36.丸岡城 その1

今回は、現存12天守の一つ、丸岡城です。ところでこの城の天守はいつ建てられたかご存じでしょうか?見るからにとても古そうだし、それにどこかで、現存天守の中で一番古いとか聞いたことがあります。それが正しいかどうか、歴史を追って説明します。

立地と歴史

Introduction

今回は、現存12天守の一つ、丸岡城です。ところでこの城の天守はいつ建てられたかご存じでしょうか?見るからにとても古そうだし、それにどこかで、現存天守の中で一番古いと聞いたことがあります。それが正しいかどうか、歴史を追って説明します。それから、天守以外に丸岡城のイメージはありますでしょうか?天守しか思いつかないとしても仕方ありません。今残っているのは天守だけだからです。天守しか残らなかった経緯も説明します。

丸岡城天守

丸岡城の築城

丸岡城が築かれたのは、戦国時代のことです。丸岡城があった越前国(福井県北部)は、長い間朝倉氏が支配していました。しかし1573年(天正元年)、朝倉氏は織田信長の侵攻により滅亡し、信長に味方した朝倉旧臣(前波吉継)が治めました。ところがそのとき加賀国を支配していた一向一揆勢が蜂起し、1574年(天正2年)に越前を制圧したのです(越前一向一揆)。翌年(1575年)、信長は約3万の軍勢を率いて、越前一向一揆を鎮圧しました。そのとき、柴田勝家が北陸方面軍司令官として越前国を与えられました。その配下(与力大名)としては、前田利家などの「府中三人衆」が有名です。その他、勝家は、甥で養子の柴田勝豊を、一揆の拠点だった豊浦に配置しました。その勝豊が、1年後の1576年(天正4年)頃に移転・築城したのが丸岡城だったのです(「柴田勝家始末記」など)。

MarkerMarker
丸岡城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

柴田勝家像、北ノ庄城跡現地説明パネルより

当初の丸岡城の詳細は不明ですが、そのころから天守があったという説があります。天守台の石垣の形式から、この頃の築造もありうるというのが根拠です。また、江戸時代の記録(「雑録追加」)によると、1578年(天正6年)に丸岡城で戰があったそうです。まだ、北陸地方の情勢が不安定だったことを反映しているのかもしれません。その後、勝豊は長浜城に移り、安井家清が城主になりました。

丸岡城の天守台石垣、福井地震の後積み直されました

そして、本能寺の変・賤ヶ岳の戦いを経て、豊臣秀吉の政権が確立すると、青山氏が城主になります(丹羽氏家臣→独立大名)。更に関ヶ原の戦い(1600年、慶長5年)で徳川家康が天下を獲ると、越前国には家康の子・結城秀康が入りました(福井藩、当時は北ノ庄藩)。丸岡城には、家老の今村盛次が配置されました。その時代の1605年(慶長10年)頃、幕府の命令で作られた国絵図(「越前国絵図」)には、丸岡城天守が描かれています。ただ、天守の形式(層塔型)が現存のもの(望楼型)と異なり、多聞櫓も付いています。絵図が必ずしも正確とは言えませんが、現在とは違う天守があった可能性はあるでしょう。

「越前国絵図」に描かれた丸岡城天守、「江戸期天守と大名支配」より

福井藩主の秀康(松平に改姓)が亡くなると(1607年)、若年の跡継ぎ・松平忠直を、生え抜きの今村守次と幕府からの付家老・本多富正が補佐しました。ところが、両者は対立を起こし、今村守次は追放されてしまいます(越前騒動)。その代わりに、幕府から送られたのが、本多成重でした(1613年)。そして、松平忠直が藩主として独り立ちし、今度は幕府に反抗的な態度を取ったとのことで改易になると(1624年、寛永元年)、福井藩は分割され、丸岡城にいた成重が、丸岡藩として独立することになったのです。

