立地と歴史
天下分け目の決戦場
関ヶ原の戦いは、日本の歴史のなかの最も重要な出来事の一つです。徳川家康に率いられた東軍と、石田三成に率いられた西軍が1600年に関ヶ原で戦い、その結果、徳川幕府の設立につながったのです。ほとんどの日本の人たちは関ヶ原のことを知っているでしょうが、大垣城はどうでしょうか。実はこの城は、もし状況が変わっていれば(三成が城に居座っていたならば)この戦いの決戦場になったかもしれないのです。
かなめの所、大柿の城
大垣城は、美濃国(現在の岐阜県)の西部にあり、関ヶ原を通して西日本とつながっていました。最初にいつこの城が築かれたかは定かではありませんが、日本が統一されてきた戦国時代の16世紀後半には重要な存在となっていたのです。天下人の豊臣秀吉は「かなめの所大柿(大垣)の城」と言っており、城主として近親者を送り込みました。この城は平地に築かれたのですが、堀と川に幾重にも囲まれていました。水城のように見えていたのでしょう。
城の位置1598年に秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成との間に政争が起こりました。家康が、秀吉の幼少の息子でその時はまだ天下人あった秀頼の力を凌ぐのではないかと、三成は疑ったのです。家康は、1600年6月に彼に逆らった上杉氏を討伐するために東日本に向かいました。そして光成は、7月に西日本で家康を倒すために挙兵したのです。東軍と西軍は、大垣城や関ヶ原がある中日本で戦うことが予想されました。三成は、本陣として大垣城に滞在し、大垣城の背後の山にいくつもの陣城(南宮山城など)を築き、そこに同盟者(毛利秀元など)を据えました。三成は、できるだけの準備を行い、そこで家康の攻撃を待っていたのです。彼はまた、関ヶ原周辺に松尾山城などの大きな山城を築き、有力大名の毛利輝元や彼の主人である秀頼を呼び寄せ、彼の味方にしようとしたのです。もし、彼の計画が実現していれば、家康は負けていたかもしれません。秀頼はその時点ではまだ家康の主人でもあったからです。
なぜ三成は城を出たのか
ところが、9月15日、三成は突然城を後にし、関ヶ原で家康と戦い、たった一日で敗れてしまいました。なぜ三成は、彼の計画を捨て、恐らく彼は苦手でも家康は得意であった野戦を選んだのでしょうか。これまでの定説は、家康が大垣城を飛び越えて西日本の方へまっすぐ攻撃しようとすることに気付き(その情報を流すことが家康の謀略だったとも言われます)、同盟者とともに家康を先回りして関ヶ原に布陣したとされています。彼ら西軍は最初の頃はよく戦ったのですが、同盟者の一人、小早川秀秋が戦いの最中に裏切ったことによりついには敗れたというものです。この筋書きは劇的であり、多くの日本人は長い間それを信じていました。ところがそれは、実際の戦いから約60年も後に、江戸時代の軍記物に初めて現れた話だったのです。私もその話は、三成が城をわざわざ離れる理由としては弱すぎるように思います。
最近の研究が、三成が大垣城から移動した理由を明らかにしてくれるかもしれません。これらの研究によれば小早川秀秋は、これまでの定説よりももっと前から東軍に味方することが予測されていたとのことです。秀秋は、三成の計画に逆らって松尾山城を占拠し(その城には別の大名が入る予定になっていた)、戦いの前に関ヶ原に移動していたというのです。その場合、三成が大垣城に留まっていると、挟み撃ちにあってしまうことになります。三成は秀秋の動きに気付き、最悪のケースを避けるために止む無く関ヶ原に移動したのです。また、三成は、家康と秀秋に対抗するため、ある山城(玉城~たまじょう)に入ろうとしたが、果たせずに関ヶ原周辺で撃滅されてしまったとする説もあります。関ヶ原の戦いの後、三成の一部の部下はまだ大垣城に残っていました。しかし多勢に無勢であり、東軍に一週間城を包囲され、降伏することになってしまいました。
水の都、大垣
関ヶ原の戦いの後、大垣城はまだ東日本と西日本をつなぐ重要地点とされていました。いくつかの大名家がこの城を居城とし、改良を加えました。例えば、石川氏は外堀を完成させ、松平氏は天守を四層に改築しました。その天守は本丸にあり、城主の御殿がある二の丸とつながっていました。両方の曲輪は内堀に囲まれていました。そして、合わせて三重の堀が城を囲んでいたのです。また、城下町が水路や川によって城と一体化されていました。そのため、現在の大垣市は水の都と呼ばれてきたのです。1635年以来、戸田氏がこの城と、大垣藩と呼ばれた城の周辺地域を江戸時代末期まで支配しました。