85.福岡城 その2

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

特徴、見どころ

Introduction

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

福岡城建物の復元可能性を示した表、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

出発前にちょっと面白い所を見学しましょう。上之橋近くの歩道の地下に、堀の北側の石垣が保存されているのです(堀石垣保存施設、年末年始除く土日に見学可)。今の歩道の辺りもお堀だったのですが、埋められたのです。その石垣が、地下鉄工事を行ったときに見つかったのだそうです。

堀石垣保存施設
堀石垣保存施設の入口
地下で保存されている石垣

整備が進む三の丸

こちらが現代の上之橋です。今でも舞鶴公園のメインの入口になっているので、立派な感じがします。すごい石垣が奥の方に見ます。上之橋御門の跡です。この門は、先ほどの表によると「復元の可能性が高い」建物に分類されています。最近石垣が修復整備されて、ビジターが通れるようになりました(2023年)。一緒に調査がされ、古写真もあるので、復元の条件が整ってきたのでしょう。石垣だけでも立派な門だったと想像できます。門を入ったところにかつては、黒田騒動の当事者、栗山大膳の屋敷がありました。

上之橋(手前)と上之橋御門跡(奥)
上之橋御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
福岡城模型の上之橋御門周辺。福岡城むかし探訪館にて展示

三の丸の中に進んでいくと、広大な重臣屋敷地だったところ(東部)は、今は広場として憩いの場になっています。戦後には平和台球場がありました。古代にさかのぼると、海外使節の迎賓館などとして使われた「鴻臚館」がありました。この場所に、鴻臚館を復元整備する事業が始まっていますが、現在は「鴻臚館跡展示館」で、発掘調査の成果を、発掘現場の一部や復元イメージとともに、見学することができます。

三の丸の鴻臚館跡
平和台球場のレリーフ
鴻臚館跡展示館
鴻臚館発掘現場の一部
鴻臚館建物の復元イメージ

お城のことを勉強されたいときは、「福岡城むかし探訪館」に行ってみましょう。ここには、素晴らしい福岡城の模型があります。

福岡城むかし探訪館
福岡城の模型。福岡城むかし探訪館にて展示

先に進むと、また立派な石垣が見えてきます。二の丸の入口、東御門跡です。

三の丸から見える東御門跡

二の丸から本丸へ

東御門跡の前にやってきました。この門の脇には、革櫓、炭櫓(高櫓)がありました。この門と両脇の櫓は「復元の可能性がある」建物に分類されています。ただ、門の正面から取った写真がないそうです。

東御門跡
東御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

次の関門は、扇坂御門跡です。門の建物は、復元可能性が示されていないので、詳細がわからないのかもしれません。しかし、この門の特徴は、内側の階段にあります。見た感じ公園風の階段なのですが、実は城があった当時からこの形だったのです。「扇坂」という名前もこの形から来たようです。門の通路は通常狭くしますので、大変珍しいケースです。現在の階段も、最近部分的に復元されたものです(2024年)。

扇坂御門跡
部分復元された扇坂

次は本丸です。表御門跡から入っていきましょう。この門も「復元の可能性が高い」建物に分類されているのですが、現物が、黒田家の菩提寺・崇福寺に移されて、山門として使われています。今の場所になじんでいるようにも見えますが、こういう場合にはどうするのか悩ましいところです。

本丸表御門跡
表御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
崇福寺山門、「福岡市の文化財」HPから引用

本丸の中には、本丸御殿がありました。ぱっと見、なにがあったか分かりませんが、「復元の可能性がある」とされています。本丸御殿は、明治時代に改造されて、病院として使われたので、ある程度分かるのでしょう。

本丸御殿跡

本丸北側の他の建物もチェックしておきましょう。そのうち、時櫓と月見櫓は「復元が困難」とされています。一方、太鼓櫓と裏御門は隣り合っていましたが、太鼓櫓の方が復元可能性が高くなっています(太鼓櫓が「復元の可能性が高い」、裏御門が「復元の可能性がある」)。これは、以前「伝・潮見櫓」として保存されていた櫓が、実は太鼓櫓ではないかと言われていることによるようです。

太鼓櫓(左)と裏御門(右)跡
太鼓櫓(左)と裏御門(右)の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
伝・潮見櫓

最後は、祈念櫓です。この櫓は、寺に払い下げられていたのを、元の場所に移築復元していたのですが、建物が立つ石垣の修復のため、現在は解体・保管されています。なるべく早く元の姿を見てみたいですが、現在の建物はかなりオリジナルから改変されていて、実は月見櫓だったのではないかという説もあるそうです。

