170.浜田城 その2

気軽に訪れたい人と歴史ファンの人、それぞれに向けたガイド

その後

明治維新後、浜田城跡はいささか複雑な歴史をたどりました。始め日本陸軍が城跡を所有したのですが、使われませんでした。そうするうちに1872年に発生した浜田地震により残っていた天守は崩壊してしまいました。結果城跡から建物はなくなりました。城跡はやがて以前の城主であった松平氏に1890年に売却され、島根県は1903年に城跡を浜田公園としました。頂上にある本丸に至る通路が開かれましたが、一方でその工事のために石垣が破壊されました。1938年には丘の中腹に浜田護国神社が設立されました。丘の麓からの参道も作られました。

浜田護国神社

第二次世界大戦後、城跡を購入した浜田市は公園を整備するとともに、それを雇用対策に充てようとしました。麓からもう一つの通路が開削され、石垣の修理も行われました。江戸時代末期の火災後、そのまま放置されていた石垣があったからです。ところがその当時は石垣のオリジナリティを考慮しないまま修繕を行ってしまったようです(例えば、石垣の積み直しの際、元の石を使っても元とは違う積み方をしている等)。1962年には城跡は島根県の史跡に指定されています。

戦後になって作られた通路

特徴、見どころ(一般ビジター向け)

浜田護国神社の参道を通って城跡へ

現在、浜田城跡に向かう通路は基本2つありますが、いずれもオリジナルのものではありません。例えば浜田護国神社の参道を通って城跡に向かった場合、石段を登ってまっすぐ中腹にある神社に歩いて行きます。参道の途中からは、右側の下方に中ノ門跡が見えますが、実はこの門がオリジナルの通路上にありました。

城周辺の地図

護国神社参道入口
神社へ向かう参道
参道から見える中ノ門跡

津和野城から移設された門

神社の奥の方には、城門のような古い建物がありますが、これも浜田城に元からあったものではありません。浜田市が浜田県(後に島根県に統合)の県都だった頃、(浜田県内にあった)津和野城の門の一つを県庁舎用として移築したのです。この門は1967年に最終的に公園の施設として再度現在地に移されました。

神社の奥の方に向かいます
元は津和野城にあった門
庁舎として使われていた頃の写真、現地説明板より

明治時代に作られた道を通って本丸へ

この門をくぐった辺りから城跡の中心部になりますが、通路は石垣に囲まれたオリジナルの部分に差し掛かったようです。ところが、左の方に曲がると、またも頂上の方にまっすぐ伸びる通路となります。このような道の付け方は、敵に容易に攻められることになってしまうため、城の場合には通常採用されません。実際このまっすぐの道も、明治時代に公園の整備のために、本丸のとなりの出丸の石垣を壊して作られました。そのおかげでビジターは簡単に頂上まで行けるようになった訳です。

城跡の中心部に入っていきます
また道がまっすぐになります
元あった出丸の石垣イメージ、現地説明板より
「浜田城石垣絵図」部分、現地説明板より、上記ルートを赤矢印で石垣が破壊された箇所を赤丸で加筆

公園の広場となっている本丸

本丸の内部は現在では広場になっていますが、そこからは浜田市街地や外ノ浦(とのうら)湾の景色が見えます。本丸の周りには、いくらか石垣も残っていますが、それ以外は1872年の地震で崩れてしまったようです。

本丸内部
本丸から見た浜田市街地
本丸から見た外ノ浦湾
一部残っている本丸石垣

「浜田城その3」に続きます。
「浜田城その1」に戻ります。

170.浜田城 その1

長州藩との対決を宿命づけられた城

立地と歴史

長州藩の動向に備え築城

浜田城は、現在の島根県西部にあたる石見国にあった城です。島根県といえば現在では比較的地味な印象を持たれるかもしれませんが、少なくとも戦国時代や江戸時代においては非常に重要な場所でした。それは、世界遺産にもなっている石見銀山があったからです。この銀山は、大内、尼子、毛利といった有力戦国大名の支配を受け、最終的には徳川幕府の直轄となりました。幕府は引き続き銀山を確保しようとしますが、石見国の西となりには毛利氏の長州藩がありました。1600年の関ヶ原の戦いの敗戦により、毛利氏から幕府に銀山が引き渡されたものの、幕府は長州藩からの報復を恐れていたのです。恐らくそのために新しい藩として1600年に津和野藩が、1619年に浜田藩が、銀山と長州の間に作られたのだと思われます。幕府はその2つの藩に長州藩を常時監視することを期待したのです。

