191.中津城 その1

中津城を築いた黒田孝高(官兵衛、如水)には豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかし実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

立地と歴史

秀吉とともに天下統一を推進

中津城は、現在の福岡県東部と大分県の北西部を合わせた地域に相当する豊前国にありました。豊前国はまた、九州の最北端に当たり、関門海峡を通じて日本の本州とつながっていました。中津城は、豊前国中央部の豊前海に流れる中津川河口のデルタ地帯に、黒田孝高(くろだよしたか)によって築かれました(彼は通称の黒田官兵衛か、隠居後の黒田如水の名前の方がよく知られています)。孝高は多くの日本人とっては、16世紀終盤に天下人となった豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかしながら、この称号は、歴史家、評論家、小説家など後の人たちによって与えられたものであって、孝高自身は実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

豊前国の範囲と城の位置

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

孝高はもともと、播磨国(現在の兵庫県南部)の国人領主であった小寺氏の重臣でした。秀吉がまだ織田信長の部将だったころ、播磨国を含む中国地方に侵攻したときに、孝高は自身の居城である姫路城を秀吉に差し出すことで、秀吉を支えたのです。その後、秀吉による天下統一事業に全身全霊をもって尽くしました。孝高の初期時代で有名なエピソードとしては、信長に背いた荒木村重に対して居城の有岡城に説得に出向いたところ、囚われて約1年半もの間幽閉されたというものがあります。明智光秀により信長が殺され、秀吉が天下人となっていく間、孝高は秀吉の手足となって働きました。例えば、中国地方の毛利氏とは、戦わずに双方の境界線を決めるための交渉を行いました。また、1587年に九州侵攻を行う際には秀吉が到着する前に、地元領主と戦うか降伏させるかして、お膳立てを行ったりしました。

姫路城に残る孝高の時代のものとされる石垣
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

領地の豊前国に中津城を築城

九州侵攻の後は、孝高は秀吉によって豊前国の一部を領地として与えられました。その領地はそれまでの孝高の貢献に比べると小さく、それは秀吉が孝高の秘めたる力(天下を狙える力)を恐れたからだと言われてきました。しかし実際には、孝高がクリスチャンであり、侵攻の直後にキリスト教の布教を禁止した秀吉にとって心証が悪かったからだと指摘する人もいます。孝高は当初、当時一般的であった山城の一つである馬ヶ岳(うまがだけ)城を居城としていましたが、1588年に中津城の建設を開始しました。そしてその城は、今治城高松城と並んで、日本三大海城と言われるようになります。城の立地は、統治や交通の利便性から、孝高によって決められたのですが、秀吉の示唆も恐らくあったでしょう。秀吉の他の部将たちも同時期に、九州地方に得た新しい領地に、小倉城、大分府内城八代城などの海城を築いているのです。これらの城は、秀吉が計画していた朝鮮侵攻(当時は唐入りと称されました)の準備のためにも使われました。

中津城に残る黒田氏の時代の石垣
今治城
高松城
八代城跡

中津城は、九州地方ではもっとも初期に、櫓や石垣などで近代化された城の一つでした。本丸は城の中心にありましたが、河口沿いにあって川に直接通じる門がありました。日本の城では珍しい事例です。二の丸は海に向かって手前側にあり、三の丸は奥の方にありました。これらの曲輪群はデルタ上にまとまっていたので、扇の形のように見えました。最盛期には櫓が22基もありましたが。何らかの理由で天守は築かれませんでした(初期の頃の「天守の番衆」を定めた文書が残っていて、当初には天守があった可能性がありますが、大櫓のような建物を天守と称していたのかもしれません)。

中津城旧地図、現地説明版より、上から二の丸、本丸、三の丸の順に並んでいます

中津城から天下を狙ったのか

孝高の人生のクライマックスが、秀吉の死後1600年に起こった、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との天下分け目の戦いのときに訪れました。中日本での関ヶ原の戦いで三成と直接戦った息子の長政とともに、孝高は東軍に加わっていました。孝高自身は中津城に留まり、そこから出陣して西軍に属していた大名たちの城を一つずつ落としていきました。家康が三成を倒した関ヶ原の戦いは9月15日の一日で決着がついてしまったのですが、ところが、孝高は家康が止めるまでの約2ヶ月もの間、九州地方を攻め続けました。孝高は同盟者とともに、南九州の島津氏の領地以外、九州地方の全てを制覇したのです。このことで、後の人たちは孝高には天下人になる野望があったのではないかと推測するのですが、その答えは本人しかわからないでしょう。黒田氏は戦功により、もっと大きな領地を得て福岡城を含む福岡藩の方に移っていきました。その後、孝高は1604年に亡くなりました。