祈念櫓周辺
解体・保管前の祈念櫓

いよいよ天守台めぐり

いよいよ天守台に向かいます。天守台への入口は、鉄御門(くろがねごもん)跡です。かつては、石垣の上に巨石を置き、またその上に、櫓がありました(通称「切腹櫓」)。門は文字通り鉄製で、固く閉じられ、普段から人が寄り付かない場所だったそうです。

鉄御門跡

門から入ったところの区画は、天守台に建物がなくなった後、「天守曲輪」と呼ばれていました。その角には「天守櫓」がありました。

天守曲輪
天守櫓があった場所

そして天守台(大天守台)です。かなりの大きさです。底には建物の柱を立てる礎石がたくさん並んでいます。天守のものと思えるのですが、一時期この辺りに蔵(「天守蔵」)があって、その礎石だったかもしれないそうです。残念ながら天守は「復元が極めて困難」な建物に分類されていますが、これから実施される発掘調査に期待しましょう。

天守曲輪から見た天守台
天守台に入っていきます
天守台の底にある礎石群

石垣の上は展望台になっています。ここが城で一番高い場所で(標高約36m)、一帯を見渡すことができます。

天守台からの眺め

天守台手前の、天守曲輪の中に戻ってきました。天守台周りは他にも見どころがありますので、行ってみましょう。天守曲輪のもう一つの入口「埋門(うずみもん)」跡を通っていきます。この門も狭くて、名前の通り、いざというときは石などで埋めてしまうのでしょう。

埋門跡

埋門を抜けると、本丸南側の武具櫓曲輪です。ここには、長さ60m以上もの武具櫓がありました。黒田長政が築城時に、この櫓と思われる内容を書状に記しています(天守を守る長さ30間の櫓を建てるという主旨)。この櫓は「復元の可能性がある」という分類ですが、その中でも「復元の可能性が高い」とされています(B+という表記)。明治維新後、黒田家の別邸に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。

天守台から見た武具櫓曲輪
武具櫓の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
黒田邸に移築された武具櫓、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

それでは、中小天守台の方に行きましょう。武具櫓曲輪から、中天守台の脇を通って、小天守台に至ります。小天守台も展望台になっているのだ。ここから見る景色もなかなかです。

中天守台(左)と小天守台(奥)
小天守台からの眺め

現存する多聞櫓

天守台の後は、現存する南丸多聞櫓を見学しましょう(国の重要文化財)。まずは外側から見学したいのですが、櫓は二の丸にあるので、一旦二の丸の桐木坂御門(きりのきざかごもん)跡から外に出ます。この櫓は、両隅の二重櫓2つが、長さ約54メートル(30間)の平櫓を挟む格好になっています。防御のための仕掛けが見えます。鉄砲狭間、格子窓、そして石落としの3点セットです。

桐木坂御門跡
南丸多聞櫓(外側)
石落とし、鉄砲狭間、格子窓が見えます

二の丸に戻って、その一部の南の丸に入ってみましょう。多聞櫓がある場所です。普段は倉庫として使われていたそうです。現在の建物は江戸末期(1854年)に大改修されました。

二の丸の一部、南の丸に入ります
多聞櫓(内側)

訪問した日は、偶然櫓内部の特別公開日でした。さっそく入ってみましょう。中が細かく仕切られています。これがこの櫓(平櫓部分)の大きな特徴で、16の区画に分かれています。しかも番号が振られています。後に兵舎や学校寮として使われたときの名残なのでしょう。

櫓内部見学のための入口
櫓の内部

外から見えた、格子窓、石落とし、鉄砲狭間を内側からも確認できます。

格子窓
石落とし
鉄砲狭間

上を見ると、なんだか天井が透けている感じです。この天井は、細い竹を組んで作られています。火縄銃の煙を上に逃がすためとか、竹を矢の材料として、その場で使えるようにしたためとか言われています。まさに実戦に備えた櫓だったのです。

多聞櫓の屋根

リンク、参考情報

国史跡 福岡城・鴻臚館 公式ホームページ
福岡市の文化財
・「福岡城 築城から現代まで(新修福岡市史特別編)」福岡市
・「シリーズ藩物語 福岡藩/林洋海著」現代書館
・「福岡城天守を復原する/佐藤正彦著」石風社
・「福岡城天守の復元的整備について―報告と提言(概要)-」福岡城天守の復元的整備を考える懇談会
・「福岡城の天守に関する新たな資料の発見について 令和6年12月10日」福岡市 経済観光文化局 博物館
・「歴史を読み解く:さまざまな史料と視角/服部英雄著」九州大学学術情報リポジトリ
・「国史跡福岡城跡整備基本計画 平成26年6月」福岡市
・「史跡福岡城跡環境整備報告書 昭和55年度」福岡市教育委員会

