178.能島城 その1

今回は村上海賊の城、能島城をご紹介します。現在「しまなみ海道」と呼ばれる芸予諸島の島にあった城です。「海賊」というのは古くからの用語です。しかし、現在の私たちがこの言葉から抱く「無法者」「略奪者」といった一方的なイメージとは異なります。室町・戦国時代には、彼らは普段は「海の領主」「警固役」といった存在で、戦さのときは水軍にもなりました。有力な「海賊」だった能島村上氏が築いたのが能島城で、島全体を要塞化して築いた「海城」の代表的なものの一つです。

イントロダクション

今回は村上海賊の城、能島城をご紹介します。現在「しまなみ海道」と呼ばれる芸予諸島の島にあった城です。「海賊」というのは古くからの用語です。しかし、現在の私たちがこの言葉から抱く「無法者」「略奪者」といった一方的なイメージとは異なります。室町・戦国時代には、彼らは普段は「海の領主」「警固役」といった存在で、戦さのときは水軍にもなりました。ときには略奪を行い、政治権力者にも反抗したので、「陸の領主」から見て「海賊」と呼ばれることになったようです。役に立つ場合は「警固衆」とも呼ばれていました。「水軍」という呼び方は江戸時代以降の用語だそうです(参考資料②⑦より、以下番号のみ記載)。有力な「海賊」だった能島村上氏が築いたのが能島城で、島全体を要塞化して築いた「海城」の代表的なものの一つです(⑦)。

しまなみ海道(来島大橋)
能島城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(村上海賊と能島城の歴史)

瀬戸内海航路の案内役

村上氏は、瀬戸内海の芸予諸島を根拠にした典型的な海賊衆でした。近代以前、水運は最も効率的な交通手段で、瀬戸内海はその大動脈だったのです。しかし芸予諸島周辺の海流は急速かつ複雑であり、船を安全に航行させるには地元の海の民の誘導が必要でした。つまり「海賊」のニーズが一番ある場所だったのです。

芸予諸島の航路図、村上海賊ミュージアムにて展示

「海賊」村上氏の始まりははっきりしませんが、始祖は北畠顕家で、その子・村上師清が伊予に下向してきたという伝承があります。師清の三人の子(義顕・顕忠・顕長)がそれぞれ、能島・来島・因島の各村上氏に分かれていったとされています(「萩藩譜録」)。この3ヶ所は、それぞれ「沖乗り航路」「伊予地乗り航路」「安芸地乗り航路」という瀬戸内海航路を押さえる拠点でした(②③)。

北畠顕家肖像画、霊山神社蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

彼らが「海賊」として台頭したきっかけは、室町時代に小早川氏が芸予諸島に進出したことでした。小早川氏に侵入された荘園領主が、幕府などに訴えたとき、その警固を行ったのが村上氏だったのです。(1349年「東寺百合文書」が初出、「野島」に酒肴料」を支払っている、⑦)。その後、伊予の守護・河野氏と連携して、勢力を広げていきました(②)。時代が下ると、今度は村上氏が荘園を押領しています(⑦、下記補足1)。

(補足1)弓削島押領人の事、公方奉公小早川小泉方、海賊能島方、同山路方、此三人の内小泉専ら押領也」(1462年、寛正3年5月「東寺百合文書」)

彼らの警備システムは次のようなものでした。積荷の1割程度と言われる警固料を支払った船に対しては、「海賊」が同乗して安全な航路へ誘導するほか、他の「海賊」に襲われることもありませんでした。室町時代に日本を訪れた朝鮮の役人がそのように記録しています(下記補足2)。船に通行証のような旗(過所船旗)を立てることもありました。

(補足2)「瀬戸内海を東から西へ向かうなら東の海賊(大阪湾沿岸部)を一人船に乗せておけば西の海賊(芸予諸島周辺)が襲うことはない。西から東に向かう場合なら西の海賊を乗せておけばよい」(「老松堂日本行録」、①)

現存する過所船旗、山口県文書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、警固料を支払わない船に対しては「海賊」は略奪者になりました。因島村上家に残る記録(「武家万代記」)には、1551年(天文20年)に「関所破り」をした船を襲撃した話が載っています。将軍に献上する米を運ぶ船(「陶殿廻船」)が、海の関所・上関を(「切手」なしで)むりやり突破したため、その情報は「継船」で能島村上氏当主の・村上武吉にもたらされました。そこで能島・因島の海賊衆は、瀬戸内海の途中で待ち伏せ、関所破りの船が来たところで、鉄砲を撃ちかけ、軍船で乗り付け、焙烙玉を投げ入れ、制裁を加えた上で、荷を略奪したのです(④、下記補足3)。つまり、当時の多くの人たちは「海賊」の縄張りを通る者は、通行料を払うべきという感覚を持っていたのかもしれません。当時の旅行者にも、無理やり払わされた通行料を「礼銭」と記した記録があるそうです(⑦)。