中津城にある黒田孝高夫妻の石像
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡城跡

城は中津藩として継続し、藩内には蘭学が普及

中津城は、細川氏の支城として引き継がれました。城は1615年に徳川幕府が発布した一国一城令の後でも生き残りました。これは、この城が細川氏当主の父親である細川三斎の隠居所として使われたからだと言われています。そして最終的には奥平氏が中津藩として江戸時代末期までこの城を支配しました。その時代の間で特筆すべき出来事といえば、「蘭学」と呼ばれた、オランダ語の書物を通じた西洋の文物の習得を藩主が奨励したことでしょう。当時の日本人は通常、西洋の文物に接することを厳しく制限されていました。長崎出島のオランダ商館における貿易と、原則4年に1回の商館長の江戸訪問のみが許されていました。しかし中津藩においては、3代目の藩主の奥平昌鹿(おくだいらまさしか)が、彼の母親の骨折が西洋医学により治療されたのを見てから、蘭学の普及を始めました。西洋の医学書を日本で最初に同僚の杉田玄白とともに翻訳した前野良沢は、中津藩の藩医でした。明治時代の著名な思想家で教育者の福沢諭吉は、中津藩の下級藩士でした。彼は藩の門閥制度にかなり反感を持っていましたが、蘭学を学ぶことが世に出るきっかけとなったのです。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
細川三斎(忠興)肖像画、自性寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前野良沢肖像画、藤浪剛一「医家先哲肖像集、1936年」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福沢諭吉、1891年頃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「中津城その2」に続きます。

93.人吉城 その3

1877年に人吉地域にとって大きな出来事がありました。維新三傑の一人である西郷隆盛が、西南戦争として知られる反乱を政府に対して起こしたのです。

特徴、見どころ

丘上部分に登る

次に向かうのは城のうち、丘上にある部分です。恐らくは城の初期段階から存在したと思われますが、最終段階に至って石垣により近代化されました。現在建物はありませんが、その基礎や石垣が残っています。まず、丘上の本丸、二の丸、三の丸への唯一の入口であった御下門(おしたもん)跡を登ります。幅広い石段を登り、右に曲がって丘の端部分の直下を回り込んでいきます。城があった当時であれば、城の守備兵は侵入してくる敵に対して丘上から攻撃できたはずです。

城周辺の地図

御下門跡
石段を登って行きます
丘上からは狙われやすくなっています
丘下を回り込んでいきます

まずは丘の周辺部を広く占めている三の丸に入ります。この曲輪はほとんどが土造りであり、城が現役であったときから広場になっていました。ここは、市街地を望むビュースポットになっています。

三の丸
三の丸から見える市街地

二の丸、そして本丸へ

二の丸は、三の丸よりも高い位置にあり、石垣と2つの守りの固そうな門の跡(中の御門、埋御門)に囲まれています。ここにはもう一つの御殿があって、丘下に御館が築かれるまでは城の中心部とされていました。

三の丸から見た二の丸
中の御門跡
埋御門跡
二の丸内部

本丸は、城の中ではもっとも高い位置にありますが、大きくなく、かつて天守もありませんでした。その代わりに、この曲輪は相良氏にとっての宗教的な場所として使われていたようです。ここの石段や基礎の石は丸みを帯びていて、長い歴史を感じさせます。

本丸へ至る石段
本丸内部
丸みを帯びている石段の石

その後

明治維新後、人吉城は廃城となり、全ての城の建物は売られるか、撤去されました。堀合門(ほりあいもん)という御殿の一つの門だけが、重臣の新宮氏の屋敷に移築され残っています。1877年に人吉地域にとって大きな出来事がありました。維新三傑の一人である西郷隆盛が、西南戦争として知られる反乱を政府に対して起こしたのです。西郷率いる軍勢は、南方の鹿児島から熊本城への攻撃を始めましたが、人吉の多くの武士たちも人吉党として西郷軍に加わりました。ところが西郷軍は熊本城攻略に失敗し、人吉地域の方に撤退することになりました。人吉党の面々が西郷に対して、人吉は山に囲まれた天然の要害であるからと勧めたのです。

堀合門
西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
熊本城

西郷の本営は人吉の永国寺に置かれ、参謀たちは新宮氏の屋敷に宿営しました。彼らは相当な長い期間、人吉に留まれると考えていましたが、政府軍の反応はとても速いものでした。球磨川を挟んで北側の政府軍と、南側の西郷軍との間で銃砲戦が起こりました。西郷軍は丘上の人吉城の三の丸周辺から砲撃を行ったのですが、敵には届きませんでした。彼らの装備が旧式だったからです。その結果、西郷は再び撤退の憂き目となり、各地を転戦し、ついには本拠地の鹿児島城で最後のときを迎えました。人吉党はその前に降伏していました。

城周辺の地図

西郷軍の砲台があった人吉城三の丸
鹿児島城跡

城跡としては、人吉城公園として整備され、1961年には国の史跡に指定されました。川沿いの城の建物のうちいくつかは近年になって復元されました。隅櫓、大手門脇多門櫓などです。人吉城歴史観は2005年にオープンしましたが、前述のとおり、現在は臨時閉館となっています(2023年9月時点)。