松平忠直肖像画、大分市浄土寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

丸岡藩主、本多氏の歴史

本多成重は丸岡藩初代藩主として丸岡城を整備しただけでなく、父・重次が記し「日本一短い手紙」と知られる手紙の一文での登場人物としても知られています。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙のことです(原文には異説あり)。本多氏は、徳川家康より前の時代からの松平氏家臣でした。徳川四天王として知られる本多忠勝は、重次の4代前の定助から分かれた家系から出ています。重次は、勇猛・誠忠で知られる「三河武士」の典型のような武将でしたが、諫言もいとわない実直な人柄から、家康に三河三奉行の一人(他に高力清長、天野康景)にも抜擢されました。(「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と称されました。)こういった複数担当制は、後の江戸幕府の老中や江戸町奉行の制度にも引き継がれたと言われています。

丸岡城天守内の本多成重(左)と重次(右)のディスプレイ

数々の家康の戦にも従軍し、大敗した三方ヶ原の戦い(1573年)でも、九死に一生を得て生還した逸話が伝わっています。日本一短い手紙は、長篠の戦い(1575年)の陣中から妻にあてた手紙とされています。短い言葉の中で家族への気遣いや思いが現れていて、重次のセンスや性格が見て取れます。

三方ヶ原の戦いのジオラマ、犀ヶ崖資料館にて展示
「一筆啓上 日本一短い手紙の館」の展示より

一方で重次には、これはちょっと、という逸話も伝わっていて、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦い(1584年)の講和後、秀吉の母・大政所が実質人質として徳川に送られてきたとき、警護役の一人、井伊直政は菓子などを持って大政所のご機嫌をとり、信任を得ていたのに、もう一人の本多重次は、いざというときのために、大政所の屋敷の周りに薪を積み上げていたというのです。そのせいか、家康が秀吉に臣従すると、直政は大出世をとげたのに、重次は秀吉の勘気をこうむり、小田原合戦後に関東で蟄居を命ぜられました(原因については諸説あり)。主君を思うあまり、こんな行動に出てしまったのかもしれません。

本多重次肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また重次は、家康の側室・お万の方の世話をしていて、その子・結城秀康の養育も行いました。秀康が、大坂の豊臣秀吉に養子(人質)として送られるとき、重次の子・仙千代(成重)を同行させます。その役目は、重次の手元にいた・甥の本多富正に交代するのですが、この富正が、秀康が関ヶ原後に越前国の大大名(68万石)に飛躍すると、家老として越前府中の領主(3万9千国)になりました。このような経緯が、成重が丸岡城と縁ができる伏線になったのです。

結城秀康肖像画、東京大学史料編纂所模写蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今の天守はいつ築かれた?

現在残る天守の築城時期の説として、かつては城の創建時(1576年頃)と、本多成重が城主になった時(1613年頃)というのがありました。しかし最近では、成重が丸岡藩主になったとき(1624年)がきっかけになったとされています。建築年代を示す文字資料はありませんが、2015年から2年間、それを明らかにすべく、自然科学的調査が行われました。一つは「年輪年代法」による調査で、丸岡城を構成する木材を、年輪パターンによって、伐採年代を推定する方法です。もう一つは「放射性炭素年代測定」による調査で、木材が生命活動停止後、放射性炭素同位体(C14)が減少する量によって、伐採後の期間を推定する方法です。その結果、天守を構成する木材の多くは、1620年代後半以降に伐採されたものとわかりました。つまり現存天守は、成重が藩主だった寛永年間に造営された可能性が高くなったのです。

現存天守は寛永期創建の可能性が高くなりました

ただし、これまでの現地調査の結果、寛永創建時は、今と違う点もありました。まず、現在の天守は石瓦葺きですが、こけら葺き(木の板)でした。防火性が求められる天守では異例のやり方です。また、3階の廻り縁はなく、板葺きの腰屋根が付いていました。それから、鯱は木製で金箔が張られていたそうです(現在は木製銅張り)。このときの天守が、1644年(正保元年)に幕府が諸藩に製作させた絵図(正保城絵図)に残っています(「越前国丸岡城之絵図」)。現実の天守が2重(3階)なのに、3重で描かれている点はあるものの、腰屋根はちゃんと描かれています。天守への石階段もこの時からありました。

創建当時の天守想像図、丸岡城観光情報センターにて展示
「越前国丸岡城之絵図」部分、出展:国立公文書館

城全体の整備としては記録が残っていて、成重の次の重能(しげよし)の代に完成したとあります(下記補足1)。しかし、彼の藩主期間はわずか5年(1646年〜1651年)なので、成重の代から進められたと見るべきでしょう。先ほどの絵図を見ると、天守がある本丸と、藩主屋敷がある二の丸を、五角形の内堀が囲んでいたのがわかります。その外側の三の丸には藩士の屋敷が配置され、更に二重三重の外堀で囲まれていました。内堀から中に入るには、枡形を伴う追手門か裏門を通らなければならず、近世城郭としての防御態勢を整えていました。

