24.武田氏館 その1

人は城、人は石垣、人は堀だったのでしょうか?

立地と歴史

武田信虎が守護所として築城

躑躅ヶ崎館とも呼ばれた武田氏館は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市にありました。この館が甲府市発祥の地だと言えるのです。甲斐国(現在の山梨県)の守護であった武田信虎が1519年に最初にこの館を作りました。館は、守護の公邸ということだけでなく、武田氏の本拠地でもありました。よって、日本の城の一つとして分類されています。

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その立地は、北側に山が控えていて、南側にはその周辺から扇状地が広がっていました。信虎は城下町やその周辺地を見渡すことができました。彼は、館を一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築き、土塁と水堀で囲みました。これは当時の日本の守護の典型的な館の築き方で、京都の将軍の御所にあやかったものでした。更に、彼は館の北、約2kmの所にある山にもう一つの城を緊急事態のときのために築き、要害山城と呼ばれました。例えば、信虎とその家族は、戦いが起こったときは館からこの山城に避難できたわけです。実際に、彼の息子、武田信玄は1521年の信虎と今川氏との戦いの最中に要害山城で生まれました。これらの城のネットワークは、当時としては安全を確保するための十分な防御態勢だったのです。

城の位置

武田信玄の言葉と城との関係

日本の最も有力な戦国大名の一人であった武田信玄もまた、1551年に家族と関係者のための西曲輪を加えるなど、館を拡張しました。それ以外に、丸く突き出た形の防御陣地である馬出しが、東側の大手門の前に築かれました。また、北側には信玄の母の館が築かれたと言われています。それぞれの曲輪は10m近い高さの土塁と5mの深さがある水堀に囲まれていました。

武田氏館の想像図(現地説明板より)

ところが、この館は多くの人たちに誤解されているようなのです。これは、江戸時代の17世紀の軍学書である甲陽軍艦に記載されている信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀・・」から来ているのです。この言葉の意味するところは強い城を築くより人の心を掴むことが大事ということなのですが、後の多くの人たちは、これを信玄が、織田信長や上杉謙信のような他の戦国大名と比べて、なぜこのような小さな城しか持たなかったかということへの理由として考えているのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館自体は、信長の安土城や謙信の春日山城より随分小さいものです。しかし、それはその時代や状況が異なっていたからです。信玄の場合は、館は守護の公邸としてスタートしました。当時としては、このような館が守護の住む所として普通でした。武田氏はこれに、城のネットワークや馬出しを状況に応じて加えていったのです。彼らとしてはそれで十分でした。

武田氏館跡

武田勝頼が本拠地を移す

1582年、信玄の息子、武田勝頼は本拠地を大きな新しい城、新府城に移すことを決めました。状況が変わったからです。勝頼は信長の脅威に直面しており、武田氏館より強力で大きな城を必要としていたのです。武田氏館は一時廃城となります。勝頼は、不幸にも信長により滅ぼされてしまい、武田氏館は織田氏や徳川氏により再び使われることになりました。1590年、徳川氏が近くに甲府城を築いたときに武田氏館はついに最後のときを迎えました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「武田氏館その2」に続きます

44.名古屋城 その3

現在の天守は残されるべきです。

これからどうなる?

河村市長はまず現在の天守を撤去することを文化庁に申請しており、2018年から天守への入場を停止しています。ところが文化庁は、河村氏が石垣がどのように保存されるか、また天守がどのようになるのか答えていないため承認していません。双方のゴールは完全に異なっているようです。何らかの妥協がない限り、しばらく何も起こらないかもしれません。

小天守(左)と大天守(右)
本丸御殿の背後に見える天守

私の意見

私は、名古屋市は現在の天守の建て替えではなく、修繕を行うべきだと思います。現在の天守に固有の価値があるからです。現在の天守がコンクリートで作られた理由の一つは、将来二度と燃えないようにと考えたからだと言われています(主たる理由はは当時の法規制によるものですが)。木造の天守は首里城のように燃えてしまう恐れがあります。

