32.春日山城 その1

最強の戦国大名、上杉謙信の城

立地と歴史

義の武将、上杉謙信

春日山城は、日本海に面した越後国(現在の新潟県)にありました。この城は、城主の一人であった上杉謙信によりよく知られています。謙信は、戦国時代の16世紀において最強の戦国大名であったと言われています。彼はその49年の生涯で70回以上戦いましたが、明らかな敗戦はありませんでした。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、謙信には他の戦国大名が決して持ち合わせていなかった特異な面がありました。彼は決して自分から他国を侵略するために戦うことはありませんでした。他の戦国大名に敗北した人たちを助けるためにのみ戦ったのです。結果的に、謙信は越後国の南で有力な戦国大名、武田信玄と5度に渡って戦いました。彼はまた山を越え、太平洋に面した関東地方に17回も侵攻し、北条氏と戦いました。謙信は敬虔な仏教徒であり、生涯独身を通しました。戦いの前には数日間毘沙門堂に籠り、勝利の祈願を行っていたのです。彼は一時城を抜け出して仏教僧になろうとしたのですが、家臣達が城に戻ることを懇願し、ついには諦めたということもありました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
復元された毘沙門堂

このような強さにも関わらず、謙信は天下人にはなれませんでした。毎回出先の国での勝利の後、彼が引き上げると、敵方はまた領地を取り返してしまうのです。歴史家の中はこのような有様を批判する人もいますが、多くの歴史ファンは、謙信を義の武将としていまだに敬愛しています。

上杉謙信の旗印 (taken by 松波庄九郎 from photoAC)

曲輪と屋敷に覆われた城

春日山城は、新潟県の西部、頚城平野の傍らの標高189mの山の上にあり、土造りの城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは不明ですが、謙信の父親である長尾為景がこの城を拡張しました。謙信の時代には城の規模は更に大きくなり、城の山は数えきれない程の曲輪や建物に覆われていました。

春日山城の古絵図  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城は当時3つの部分から構成されていました。城の主要部は、東側の平野に面して山の頂上にありました。そこには本丸、毘沙門堂、重臣の直江屋敷、そして謙信の養子であった景勝と景虎の屋敷がありました。次に、大手道が山麓の南東部分から頂上に向かって伸びていました。この道は山の周辺を長く迂回しており、番所や、柿崎などの他の重臣の屋敷を通っていました。最後に、搦手道がまた山麓の北東部分から伸びていました。この道は黒金門、御屋敷、千貫門、そして虎口と呼ばれる食い違いの入口を通っていました。

上越市埋蔵文化財センターにある城のジオラマ

この城自体は、複雑な防御システムは持っていなかったかもしれませんが、鮫ヶ尾城などの支城ネットワークを持ち、戦が起こったときには連携して機能するようになっていました。

春日山城を中心とした支城ネットワーク(上越市埋蔵文化財センター)

平和な時代となり廃城

1578年に謙信が亡くなった後、この城では不幸にも景勝と景虎との間で内紛が起こりました。最終的には景勝が勝利しましたが、1598年には天下人の豊臣秀吉によって若松城に転封となってしまいます。その後、堀氏が春日山城を支配し、総構えと呼ばれる外郭土塁を築き、城の規模は最大となりました。ところが、堀氏は1607年に統治に便利な平地の上の福島城に移っていきました。春日山城は、それと同時に廃城となりました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
復元された総構え

「春日山城その2」に続きます。

22.Hachioji Castle Part1

A completed version of a mountain castle in Japan

Location and History

One of main Branch Castles of Hojo Clan

Hachioji Castle was a large mountain castle located in what is now Hachioji City, the western part of Tokyo Metropolitan, the Kanto Region. In the late 16th Century during the Sengoku Period, the Hojo Clan owned most of the region. The clan was based in Odawara Castle located at the southwest corner of the region, while they built the network of branch castles in the region to maintain their territory. Hachioji Castle was one of the main branch castles for the clan.

The location of the castle

The castle was first built by Ujiteru Hojo at latest in 1584, replacing Takiyama Castle located about 10km northeast of Hachioji Castle. There were several reasons for the replacement, one of which was that the Hojo Clan wanted to have a much stronger castle. The tension between Hojo and the ruler, Hideyoshi Toyotomi was increasing at that time, so Hojo hurried to improve the castle. They put as much of their power and technology as they could into this castle.

The ruins of Takiyama Castle

Three Parts

Hachioji Castle consisted of three parts. The first one is called the Nekoya Area which was used for residences of retainers and craftsmen around the entrance of the castle. This area is alongside the Shiroyama River in a valley terrain.

The three parts (The diorama of the castle at the site, adding the comments)

The second part is called the Residence on the Foot Area where the Main Hall for the lord of the castle was built. This area is also alongside the river and the back of the Nekoya Area but was strictly protected. Visitors had to go across the river to enter the Main Gate, go the Main Route, and go across the river again over the Movable Bridge in front of the Main Hall. The bridge would be removed when a battle happened. The entrance of the hall was zigzagged, and its foundation was covered with terraced stone walls. The hall was made up of several buildings including the formal ones called “Shuden” or the Palace, and “Kaisho” or the Club. It also had a pond garden to host visitors. A lot of items such as utensils, weapons, and imported porcelains were found by the excavation.