補足1:初め居館の類なりしが、重能に至て城池全く成る(「古今類聚越前国誌」)

丸岡城天守内にある城の模型

しかし本多氏4代目の重益(しげます)は政治を顧みず、重臣たちに任せきりになったため、内部対立を招き(丸岡騒動)、1695年(元禄8年)改易となってしまいました(後に旗本として復帰)。その後に入ったのが、キリシタン大名として有名な有馬晴信から続く有馬氏です。当時の丸岡の地は、農業生産が安定せず、年貢高が不足し、無理に取り立てようとすると農民一揆を招きました。そのため、藩士の俸禄を減らし、豪農・豪商からの献金・借金に頼ってやり繰りしていたようです。そんな中でも、5代目の有馬誉純(しげずみ)は、藩校設立、藩史・地誌の編さんを行ったり、幕府中枢で西の丸若年寄まで勤めた大名として知られています。(福井県史)。丸岡城は幕末まで、おおむね本多氏時代の姿を維持していました。

有馬晴信像複製、有馬キリシタン遺産記念館にて展示
有馬誉純肖像画、「福井県史」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治維新後、丸岡城は一時(丸岡県)県庁として使われていましたが、廃城処分になりました。1872年(明治5年)には入札にかけられ、土地・建物・立木に至るまで売却・撤去されていきました。ところが天守については、その当時は使用価値がなく、落札額は非常に低いものでした。あまりに低い額のため、解体することもできず、天守だけが城跡に残った状態になったのです。これを憂えた地元の有志が天守を買い取り、寺として維持されます。地元の人たちから「お天守」と呼ばれ、親しまれるようになりました。やがて1901年(明治34年)には旧丸岡町に寄付され、公会堂として活用されました。1934年(昭和9年)には旧国宝に指定、1942年(昭和17年)までには大規模修理も行われました。

明治時代の丸岡城天守、丸岡城観光情報センターにて展示

戦後、天守にはまたも大きな試練がありました。1948年(昭和23年)6月28日夕刻に発生した福井地震です。天守の建物は、天守台石垣とともに全壊しました。当時の丸岡町長・友影賢世は、天守再建を国(文部省)や関係者(寄付など)に強く働きかけました。不幸中の幸いで、火災は起こらず、倒壊した部材は保管されていました。
また、戦前の修理時の調査記録や写真も残っていました。天守は崩壊中にも関わらず、(文化財保護法による)重要文化財に指定され(1950年)、再建も決定しました。

全壊した丸岡城天守、坂井市ウェブサイトより引用

そして、1955年(昭和30年)3月31日に再建工事は完了しました。地震で全壊しても、主要部材の7割以上を再利用して、以前と変わらない姿に再建された天守は、
現存12天守の一つ、重要文化財としての価値を保ち続けているのです。城の地元、坂井市は2013年に丸岡城国宝化推進室を立ち上げ、天守・城跡の調査整備を行っています。天守の建築時期調査もその一環でした。「現存最古の天守」という期待があったのでしょうが、謎が解けたというだけでも、新たな価値がついたとも言えるのではないでしょうか。

再建なった天守、坂井市ウェブサイトより引用

「丸岡城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その3

金沢城にもう一回行ってみます。今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

特徴、見どころ(金沢城石垣めぐり)

金沢城にもう一回行ってみます。前回「金沢城見学コース」としていくつかご紹介しましたが、城を全般的にご紹介する内容でした。金沢城は「石垣の博物館」と言われていますが、そのときは石垣を十分ご紹介できなかった、と思っていました。そこで、今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフレット

「城内ルート」前編

①石川門石垣:まずは「城内ルート」して設定されている10ヶ所の石垣を回りましょう。また石川門に来ました。相変わらず威厳があってかっこいいです。枡形の中の石垣に特徴がありましが、そこが1番目のチェックポイントです。枡形内の石垣が左右で違う積み方をされています。左側(北面)が租加工石積み(打込みハギ)、右側(東面)が切石積み(切込みハギ)になっています。左側の石垣にはマークがたくさんついていますが、「刻印」といってそれぞれの石を積んだ職人やグループを識別するためと言われています。その左側の方が古い形式で寛永期の築造(金沢城調査研究所の分類では4期))、右側の方が明和期の改修時(1765年、明和2年)に積まれたそうです(6期)。なぜこんな目立つところで、違う積み方を残したのでしょうか。江戸時代から「これはおかしい」という意見があったそうです。ただ、石川門の建物は、寛永期に建てたものが宝暦の大火で焼失していて(1759年)、再建されるのが石垣改修後(1788年)ですので、前からあった石垣を単純に再利用したのかもしれませんし、設計者の趣味でわざと残したのかもしれません。こんなところにも門の歴史が見て取れます。

石川門
石川門(隅櫓)
枡形内の石垣
左側の石垣に残る刻印

②内堀石垣:続いて、石川門を越えて、三の丸に入りましょう。復元された櫓や門が並んでいて壮観です。2番目の石垣は、その手前の内堀石垣です。内堀及び石垣自体は、その櫓や門と一緒に復元されたものです(1999〜2000年)。創建は寛永の大火(1631年)の後と言われているので(4期)、その時代のものを想定して復元したそうです。復元の技術も大したものです。

復元された櫓群と内堀
復元された内堀石垣

➂菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣:3番目が復元された櫓群(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓)の石垣です。ついつい櫓の方に目が行ってしまいますが、そのベースとなっている石垣も大事です。この石垣はオリジナルで、創健は寛永の大火後ですが(4期)、その後の火災の被害などからの修復が重なり、結果的に租加工石積みや切石積みが混在しています。出入口など重要なところは切石積みが多いようです。

(右側から)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とその石垣
門(橋爪門)周辺は切石積みになっています

④二の丸北面石垣:菱櫓の角を曲がっていきましょう。4番目の二の丸北面の石垣です。結構古そうな感じがします。ここは租加工積みなのですが、石の大きさを揃えてきれいに積まれています(布積み)。寛永の大火後(4期)に創建され、1666年(寛文6年、5期)に改修されたものが残っています。石垣職人の藩士(穴生)後藤家3代目の権兵衛が携わっていて、後に6代目の後藤彦三郎が、城内で二番目の出来、と称賛しています(一番は鯉喉櫓台石垣ですが一旦壊され、現在は復元されています)。職人の仕事と誇りが今に伝えられているのです。

二の丸北面石垣
城内の直線石垣としては最長(約160m)です

⑤土橋門石垣:二の丸北面石垣と内堀に沿って進んで行くと、5番目の土橋門石垣に至ります(4期創建、西側は5期・東側は7期改修)。何気なく通り過ぎてしまいそうですが、意識して見てみると、きれいな石垣です。門東側の石垣には六角形の亀甲石が組み込まれています(切石積み)。水に親しむ亀ということで、防火の願いが込められたそうです(金沢城は火災につぐ火災でした)。実際に、この門が文化の大火(1808年)の被害を免れたときは、この石垣のおかげだと言われました。そのときの人々の気持ちを表しているのです。

土橋門跡
土橋門石垣(東側)
亀甲石(中央)

「城内ルート」後編

⑥数寄屋敷石垣:城内ルート後編は、土橋門から折り返して中心部に入っていきます。小さな門を通ります。これは現存する「切手門」で、これから行く石垣のところにあった数寄屋敷への通用門だったのです(一旦他の場所に移され、原位置に戻ってきました)。屋敷へ通う女中の通行手形を改めたということで、この名になったと言われます。その後に通り過ぎる洋館は、旧第六旅団司令部庁舎です。軍隊が使っていた頃のもので、これも城の歴史の一コマです。6番目が「数寄屋敷石垣」です。ここもきれいに積まれています(布積み)。石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」の技法が使われています。ここは側室たちが住んだ所なので、積み方も場に合わせたのかもしれません。創建は寛永期(4期)で、その後改修が続けられました。面白いのが、進んだ先です。刻印だらけです。ここは、この城で特に刻印が多い場所です(4期の石を5期に積み直したそうです)。刻印は分担を示したものと聞いていましたが、なんだか遊び心のようなものも感じます。