戦う海賊衆、村上海賊ミュージアムにて展示

(補足3)大内・大友両家粮舟切り捕り候事
一.免符これ無き船、切り捕り候事、年々月々計り難き儀に御座候えども、それは記し難く候、天文廿年の冬、陶殿の廻船三十艘、米二千石余り積み、上方へ運送仕り候、上ノ関にて相究め申す所に、切手これ無く、宇賀嶋衆百人ばかり上乗り仕り候て推し通り申し候、古より嶋の作法にて通り難き由申し届け候へば、公方へ進上の米、其の上宇賀嶋上乗り仕り罷り通り候に、誰人にてとがめ申すと候て、要害へ鉄炮を打ち掛け通り申し候えども、多勢故通し申すの由、日の内に両嶋(能島・因島)へ継船申し来たり候、武慶(村上武吉)腹立て申され、切り捕り申すべき由申し談じ、(略)敵船瀬戸へ推し掛かり、少し帆をさげ申す時、陸より鉄炮を掛け申し候へば、楼に乗り申す者ども下へほろげ落ち申し、櫓をはやめ申し候時、能嶋貝を吹き立て、相図の旗を挙げ申し候えば、因ノ嶋も時の声にて推し掛かり申し候、敵船所柄、両島へも遠所なれば、加様は有間敷と油断仕り申し候故、以の外騒ぎ、俄に帆をさげ、能嶋方へ少し楫をむけ申し候を、因ノ嶋方弓・鉄炮にて射立て候えども、楼へ取り上り、鎗を取り申すものはこれ無く候て、どうかべ(胴壁)のかげにて弓・鉄炮を論じ申し候を、ヒシビシと乗り付け、ホウロクをなげ入れ申し候故、先船四・五艘造作もなく仕付け申し候、(略)左候て、粮舟共、残らず陸際へ引き上げ申し候も逃げ延び申すをば推し掛かり引き戻し、又は命を助け申し候はば船中の荷物残りなく進上申すべく候と、詫事申す船も御座候、昔より三島の作法に、警固の船を頼り通り過ぎ、関所を偽り申す事、罪過に行い申す法度にて候故、水夫共捕らえ候て、各額に焼印を当て候て赦し申し候、惣粮七千石切り捕り申し候、この運送は公方様へ進上の米にて御座候、しかしながら関所過書等もこれ無く、あまつさえ狼藉仕り候故、かくの如くに候事、(「武家万代記」)

能島城とは?

この城は、能島村上氏の拠点として、瀬戸内海を通る最短ルートの一つの途中、宮窪瀬戸にある周囲850m弱の能島に築かれました。近くの鯛崎島(周囲約250m)も橋でつながれて一体化していたと考えられています(④⑤)。発掘調査によれば、14世紀ころ築かれたとのことです(⑦)。

能島城+鯛崎島の想像図、村上海賊ミュージアムにて展示

もっとも、能島村上氏の本拠の館は、居住に適した伯方島か伊予大島にあったとも言われていて、その場合能島城は、周りと連携して機能する出城・番城の位置づけだったのでしょう(②)。また、能島から約1km離れた小島・見近島でも当時の集落跡や交易品が発掘されていて、物流基地だったのではないかとされています(④)。つまり、彼らは普段は海の民として交易や漁業も行っていたのです。

本拠地の候補地、伊予大島の幸賀屋敷跡
能島周辺のジオラマ、能島は真ん中の小島、見近島は情報の伯方・大島大橋の下、村上海賊ミュージアムにて展示
見近島から発掘された交易品、村上海賊ミュージアムにて展示

能島は整地されて曲輪が作られ、本丸には物見やぐら(井楼)があった可能性があります(⑤)。ここからは海峡の全体を見渡すことができ、大島にある山の上で焚かれた烽火や、大島の山あいを超えて四国までも見通すことができました(⑥)。二の丸・三の丸には住居や倉庫がありました。見張りのための兵が常駐していたのでしょう。海岸には荷上場(船だまり)、島の突端には出丸や鍛冶場などが設けられました。島の周り中には今でも、岩礁ピットと呼ばれる多数の柱穴が残っていて、桟橋や武者走りがあったと想定されています(④⑤)。最大のものは直径1メートルもあって、ここに柱を立てて出丸を作っていたのではないかという意見もあります(②)。一方で、島には水、食料、その他必要な資材は一切なかったため、他の島から運び込む必要がありました(⑥)。

能島城の模型、村上海賊ミュージアムにて展示
本丸からの眺め(北方向)
本丸からの眺め(南方向)
船だまりに残る岩礁ピット
直系1メートルの「謎の大穴」のレプリカ、村上海賊ミュージアムにて展示

能島城を含む、海賊の海城に必要な機能としては、
1.瀬戸を通る船を監視する
2.瀬戸を通る船に対して軍船を出動させる
3.軍船を島に係船する
ことが挙げられます(③)。
更に4番目として、城としての防御力も必要なのですが、能島城については島の側面に人工的な切岸が設けられた程度なのです。しかし瀬戸の潮流は最大10ノット前後(時速約18.5キロ)のスピードで乱流していて(⑤)、特に浅瀬では渦を巻き、不慣れな船なら制御不能に陥ってしまうほどです。海が堀の役割を果たしていたのです(②⑦)。ただし潮が緩いときもあるので、やはり防御力はあまり考慮されていなかったのではないかという指摘もあります(④)。また能島は、対岸の拠点・伊予大島から約300m沖合にあって、大声で連絡が取りあえる範囲内でした。緊急事態が発生したときにも、お互いに助け合う態勢が取りやすくなっていたのです(⑥)。

