138.越前大野城 その1

金森長近が独特の天守と城下町を作りました。

立地と歴史

織田信長の家臣、金森長近が築城

越前大野城は、現在の福井県にあたる越前国の東部にある大野盆地にありました。1573年に織田信長によって滅ぼされるまでは、朝倉氏がこの国を支配していました。その後、一向宗が一旦この国を(信長に降伏した朝倉氏の重臣から)奪ったのですが、信長は再び一向宗を1575年に倒したのです。信長は大野盆地周辺の地域を、家臣でありそれまでの戦いに功績のあった金森長近に与えました。この地域は、越前国西部の海岸地帯と、内陸の飛騨国をつないでいて、戦国大名にとっては、越前国を治めるのに重要な地域だっだのです。

城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
金森長近肖像画、龍源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長近は最初は、もともと朝倉氏が使っていた、盆地の傍らにあった山城、戌山(いぬやま)城に住んでいました。しかし、長近は1576年に、盆地の中に新しく城と城下町を建設することを決めました。地域の支配を安定化させるためです。彼はその建設に先進的な方法を用いました。そのやり方は、彼の主君の織田信長によって作られた、それまで本拠地であった小牧山城岐阜城でのやり方に似ていたようです。例えば、その新しく築かれた越前大野城には、盆地にあった亀山という丘の上に、石垣と天守が築かれました。

小牧山城跡
現在の岐阜城
現在の越前大野城

独特な天守、先進的な城下町

天守は通常、城の中心にある、高層の塔のことを指します。ところが、越前大野城の天守は、そのような高層の塔の姿をしていませんでした。その代わりに、その天守は3つの館を組み合わせたような形をしていました。これは、越前大野城の建設が、信長の最後の本拠地となる安土城の1579年の完成より前に始まったからなのです。安土城には、日本で初めて高層の塔としての天守が作られたのです(当初は「天主」と表記されていました)。それ以前には、天守とは単に城の中心にある建物を意味していました。越前大野城は1580年に完成し、その天守の建物は長い間残っていました。ところが、その天守は残念ながら1795年の火災により焼けてしまい、再建されませんでした。もし今に残っていたとしたら、極めて独特な日本の歴史遺産となっていたことでしょう。

越前大野城の天守絵図(大野市の展示会パンフレットより引用)
安土城天主のミニチュアモデル(安土城郭資料館)

長近は、城下町も先進的な方法で建設しました。その城下町は、整然と区画され、武士・商人・職人が住む所や寺地に分けられました。このような町の作り方は、通常は次世紀に見られるものです。彼の主君である織田信長は、小牧山の城下町を一から建設しました。長近は、主君のやり方を見習ったのかもしれません。しかし、小牧山城の城下町は信長によって廃止されてしまいます。町の人々は、信長とともに次の本拠地である岐阜城に移住させられたのです。対照的に、越前大野城の城下町は大野市の市街地として現在まで残っています。長近はまた、1586年に飛騨国に移されてから、高山城とその城下町を建設しました。その伝統的な街並みは現在、世界的な観光地となっています。

小牧山城跡にある城下町の町割り模型
今に残る越前大野城の城下町
高山の街並み  (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

土井氏が二の丸御殿から統治

長近の後は、城主は何回も変わりました。1692年以降は、土井氏が城とその地域を大野藩として江戸時代を通じて統治しました。平和な時代になると、城主は山麓にある二の丸の御殿に住んでいました。二の丸は、百閒堀と呼ばれる長大な水堀に囲まれていました。城主は、場所的に不便である天守を含む山上の施設を滅多に使いませんでした。統治を行うにも効率的ではなかったからでしょう。それが、火災の後天守を再建しなかった理由かもしれません。

二の丸御殿の内観模型(越前大野城天守内で展示)
越前大野城の絵図(越前大野城天守内で展示)

「越前大野城その2」に続きます。

134.富山城 その3

富山市は、もっと真の城の歴史を尊重すべきです。

その後

明治維新後、富山城は廃城となりました。すべての城の建物は撤去されるか、火事で燃えてしまいました。城の中心部は富山県庁となり、それ以外の場所は市街地となっていきました。県庁舎が神通川が以前流れていた敷地に移転した後は、1939年に富山公園が設立されました。しかし、1945年の富山大空襲により、富山市は灰燼に帰してしまいます。第二次世界大戦後、富山市の人たちは、1954年に城跡で産業博覧会を開催しました。模擬天守は、市の復興を祝して開かれたその博覧会のために建てられたのです。それ以来、城跡は都市公園として整備されています。

公園にある県会議事堂の遺構
完成当時の模擬天守  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の意見

