163.黒井城 その2

麓の市街地から見る城跡は見栄えがして、頂上には素晴らしい石垣が、中腹には赤色の門の建物が見えます。これから行こうとするところを示してくれています。

特徴、見どころ

市街地から見える城跡

現在、黒井城跡は兵庫県丹波市春日町に属しています。この周辺地域は、かつて春日部荘と呼ばれていて、そのために春日局の名前がこの土地の名前に由来していると言われています。春日町は、城跡と春日局のゆかりの地両方を観光地として推奨しています。遠くから見る城跡は見栄えがして、頂上には素晴らしい石垣が、中腹には赤色の門の建物が見えて、これから行こうとするところを示してくれています。

市街地から見える黒井城跡

城跡に近づいていくと、ビジター向けの休憩所と駐車場があって、その向こうには興禅寺があります。休憩所では、黒井城に関する情報やパンフレットを手に入れることができます。興禅寺の山門の前には、石垣と水堀があって、普通の寺の佇まいとは異なって見えます。実は、この寺は以前は山麓における城主の屋敷だったと言われています。また、春日局が少女時代を父親の斎藤利光とともに過ごした場所であるとも言われています。ここから城跡への道のりが始まります。

休憩所と駐車場
興禅寺
寺入口手前の石垣と水堀

山頂への2つのルート

パンフレットには、山上の城跡へは「なだらかコース」と「急坂コース」という2つのルートがあると書かれています。前者の方は、西側の峰を回り込んでいて、頂上に向かうための城時代のルートではないようです。一方、後者は東側の峰上を進む、明らかに城時代からのルートです。このルート上には今でも三段曲輪があるからです。両方のルートは結局は中腹にある石踏(せきとう)の段で合流するので、登るときはどちらかを選んで、下るときにもう一方を使うというのがいいかもしれません。しかし、この両方のルートをもってしても黒井城の砦群のごく一部しかカバーしていません。したがって、次に来るときに他の砦跡に行ってみるというのがよいのかもしれません。

登山口
山上への2つのルート、城跡のパンフレットより
なだらかコース

どちらのルートを選んでも「クマ出没注意」という警告板があって、獣除けのための2ケ所のフェンス扉を開け閉めして、その間に動物を閉じ込めるようになっています。したがって、急に野生動物に出会うことがないよう熊除けの鈴を持って行かれることをお勧めします。

「クマ出没注意」の警告
最初のフェンス扉

急坂コース途上の曲輪群

「急坂コース」を選んだ場合は、まず豊岡稲荷神社のとても急な石階段を登って行きます。そして、山の東側の峰のこれも急坂を登ります。これが城への大手道のようです。峰上には三段曲輪が残っていて、土造りの基礎部分を見て取れます。

城周辺の地図

「急坂コーズ」の最初の石段
三段曲輪
三段曲輪の土台

そのまま登っていって、ルートを少し外れたところに太鼓の段があります。現在は何もありませんが、見晴らしはいいです。城があったときには、ここには太鼓櫓と物見台があったと言われています。太鼓は時刻を知らせたり、兵士を指揮するために使われてたのかもしれません。

太鼓の段

赤門がある石踏の段

そうするうちに頂上下の石踏の段に着きます。この「石(を)踏(む)」という名前がどこから来ているのかわかりませんが、周りの岩でごつごつした地形が由来しているのかもしれません。ここも眺めがよいところですが、太鼓の段から見る景色とは方向が違うようです。この場所は山の上にしては広々としていて、麓から見えていた赤い色の門があります。この建物は城にあったものではありません。この門がもともとあった寺が廃寺になったときに、地元の人たちが今の場所に移したのだそうです。城があったときには、別の建物が建てられていたものと思われます。

石踏の段へ向かいます
石踏の段
石踏の段からの景色

「黒井城その3」に続きます。
「黒井城その1」に戻ります。

163.黒井城 その1

黒井城は精強を誇った「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地でした。明智光秀がこの城を包囲し落城寸前となりますが・・

立地と歴史

首都防衛のために重要だった丹波国

黒井城は、現在の兵庫県の一部に当たる丹波国西部にあった城です。丹波国は現在の人たちにはあまり馴染みがありません。国として大きくはなく、最終的には京都府と兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においては日本の首都だった京都のちょうど北西にあるという立地からとても重要視されました。特に戦国時代といった非常時には、京都を防衛したり攻撃したりするには、決定的な影響を及ぼす場所だったのです。1467年に応仁の乱が起こったときには、西軍の総大将だった山名宗全が丹波国を通過して上京しました。それ以来、丹波国の国人領主たちは中央政界を左右する政争や戦いに関与することになりました。