島の側面の切岸と思われる箇所
出丸の一つ「矢びつ」周辺の潮流
三の丸から見た伊予大島

村上武吉の時代

戦国時代も後半になると(16世紀中頃~)、村上氏の勢力はピークを迎えます。戦国大名の水軍として力を発揮したのです。能島村上氏では、村上武吉が当主のときでした。有名なところでは、まず1555年(天文24年)に毛利元就と陶晴賢が戦った厳島合戦が挙げられます。しかし確かな同時代史料が少なく、来島村上氏が毛利氏に味方した以外、能島・因島村上氏の動向ははっきりしないそうです(⑦)。(後の時代の史料には、2家の軍船が陶氏の軍船を次々に沈めたいう記事もあるそうですが、②)

村上武吉石像、村上海賊ミュージアムにて展示(photoAC)
毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

3つの村上氏はいつも同調していたわけではなく、武吉の能島家は独自の行動をとる傾向がありました。一時は、毛利氏と対立する九州の大友氏に接近し、ついには1571年(元亀2年)毛利及び因島・来島村上連動軍から攻撃を受けることになってしまいました(能島城合戦とも言われます)。中国地方では、尼子氏や浦上氏が毛利氏と戦っていて、大友氏と連携していました。能島村上氏は、その利害関係の中で自らの立場を判断したものと思われます。しかし結果的には和議を結び、以後は毛利水軍の一翼を担うようになりました(⑦)。

そして、毛利水軍としてもっとも有名な戦いが、1576年(天正4年)織田信長との第一次木津川口の戦いです。織田軍に包囲された石山本願寺に兵糧を運ぼうとしたところ、織田水軍と合戦になったのです。能島村上氏からは、武吉の嫡男・元吉が大将の一人として参加しています。織田軍は、櫓付の大船ほか約2、300艘の船で警固していました。毛利水軍は巧みな操船で敵船に近づき「ほうろく火矢」を投げ込み、ことごとく討ち果たしたそうです。(②⑦、下記補足4)

(補足4)海上は、ほうろく火矢などという物をこしらえ、御身方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢にかなわず、七五三兵衛、伊賀、伝内、野口、小畑、鎌太夫、鹿目介、この他歴々数輩討死候、西国の船は勝利を得、大坂へ兵粮入れ、西国人数打ち入るなり(「信長公記」)

村上元吉石像、村上海賊ミュージアムにて展示(photoAC)
第一次木津川口の戦い、村上海賊ミュージアムにて展示

後に豊臣秀吉による天下統一が進んでいるとき(1586年、天正14年)、宣教師のルイス・フロイスが堺から九州・臼杵まで船に乗ったとき、能島村上氏の領域を通行しました。彼は、恐らく武吉のことを指す「能島殿」を「日本最大の海賊」と呼んでいます(下記補足5)。そして彼ら一行も、能島殿から通行証を手渡されたのです(下記補足6)。

(補足5)我らは、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず(獲物を)襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な力を有していたので、他国の沿岸や海辺(の住民たち)は、(能島殿)によって破壊されることを恐れるあまり、彼に毎年、貢物を献上していた。(「フロイス日本史」)
(補足6)(能島殿)に対して、我らがその署名によって自由に通行できるよう、好意ある寛大な処置を求めた。(能島殿)は、その(派遣された)修道士に尊敬を払い、手厚くもてなし、彼らを自らの居城に招待した。そして己が好意をより高く売りつけようとして、いくらか躊躇しながら言った。「伴天連が、天下の主、関白殿の好意を得て赴かれるところ、某ごとき者の好意など必要ではござらぬ」と。だが修道士がしきりに懇願したので、彼は、怪しい船に出会ったときに見せるがよいとて、自分の紋章が入った絹の旗を署名を渡した。(同上)

ルイス・フロイス、能島を訪れる、村上海賊ミュージアムにて展示

「海賊」と能島城の最期

海賊衆を含む毛利水軍の大きな挫折となったのが、第一次から2年後の第二次木津川口の戦いです。再び本願寺を救援するために現れた毛利水軍に対し、織田水軍は、九鬼喜隆が指揮する6隻の大船に大鉄砲を積み、毛利方を駆逐しました。(下記補足7)なお、織田方の大船は「鉄の船」だった記録がありますが(下記補足8)、どこまで鉄板などを装備していたのかは不明です(⑦)。

(補足7)六層の大船に大鉄炮余多これあり、敵船を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを大鉄炮を以て打ち崩し候へば、是れに恐れて、なかなか寄り付かず、数百艘を木津浦へ追い上せ、見物の者ども、九鬼右馬允手柄なりと感ぜぬはなかりけり(「信長公記」)
(補足8)堺浦へ近日伊勢より大船調い付き了ぬ、人数五千程乗る、横へ七間、竪へ十二、三間もこれ在り、鉄の船なり、てつはう(鉄砲)とをらぬ用意、事々敷儀なり、大坂へ取りより通路とむべき用と云々(「多聞院日記」天正6年7月20日条)

