76.徳島城 その1

徳島城は様々な点で発展してきました。

立地と歴史

蜂須賀家政が築城

徳島城は、現在の徳島市にありました。徳島県の県都は徳島市です。徳島県は、かつて阿波国と呼ばれていて、戦国時代の16世紀後半には、この国をめぐって長宗我部氏と天下人の豊臣秀吉が争っていました。最終的に秀吉が勝利し、1585年にこの国を重臣の蜂須賀家政に与えました(秀吉は、家政の父の正勝に与えようとしたが、固辞したため子の家政に与えたとされています)。家政は最初は主要な山城の一つであった一宮城を拠点としましたが、すぐの1586年に他の場所に新しい城を築いて移ります。それが徳島城でした。

城の位置

蜂須賀家政肖像画、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
一宮城跡

海上交通のネットワークを形成

徳島城は、渭津(いのつ)と呼ばれた砂州にあった標高62mの渭山(いのやま)の上に築かれました。その砂州は、四国で一番の大河であった吉野川のデルタ地帯の中にありました。この城が築かれた場所は、この国の領主にとって決して広くはありませんでした。秀吉がこの場所に城を築くよう示唆したとも言われています。それでは、なぜ秀吉は家政にそのような場所に城を築くよう指示したのでしょうか。歴史家は、秀吉は本拠地の大坂城とともに海上交通のネットワークを構築しようとしたと推測しています。渭津は徳島と改名され、紀伊水道のような海上交通ルートをコントロールできる拠点となったのです。この地域は、大坂城が面していた大阪湾の入口に当たりました。この海上ネットワークは水軍と商船隊の両方から構成されていました。この場所を選んだもう一つの理由としては、蜂須賀氏はまだ長宗我部の残党に対抗するため、阿波九城と呼ばれた支城に家臣を派遣する必要があったと考えられています。そのため、蜂須賀の本拠地はそれ程広大でなくてもよかったのです。

阿波国徳島城之図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

城周辺の起伏地図、渭山がデルタ地帯の中で目立っています

徳島城と大坂城の位置関係

大坂城

当初は城の中心は山上部分

渭山は、くの字型に曲がっていて、東西方向に横たわっていました。本丸は、最高地点で且つ最も広く、山の形が曲がっている辺りにありました。ここには、初代天守と初代の城主御殿があったと考えられています。ところが、その天守は創建から約30年後になぜか解体されてしまします。そして、東側の低い位置にあった東二の丸に再建されたのです。これはとても稀なケースで、なぜならほとんどの城の天守は山の最高地点にあったからです。たった一つ、水戸城で似たようなケースが見られるだけです。水戸城の場合は、理由は明白です。本丸が狭く不便であったからです。(徳島城の場合は、東二の丸の方が、城下町をより見渡すことができたからだという説があります。)山の西側の部分には、西二の丸と西三の丸があり、本丸を防御していました。これら山の上の曲輪は、それぞれ石垣に囲まれていました。一方、山の南側の砂州にあった平地は開発がまだ進んでいませんでした。専門家は、恐らく城主の御殿は山上と平地の2か所にあっただろうと推測しています。メインの方は山上にあり、予備の方は平地にあって、そこには家臣の屋敷もありました。初期の段階では、徳島城は戦いがあった場合に備えた作りになっていたと思われます。

渭山に築かれた本丸などの曲輪、天守は本丸ではなく、東側の低い部分にあります(阿波国徳島城之図部分

水戸城周辺の航空写真

二の丸にあった水戸城天守の古写真

城の中心が平地部分に移動

1615年に徳川幕府が豊臣氏を倒した後は、幕府の統治はついに安定してきました。蜂須賀氏も幕府に貢献したことにより淡路国も与えられ、領地を広げることができました。天下泰平が続く中、阿波九城はやがて廃城となりました。その結果、家臣たちは徳島城に集まることになり、城の再構成が必要となりました。平地には城主のための大規模な御殿が再建築され、城の中心部となりました。また、櫓がいくつも築かれた石垣や、屏風塀と呼ばれる塀が、内堀や寺島川に沿って中心部を囲んでいました。南側には、大手門としての黒門があり、そのとなりには太鼓櫓という三階櫓がありました。御殿の南の方には、三木郭があり、そこには城の正門として鷲の門がありました。城の周りには多くの川がありましたが、埋め立てられて武家屋敷や城下町となっていきました。蜂須賀氏は、江戸時代の終わりまでここを居城としていました。

御殿が建てられた平地部分(阿波国徳島城之図部分)絵図に御殿は描かれていません
黒門と太鼓櫓(阿波国徳島城之図部分)
三木郭と鷲の門(阿波国徳島城之図部分)

「徳島城その2」に続きます。

175.勝瑞城 その2

城跡は「館」と「城」の2つの部分に分かれています。

特徴、見どころ

「勝瑞館跡」と「勝瑞城跡」

現在、勝瑞城跡には2つの部分があります(現地では2つをまとめて「勝瑞城館跡」と表示されています)。一つは大きな方で、細川氏や三好氏の館として使われていた部分です。よって、しばしば「勝瑞館跡」とも呼ばれます。この区域は基本的に広場になっていて、多くの遺物が地面の下に埋まっています。発掘現場事務所があり、発掘作業が現在も続けられています。遺物が見つかった場合、調査研究が行われ、元の場所に再び埋められるか、保存のために取り出されます。その後、遺物が見つかった場所に、現代的な方法で展示物が作られます。