「福岡城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.上田城 その2

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

上田駅

街なかの見どころ

まず、上田駅から駅前通りを歩いていきましょう。

駅前通り

「中央2丁目」交差点を左に曲がると「大手通り」です。

中央2丁目交差点
大手通り

道がくねっているところがありますが、ここが大手門の跡です。上田合戦での激戦地とされているのと、江戸時代には石垣と堀があって、枡形が形成されていました。仙石忠政による復興が中断されたためか、城門の建物は作られなかったと言われています。

大手門跡
大手門があった「三の丸」のディスプレイ

この近くに、真田信之以来の藩主屋敷跡があります。現在は高校の敷地として使われています。江戸時代に建てられ、現存している屋敷門です。土塁と堀も残っていますが、隅の部分がちょっと欠けています。これについては、後でご説明します。

藩主屋敷跡
藩主屋敷の土塁と堀

城跡公園に向けて進んでいくと、また屋敷跡があります。ここも学校になっていますが、そう言われてみないとわからない感じです。この屋敷は当初は「中屋敷」、時代が下ると「作事場」または「古屋敷」と呼ばれたそうです。築城時には真田昌幸の屋敷だった可能性も指摘されています(「信濃上田城」)。

中屋敷・作事場跡

公園に近づくと、藩校「明倫堂」跡もあります。

明倫堂跡

二の丸・本丸を攻略!

では、堀にかかった橋を渡って、二の丸東虎口から公園に入っていきましょう。

橋(二の丸橋)渡っていきます

虎口にから見ると、左の方に本丸の櫓が見えて、まっすぐ行けるようになっているのですが、実は城の現役時代にはここも枡形になっていて、まっすぐ進めなかったのです。武者溜り、三十間堀というのがあって、右側に回り込む必要がありました。現在は、武者溜りの復元に向けた調査を行っています。

二の丸東虎口
武者溜りの調査現場
武者溜りなどの復元についてのディスプレイ

本丸の入口である東虎口櫓門は、現存する南櫓・北櫓に挟まれて、上田城のビュースポットと言えるでしょう。

左から南櫓、本丸東虎口櫓門、北櫓

門の右脇にあるのが有名な「真田石」です。真田信之が松代に移るとき、巨大すぎて持っていけなかったという言い伝えありますが、歴史家によると、仙石忠政が築いたようです。

真田石

門に入ると、正面に見えるのが真田神社です。仙石氏も松平氏も祀られています。

真田神社

奥の方に行くと、西櫓を見学できます。廃城になっても最後まで残っていた櫓です。今でも崖の上でがんばっている感じです。ここに来ると景色が急に開けて、どんな所にお城を作ったのかがわかります。

西櫓
西櫓からの眺め

今度は、本丸の中心部に行ってみましょう。本丸の中には、もともと建物はありませんでした。

本丸中心部(上段)
上田城は桜の名所ですが、紅葉もきれいです

過去に櫓があった場所に行ってみましょう。実は、本丸の北東隅には櫓が2つ並んでいました。こんなに近くに櫓が並んでいると、防衛上の効果はなかっただろうとのことです。ちなみに、この2つの櫓の当時の名前はわからないそうです。

北東隅の一つ目の櫓があった場所
北東隅の二つ目の櫓があった場所

次は、北西隅櫓跡に行ってみます。ここの櫓は一つでした。こちらについては、西側の本丸堀から金箔瓦が見つかっています。つまり、真田時代にはこの辺に天守があったかもしれないのです。

北西隅櫓跡
この辺りの堀から金箔瓦が見つかりました

それでは、さっきの北東隅の謎解きに、本丸の周りを歩きましょう。本丸西虎口から外に出ます。ここも枡形になっていました。堀の周りを歩くと、本丸が一番高い所にあることがよくわかります。

本丸西虎口
本丸堀、向こうが本丸(北西隅)

堀の北東隅に着きました。本丸の北東隅が欠けているのがわかります。これは「隅欠(すみおとし)」といって、鬼門である北東からの災厄を除けるための仕組みとされています。上田城の特徴の一つです。先ほどの藩主屋敷もそうでした。江戸時代の絵図では、二の丸や中屋敷(絵図では「古屋敷」)も同じようになっています。

本丸北東部の隅欠
「信州上田城絵図」、真ん中の本丸だけでなく、周りの二の丸、その右側の古屋敷も北東隅(右上)が欠けています、出展:国立公文書館

今も残る自然の要害

今度は、上田城が自然の要害に築かれたことがわかるスポットに行ってみましょう。最初に入った公園入口の橋(二の丸橋)の脇から、堀の底に下りましょう。堀の底とは言っても、気持ちのいい歩道になっていて、昭和時代には電車の軌道(上田温泉電軌北東線)だったのです。堀の端を曲がると、城の南側の要害だった尼ヶ淵です。崖地帯になってきます。尼ヶ淵に面する崖は、高さが約12メートルあって、火山活動や川の流れに由来する3つの層によって構成されています。異なる性質の層が重なっているので崩れやすいとのことです。