九鬼喜隆肖像画、毛常安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして織田が毛利領に侵攻するようになると、海賊衆に対して、羽柴秀吉による調略の手が伸びてきます。それは、村上武吉・元吉父子も対象でした(下記補足9)。小早川隆景は21通もの書状を能島村上氏に送り、引き留め工作を行いました。結果、能島は残ったものの、来島村上氏が織田方に離反しました。毛利・能島方は、本拠地の来島城を攻撃、1583年(天正11年)に城は落城、当主の村上通総は秀吉の下に退去しました。これによって能島村上氏は最大の勢力圏を得たのです(東は備前児島・塩飽諸島。西は周防灘・豊後水道、②)

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
村上通総肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

(補足9)秀吉は信長の命を受けて、能島来島から家臣をひとりずつ播州姫路の自陣にひそかに招いた。能島からは大野兵庫直政が出かけた。秀吉は、将来は四国を、当座は伊予十四郡を与えることを条件に武吉・元吉の忠節を求め、もし武吉・元吉が承知しないなら大野直政だけでも自軍に味方するように説得した。大野は、さっそく武吉・元吉に秀吉の条件を伝えたが、毛利家からも乃美宗勝を使者として懸命の説得があったので、結局秀吉とは手切れをし、毛利家に味方することになった。(「萩藩譜録」、現代語訳は⑦)

しかしこの状況は長続きしませんでした。天下人となった秀吉が、来島村上氏の帰還を要求してきたのです。四国攻めの後、伊予国の領主になった隆景の庇護の下、妥協が図られましたが、九州攻めの後(1588年、天正16年)、隆景が九州に転封になると、武吉・元吉も能島を離れることになりました。移動先は毛利領の周防屋代島と安芸能美島であったと考えられます(⑦)。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして追い打ちをかけたのが、秀吉の「海賊禁止令」です(下記補足10)。これは「海賊」行為を重ねてきびしく禁止している内容ですが、それを破っていたのは能島村上氏だったようなのです。禁止令に続けて、隆景宛て能島村上氏に対する秀吉の詰問状が発せられているからです。彼らは移った先でも「海賊」であり続けたのです。ついには九州に移住させられ、ここに「海賊」の時代は終わったのです。このときまでに能島城は廃城になったと思われます。能島村上氏の子孫は毛利氏長州藩の家臣(船手組頭)になりました。

(補足10)定
一.諸国海上において賊船の儀、堅く御停止成さるの処、今度備後・伊予両国の間伊津喜島にて、盗船仕るの族これある由聞こし食され、曲事に思し食す事、
一.国々浦々船頭・猟師、いづれも船つかひ候もの、其所の地頭・代官として速く相改め、向後、聊か以て海賊仕るまじき由誓紙申付け、連判をさせ、其国主取あつめ上申すべき事、
一.自今以後、給人・領主油断を致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下、末代召上らるべき事、
 右条々堅く申付くべし、若し違背の族これあらば、忽ち罪科に処せらるべきもの也、
  天正十六年七月八日(秀吉朱印)(「早稲田大学所蔵文書」)
(補足11)能島が海賊行為をしているとの情報を聞いたが、それは言語道断の曲事である。本来なら当方で成敗するところであるが、小早川の持分であるから、隆景に処分を任せる。もし言い分があれば村上元吉を大坂に上らせよ。(天正16年9月8日付、小早川隆景宛て豊臣秀吉朱印状、現代語訳は⑦)

村上武吉の次男村上景親肖像画、長州藩の船手組頭になりました、村上海賊ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク・参考情報

①歴史群像41号「海の傭兵 戦国水軍/川戸貴史著」 学習研究社
②歴史群像74号「戦史検証 村上水軍興亡史/桐野作人著」学習研究社
③歴史群像179号「地形から読み解く瀬戸内の海賊城と近代要塞/坂井尚登著」ワン・パブリッシング
村上海賊ミュージアム
⑤能島城跡パンプレット
能島上陸&潮流クルーズ
⑦「瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い/山内譲著」新潮選書
⑧「小早川隆景のすべて」新人物往来社編

「能島城 その2」に続きます。

41.駿府城 その2

西郷・山岡会見の史跡碑から駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション(江戸開城の影の功労者・山岡鉄舟)

駿府城の現地案内のスタート地点として「西郷・山岡会見の史跡碑」を選びました。江戸開城が決まった勝・西郷会見は有名ですが、実はそれに先立つ駿府での西郷隆盛と山岡鉄舟の会見も、江戸開城につながる重要な歴史イベントだったのです。

西郷・山岡会見の史跡碑

山岡鉄舟(生年:1838年~没年:1888年)は、幕府旗本で剣の達人でもありました。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻っていた徳川慶喜の警護役を務めていました。慶喜は恭順の意を示していましたが、新政府軍は慶喜を討伐する方針でした。そこで慶喜は、近臣の高橋泥舟の推薦する鉄舟を、改めて恭順の意を伝える使者として抜擢しました。鉄舟は初対面の主君に対し「謹慎しているのは偽りではないか」と問いただしました。真実であると確認すると、この使命に命をかける覚悟をしました(下記補足1)。

