した大崎八幡宮、などがありますが、意外なところでは、古くからあった陸奥国分寺も、政宗が再興しているのです。やはり仙台を、東北地方の中心地にしようとした意思を感じます。

瑞鳳殿 涅槃門
瑞鳳殿 本殿
大崎八幡宮(photoAC)
陸奥国分寺仁王門
奈良時代の陸奥国分寺南大門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
陸奥国分寺薬師堂

リンク、参考情報

仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―、仙台市
仙台市博物館、仙台市
仙台城見聞館、仙台市
・「奥州の竜」伊達政宗/佐藤貴浩著」角川新書
・「伊達政宗の素顔/佐藤憲一著 」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」学
・「家からみる江戸大名 伊達家仙台藩/J・F・モリス著」吉川弘文館
・「仙台城本丸跡石垣の背面構造と変遷」我妻仁氏論文
・2016年10月17日河北新報記事(大手門復元時の迂回路案)

「仙台城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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