49.小谷城 その1

浅井氏が築いた大規模な山城

立地と歴史

浅井氏が本拠地として築城

小谷城は、現在の滋賀県にあたる近江国のうち、北部にあった大規模な山城です。戦国時代の1520年代頃に、この地方の戦国大名であった浅井氏がこの城を築きました。ところが、浅井氏は不幸にも1573年にこの城で滅ぼされてしまったため、浅井の悲劇とともに人々に記憶されることになりました。

近江国の範囲と城の位置

近江国は、東日本と西日本をつなぐとても重要な位置にありました。歴代の将軍や天下人たちは、この国を統治するか、思いのままにコントロールしたがっていました。そのため、例えば織田信長は、1568年に上洛する前に、彼の妹お市を、浅井氏の当主であった長政に嫁がせ同盟を結んだのです。ところが長政は、1570年に信長が浅井氏のもう一つの同盟先である朝倉氏を攻めたとき、信長に反旗を翻しました。信長と長政の長い戦いはこうして始まりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井長政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

織田信長との戦いのために強化

小谷城は、小谷山(標高495m)の尾根上に築かれました。館を伴う多くの曲輪があり、石垣に囲まれていました。城の初期の段階では、これらの構築物は戦うためというよりも、居住のためや権威を象徴するものであったと考えられています。それは、この城の城主が敵から攻撃されたとき、度々城から逃亡していたからです。しかし、信長と戦うことになってからは、朝倉氏からの協力によって、城は強固な要塞として改良されました。また、この城には多くの支城がありました。例えば、大嶽(おおずく)城は小谷山の頂上にあり、峰上にある小谷城の背後を守っていました。

城周辺の起伏地図

長政と朝倉氏は、1570年の姉川の戦いで、信長と野戦を行いましたが、敗れてしまいます。そのため、長政は小谷城に籠ることにし、信長包囲網と呼ばれる他の味方の大名たちが信長を倒すのを待つことにしました。信長は、城を力攻めにすることは諦め、その代わりに少しずつ城を孤立化する策を講じました。羽柴秀吉などの信長の部下たちは、長政の家臣を説得し、信長の味方に引き入れました。その結果、いくつもの小谷城の支城は、戦うことなしに信長側についたのです。

のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長期戦により孤立、そして落城

信長はまた、小谷城の正面に、陣城として虎御前山(とらごぜやま)城を築き本陣としました。このことで、信長側の補給は安定し、一方の長政側は困難となりました。1573年、信長は、最も重要な支城であった大嶽城に滞陣し守っていた朝倉氏を追い払いました。その上で、信長は朝倉氏を、本拠地である一乗谷城まで追跡し、ついには滅ぼしてしまったのです。その結果、小谷城は完全に孤立しました。

城周辺の起伏地図

一乗谷城跡

峰上にある城において、長政は低い方にあった本丸にいました。彼の父親である久政は高い方にあった小丸にいました。信長の部下、羽柴秀吉は麓から一気に駆け上がって中間地点にあった京極丸を占拠しました。それが8月27日のことです。城とそこにいる浅井一族は分断されてしまったのです。久政は混乱に陥り、その日のうちに切腹して果ててしまいます。長政の方は、何日間か持ちこたえましたが、父親と同じように自害しました。城は9月1日に落城しました。

浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現地にある曲輪復元図に曲輪名を赤字で加筆

浅井長政の妻子の運命

信長の妹のお市は、長政の妻でもあったので、まだ城に留まっており、信長によって救助されました。彼女と長政の間には3人の娘と少なくとも1人の息子がいました。この娘たちも同様に救われ、後に浅井三姉妹として知られるようになります。長女の茶々は、秀吉が天下人となった後にその妻となりました。息子の万福丸は、その当時の習わしとして、成人してから復讐できないよう不幸にも殺されてしまいます。長政と久政の首は、これも当時の習いとして京都の公衆の面前に晒されました。信長は、彼らの頭蓋骨を使って髑髏(どくろ)杯を作らせ、宴会で部下たちに披露しました。当時は現在のわれわれとは全く違った多くの風習があったのです。(髑髏杯については、信長だけの特異な行動だったのかもしれませんし、これを敗れた部将への敬意によるものと考える人さえいます。)