城の位置

伊勢国の松坂城城主であった古田重治は、1619年に浜田藩の創設者として石見国への転封を命じられました。彼は新しい城にふさわしい地を探し、最適な場所として浜田港沿いの標高67mの丘を見つけました。実はその当時、新城建設は徳川幕府によって禁じられていましたが、新藩設立時の例外として認められました。築城は1620年に始まり、基礎部分は同年中に仕上がりました。建設完了は1623年のことです。それまでに築城に関する一般的技術はかなり進化していましたが、浜田城のために使われた技術は比較的低いものでした。例えば、他の城では精密に加工された石を使って石垣が積まれましたが、この城ので粗く加工された石を積んで築かれました。浜田城の天守は望楼型でしたが、それは古い形式であると見なされていました。その理由はよくわかっていませんが、城の建設が急がれていたからかもしれず、建設のための職人がその地方からのみ雇われたからかもしれません。

「石州浜田之図」部分、現地説明板より
浜田城中ノ門の現存石垣
浜田城天守の復元CG、現地説明板より

藩主は古田氏から松平氏へ

古田氏は不幸にも、お家騒動や跡継ぎがいないために1648年に改易になってしまいました。その後、松井松平氏(もとは今川氏の配下であった松井氏が、徳川家康に仕え、その貢献により松平姓を名乗ることを許された)が浜田藩と浜田城を長い間治めました(その中間に本多氏が短期間入っています)。ところが、朝鮮の李王朝との密貿易が発覚し、懲罰として他所に転封となってしまいます。その代わりに、越智松平氏(6代将軍の家宣の弟が創始者)がやってきました。江戸時代末期になって、松平武聰(たけあきら)が最後の藩主として養子に入りました。彼は最後の将軍となる徳川慶喜の実弟でもありました。

松平武聰肖像画  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川慶喜写真、1967年以前(禁裏守衛総督時代) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州軍に攻められ、浜田藩士が自ら放火し炎上

浜田城にとって最大の出来事が1866年に起こりました。その年に幕府が国中の大名に第二次長州征討を命じました。幕府に反抗した長州藩を武力により討伐しようとしたのです。浜田藩は、両藩を結ぶ浜田口からの攻撃を命ぜられました。しかし、浜田藩とともに幕府を支えるべき津和野藩は中立を保ちました。幕府の力が衰えていることを見据えていたからです。一方、藩主が将軍の親族(その当時の将軍は14代家茂、慶喜は禁裏守衛総督)である浜田藩には選択の余地はありませんでした。ところが戦前の予想に反して、浜田藩と与力の藩の軍勢は、よく訓練された長州藩の徴兵による軍隊に敗れてしまったのです。長州軍は反攻を開始し、浜田城下に迫り降伏の勧告を行いました。

長州軍を指揮した大村益次郎、「近世名士写真 其2」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩主の武聰は一時、城に留まり討ち死にする覚悟を固めます。しかし結局は家臣の説得により城から逃れ、美作国(現在の岡山県の一部)にあった飛び地に落ち延びました。長州軍は、浜田城だけでなく、幕府と浜田藩が確保すべきだった石見銀山までを手中に収めました。浜田藩の武士たちが城から退去したときの興味深い逸話があります。彼らは、退去のときに自ら城に火をかけました。無傷で城を敵方に渡すことは、敵に基地として使われることよりもむしろ、彼らにとっては恥辱そのものだったからです。その根拠は以下です。頂上にあった天守は偶然に燃えることなく残り、しばらくは存在していました。しかし浜田の一部の人たちは、今でもその事実を認めようとせず、天守は浜田藩士たちによって燃やされているはずだと言うのです。このことは、当時の城は藩士たちにとって精神的に不可分のものであったことをよく示しています。

