29.松本城 その3

天守一階の武者走りの通路沿いには多くの防御の仕組みが備わっています。石落とし、鉄砲狭間、矢狭間、武者窓などです。例えば、この天守には合計で117もの狭間が設けられています。これらは皆実戦を想定した本物なのです。

特徴、見どころ

天守を支える仕組み

天守に入場するにはまず黒門を経由して本丸に入ります。天守は不安定な地盤の上に約千トンもの重量があります。そのため、天守台石垣の中に16本の太い土台支持柱が埋め込まれて立っているのと、その上には「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれる梯子状の木枠土台が載せられています。

黒門
天守入口
取り替えられた土台支柱柱のうちの一本、天守一階にて展示
16本の土台支柱柱の配置図、天守一階にて展示
大天守下部の構造図、大天守一階にて展示

実戦的な内装

天守一階に入ると、天守を支える多くの柱を目にするでしょう。一階は身舎(もや)と呼ばれる中央部分と、武者走り(むしゃばしり)と呼ばれる周りを囲む通路状のスペースに分かれています。中央の部屋は倉庫として使われていて、通路からは約50cmほど高くなっています。これは、土台がこの部分だけ二重になっているからです。

天守一階(身舎)
天守一階(武者走り)、左側の身舎が一段高くなっています

武者走りの通路沿いには多くの防御の仕組みが備わっています。石落とし、鉄砲狭間、矢狭間、武者窓(格子窓)などです。例えば、この天守には合計で117もの狭間が設けられています。これらは皆実戦を想定した本物なのです。

天守一階の防御装置
石落とし
外から見た一階部分

次の階へは急な階段を登っていきます。二階は一階と似ていますが、幅広な武者窓やその他の窓によって中は明るくなっています。ここは、非常事態が発生したときの武士たちの待機場所となっていました。今は「松本城鉄砲蔵」として使われています。

天守二階の武者窓(格子窓)
二階内部
「松本城鉄砲蔵」の展示

特徴ある各階

対照的に三階は窓がない屋根裏となっているのでとても暗いです。主に倉庫として使われたと考えられています。

天守三階

四階も他のどの階とも異なっています。この階にはあまり柱がなく、天井は高く、中も明るく作られています。よって、城主の御座所として使われたとされています。四階から五階に登る階段は、高い天井のために最も急になっています。気を付けて登ってください。(恐らく安全と円滑な移動のため、天守内での階段近辺撮影は禁じられています。)

天守四階
五階への階段を離れて撮影

五階の内装は面白いもので、四方が破風の裏側によって囲まれています。この階は重臣たちの会議所として使われたと考えられています。

天守五階
破風の裏側
外から見た五階(四層目)部分

そしてついに最上階(六階)に到着します。地面から22mの高さの場所です。ここには高欄が設けられる予定でしたが変更され、その外側に壁が作られました。床面には高欄とその内側を分ける仕切りが見て取れます。よって、外の景色を見るには壁越しの金網を通してということになります。ここは戦の際の指揮所として使われたと考えられています。最上階の屋根裏を見上げると、江戸時代の大火のときにこの天守を救ったと信じられている二十六神が祀られているのが見えます。

天守最上階
高欄となるはずだった部分
金網越しの景色
屋根裏に祀られた二十六夜神

その後

明治維新後、天守を除く全ての城の建物は撤去されて、天守もついに解体され廃材となるべく売却されてしまいました。そのとき、社会運動家の市川量造(いちかわりょうぞう)が現れ、買主に天守の取り壊しを待ってもらうよう要請しました。その後、彼は博覧会を開き、買い戻しの意義を説き、資金を集めることで買い戻しに成功したのです。ところが、それだけでは十分ではありませんでした。このような巨大で古い建物を長期間保存するには継続的なメンテナンスが必要です。明治中期には、天守は柱の腐りから6度傾いてしまい、中にはコウモリが住む有様でした。ここでもう一人の救世主、学校の校長であった小林有也(こばやしうなり)が登場し、城の修復に尽力しました。そして1952年には国宝に指定されました。更には近年、主要な門であった黒門と太鼓門が再建されています。松本市は大手門も復元することを検討しています。

本丸内になる市川量造(左)と小林有也(右)の記念碑
明治時代の天守写真、松本城管理事務所蔵 (licensed under public domain via Wikimedia Commons)

私の感想

結論として、実は天守がいつどのように築かれたかは正確にはわかっていません。この記事で紹介している天守の創建は、松本市の公式見解に基づいています。他説としては、乾小天守が最初に作られ、後に大天守が追加されたときに改修されたというものがあります。より新しい形式の層塔型に似た外見を持っているからです。また、大天守は当初は今と違う姿をしていたという説もあります。そのときには最上部に高欄があり今より多くの破風があったが、後に改造されたというものです。歴史ファンにとっては、どれが本当なのかいろいろ考えてみるのも楽しみの一つです。