丹波国の範囲と城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地

赤井氏はそのような国人領主の一つで、細川氏のような京都を制圧した戦国大名に仕える一方で、丹波国での自らの影響力と領土の拡大に努めました。赤井直正は1529年に生まれ、幼少の頃に荻野氏に養子に出されました。赤井氏は、荻野氏の勢力を取り込むことで、より自分たちの存在を高めようとしたのです。それ以来、直正は苗字を荻野と改めましたが、生涯の間、実家の赤井家と一体となって活動しました。黒井城はもともと荻野氏の本拠地だったのですが、やがて直正のものとなりました。1554年、直正は養父の秋清(あききよ)を殺害します。これは秋清がその当時の天下人、三好長慶の支配に屈するという選択をしようとしたが、直正にとっては決して受け入れ難かったものだったためとも言われています。その後、直正は自身の通称を「悪右衛門」としています(当時の「悪」は単に「強い」という意味もありました)。しかし直正は一方で秋清を祀る寺も創設していて、これによれば彼の行動は個人的恨みに基づくものではなかったとも言えます。

荻野(赤井)直正のイラストレーション、現地説明版より

直正は政治家タイプではなく、優秀な将軍でした。たとえ時には国外の有力戦国大名のために働くことはあっても、他の国人領主と連携して一族の独立を維持したいと唯々欲していました。例えば1565年には、丹波国の守護代で三好氏を支持していた内藤宗勝を倒しました。丹波の北西隣りの但馬国の山名祐豊(すけとよ)が丹波国に攻めてきたときには、直正はこれを撃退し、逆に但馬国に攻め込みました。そして1575年には但馬の竹田城を占領するに至ったのです。この豪勇をもって、人々は彼のことを「丹波の赤鬼」と称しました。

竹田城跡

砦の集合体

黒井城は、標高海抜357mの猪ノ口(いのくち)山上に築かれました。その範囲はとても広く(全周は約8kmに及びます)、荻野氏の本拠地でした。ただ、城の形態としては当時全国的に見られた、自然の地形を生かした土造りの山城の一つでした。武士たちがきびしい戦国時代を生き抜くには、このような城に住み、自らを守る必要があったのです。広大な範囲をカバーするために、黒井城は砦の集合体として機能しました。本丸を含む城の主要部は山頂にあり、城の周囲や全ての支砦群を見渡せるようになっていました。そのため、城主はそこから各拠点の守備兵に指令を発することができたのです。それぞれの砦には明確な役割がありました。例えば、石踏(せきとう)の段や三段曲輪は、大手道上に築かれ、主要部の防衛を担っていました。東出丸は東の峰の防衛のために、西の丸は山上での居住地に使われていたという具合です。こういったやり方で、守備兵は敵からの攻撃を効率的に防げるようになっていました。唯一のこの城の弱点は、岩山であったためによい井戸がなかったことです。

黒井城跡の立体模型、春日住民センターにて展示

城周辺の起伏地図

直正の死後に明智光秀が占領

直正の精強さには、実際には自らに危機を招いてしまった面もあります。直正に攻め込まれた山名祐豊は、そのときの天下人、織田信長に助けを求めました。直正は一時は信長に臣従していたのですが、その時点ではその関係は解消されていました。信長もまた、重要な丹波国を直接統治することができる機会を狙っていました。信長は、重臣の明智光秀に命じ、1575年に丹波攻めを開始させました。最初は光秀の思い通りに事が進みました。有力な国人領主の一人、波多野秀治が光秀に味方したからです。光秀は次に直正の黒井城を包囲し、兵糧と水が尽きるのを待ちました。ところが、2ヶ月もの籠城で城が落ちるという寸前に、秀治が裏切ったのです。光秀は逆に攻められる側となり、撤退せざるをえませんでした。この結末は「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれ、直正の評判をますます高めました。

明智光秀肖像画、本徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
波多野秀治肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

黒井城は結局、直正の病死後の1579年に光秀によって占領されました。光秀は城を改修し、頂上に立派な石垣を築きました。城の強化を図るとともに、新しい支配者の権威を民衆に見せつけたのです。このやり方は、信長やその家臣たちが各地で度々行っていました。光秀は、重臣である斎藤利光を城代としました。この地は、利光の娘で後に将軍の大奥を取り仕切った春日局の出身地となります。光秀と利光は、1582年の本能寺の変で信長に反逆し殺します。しかし、次の天下人となる羽柴秀吉にすぐに討たれてしまいました。黒井城は、秀吉の何人かの家臣によって引き継がれますが、秀吉による天下統一の過程でやがて廃城となりました。領主や武士たちは、新しい時代に対処するために、必ずしも山城を必要としなくなったのです。