The restored or developed Residence on the Foot Area

The last part is the Fortress on the Mountain Area which would be used when a battle happened. The Main Enclosure is on the 445m high top of the mountain (about 200m higher than the foot, which itself is a 200m above ground). Many other enclosures were built around the Main Enclosure and the ridges are used for the trails between the top and the foot of the mountain. In particular, lots of stone walls covered these enclosures and trails. In addition, not only the front of the Main Enclosure, but also the back of it was also protected strictly by small forts and ridges covered with stone walls. Such structures for a mountain castle were very rare, so the castle can be seen a completed version of mountain castles in Japan.

The ruins of the Fortress on the Mountain Area

Captured by Hideyoshi Toyotomi’s troop in One day

However, the castle was taken over by Hideyoshi’s troops in one day. On June 23, 1590, at least 35,000 soldiers attacked the castle, while the number of the defenders was only 3,000 including farmers and women. The lord, Ujiteru wasn’t there because he was at Odawara Castle. In addition, Hideyoshi ordered his troops to charge and capture the castle. The castle was too large for the 3,000 people to prevent from the bare-knuckled attack. There has been a sad story that many women threw themselves into the waterfall basin of the river before the castle fell.

The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, ownd by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The waterfall of Go-Shuden (licensed by じゃんもどき via Wikimedia Commons)

To be continued in “Hachioji Castle Part2”

22.八王子城 その1

日本の山城の集大成

立地と歴史

北条氏の主要な支城の一つ

八王子城は、関東地方の現在の東京都西部、八王子市にあった大きな山城です。戦国時代の16世紀後半には北条氏がこの地方の大半を手に入れていました。北条氏は関東地方の南西隅にあった小田原城を本拠地とする一方、領土を維持するためにこの地方に支城網を構築していました。八王子城は、その主な支城の一つでした。

城の位置

この城は、遅くとも1584年までに、八王子城から約10km北東にあった滝山城を置き換える形で、北条氏照によって築かれました。置き換えの理由はいくつかあるのですが、その一つは北条氏がもっと強力な城を築きたいと思ったことです。当時、北条と天下人の豊臣秀吉との緊張が高まっていました。そこで、北条は八王子築城を急ぎ、できる限りの労力と技術をこの城に注ぎ込んだのです。

本丸と中の丸をつなぐ曳橋~The movable bridge between Honmaru and Nakanomaru
滝山城跡

3つのパート

八王子城は3つのパートによって構成されていました。一つ目は、根古屋地区と呼ばれ、城の入口周辺に家臣や職人のための住居がありました。この地区は谷あいを流れていた城山川に沿っていました。

3つのパート(現地にあるジオラマの写真に加筆)

二つ目のパートは、城主の御殿が築かれた山麓居館地区です。この地区も川に沿っていて根古屋地区の後方にありましたが、厳重に防御されていました。訪問者は大手門に入るのに川を渡り、大手道を進み、そして御殿の手前にある曳橋を再び渡らなければなりませんでした。この橋は戦いが起きたとき、外されるようになっていました。御殿の入口はジグザグの通路になっていて、土台は階段状の石垣に覆われていました。御殿はいくつかの建物から成り、公的な建物であった主殿や会所などがありました。発掘により、什器、武器、輸入磁器などの品物が発見されています。

復元または整備された山麓居館地区

最後のパートは山上要害地区といい、戦いが起こったときに使われました。本丸は標高445mの山頂にありました(山麓から約200mの高さ)。その他多くの曲輪が本丸周辺にあり、山の峰々は山麓から頂上までに至る通路のために使われていました。特に、多くの石垣がこれらの曲輪や通路を覆っていました。更には、本丸の手前だけはなく、その背後も小型の堡塁群と石垣に覆われた峰々により厳重に守られていました。山城にこのような構造があるのは大変珍しく、そのため、この城は日本の山城の集大成と言えるのです。

山上要害地区跡

豊臣秀吉軍により一日で落城

ところが、この城は秀吉の手勢によりわずか一日で落城してしまいます。1590年6月23日、少なくとも35,000人の兵士が城を攻撃したのです。一方、守備兵の数は農民や女性を含めてわずか3,000人でした。城主の氏照はそのとき小田原城にいて、ここにはいませんでした。更には、秀吉は配下の兵士に、城を力攻めにし、占領することを命じました。なりふり構わぬ攻撃を3,000人で防ぐには、この城は大きすぎたのです。城が落ちる前、多くの女性が川の滝つぼに自ら身を投げたという悲しい話も伝わっています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
御主殿の滝 (licensed by じゃんもどき via Wikimedia Commons)

「八王子城その2」に続きます。