左側が乾小天守
乾小天守内部、丸太柱が多く使われているのが最初に作られた根拠の一つとのことです

ここに行くには

車で行く場合:長野自動車道の松本ICから約20分かかります。城周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、松本駅から歩いて約15分かかります。
東京から松本駅まで:北陸新幹線に乗って長野駅で篠ノ井線に乗り換えるか、新宿駅から特急あずさ号に乗ってください。

リンク、参考情報

国宝 松本城、公式ホームページ
・「図説 国宝松本城/中川治雄著」一草舎
・「シリーズ藩物語 松本藩/田中薫著」現代書館
・「城の科学/萩原さちこ著」講談社ブルーバックス
・「よみがえる日本の城14」学研
・「日本の城改訂版第3号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「松本城その1」に戻ります。
「松本城その2」に戻ります。

186.Kaneda Castle Patr3

There are branch paths from the first turning point of the main hiking course to other attractions of the castle ruins. The paths are not the former military road and are a little rougher than it. However, it is worth to visit.

Features

Three Gate Ruins

There are branch paths from the first turning point of the main hiking course to other attractions of the castle ruins. The paths are not the former military road and are a little rougher than it. These are not as popular as the military road. However, it is worth to visit. If you walk down the path for a while, you will be at the junction of another path to the first and second gate ruins, and the other path to the third gate ruins.

The map around the castle

The path from the first switchback

The junction is near a hill called Bingushi Mountain where the ruins of other buildings were discovered. These buildings are thought to have been used as barracks for the Sakimori soldiers.

The diorama of Kaneda Castle Ruins, exhibited by the sightseeing information center Fureaidokoro Tsushima, adding the branch paths (the red lines), and the places of the second gate (marked by the blue circle) and the third gate (marked by the yellow circle)
The path to the ruins of the first and the second gates
The path to the ruins of the third gate
Around the Bingushi Mountain, you can see a rest station on the left
Around the Bingushi Mountain on the diorama

The three gates were built using stones at the eastern side as castle and water gates near the seaside. The stones used in the castle are mainly natural while part of the stones of the first gate are rectangular- processed. However, it is said that they were piled by the Tsushima Domain during the Edo Period to guard the coast. They’ve been restored and repaired so that visitors can see them as if they used to look.

Around the second gate on the diorama
The second gate ruins seen from above
The second gate ruins seen from the bottom
The first gate ruins
The types of the stones were different in the upper and lower parts of the first gate
Going to the third gate ruins after once returning the junction
The third gate ruins

Wonderful Stone Walls along Sea

After you visit the third gate ruins, you can return by the same route or by another path though the southeast stone fortress. If you take the latter, you will see the great long stone walls of the eastern side on the right and beautiful Aso Bay on the left. Please watch your step as the path is partially unstable.

Going towards the southeast stone fortress
There are great stone walls along the sea
They are spectacular long stone walls!

The southeast stone fortress is really great, too! The corner of the fortress was protruded outward to build a salient with enhanced defense in preparation for an enemy’s attack. It looks like a Gusuku (Okinawan castle) or a small Great Wall of China. If you walk up along the fortress, you will return to the route you passed.

The southeast stone fortress
The edge of the fortress
It’s a good contract of the fortress and the sea
Around the southeast fortress on the diorama

Later History

People alway knew about Kaneda Castle because it had been recorded in the Nihon-shoki chronicles, however, they didn’t know about where it was as it had been abandoned too early to remember. For example, trade with Korea was done at a shrine near the first gate during the Middle Ages and the Tsushima Domain used the gate during the Edo Period, but they didn’t notice it was a ancient mountain castle. There is no telling how the Imperial Japanese Army treated it. Historians discovered the ruins on the mountain in the Taisho Era (1910-1925) and they finally confirmed it as Kaneda Castle after World War II. As a result, the ruins were designated as a National Special Historic Site in 1982.

The ruins of Kaneishi Castle, the home of the Tsushima Domain

My Impression

I was very surprised to see that the Joyama Mountain has become dual historical sites of the ancient times and modern times. Both sites show us there were strained relations with foreign countries at those times. Other than that, Tsushima also had dramatic events such as during the Mongolian Invasions and the invasion of Korea by Hideyoshi Toyotomi. On the other hand, there were also peaceful relationships such as with the Korean Envoys. We can now see many tourists visiting Tsushima from Korea recently, too. There is no need to say which is better.

The figures of the Korean Envoys, exhibited by Kokura Castle Tower

How to get There

I recommend using a car to get there. It takes about 20 minutes from Tsushima Airport or about 30 minutes from Izuhara Port. There is a small parking lot at the starting point of the hiking course.