切手門とその奥の旧第六旅団司令部庁舎
数寄屋敷石垣(手前側、7期の改修)
数寄屋敷石垣(奥側、5期の改修)
刻印が多く見られる場所

⑦戌亥櫓石垣:続いて、二の丸を通って、本丸に向かいます。極楽橋は渡らず、違うルートの途中に次のチェックポイントがあります。戌亥櫓石垣です。これも寛永期(4期)の創建です(5期・6期に改修)。角のところはともかく、これまでと比べると粗い石を使っています(粗加工石積み)。しかし、当初は隙間に平らな石を詰め込み、切石積みのように見せていたそうです(経年で多くが抜け落ちてしまったとか)。いろんな工夫をしていたのです。

極楽橋のところは通り過ぎます
橋爪門の手前を右に曲がります
戌亥櫓石垣

⑧三十間長屋:三十間長屋にやってきました。ここにも石垣があるのか、と思ってしまいますが、土台のところを見ると、確かにあります。建物に目を奪われて気づきませんでした。こちらは切石積みですが「金場取り残し積み」という、わざと粗い面を残す技法が使われています。よく見ると随分凝っています。この建物も焼失と再建の歴史があって(現存建物は幕末(1858年)の再建)、この石垣の方が古いのです(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。

三十間長屋
三十間長屋石垣

⑨鉄門石垣:9番目は鉄門石垣です。ここは本丸の正門だったので、石垣もきれいな切石積みが用いられています(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。石の形も多角形に加工されています。石垣を見ると、その場所の重要度がわかります。

鉄門石垣
多角形の石が積まれています

⑩東の丸北面石垣:城内ルートの最後は、本丸を下ったところにある東の丸北面石垣です。金沢城で最も古い石垣の一つです。今までに見た石垣と様子が違います。自然石や粗割りした石を積み上げた「野面積み」になっています。前田利家がいた文禄期(1期)に築造されました。そういう石を使ってよくこんなに高く積み上げたと思います(約13m)。今まで残っているわけですから、相当な職人技なのでしょう。10ヶ所の石垣、それぞれ個性的ですごく楽しめましたが、次は他のルートからピックアっプしていきます。

鉄門跡から本丸の森へ
本丸を下っていきます
東の丸北面石

「城内外連絡ルート」より

色紙短冊積み石垣:後半戦、まずは「城内外連絡ルート」から取り上げます。二の丸に戻って、いもり坂を下ります(いもり坂は明治になって作られた通路)。坂の途中から入っていくのは、玉泉院丸庭園に面した、色紙短冊積み石垣です。この石垣は切石積みで、前田綱紀が藩主だった時代(5期)に築かれたと言われています。この頃に金沢藩の石垣技術が成熟し、文化的にも発展していました。金沢城の最盛期と言っていい時期でした。色紙は方形、短冊は長方形ということなので、それらを組み合わせて、滝を表現したそうです。これはもう、庭園の景観の一部になっています。

いもり坂から下っていきます
色紙短冊積み石垣、上の方には滝を落とす石樋の石があります
玉泉院丸庭園、左後方が色紙短冊積み石垣

薪の丸東側の石垣:いもり坂に戻って、また下ります。「薪の丸(たきぎのまる)コース」という標識があります。これは「城内外連絡ルート」の一部で、ここから脇道に入っていきましょう。山道という感じです。でも、それに似つかわしくない石垣があります。これが「薪の丸東側の石垣」です。(租加工石積み、寛永期(4期)創建、寛文期(5期)改修)薪の丸には、伝来の宝物(刀剣・書籍等)を収める蔵があったそうです。それより前は薪を置いた場所で、名前の由来となりました。の石垣も後藤権兵衛が完成させました。

「薪の丸コース」入口
脇道に入っていきます
薪の丸東側の石垣

申酉櫓下の石垣:ここから上に行くと、三十間長屋に着きますが、まっすぐ進みます。山の斜面を進む、みたいです。この先にまたおもしろい石垣があるのです。斜面一杯に石垣が積まれています。それだけでもすごいですが、石垣を見上げてみましょう。石垣が継ぎ足されています。「申酉櫓下の石垣」と呼ばれている場所です。右側(東側)が主に前田利長が治めた慶長期(2期)の石垣で、割石積みといって、自然石積みから粗加工石積みの中間の段階の積み方のようです。城作りを進めていた時期です。左側は、前田利常の時代(寛永期・3期)に本丸を拡張するために継ぎ足されたのです。寛永の大火があった後で、先ほどの鉄門の造営と連動しています。仕上げは、古い方の石垣に合わせたそうです。