復元された建物群
休館中の人吉城歴史観

私の感想

球磨川の大河なる流れとともに、人吉城跡の雄大な眺めに大変感銘を受けました。同時に、自然は城にぴったりの地形を提供するなどいい事も、災害のような悪い事も両方与えるものだということも理解できました。私は城跡が一日も早く完全復旧するように心から願っていますし、そうなったらもう一回行ってみたいと思います。歴史館の不可思議な地下室も見てみたいですし、初期に人吉城であった地区も含めて、もっと広大な範囲を歩いてみたいです。

球磨川にかかる橋から見た城跡の全景

ここに行くには

車で行く場合:九州自動車道の人吉ICから約10分かかります。城跡内にビジター向け駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR人吉駅から歩いて約20分かかります。
東京または大阪から人吉駅まで:鹿児島空港か九州新幹線の新八代駅から高速バスに乗って、人吉ICバス停で降り、駅行きの産交バスに乗り換えてください。

川沿いにあるビジター向け駐車場

リンク、参考情報

人吉城の見学について、人吉市
・「中世相良氏の展開と地域社会/稲葉継陽・小川弘和編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城12」学研
・「戦況図解 西南戦争/原口泉監修」サンエイ新書

これで終わります。ありがとうございました。
「人吉城その1」に戻ります。
「人吉城その2」に戻ります。

93.人吉城 その2

球磨川の豊かな水は、温泉、球磨焼酎、鮎などの土地の名産、名物を生み出すとともに、時には洪水の被害も引き起こします。

特徴、見どころ

豊かな恵みやときには水害をもたらす球磨川

現在、人吉城跡に近づいていくと、人吉盆地の周りの山々からの水を集めた球磨川の雄大な姿が目に入ってきます。そこでは学生たちがカヌーの練習をしているのも見えたりします。

雄大な球磨川
カヌーの練習に使われています

この川の豊かな水は、温泉、球磨焼酎、鮎などの土地の名産、名物を生み出すとともに、時には洪水の被害も引き起こします。最近の出来事としては、2020年6月に球磨川水害が発生し、実際に川沿いにある城跡に深刻な被害をもたらしたのです。城跡は既にビジターを受け入れるところまで復旧していますが、2023年9月時点で人吉城歴史館はまだ休館となっています。

「人吉温泉」の施設
休館中の人吉城歴史観
水がここまで来ました

謎の地下室水槽

歴史館は、城では一番低い川岸地区にあり、かつてそこには大手門、藩の施設、重臣の屋敷などがありました。櫓(隅櫓、大手門脇多門櫓)とこの地区を囲む白壁が復元されています。実は歴史館は、江戸時代に追放された相良清兵衛の屋敷と全く同じ場所にあるのです。

城周辺の航空写真

川岸地区の武家屋敷跡
大手門跡
復元された大手門脇多門櫓
復元された隅櫓

この屋敷について大変興味深いことがあるのですが、屋敷跡の地下室から石造りの水槽が発見されたのです。水槽の水は川から引かれていて、その深さは2m以上あります。今のところ、他の日本の城には類似した事例は見つかっていません。中には、これはユダヤ教の神殿の沐浴施設だったのではないかと考える人もいます。実際の施設とよく似ているとのことです。人吉地域にはキリスト教が禁止されていた江戸時代の間、隠れキリシタンの人たちがいました。そのうちの誰かがユダヤ教に関わっていたのかもしれません。

発見された地下室の水槽、人吉市ウェブサイトから引用

御殿跡を巡る跳ね出し石垣

となりの地区は、以前「御館(みたて)」と呼ばれる城主の御殿だったところです。現在では相良護国神社となっています。御殿に関連するものとしては、池泉庭園、入口のところの堀にかかっている石橋、そして御殿を囲んでいた石垣が残っています。

御館跡
相良護国神社
池泉庭園
入口の石橋と堀

特に、川に面した部分ある石垣は跳ね出し形式になっていて、最上部の列の石が飛び出して積まれ、敵が登って侵入してくるのを防いでいました。そのため、この仕組みは「武者返し」とも呼ばれています。日本の他の城でも滅多に見られないもので、江戸時代末期に築かれた「五稜郭」「品川台場」「龍岡城」に見られるのみです。

人吉城の跳ね出し石垣
五稜郭の跳ね出し石垣
品川台場の跳ね出し石垣
龍岡城の跳ね出し石垣

その石垣の手前の方には水の手門跡があって、球磨川の方に開いています。かつて城が水上交通にも関与していたことがわかります。

水の手門跡
川側から見た水の手門跡

「人吉城その3」に続きます。
「人吉城その1」に戻ります。