お市の方肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像、北ノ庄城跡

「小谷城その2」に続きます。

47.Iga-Ueno Castle Part1

The castle for protecting and attacking Osaka

Location and History

From Home of Ninja to Site for protecting Osaka

Iga-Ueno Castle was located in Iga Province which is now the western part of Mie Prefecture. Iga is probably more well known for being the home of Ninja than for the castle. Actually, before the castle was built in 1585, the province was divided among many small local lords. They gained special knowledge and techniques so that they could protect themselves. They were also often hired by larger warlords in other provinces as spies or Special Forces we now call Ninja. Unfortunately, they were conquered by Nobunaga Oda in 1581. When Nobunaga’s successor, Hideyoshi Toyotomi was organizing his unification of Japan, he sent Sadatsugu Tsutsui to the province as the lord.

The range of Iga Province and the location of the castle

The portrait of Sadatsugu Tsutsui, from a collection of Japanese poems called Giretsu-Hyakuninisshu, owned by National Institute of Japanese Literature (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Hideyoshi was based in Osaka Castle, so Iga Province was on the direct route from Osaka to eastern Japan. That’s why he sent Sadatsugu who first built Iga-Ueno Castle in 1585. Therefore, the castle was supposed to prevent enemies from attacking from the east. The three-level Main Tower of the castle was also built in the eastern part of it. Sadatsugu somehow survived when Ieyasu Tokugawa became the final ruler at the beginning of the 17th Century after Hideyoshi died. However, he was fired by the Tokugawa Shogunate in 1608 due to a claim of misgovernment from his retainers. Historians speculate that the shogunate, in fact, wanted to remove Sadatsugu who was doubly loyal to both the shogunate and the Toyotomi Clan still at Osaka Castle.

Toyotomi’s Main Tower of Osaka Castle, from “The summer campaign of the siege of Osaka folding screens”, owned by Osaka Castle Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Takatora Todo renovated Castle for attacking Osaka

Instead, the shogunate transferred Takatora Todo from Imabari Castle in Shikoku Island to Iga province. Takatora was not a hereditary feudal lord, which meant he didn’t work under Ieyasu Tokugawa, who was the founder of the shogunate, for a long time. However, he was a well-known master of castle construction through having build Uwajima, Ozu and Imabari Castles. He also helped the shogunate build its famous castles such as Edo, Nagoya, and Nijo in Kyoto. That’s why he was trusted by the shogunate. They expected Takatora to build a strong castle to stand against the Toyotomi Clan at Osaka Castle in the west. Takatora accomplished this by renovating Iga-Ueno Castle. He thought that if the shogunate were to be beaten at Osaka Castle, he could accommodate Ieyasu in Iga-Ueno Castle.

The portrait of Takatora Todo, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
Uwajima Castle
Nagoya Castle

Takatora extended the Main Enclosure, the center of the castle on a hill to the west, towards Osaka Castle. He invited a guild of craftsmen called Ano-shu to build the highest stone walls (at that time) at the western side of the enclosure. It was completed- Takatora’s biography praises him, saying the stone walls were greater then those of Osaka Castle. Takatora also started to build the five-level Main Tower behind the stone walls, however, the tower collapsed due to a windstorm in 1612. The Second Enclosure was built beside the hill in the south, which was used as warriors’ housing. It had two large Main Gates in its western and eastern parts. The construction was ongoing when the battles between the shogunate and the Toyotomi Clan happened in 1614. however, it halted after the shogunate beat the Toyotomi Clan in 1615.

The high stone walls of Iga-Ueno Castle
The illustration of Hachimanyama Castle and Town, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The old photo of the Western Main Gate (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Homebase for Wartime

Takatora gave his younger brother Iga-Ueno Castle as his branch castle, and set Tsu Castle as his home base. Tsu Castle was located in a plains area near the sea in Ise Province which was another territory of his. He said that Tsu Castle would be his home base for peacetime while Iga-Ueno Castle would be the other one for wartime. After that, the senior vassals of the Todo Clan governed the castle and Iga Province in the peacetime of the Edo Period. They lived in the official residence where Sadatsugu Tsutsui originally lived. The first Main Tower, which Sadatsugu built, also remained for a while, but it is thought to have collapsed due to another windstorm in 1633 as well.