(補足1)わたしは旧主(慶喜)に「今日の切迫した時勢において、恭順をお示しになるのはどのようなお考えによるものなのか」と問うた。旧主は、「自分は朝廷に対して公正無二の赤心をもって謹慎しているといえども、朝敵として征討の命が下った上は、とても生命を全うすることはかなうまい。これほどまでに衆人に憎まれてしまったことは、返す返すも嘆かわしいことである」と言って涙をこばされる。わたしが旧主に「何をそんな弱気でつまらぬことを言われるのか。謹慎しているというのは偽りではないのか。何かほかにたくらんでいることがおありではないのか」と言うと、旧主は「自分にふたごころはない。どんなことであっても朝廷の命令に対しては背かない無二の赤心があるだけである」と言われるので、わたしは次のように断言した。「真の誠意をもっての謹慎であられるならば、朝廷にしっかりと届かせて、御疑念を氷解していただくのは当然のことです。鐵太郎が、そこのところは確かにお引き受けし、必ずや赤心が届くように力を尽くします。鐵太郎が目の黒いうちは、決して御心配には及びません」と。(山岡鉄舟「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳、「最後のサムライ 山岡鐵舟」より)

山岡鉄舟(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉄舟は、勝海舟から付けられた薩摩藩士とともに敵地となった駿府に乗り込み、西郷と会見したのです。西郷は鉄舟を確かな人物と見込み、和議の5条件を提示しました(山岡鉄舟本人の手記による)。
1.城を明け渡すこと
2.城中の人数を向島に移すこと
3.兵器を渡すこと
4.軍艦を渡すこと
5.徳川慶喜を備前へ預けること

鉄舟は、最後の慶喜を他藩に預ける条件だけは承服できませんでした。「朝命である」とすごむ西郷に対し、鉄舟はもし逆の立場だったら主君を差し出すのかと反駁し、撤回させたのです(下記補足2)。このやり取りがベースになり、勝・西郷会見と江戸開城が実現したのです。西郷が江戸に乗り込んだときには、鉄舟は西郷の警護役になりました。

(補足2)「主人の慶喜一人を備前へ預けること、これは決してなすべきではありません。というのも、そうなった場合には徳川に恩顧を受けた家臣たちが決して承知をしないからです。つまり、合戦が起こり、いたずらに数万の生命が失われます。これは天子の軍隊のすることではありません。そうなってしまっては先生は単なる人殺しでしかありません。(略)」と答えると、西郷氏は「朝命です」と言う。わたしはきっぱりと、「たとえ朝命であっても、わたしとしては、決して承知するわけにはいきません」と言う。西郷氏は語気を強めて、再び「朝命です」と繰り返す。わたしは、「ならば先生とわたしとその立場を入れ替えて少し考えてみましょう。先生の主人である島津公が、もし間違って朝敵の汚名を着せられながらも、官軍が征討に向かう日には恭順謹慎しており、しかも先生がわたしと同様の任にあって主家のために尽力している時に、主人の慶喜に対するがごとき処置の命令が朝廷から下ったら、先生はその命令を謹んでお受けになり、さっさと主君を差し出して安閑としていることを、君臣の情、先生の義というものからみてどうお考えでしょうか。このことは、轍太郎には決して忍ぶことのできないことです」と激しく論じる。西郷氏はしばらく黙然としていたが、口を開くと、「先生の説はもっともなことです。徳川慶喜殿のことについては、この吉之助が確かに引き受け、取り計らいます。先生にはご心痛には及びません」と約した。(同上)

この史跡碑は旧東海道沿いにあるので、ここから駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます(発掘現場は2025年12月で一旦公開終了、今回内容はそれ以前に訪問したもの)。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

東海道から駿府城入城

それでは、史跡から東海道を駿府城に向かいましょう。でも実は、東海道とはすぐお別れなのです。東海道と反対側の三の外堀(外堀)に行きます。全部ではありませんが、残っているのです。堀沿いを歩いていくと、城に行くのに便利な城代橋があるのですが、今回はオリジナルの登城ルートをたどってみようと思います。すごい石垣が張り出しています。この先が、大手御門跡になります。大手門の周りだけあって、堂々としています。背後にそびえるのは静岡県庁舎別館です。現代の天守のようです。

城周辺の航空写真

左側に曲がると東海道の続き、右側に行くと駿府城
三の丸堀(外堀)
城代橋(明治時代設置)
石垣の背後にそびえる静岡県庁舎別館

大手御門跡の前まで来ました。大手御門から、二の丸御門、御玄関前御門と進むのが、正規の登城ルートでした。今でもバンバン車が通っていて、県庁の正門みたいになっているのでしょうか。すごい枡形で、この上に建っていた門の建物も巨大だったのでしょう。枡形を抜けると、二の丸堀(中堀)に突き当たります。

大手御門跡
正規の登城ルート(駿府城東御門内)
大手御門の枡形
二の丸堀に突き当たります

二の丸御門は左の方になりますが、この門跡は通ることができないのです。この門跡は、戦後の国体開催のときに埋められて、別の場所に橋がかけ替えられました。その二の丸橋を渡ります。そして左手の方に、二の丸御門の枡形が残っているのです。袋小路かと思ったら、入口をふさがれた枡形だったのです。