二の丸橋下のトンネル
二の丸堀底の歩道
城の南側の崖

広場になっているところに出ると、全体をよく見渡すことができます。この場所を千曲川の支流(尼ヶ淵)が流れていたのです。しかも1732年(享保17年)の洪水に伴い「大川」が流れるようになり、それは千曲川の本流だったとも言われています。洪水で崩れた崖への対処と、川の護岸のために、今見られる石垣が築かれました(流れが来なくなったのは大正時代以後)。

尼ヶ淵の全景

例えば、本丸南櫓下を見てみると、石垣が3段に積まれています。上段が櫓台の石垣で一番早く築かれ、下段が洪水の後に築かれた護岸用です。中段はその後、崩落を防ぐために何回も石垣が築かれ、修繕された部分だそうです。崖のままになっているところは、突出していて石垣が築けなかったようです(一部現代にモルタル補修)。

本丸南櫓下の石垣

西櫓の方に向かって歩きましょう。崖下から見ても、西櫓のがんばりがよくわかります。

西櫓の方に続く石垣
西櫓

城跡の周りをたどることになりますが、大きな堀の跡を紹介したいと思います。まずは西側で、二の丸西虎口(現在は跡のみ)を出たところが「広堀」でした。今は野球場になっています。

広堀跡

それから北側、二の丸北虎口の外にもあります。この虎口は、残っている石垣を使って復元整備されています。

二の丸北虎口

その外にあるのが百間堀(ひゃっけんぼり)跡です。この大きなグラウンドが、丸々お堀でした。元は自然の川だったのを利用して、こんなに大きなお堀を作ったのです。

百間堀跡

上田合戦ゆかりの地

ここからは、少しですが上田合戦ゆかりの地をご紹介します。一つ目は、砥石城です。上田城からは約7kmの道のりなので、行かれる場合は車を使った方がいいかもしれません。上田合戦では真田信之も(第一次・二次)、信繁(第二次)もこの城を使いました。それにそれ以前からこの城は重要な拠点で、武田信玄と村上義清がこの城を巡って争い、信玄が敗れたことでも有名です(砥石崩れ)。真田昌幸の父、幸隆がこの城を乗っ取り、出世のきっかけにもなりました。

砥石城跡遠景

この城の規模も大きく、実は山の上にある4つの城(拠点)の集合体なのです。今日は4つのうち、標高が高くて上田城が見えそうな「砥石城」に行ってみましょう。

4つの城、現地説明パネルより

櫓門から山道に入ります。

櫓門(現代のアトラクションか)

登っていくと分岐点があります。今回は右に行きます。

砥石城と米山城の分岐点

急な坂が続きます。重要だった城だけのことはあります。

砥石城に続く急坂

山道の途中が入口みたいになっています。山城の虎口でしょうか。

虎口か?

もう少しです。

砥石城の頂近く

砥石城跡に着きました。

砥石城跡

さて、上田城は見えるのでしょうか?

砥石城跡からの眺め

清掃工場の煙突の手前の、木が茂っている辺りが上田城だと思います。

砥石城跡から見える上田城

最後になりますが、第一次上田合戦の激戦地だった神川周辺に行きましょう。近くには信濃国分寺があって、第二次合戦のときに、東軍の信之と西軍の昌幸が会見した場所だと言われています。

信濃国分寺
「真田徳川会見之地」の石碑

もう遅くなってきましたが、神川に着きました。砥石城の方から流れてきて、千曲川に合流しています。何気ない川に見えますが、当時はここが重要な防衛ラインでした。

神川

リンク、参考情報

上田市 上田城総合サイト
上田市立博物館
「真田氏時代の上田城考」コイワイド
長野県立歴史館/信濃史料
・「シリーズ・城郭研究の新展開5 信濃上田城/利根崎剛編」戒光祥出版
・「真田氏三代/笹本正治著」ミネルヴァ書房
・「歴史群像41号 戦国の堅城 上田城」学研
・「歴史群像136号 戦略分析 第一次上田合戦/三島正之著」学研
・「歴史群像137号 第一次上田合戦の歩き方」学研
・「歴史群像139号 戦国の城 第二次上田合戦/樋口隆晴著」学研
・「シリーズ藩物語 上田藩/青木蔵幸著」現代書館
・「日本を開国させた男、松平忠固/関良基著」作品社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著、小林賢章訳」ちくま学芸文庫
・「信州上田軍紀/堀内泰訳」ほおずき書籍
・「史跡上田城跡保存活用計画(案)」上田市・上田市教育委員会
・「国史跡上田城跡石垣解体修復工事報告書」2009年3月 上田市・上田市教育委員会

「上田城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。