上に行くと三十間長屋です
本丸南斜面に積まれた石垣
申酉櫓下の石垣

「城外周コース」+おすすめ

本丸南面の高石垣:最後のセクションは「城外周コース」と独自のおすすめをミックスしてご紹介します。これも前回とかぶりますが、百間堀を歩いてみます。スタート地点は「本丸南面の高石垣」です。明治になってから改修されたそうですが、すばらしいです。かつては慶長期(2期・割石積み)に創建された城内随一の高石垣(約24m)でした。その上に櫓があったのだから、壮観だったでしょう。

鯉喉櫓台から見た本丸南面の高石垣、往時は上から3段目の石垣が上まで伸びていました

蓮池堀縁の石垣、東の丸東側の石垣:百間堀跡も、ここが堀だったと思うと、すごいです。ここも飽きないコースの一つでしょう。堀跡のすぐ横の石垣は、「蓮池堀(百間堀)縁の石垣」で、少し新しいのですが(元和期・3期・粗加工石積み)、その上にそびえるのが、これも城内最古の「東の丸東側の石垣」(文禄期・1期・自然石積み)です。途中に小段が設けられていますが、高さ21mで、当時としては日本有数でした。強いお城を作ろうという意思を感じます。

百間堀跡
手前が蓮池(百間堀)縁の石垣、奥が東の丸東側の石垣

三の丸東面の石垣:石垣は、石川門の下まで続くのですが、興味深いことがあります。石垣は、ずっと古い感じのものが続いています。この三の丸東面の石垣は、江戸後期に大改修されたのですが(7期)、古い堀縁の石垣に合わせて、荒々しく仕上げられたのです。金沢城の石垣はかくあるべしというのがあったのでしょうか。

三の丸東面の石垣

河北門の石垣:次は独自のおすすめで、城内に飛びますが「河北門の石垣」です。復元された門ですが、一ノ門左右の石垣はオリジナルです。他の部分の石垣は復元されたのですが、さすが三御門の一つらしく、すばらしいです(切石積み)。強さと美しさがバランスされていると思います。オリジナルは、宝暦の大火後、石川門よりも早く改修されたそうです(6期)。それだけ大事な門だったということでしょう。

河北門一ノ門とオリジナルの石垣
復元された門の建物と石垣

大手門の石垣:ラストは城内をショートカットして、大手門(尾坂門)跡に来ました。なんといっても、ここには大手門らしい鏡石があります。右側の角にある石が、城内最大のものだそうです。築かれたのも早い時期(慶長期・2期)で、割石積みの手法です。こうやって見てくると、本丸や大手門の周りに古い石垣があって、城の中心部が別のところ(二の丸など)に移ってから、いろんな石垣が築かれたことがわかりました。城の石垣と歴史がリンクしてます。

大手門跡
城内最大の鏡石
突き当りにも多くの鏡石があります

リンク、参考情報

金沢城と兼六園 リーフレットダウンロード
石川県金沢城調査研究所Youtubeチャンネル
・金沢城調査研究パンフレット「金沢城を探る」
・「石垣の名城 完全ガイド/千田嘉博編著」講談社

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その4」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その2

金沢城公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

今回は出発地として、金沢駅前に来ています。鼓門がすっかり駅のシンボルになっています。駅から金沢城公園までは少し離れているので(約2km〜)、バスなどに乗っていかれるのがいいと思います。公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。実際に行かれるときは、お時間に応じて、選択されたらいいと思います。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

金沢駅鼓門

百間堀〜石川門コース

ここは「広坂」交差点の近くです。向こうに城の高石垣が控えています。城がどんなところに築かれたのかよくわかります。道路がまっすぐ城がある台地を貫いていますが、これがかつての百間堀です。手前に見えるのが、外堀の「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」で、いずれも復元されたものです。