二の丸御門跡(表側)
二の丸橋
二の丸御門の枡形(内側)

最後の御玄関前御門は、残念ながら案内があるだけです。中心部はかなり整地されてしまいましたので仕方ありません。でも、場所がわかっただけでも良かったです。

御玄関前御門跡

復元された門・櫓を見学

次は、中堀の前に戻って、復元された建物の方に行きましょう。巽櫓に近づいていきます。どっしりとした構えです(二重三階、平面は珍しいL字型)。大砲の標的にならないよう、こういうスタイルになったそうです。

復元された巽櫓

巽櫓からつながる東御門に行きましょう。この県庁をバックにした図柄は、好みがあるかもしれません。個人的には天守があるみたいで好きです。

県庁をバックにした東御門

東御門の高麗門から中に入ります。外からの攻撃に耐久性が高い内枡形です。そして右側の櫓門から枡形を出ます。

東御門(正面)
高麗門
枡形
櫓門

門と櫓の内部は公開されていますので、入ってみましょう。まず東御門ですが、多聞櫓にも囲まれていて、結構広いのです。防御の仕組みが分かるようになっていて、フィギアのところに石落としがあります。

門と櫓への入口
駿府城模型の巽櫓・東御門部分(駿府城東御門内)
櫓門内部
石落とし

それに、資料館としてもかなり充実しているのです。例えば、櫓門の中に大きな城の模型があったり、門の正面の多聞櫓の中に、今川時代から大御所時代までの歴史展示があったりします。

駿府城模型(駿府城東御門内)
今川時代の展示(駿府城東御門内)
格子窓から見た枡形

曲がった先の多聞櫓では、幕末までの歴史です。鉄砲を撃つフィギアもいます。巽櫓に行っても、展示は続きます。なんと、天守台発掘調査現場の模型まであります。そして二階には、復元された「竹千代手習いの間」があります。

鉄砲を撃つフィギア
巽櫓へ
天守台発掘調査現場の模型
復元された「竹千代手習いの間」

建物から出たら、本丸堀(内堀)に行ってみましょう。埋められてしまったのですが、一部掘り返されて、見学できるのです。石垣も見えます。

本丸堀
本丸堀の石垣

次は二の丸水路です。本丸掘と、二の丸堀をつないで、水位調整を行っていました。

二の丸水路

いよいよ天守台へ

そして、いよいよ天守台です。近くで家康公もお出迎えです。

天守台発掘調査現場に向かいます
徳川家康像

広大な現場です。緑のコーンが慶長期、赤のコーンが天正期、黄色のコーンが今川期の遺物を表しています。

天守台発掘調査現場のほぼ全景

別の図(下記)も使いながら、天正期天守台(赤いライン)からご案内します。南側の天守台出入口を見ながら、大天守台の南東隅をかすめていくという感じです。緑のコーンもあるので、慶長期のものとかぶっています。

天守台模式図(駿府城東御門内にて展示)
天正期大天守台南東隅付近

見学ゾーンの端まで来ました。手前の石垣が目立っています。東側に面した石垣で、野面積みです。ここから、北東隅、北西隅を示すコーンが見えます。古い方の天守台でもかなり大きかったのです(東西約33m、南北約37m)。家康が豊臣大名時代に築いたものなのでしょうか。

天正期大天守当面の石垣
丸い形の自然石(あるいは粗割り石を使った野面積みです

続いて、慶長期天守台の方に向かいます。小天守台の石垣が見えます。途中では、天正期の金箔瓦が出土したところや、本丸西側の石垣を回り込んでいきます。すると、巨大な天守台が姿を現します。

慶長期小天守台東面の石垣
天正期の金箔瓦出土地点
慶長期本丸西側の石垣
慶長期大天守台南面の石垣

巨大でもあるし、石の形も整えられています。南東側は、地震があって積み直したので、より新しい方式(切り込みハギ)になったそうです(東西約61m、南北68m)。

慶長期大天守台南西隅

北側に向かって歩きます。北西隅まで来ました。先ほどの南西隅より石の形が粗くなっています。こちらは家康時代のオリジナルとのことです。

北側に向かっています
慶長期大天守台北西隅

そして、見学ゾーンの北の端まで来ました。見えているのは、北側の石垣です。ちょっと上を見ていただくと、ポールが立っています。かつて、天守台はあの高さまであったそうです(地上12m、堀水際から19m)。

慶長期大天守台北面の石垣
かつての天守台の高さを示すポール

最後に興味部会ものをお見せします。本丸掘から出た石、とあります。天守台を崩して、堀を埋めるのに使われたのです。元は天守台にあったということです。何とか復元できないかと思ってしまいますが、とんでもないパズルになってしまうでしょう。当面は、現状の天守台の展示施設を作るということです。

石置き場にあるかつて天守台を構成した石たち

まだまだある見どころ

次は復元された坤櫓です。内側にも格子窓がたくさんあるのは、敵が曲輪に侵入しても、反撃できるようにするためと言われています。内部の展示はシンプルなのですが、屋根までの木組みの構造や、床下まで見学することができます。格子窓から外を見ると、ここも角地だとわかります。