黒井城頂上部の石垣
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「黒井城その2」に続きます。

96.飫肥城 その3

シラス台地上の城の完成形

特徴、見どころ

武家屋敷通りと藩校「振徳堂」

城の主要部分の東側(三の丸の一部)を歩いてみると、武家屋敷通りがあって、石垣、白壁、垣根、古い門などによりかつての雰囲気を残しています。敷地の中の屋敷の多くは、現代的施設、レストラン、住居に変わってしまっていますが、いくつかはそのまま残っていて、例えば、重臣の伊東氏の旧屋敷はホテルとして使われています。

城周辺の地図

武家屋敷通り
ホテルとして使われている旧伊東伝左衛門家

通りから1ブロック北には、藩校であった振徳堂(しんとくどう)の建物が復元されています。この藩校は優秀な人材を輩出していて、1905年に日露戦争を終わらせたポーツマス条約の締結における日本側の全権大使だった小村寿太郎はその一人です。藩校を囲む石垣はオリジナルで史跡の扱いとなるため、修復のため積み直しが必要なときは、全ての石に番号が付けられ、積む際には全く同じ場所になるように作業が進められます。

復元された振徳堂の建物
建物の内部
小村寿太郎の写真、「近世名士写真其一」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
修復中の石垣

旧城下町を巡る

城跡下にある旧城下町へ行ってみることもお勧めします。この区域は蛇行している酒谷川に囲まれています。城下町区域も武家屋敷通りと似た雰囲気ですが、こちらの方はよりカジュアルな感じがします。例えば、後町(うしろまち)通りには水路があり、錦鯉が泳いでいます。本町商人(ほんまちしょうにん)通りには古い商家が残っていて、そこでは食べ歩きやショッピングを楽しむことができます。

後町通り
水路を泳ぐ鯉

最後に、川に沿った城下町の西側から城跡を眺めてみましょう。そうすると、城はもとはシラス台地であった高く垂直に切り立った崖の上に築かれていることがわかるでしょう。崖の一部分は崩壊を防ぐためにコンクリートで固められています。現在の人々は今でも崖上の城跡を維持するのに苦心しています。伊東氏による飫肥藩は、きっと同じことをするのに更なる努力を必要としたでしょう。

酒谷川
城跡がある川沿いの崖
一部はコンクリートに覆われています

その後

明治維新後、ほとんどの城の建物は撤去されました。しかし、城と城下町の構成は、町割りを含めて、現在に至るまでそのまま残ってきました。日南市は1974年に復元事業を開始します。その後、1974年には九州地方で初めての重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。そして、大手門が1978年に、松尾の丸の御殿が1979年に復元されています。そのおかげで私たちは今日、現存しているものと、復元されたものがよく調和しているこの地を楽しむことができるのです。

復元された大手門
城下町にも強固な石垣が残ります

私の感想

飫肥城は、シラス台地上に築かれた城の完成形だと思います。この台地上に城を築くことは、その自然の性質を利用することで簡単なのですが、それを維持することがとても難しいのです。豪雨強風や地震など自然災害が、しばしばこれらの城で崖の崩壊をもたらしてきました。そのため、佐土原志布志知覧などの飫肥城と同タイプの城は、平和な江戸時代になると廃城となるか、部分的に放棄されました。しかし、飫肥城城主である伊東氏は、そのための代替地がありませんでした。よって、伊東氏と飫肥藩は、城と町を江戸時代の間ずっと強固に築き続け、現在見られるようなすばらしい街並みになったのだと思います。

旧本丸の石垣
旧本丸の土塁

ここに行くには

車で行く場合:宮崎自動車道の田野ICから、宮崎県道28号線経由で約45分かかります。城跡の手前にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR飫肥駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機で鹿児島空港か宮崎空港まで行って、レンタカーを借りるのがよいかもしれません。

城跡前の駐車場

リンク、参考情報

飫肥城下町保存会 九州の小京都「飫肥」、宮崎県日南市
・「よみがえる日本の城18」学研
・「日本の城改訂版第94号」デアゴスティーニジャパン
・「三位入道(短編集「奥羽の二人」より)/松本清張著」講談社

これで終わります。ありがとうございました。
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