広坂交差点付近
「いもり堀と鯉喉櫓台

本丸南面の高石垣は、何段にも分かれて積まれています。実はもとはひと続きだったのが、明治時代に崩れてしまい、今のように積み直されたそうです。

本丸南面の高石垣

歩いている通り(お堀通り)が百間堀跡で、長さ150間(約270m)、幅40間(約70m)にもなったことで、その名がついたと言われています。今もその迫力は変わりません。台地の方(右側)から攻めてくる敵を防ぐためでした。現在は金沢城公園と兼六園の境界になっています。

百間堀跡

左側もすごい石垣が続きます。「東の丸東面の石垣」です(本丸の東側を「東の丸」といいます)。ここも段積みになっていますが、当初からこのスタイルでした。城でもっとも古い石垣の一つで、高さはトータルで21mもあるそうです。おそらく、前田利長が、利家から命じられて築いたものでしょう。

東の丸東面の石垣

石川門が見えてきました。門に行くのには、道路のこちら側(西側)からは登れないので、向こう側(東側)に渡って、改めて頭上の橋(石川橋)を渡ります。

石川門
石川橋

かつての石川橋は、堀にかかる土橋だったとのことです。兼六園ともつながる城の代表的な入口です。城としては搦手門(裏門)に当たりますが、防衛上は正門なみに大事な場所でした。橋から見る百間堀(跡)も壮観です。

石川橋と石川門
石川橋から見る百間堀跡

石川門の櫓(隅櫓)は大変見栄えがします。味方にとっては頼もしく、敵にとっては脅威だったでしょう。最初の門(一の門、高麗門)を入ると、枡形(防御用の四角い空間)です。枡形の左右の壁で石垣のデザインが違います。左側が江戸前期(寛文年間〜、粗加工石積み)で、右側が江戸後期(明和年間〜、切石積み)です。改修を重ねた結果、こうなったようです。さすが石垣の博物館です。

石川門隅櫓
一の門
枡形の石垣

枡形の内側にある鉄砲狭間も見逃さないようにしましょう。表側からは見えないようになっています(隠し狭間)。次の門(二の門、櫓門)は、とにかく重厚です。
ず:あれ、表からは見えなかったよね。石川門の内側が三の丸です。

枡形内側の鉄砲狭間
二の門
三の丸

大手門~二の丸コース

次は大手門口にやってきました。傍らには、唯一そのまま残っている大手堀があります。昔はここに大手門があり、尾坂門とも呼ばれました。大手門らしく、正面に「鏡石」を配しています。何度も通路が曲げられているので、ここも枡形だったのでしょう。石垣は初期(慶長)の頃のものですが、現在残っている絵図には、建物は描かれていないそうです(石川県HP)。早くに火事で燃えて再建されなかったのかもしれません。

大手門口
大手堀
大手門の鏡石

中に入ると、広々としています。ここは新丸(広場)で、初期には重臣の屋敷地でしたが、つ:やがて、城外に移転していき、藩の役所や細工所(工房)が置かれました。

新丸広場

次は、三の丸の入口・河北門への坂道を登っていきましょう。この門は、幕末まで実質的な城の正門として機能しました。陸軍による撤去後、2010年に130年ぶりに復元されました。右側には、「出し」(出窓)がついた、ニラミ櫓台があります。とても見栄えがするけど、敵だったらそこから狙われてしまうでしょう。枡形の中に入ると、中は石垣があまりないように見えます。実は「枡形土塀」といって、中に隠し石垣が仕込まれていて、それも復元したそうです。櫓門の中に入ることもできます。

河北門への坂道
河北門
河北門枡形
河北門内部

門の内側が三の丸で、折り返して、二の丸の入口・橋爪門に行きましょう。今度は、右側に菱櫓があって、五十間長屋が橋爪門の続櫓までつながっています、これらも2001年に復元されました。

河北門(右側)を出て折り返します
菱櫓(右側)
五十間長屋が橋爪門続櫓までつながっています

橋爪門は、二の丸の正門です。二の丸御殿までの最後の門として格式も高かったのです。2015年に復元されました。中の枡形はかなり広く、周りの塀は二重で、なんと出し付きです。門を出ると、二の丸に到着です。