復元された坤櫓(内側)
坤櫓(内部)
二階三階の一部の床板が外されていて、木組みを見学できます
一階の床の一部がガラス張りになっています

堀の外からも見学しましょう。重要なポジションを守る櫓だとわかります。外側にはばっちり石落としもあって、かっこいいです。

坤櫓(外側)

少し足を延ばして、西側の三の丸堀を歩きましょう。立派な櫓台があります。ただ、昔の絵図でもここに建物があったかわからないそうです。三の丸堀は残っているだけでも相当長そうです。近くには、城を警備した加番の屋敷跡の一つがあります。

三の丸堀にある櫓台
三の丸堀(南から北に向かって)
二加番屋敷跡

最後は、二の丸に北御門から入ってみましょう。入ったところに、土塁の上を歩ける遊歩道があるのです。内側は紅葉山庭園になっています。北東の角地を過ぎて進んでいきます。こうやって見ると、城の土塁をずいぶん高くしてあることがわかります。こちら側は標高が低いということなので、かなり盛ったのでしょう。さっき見た二の丸水路のところに出ました。駿府城、歩いただけ新たな発見がありそうです。

北御門跡
土塁の上の遊歩道
柵の向こうの紅葉山庭園
二の丸北東隅
堀や道路を見下ろしています
二の丸水路に至ります

最後は静岡県庁舎別館、21階富士山展望ロビーに行きます。現代の天守に登れるのです。まず、今日行った駿府城を確認しましょう。ここからでも天守台の巨大さがわかります。富士山の方はどうでしょうか。ガラス越しになりますが、よく見えました。

あの高いところに登ります
展望ロビーからの眺め(北側)
発掘調査現場
富士山

リンク、参考情報

駿府城公園、公式ウェブサイト
・「駿府城まるわかり(駿府城ガイドブック)」静岡市
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
・「歴史群像129号 戦国の城 駿河駿府城/樋口隆晴著」ONE PUBLISHING
・「シンポジウム 今川館の姿にせまる 資料集」静岡市
・「最後のサムライ 山岡鐵舟」教育評論社
・「山岡鉄舟 決定版/小島英記」日本経済新聞出版社
・歴史秘話ヒストリア 「駿府城大発掘!家康VS.秀吉 知られざる攻防」2019年放送
Youtube「小和田哲男:今川「人質」時代、徳川家康の実像を物語る3つのエピソード」テンミニッツ・アカデミー – 1話10分で学ぶ大人の教養講座

「駿府城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

206.浦添城 その3

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

イントロダクション

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

浦添城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浦添→首里 尚寧王の道をゆくツアー)

浦添ようどれ見学

それでは、ようどれの入口の方に登っていきましょう。今回は大丈夫そうです。復習ですが、ここは中山王・英祖が築いたと言われる王陵で、沖縄戦で破壊されましたが、2005年に復元されています。琉球王国の尚寧王もここに眠っています。

浦添ようどれ入口
浦添ようどれ現地案内図

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って入っていきましょう。ここは、沖縄戦の前まではトンネル状になっていて、あの世に行くかのような雰囲気があったそうです。名前の感じのとおりの場所だったのです。

暗しん御門

ここを抜けると、二番庭(にばんなー)です。ここから石垣に囲まれています。そして、中御門(なーかうじょう)の門をくぐると、墓室前の一番庭(いちばんなー)に到着です。

二番庭
中御門
一番庭

手前側の西室が、英祖王陵、奥側の東質が、尚寧王陵とされます。墓室に入ることはできませんが、その代わりに、浦添グスク·ようどれ館で、英祖王陵の再現墓室を見学できます。

英祖王陵
尚寧王陵
浦添グスク·ようどれ館
再現墓室

ようどれとは反対側の「浦添城の前の碑」に移動しました。尚寧王が、首里・浦添間の道路竣工を記念して建てたものです。振り返ると、首里方面が見えるのですが、前回のズーム画像と比較すると、首里城正殿の本物の屋根が見えて、期待できそうです。石畳道の方に行きます。向こうに海や、近くには発掘されたオリジナルの石垣も見えます。

浦添城の前の碑
首里方面の眺め
ズーム画像(首里城正殿)
ズーム画像(前回)
発掘された石垣

尚寧王の道(浦添)

ここからが尚寧王の道です。石畳の道です。発掘調査に基づき、復元されたものです。石の中にはオリジナルのものもあるそうです。石畳が終わって坂を下り、突き当たったら右に曲がります。

尚寧王の道、スタート地点
坂の途中まで石畳が続きます
突き当たりを右です

そして龍福寺跡があるのですが、薩摩軍の琉球侵攻のとき、焼かれてしまったそうです。やはりこの道を攻め上がったのでしょう。次は郵便局を過ぎたら左です。

龍福寺跡
郵便局を過ぎたら左です

車が多い通りは信号のあるところで渡っていただいて、その先が阿波茶橋(あはちゃばし)です。どんどん下って行って、石畳がまた現れます。小湾側とその支流にかけられた2つの石橋です。風情があります。こちらも沖縄戦で破壊され、その後修復されています。橋の表面の、組み合わせた石の形が面白いです。