The ruins of Tsu Castle
The ruins of the official residence of Iga-Ueno Castle
The official residence area drawn in the Kanei Era of the Edo Period, exhibited by Iga-Ueno Castle

To be continued in “Iga-Ueno Castle Part2”

47.伊賀上野城 その1

大坂を守る拠点、攻める拠点となった城

立地と歴史

忍者の国から大坂を守る拠点に

伊賀上野城は、現在の三重県西部にあたる伊賀国にありました。伊賀はこの城よりも、恐らくは忍者の里としての方がよく知られているでしょう。実際、この城が1585年に築かれるまでは、この国は多くの小領主たちによって分割統治されていました。彼らは、自分たちを防御するために、特殊な知識や技能を身に着けていました。更には他の国の大きな戦国大名たちに雇われ、諜報員や特殊部隊として活動していました。それが現在忍者と呼ばれているのです。不幸にも、彼らは1581年に織田信長により征服されてしまいます。その後、信長の後継者、豊臣秀吉が天下統一を進めているとき、秀吉は筒井定次を伊賀の国主として送り込みました。

伊賀国の範囲と伊賀上野城の位置

筒井定次肖像画、義烈百人一首より、国文学研究資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は大坂城を本拠地としてきました。そして、伊賀国は大坂から東日本に抜ける直線ルート上にありました。そのため、定次をそこに派遣し、1585年に伊賀上野城を築かせたのです。したがって、東方から敵が攻めてくるのをこの城で防ぐことが想定されていました。この城の東側には三重の天守がそびえていました。定次は、秀吉の死後、17世紀初頭に徳川家康が最後の天下人になったときにも、何とか生き残っていました。ところが、彼は1608年に家臣が彼の失政を訴えたことにより、徳川幕府から改易されてしまいます。歴史家は、幕府は実際には、定次が幕府とまだ大坂城にいた豊臣氏両方にいい顔をしていたのを快く思わず、排除したかったのだろうと推測しています。

豊臣時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎が大坂攻撃拠点として大改修

幕府は定次の後釜として、四国の今治城にいた藤堂高虎を伊賀国に移しました。高虎は、幕府の創設者、徳川家康に長く仕えている譜代大名ではありませんでした。しかし彼は、宇和島城大洲城、今治城などを築いたことで築城の名手として知られていました。また、幕府が江戸城名古屋城、京都の二条城など著名な城郭を築く際にも手助けをしていました。高虎は、これらのことで幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に対して、伊賀国の西方に位置する大坂城の豊臣氏に十分対抗できるだけの強力な城を築くよう期待したのです。高虎は、伊賀上野城を大改修することでこれに応えました。彼は、もし家康率いる幕府軍が大坂城で戦って敗れたとしても、家康を伊賀上野城に収容することさえ考えていました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
名古屋城

高虎は、丘の上にあり城の中心部であった本丸を、大坂城がある西の方角に向かって拡張しました。彼は、石垣造りの職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を招き、当時としては日本一高い石垣を本丸西側に築きました。この石垣が完成したことについて、高虎の記録史料(「公室年譜略」)は、大坂城の石垣よりも立派なものだと称えています。また高虎は、高石垣の背後に五重の天守の建設を始めました。ところが、その天守は1612年の大風により倒壊してしまいます。二の丸は、丘の麓の南側に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして東西部分それぞれに大規模な大手門がありました。城の建設は、1614年に幕府と豊臣氏の戦いが始まったとき(大坂冬の陣)にもまだ続いていました。しかし、1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした(大坂夏の陣)ことで中止となりました。

伊賀上野城の高石垣
上野城下町絵図、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西大手門の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦時のための居城

高虎は、伊賀上野城を支城として弟(藤堂高清)に与えたうえで、彼自身は津城を本拠地としました。津城は、伊勢国の海近くの平地に位置していました。伊勢も高虎の領地でした。彼は、津城を平時の居城とし、伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城としたのです。その後平和であった江戸時代には、藤堂家の重臣が伊賀上野城及び伊賀国を治め、筒井定次が元々いた場所にあった城代屋敷に居住していました。定次が築いた初代の天守はしばらくの間残っていたのですが、1633年の大風により、これもまた倒壊してしまったと考えられています。

津城跡
伊賀上野城城代屋敷跡
寛永期の絵図に描かれた城代屋敷、伊賀上野城にて展示

「伊賀上野城その2」に続きます。