浜田城の復元CG、現地説明板より

「浜田城その2」に続きます。

75.萩城 その3

毛利氏の城づくりの到達点

特徴、見どころ

三の丸から旧城下町へ

二の丸前の駐車場に戻ったとして、そこから三の丸を歩いてみるのもよいと思います。この地区は、堀内伝統的建造物群保存地区に指定されています。ここでは、重臣たちの屋敷群がかつてあったように残っています。現在、その内部は実際には公共施設、萩焼の店、夏みかんの栽培地等になっていたりしますが、今に残っている石垣や土塀、そして屋敷門などがその区画を囲んでいるので、あたかも本物の城の領域の中に立っているような気分になります。

城周辺の地図

三の丸(堀内伝統的建造物群保存地区)
旧毛利家別邸表門、明治時代の建築だが別の場所から三の丸に移築、中は萩セミナーハウス
現存する問田益田(といだますだ)家の土塀
通り沿いの石垣と背景の指月山
石垣の内側では夏みかんが栽培されています

この地区から外堀を越えていくと、菊屋家住宅や木戸孝允旧宅などの城下町の観光スポットを見学することができます。

外堀
菊屋家住宅
木戸孝允旧宅  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

詰めの城、指月山

最後にお時間があれば、詰めの城としての指月山に登ってみてはいかがでしょうか。約20分の多少きつい登りとなりますが、その苦労に十分見合った甲斐はあります。頂上には、麓と同じような石垣に囲まれた門跡があります。

指月山への登山口
ところどころ急坂があります
頂上の門跡に到着
この門も桝形になっています

また、頂上にある二段の曲輪も石垣に囲まれています。かつてはその上に6つの櫓が立っていました。そこからは、萩の市街地や日本海の景色が楽しめます。

下段の二の丸
二の丸から見た日本海
ここからが上段の本丸
本丸から見た萩市街地

それから、上段の本丸には籠城に備えた貯水池もあります。更には、切り込みが入った巨石があちこちにあるのがとても目立っています。これらの切り込みは通常石垣を作る際の過程として理解されています。(つまり、作成途上の石垣が放置されているということ)しかし、これらの石は敵が攻めた来たときの反撃用で、カットされて投石として使えるようにここに留めたのではないかという人もいます。

本丸にある貯水池
切り込みが入った巨石
何のために残されたのでしょうか

その後

萩城が廃城となった後、中心部の城の建物は全て撤去されました。長州藩は明治維新における勝者なのだから、なぜそんなことをする必要があったのかいまだに疑問に思っている人もいます。多くの人は、そうする(城の建物を撤去する)ことで新しい時代が来たことを示そうとしたのだとも考えています。しかし実態としては、萩の地元に残った人たちにはこれらの建物を維持するだけの予算がなかったようです。藩庁あるいは県庁が山口に移ってしまったからです。その結果、城跡は1877年以来、現在私たちが目にするような公園になっています。城跡としては、1951年に国の史跡に指定されています。

天守も廃城となった年(1874年)に解体されました

私の感想

萩城は、毛利氏の城づくりの到達点なのだと思います。この城は、平城でもあり、山城でもあり、また海城でもあったのです。毛利氏は、それまでの経験値を全てこの城に注ぎ込んで、最強の城を作ろうとしました。だから、彼らがこの立地を不承不承選んだのではなく、積極的に選んだのだと思うのです。あと、城跡に関して一つだけ言わせていただくと、山の上の土塀(これも現代になって復元されたもののようですが)に落書きがたくさんありますので、これは何とかしていただけないでしょうか。

城と一体になった指月山

ここに行くには

車で行く場合:中国自動車道の美祢ICから約50分かかります。二の丸の手前に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、萩バスセンターか東萩駅から歩いて約30分かかります。または、そのどちらかからレンタル自転車を借りるのも良いと思います。萩には他にも、松陰神社や伊藤博文旧宅など多くの史跡が、点在しているからです。
東京または大阪から萩バスセンターまたは東萩駅まで:山陽新幹線に乗って、新山口駅で高速バス「スーパー萩号」に乗り換えてください。

松陰神社内に保存されている松下村塾  (licensed by ぽこるん via Wikimedia Commons)
伊藤博文旧宅  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

萩城跡指月公園、萩市観光協会公式サイト
・「よみがえる日本の城6」学研
・「日本の城改訂版第63号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・YouTube 萩博物館チャンネル
・YouTube 毛利家歴史チャンネル

これで終わります。ありがとうございました。
「萩城その1」に戻ります。
「萩城その2」に戻ります。