城周辺の航空写真

「勝瑞館」跡

発掘と展示が進んでいる勝瑞館跡

例えば、橋がかけられた水堀のレプリカが、元あった水堀と同じ場所に、似たような大きさで作られています。観光客は今、過去においては館の区域がどのように堀によって隔てられていたのか、見てわかるようになっています。更に、館の遺物が見つかった場所(会所であったとされています)には、館のように見える休憩所が作られています。休憩所の近くでは、枯山水の庭園があった場所に、いくらか木が植えられ、石が据えられて、庭園が一部復元されています。また、説明板がたくさんあって、ここには何があって、城にどんなことが起こったのか記載されています。

水堀のレプリカ
館を模した休憩所
一部復元された庭園
説明板の一例

寺として残っている勝瑞城跡

もう一つの区域は、戦いにおいて、城が最後の局面に陥ったときの詰めの場所として付け加えられた部分です。こちらの方がより城跡らしく見えます。よって、ここ自体が「勝瑞城跡」と呼ばれたりもします。しかし、この部分は、館の部分よりずっと小さく、大きさは約100m四方です(館の部分は200~300m四方です)。これは恐らく、この城の部分が短期間に築かれ、使われたからでしょう。その跡地には現在、江戸時代に創建され、三好氏の墓が集められている見性寺があります。水堀と一部の土塁が跡地を囲んで残っています。発掘によれば、この土塁はもとは堀の底から14mの高さがありました(水面からは2.5mの高さ)。

見性寺
三好氏累代の墓
跡地を囲む水堀
一部残っている土塁

「勝瑞城その3」に続きます。
「勝瑞城その1」に戻ります。

175.Shozui Castle Part1

The center of Awa Province in the Middle Ages

Location and History

Castle starts as Governor’s Residence

Shozui Castle prospered between the mid 14th Century and the late 16th Century as the center of Awa Province on Shikoku Island (what is now Tokushima Prefecture). The castle was first launched as the official residence of the province’s governor by the Hosokawa Clan which was a senior vassal of the Ashikaga Shogunate. Awa Province was a fertile land near Kyoto which was the center of Japan. The castle was also located alongside Yoshino-gawa River, the largest river in Shikoku Island, so it was convenient for water transportation and trade. As a result, the castle became an important base for the clan.

The location of the castle

Castle is developed as Miyoshi Clan’s Home Base

In the mid 16th Century, Nagayoshi Miyoshi, who was a retainer of the Hosokawa Clan, became the ruler instead of Hosokawa. He lived in Imori Castle near Kyoto to govern the center of Japan, while his little brother, Jikkyu Miyoshi lived in Shozui Castle. The Miyoshi Clan originally came from Awa Province. They also needed to work closely between Kyoto and Awa to keep their power like the Hosokawa Clan did. For example, Jikkyu took many soldiers from Awa to battle in Kinki Region, including Kyoto, when his big brother, Nagayoshi was in danger.

The portrait of Nagayoshi Miyoshi, owned by Juko-in of Daitokuji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Imori Castle
The portrait of Jikkyu Miyoshi, owned by Myokokuji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Jikkyu also developed Shozui Castle. The castle became larger, having several enclosures separated by the water moats, including the Main Hall and a Japanese rock garden. According to the excavation, valuable Chinese ceramic ware was traded and ceremonies like parties and cockfights were often held there. Though the castle was surrounded by rivers such as Yoshino-gawa River as natural hazards, the castle itself still didn’t have special structures like earthen walls for defense. It could be because the governance of Awa Province was quite stable and there was little need for defense. The water moats were thought to be used for flood control or a reservoir. By this time, the castle was likely called “Shozui Hall” because it probably didn’t have all the features of a castle.

The ruins of “Shozui Hall”

Castle is captured by Chosogabe Clan

However, after Nagayoshi and Jikkyu died in the late 16th Century, the situation changed. Shozui Castle got into some internal troubles and battles as the power of the Miyoshi Clan decreased. In addition, Motochika Chosogabe, a great warlord in Tosa Province (what is now Kochi Prefecture) aimed to capture Awa Province. The Miyoshi Clan then asked the ruler, Nobunaga Oda who owned the center of Japan for help. Hideyoshi Hashiba, who was Nobunaga’s retainer and became a ruler following Nobunaga, sent a letter which says that Shozui should build up its defenses. The Miyoshi Clan extended Shozui Castle by adding the final part for a battle, which was surrounded by high earthen walls and a deep-water moat. With these additions, people can finally call the castle “Shozui Castle” in the end.

The portrait of Motochika Chosogabe, owned by Hada Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of “Shozui Castle”

After Nobugana was suddenly killed in the Honnoji Incident in 1582, the Miyoshi Clan had to fight with the Chosogabe Clan by themselves. In the same year, the battle of Nakatomi-gawa River happened between the clans in the south of Shozui Castle. The Miyoshi Clan was unfortunately defeated and besieged in Shozui Castle for nearly a month. However, the Chozogabe Clan lastly captured Shozui Castle after the Miyoshi Clan withdrew from the castle. The castle was abandoned right away probably because it was not suitable for surviving battles. After that, mountain castles like Ichinomiya Castle became popular in Awa Province.

The ruins of Ichinomiya Castle

To be continued in “Shozui Castle Part2”