天守(左)と西南隅櫓(右)
天守の遠景

木造の天守がどんなに元の天守に似ていたとしても、それはレプリカに過ぎず、人々はすぐに飽きてしまうかもしれません。更には、そのレプリカと元の天守が似れば似るほど、一般的な利用には供されず、維持の費用も高額となります。名古屋市がこの城のために十分な予算を確保できるなら、天守台石垣のような現存物の修繕や失われている他の多くの建物の復元に使うべきです。その方が城全体がどのようであったのかより理解できるからです。

本丸表一之門跡
本丸表一之門の古写真

ここに行くには

車で行く場合:
名古屋高速都心環状線の丸の内出口から約5分のところです。
名城公園に駐車場があります。
電車の場合は、地下鉄名城線の市役所駅から歩いて5分のところです。
市役所駅に東京または大阪から行くには:
東海道新幹線に乗って名古屋駅で降り、地下鉄東山線に乗り換え、栄駅で地下鉄名城線に乗り換えます。

リンク、参考情報

特別史跡、名古屋城(公式ウェブサイト)
・「よみがえる日本の城3」学研
・「日本の城改訂版第2、4号」デアゴスティーニジャパン
・「歴史群像69号、戦国最強要塞 名古屋城」学研

これで終わります。
「名古屋城その1」に戻ります。
「名古屋城その2」に戻ります。

44.名古屋城 その2

尾張名古屋は城でもつ

立地と歴史

復活した名古屋城

戦国時代の16世紀中頃、現在の名古屋城と同じ場所に、同じ名前を持つもう一つの那古野(なごや)城がありました。この古い方の那古野城で有名な戦国大名、織田信長が生まれたと言われています。信長は、そのうちに本拠地を清州城に移し、那古野城は廃城となりました。それ以来、清州城(名古屋城の北西約10kmのところ)は尾張国(現在の愛知県西部)の中心地であり続けました。1609年、徳川幕府は度々洪水の被害にあっていた清州城の代わりに、新しい城を築くことを決めました。大坂城にいた豊臣氏との戦いに備え、徳川の親族が入るためのより強力な城が必要とされたのです。その城は、再び名古屋(なごや)城と命名されました。

名古屋城と清州城の位置

清州城跡から見た名古屋城 (licensed by 名古屋太郎 via Wikimedia Commons)

シンプルだが強力な城、最大級の天守

城の範囲は広大で、シンプルであっても強力に作られました。城の中心である本丸は、西の丸などの曲輪群によって全ての方角に対し防御されていました。二の丸は、本丸の南東に付け加えられていて、城主のための御殿が建てられていました。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南方にあり、重臣たちの屋敷地となっていました。

尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

城周辺の航空写真

本丸には5層の天守があり、史上最も大きな天守の一つでした。頂にあった2つの金鯱は人々の間で特に人気がありました。初代の金鯱には215kgもの金が使われていたと言われています。また、本丸御殿もありましたが、これは将軍が滞在するためだけに存在しました。実際には3人の将軍しか使用していません。人々は「尾張名古屋は城でもつ」と言い慣わしてきました。

元あった天守と本丸御殿の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

焼亡と復興

明治維新後、二の丸、三の丸といった大きな曲輪は日本陸軍の駐屯地となりました。しかし、政府は本丸周辺は城として維持していくことを決断しました。天守や本丸御殿を含む伝統的建物群がそのまま残されたのです。1930年には、城として初となる国宝にも指定されています。ところが、誠に残念なことに1945年にほとんどの建物が焼け落ちてしまったのです。現在は3つの櫓と3つの門が残るのみです。

空襲で燃え上がる天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存している本丸の西南隅櫓
現存している本丸表二之門

その悲劇から14年後、名古屋の人々は現在見る天守を再建しました。再建のための予算の3分の1は市民からの寄付によりました。天守の外観はほとんど元通りでしたが、実は元の石垣の内側にあるケーソンの上に建てられた、コンクリート製の近代的ビルだったのです。元あった金鯱は1945年に一緒に燃えてしまいましたが、同時に復元されました。現在のものは88㎏の金を含んでいるそうです。2018年、本丸に、従来工法により本丸御殿が復元されました。本丸はかつての姿を取り戻しつつあります。

現在の再建された天守
現在の復元された金鯱
復元された本丸御殿

「名古屋城その3」に続きます。
「名古屋城その1」に戻ります。

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