富山城跡は、史跡として指定されてはいません。すなわち、富山市は自らの好きなように公園を開発し、観光資源として模擬建築をつくることができます。しかし私は、富山市は市民や観光客に対して、城は本当はどのような姿をしていたのか、もっと知らせるべきだと思います。まだ、オリジナルのものが残っているからです。そうしなければ、なぜこの都市とそこに住む人々がここにいて、どうやって今日まで生き残ってきたのかが、わからなくなってしまうのではないでしょうか。アイデンティティを失ってしまうかもしれません。富山市は、城には立派な天守や石垣がなくてはならないと思っているかもしれませんが、富山城にはそれがなくても誇るべき歴史があるのです。ぜひ、同じ県にある高岡市の人たちがやっていることを見習っていただきたいと思います。彼らは、高岡城が廃城となった後、城跡の土造りの曲輪を、自然公園や公共施設として使いながら、ずっと維持し続けています。

オリジナルの石垣の上に模擬天守が乗り、右側に模擬石垣が続いています
鉄門のオリジナルの石垣と模擬天守
高岡城跡は自然公園として維持されています

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の富山ICから約15分かかります。
公園に駐車場があります。
電車の場合は、富山駅から歩いて約10分のところです。
東京から富山駅まで:北陸新幹線に乗ってください。

富山駅
公園にある駐車場入口、これもイミテーション風

リンク、参考情報

富山市郷土博物館、富山市
・「越中460年を行く 富山城探訪/北日本新聞社編」北日本新聞社
・「加賀藩二代藩主 前田利長が造った城/杉本宏著」22世紀アート
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「富山城その1」に戻ります。
「富山城その2」に戻ります。

134.富山城 その2

オリジナルとイミテーションが混在する城跡

特徴、見どころ

かなり変化した外観

現在、富山城跡は富山城址公園として一般に公開されています。公園の現状は、いくつかの点で元々あった状態からかなり異なっています。まず第一に神通川が1899年に、城の北側から他の場所に河道が付け替えられています。今は松川という小川が、元の河道の一部を流れているのみです。次に、公園として残っているのは本丸とに西の丸のみで、その間にあった水堀は埋められ、つながっています。最後の点として、城の建物は残ってはいませんが、模擬の建造物がいくつか作られています。この点については、この後述べます。

城周辺の航空写真

元の神通川の河道を流れる松川
公園の内部

オリジナルの石垣、水堀、移築門

現存しているもののうち、一番の見どころは、石垣、水堀の一部、そして東出丸から移設された千歳御門でしょう。もし南側から公園に入られるのであれば、唯一残っている土橋を渡って行けます。この土橋は、これもまた唯一残っている水堀を渡って、石垣がある鉄(くろがね)門と呼ばれる正門跡に通じています。

土橋の前にある二の丸跡
公園に通じる土橋
土橋を渡って行きます

石垣には、鏡石とよばれる5つ大きな飾り石がはめ込まれれいます。これらの鏡石はとても見栄えがしますし、過去には城主の権威をも示していたのでしょう。この場所は、もっとも元の富山城らしいと言えるでしょう。

鉄門跡
鉄門跡の石垣とその中の鏡石
鏡石は迫力があります

他の現存している石垣は、城の北東部分の裏門跡のところにあります。千歳御門は、その石垣の傍らにあります。

裏門の石垣
千歳御門と裏門石垣

イミテーションの石垣、模擬天守

その一方で、もう一つのこの城の特徴であった土塁は、ほとんど見ることができません。本丸の外周は、もともと土塁を使って作られており、石垣部分をつないでいました。ところが、土塁の外側部分は、最近模擬の石垣により覆われてしまっています。内側部分もまた、以前に石が積み上げられています。

左側がオリジナル、右側がイミテーションの石垣
土塁の内側も石積みされています

オリジナルの石垣がある場所には説明板があり、その石垣の情報を得られるのですが、現代になって築かれた石垣には何の説明もありません。観光客が、昔はどのような城だったのか知ろうとしても、混乱するか誤解しかねません。

オリジナルの石垣の説明板
模擬の石垣には何の説明もありません

鉄門の石垣の上には、模擬天守として、富山市郷土博物館が建てられています。その中では、富山城のことをより学ぶことができます。1954年の開館以来、長い期間が経過し、今では富山市のシンボルになっています。模擬天守であってもオリジナルの石垣によく合っています。

鉄門の石垣の上に建てられた模擬天守
模擬天守の公園内から見た姿

裏門の石垣の上にも、櫓のような外観の美術館が建てられています。富山市民の人たちは、富山城には元から天守があり、城全体が石垣に覆われていたと思っているかもしれません。

裏門の石垣の上に建てられた美術館

「富山城その3」に続きます。
「富山城その1」に戻ります。

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