橋爪門
橋爪門桝形
門を出ると二の丸です

二の丸御殿の復元工事が始まっています。今後が楽しみです。

二の丸御殿跡

五十間長屋(など)の中に入ってみましょう。

五十間長屋入口付近

こちらは、つながっている橋爪門続櫓の中です。先ほど通った枡形が見えます。

橋爪門続櫓内部
橋爪門枡形が見えます

五十間長屋の中を進みましょう。中を歩いた方が、かえってその長さを感じることができます。

五十間長屋内部

端のところにあるのが菱櫓です。床を見ると、ゆがんで作られているようにも感じます。これは、菱櫓の平面がわざと菱形(平行四辺形?)に作られているからです。大手門と搦手門両方を視野を広く監視するためと言われています。

菱櫓内部
五十間長屋と菱櫓の継ぎ目

本丸コース

次は、二の丸から本丸に行ってみることにします。極楽橋を渡ります。尾山御坊(金沢御堂)のときからあったと言われる橋です。現存している三十間長屋が見えてきます。

極楽橋

なにか普通の倉庫にも見えます。確かに普段は倉庫として使われたそうですが、反対側に回ってみると、出し(出窓)が付いています。出し周辺からは、玉泉院丸や鼠多門の方を眺めることができます。きっとこちら側を監視する役割があったのでしょう。

三十間長屋
三十間長屋の出し

鉄門(くろがねもん)跡を通って、本丸の中心部に行きます。いくつか櫓跡があります。まず、北西の戌亥櫓跡です。今まで回った城の建物をよく見渡すことができます。

鉄門跡
戌亥櫓跡
戌亥櫓からの眺め

本丸の中心部は現在「本丸の森」と呼ばれています。次は、南東の辰巳櫓跡です。金沢の街を一望できます。ここは、最初に見た本丸南面の高石垣の天辺です。見張りをするにも最適な場所だったのでしょう。しかし、寛永の大火のときは、ここに飛び火したそうです。

本丸の森
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からの眺め

最後は、北東の丑寅櫓跡です。向かい側は兼六園で、この下は先ほど歩いた百間堀跡です。

丑寅櫓跡
丑寅櫓跡からの眺め

この辺から下ると、三の丸の方に出ますが、その途中に、現存する鶴丸倉庫があります。

鶴丸倉庫

鼠多門~玉泉院丸コース

最後のコースの出発点として、尾山神社に来ています。ここも人気の観光スポットです。実はこの場所は、城の金谷出丸で、これから通る鼠多門を通じて城の中心部とつながっていたのです。それでは、神社の裏手から進んで行きましょう。ずっとブリッジを歩いていきます。つ:鼠多門、鼠多門橋がともに2020年に復元されています。橋の下は道路(お堀通り)ですが、かつては外堀でした。「鼠多門」の名前の由来ですが、:壁の色から来ていると言われていますが、建設時にネズミがたくさんでできたからという設もあるそうです。門の内部の見学もできます。

尾山神社(神門)
鼠多門橋と鼠多門
鼠多門
鼠多門内部

門を入ったところが玉泉院丸です。復元された庭園がきれいです。向こうの方に見える建物が三十間長屋です。現在では庭園の借景になっています。

玉泉院丸庭園
三十間長屋が見えます

玉泉院丸の上手のいもり坂を登って(登り切ったところが二の丸です)色紙短冊積石垣を見に行きましょう。違った色や形の石が組み合わされています。本当に見せるための石垣です。

色紙短冊積石垣

リンク、参考情報

金沢城公園(公式ホームページ)
水土の礎
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説/大西泰正著」平凡社
・「隠れた名君 前田利常: 加賀百万石の運営手腕/木越隆三著」吉川弘文館
・「家から見る江戸大名 前田家・加賀藩/宮下和幸著」吉川弘文館
・「研究紀要金沢城研究第19号」石川県金沢城調査研究所
・「研究紀要金沢城研究第20号」石川県金沢城調査研究所
・「日本の城下町と金沢城下町 城下町金沢学術研究1」金沢市
・「史跡金沢城跡保存活用計画 令和3年3月」石川県
・「福井の戦国歴史秘話40 凄惨な一揆弾圧を伝える瓦」福井県観光営業部ブランド営業課

「金沢城その1」に戻ります。

「金沢城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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