The Izuhara Port
The small parking lot at the starting point of the hiking course

That’s all. Thank you.
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186.金田城 その3

メインとなるハイキングコースの最初の折り返し点からは、小径が出ていて、城跡の他の見どころに通じています。これらの道筋は元の軍用道路ではなく、且つそれと比べれば整備はされていません。しかし訪れる価値はあります。

特徴、見どころ

3つの城戸跡

メインとなるハイキングコースの最初の折り返し点からは、小径が出ていて、城跡の他の見どころに通じています。これらの道筋は元の軍用道路ではなく、且つそれと比べれば整備はされていません。また、あまり人が歩いていないので人気もないようです。しかし訪れる価値はあります。この小径をしばらく下っていくと、分岐点に着きます。

城周辺の地図

折り返し点から出ている小径

そこからは、一ノ城戸跡及び二ノ城戸跡に行く道と、三ノ城戸に行く道とに分かれています。この分岐点の近くには、ビングシ山と呼ばれる丘があって、そこでも建物跡が発見されています。これらの建物は、防人の兵舎として使われたのではないかとされています。

金田城跡のジオラマ(対馬観光情報館にて展示)に折り返し点からの小径(赤線)、二ノ城戸(青丸内)と三ノ城戸(黄色丸内)の位置を追記
一ノ城戸跡及び二ノ城戸跡に行く道
三ノ城戸跡に向かう道
ビングシ山周辺、左側に見えるのは休憩所
上記ジオラマのビングシ山周辺

3つの城戸(きど)は、城の東側の海岸近くに、城門及び水門として石を積んで築かれました。この城で主に使われている石材は自然石ですが、一ノ城戸で使われている一部の石は長方形に加工されています。しかし、これら長方形の石は、江戸時代になって海岸防備のために対馬藩によって積まれたものではないかと言われています。これらの門跡はよく復元、または修築されていて、ビジターがかつてあった姿を見てわかるようになっています。

上記ジオラマの二ノ城戸周辺
二ノ城戸跡(上方から見ています)
二ノ城戸跡(下方から見ています)
一ノ城戸跡
一ノ城戸の下部と上部では石の加工度合いが異なっています
一旦分岐点に戻り、三ノ城戸跡に向かいます
三ノ城戸跡

海岸沿いの素晴らしい石垣

三ノ城戸跡を見た後は、来た道を戻ることもできますし、東南角石塁を経由する別の道を通ることもできます。後者を選択した場合は、右手には城の東側にそびえる素晴らしい長大な石垣を、左手には美しい浅茅湾を見ながら進みます。但し、この道は足元が不安定な箇所があるので気を付けて下さい。

東南角石塁の方に向かいます
海岸沿いに素晴らしい石垣があります
長大な石垣が続きます

その後に現れる東南角石塁もまた素晴らしいです。この石塁の角部分には、敵の来襲に備えて特別な防御の仕掛けがあり、いくつかの突起が設けられています。まるで、沖縄のグスクか、万里の長城の小型版のようです。この石塁に沿って登っていくと、元歩いたルートに戻ります。

東南角石塁
石塁の角(端)部分
石塁と海がすばらしい対比となっています
上記ジオラマの東南角石塁周辺

その後

人々は金田城があったということは常にわかっていました。日本書紀にその存在が記録されていたからです。ところが、それがどこにあったかはわからなくなっていました。記憶に残るにはあまりに早く廃城となってしまったからです。例えば、中世には一ノ城戸の近くの神社で朝鮮との交易がおこなわれました。また、対馬藩が江戸時代に一ノ城戸を再利用しましたが、いずれもそれが古代山城だとは知らなかったのです。旧日本陸軍が城をどのように扱ったのかは言うまでもないでしょう。歴史家が山上にあるものを古代山城の遺跡として「発見」したのは大正時代のことです。それが金田城ものものだと確定したのは戦後のことでした。その結果、1982年には城跡は国の特別史跡に指定されました。

対馬藩の本拠、金石城跡

私の感想

現地に行ってみて、城山が古代と近代両方の史跡になっているのに驚きました。これらの史跡が築かれたときは、対外関係がとても緊張していたということがわかります。それ以外にも、対馬にはモンゴル襲来のときや豊臣秀吉の朝鮮侵攻といった激動の歴史がありました。その一方で、朝鮮通信使との交流によって平和的関係を築いたという時代もありました。最近では、多くの韓国からの観光客が対馬を訪れています。どちらが望ましいかは言うまでもないでしょう。

朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

ここに行くには

ここに行くには車を使われることをお勧めします。対馬空港から約20分、厳原港からは約30分のところです。ハイキングコースの出発地点の手前に小さな駐車スペースがあります。

厳原港
ハイキングコース出発地点の駐車スペース

リンク、参考情報

古代山城・金田城をあるく、対馬観光物産協会
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館

これで終わります。ありがとうございました。
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