阿波茶橋に通じる石畳
阿波茶橋
2つの石橋のうち南橋
南橋を渡ります

普通の道路に戻りますが、歴史の道として、ルートがわかるようになっています。その先には、お経を納めた経塚があって、一旦通りに合流しますが、向こうに郵便局が見えてきたところで脇道に入ります。ここも歩道が石畳風です。

「歴史の道」がわかるようになっています
経塚
ここから右側の脇道に入ります
石畳風の歩道

次の見どころに着きます。浦添御殿(うどぅん)の墓です。琉球国王の親戚、浦添家のことで、代々浦添を領地としてきました。その由緒ある家のお墓です。沖縄のお墓はみんな立派ですが、これはまたひときわすごいです。

浦添御殿の墓

尚寧王の道(那覇)

ここからは道を折り返して、那覇に向かっていきます。一路首里城を目指します。浦添御殿から下って、通りに合流したら、すぐに右折します。その先がフェーヌヒラです。南の坂という意味です。こんな坂があるあとは意外ですが、那覇は「坂の町」と言われているそうです。こういうのは歩いてみないとわかりません。

通りに合流したらすぐ右折します
フェーヌヒラ

また通りに合流したらしばらくまっすぐですが、那覇はより市街地化が進んでいるので、わかりにくいところもあるのです。確かに道なりに左に行ってしまいそうな所もあります。

ここは道なりに左方向に行ってしまいそうですが、細い道の方をまっすぐ進みます

そうするうちに平良交差点に出て、渡ったところが太平橋(たいへいきょう)です。普通の端に見えますが、かつてはこちらも石橋で、薩摩軍侵攻のときには、ここで攻防戦がありました。しかし薩摩軍鉄砲隊の猛攻撃により、王国軍は撤退しました。

平良交差点
太平橋

橋を越えると道は細く、登りになって、儀保クビリと呼ばれ、切通しのようになっていました。王国軍としてはこの手前で薩摩軍を食い止めたかったのでしょう。

儀保クビリ

階段を下れば、首里城までは一直線のように見えます。案内標識に守礼門とあります。ゆいレールとも交差すします。首里駅は、左手の方になります。

階段を下ります
守礼門への案内標識
ゆいレールと交差します

歩道が石畳風になってきました。ここもまっすぐ行きましょう。なだらかな坂を登っていくと、アダニガー御嶽(うたき)があります。首里城が近いということでしょうか。そして坂を下ると、見覚えがある場所に出ました。

再び石畳風の歩道
アダニガー御嶽

龍潭の畔です!ここから見ても、首里城の再建が着々と進んでいるのがわかります。尚寧王の道のゴールはもうすぐです。首里城公園の入口に向かいます。ここをゴールにしましょう。すごい達成感でした。

龍潭
完成間近の正殿が見えます
前回の同じ場所からの眺め
首里城公園入口

首里城はどうなっている?

それでは、首里城がどうなっているか見に行きましょう。守礼門に来ました。薩摩軍が首里城には攻め込んだとき、そのときの王様も尚寧王で、和議の方針になっていました。ところが、一部の家臣は抵抗の姿勢を見せたため、薩摩兵は、守礼門の柱を楯にしながらグスクに迫ったそうです。

守礼門

次は歓会門ですが、工事中です。その先からが内郭で、正門の瑞泉門になります。そして、漏刻門、広福門を通れば、奉神門の前に到着です。前回は、ここから工事用の素屋根が見えましたが、中はどうなっているのでしょうか。

歓会門
内郭入口の瑞泉門へ
漏刻門
広福門
奉神門
前回の状況

まだ工事中の壁に覆われてはいますが、小窓から正殿の勇姿が見えます。2025年10月に素屋根は撤去されました(取材時点:2025年11月)。2026年秋の完成を目指して工事が進められています。

まだ工事用の壁はありますが・・
小窓から見える正殿

それから、工事用の壁での展示にも注目です。例えば、正殿の建物ができてくるプロセスを展示しています。これもグスクの歴史の一コマたちなのです。

壁面の展示(正殿建設開始時)
壁面の展示(正殿屋根完成)

裏側に行ってみましょう。こちらの方が正殿が良く見えます。これは、ますます正殿完成が楽しみです!

裏側から見る正殿

最後は恒例で、東(あがり)のアザナからの景色を楽しみましょう。ところで、尚寧王はその後どうなってしまったというと、薩摩軍との和議は成立しましたが、降伏同然だったので、尚寧王は本土に連行され、大御所・徳川家康、将軍・徳川秀忠に謁見させられたのです。徳川や島津の権力を高めるために使われてしまったのです。尚寧王が、島津の従属下になった王国の首里城に戻ったのは、二年ぶりのことでした。その後は王国の復興に努め、9年後に亡くなったのです。

尚寧王の御後絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

東のアザナに着きました。相変わらずすばらしい景色です。正殿もよく見えます。浦添城はどの辺りでしょうか。尚寧王は浦添ようどれで眠っています。きっと生まれた浦添が、安らぎの場所だったのでしょう。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(正殿方面)
東のアザナからの眺め(浦添方面)

リンク・参考情報

尚寧王の道を訪ねる、浦添市(ルートマップ)
尚寧王の道をたどる歴史の道ぶらりルート、うらそえナビ
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

「浦添城その1」に戻ります。
「浦添城その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました

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