205.松尾山城 その1

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。しかし近年、秀秋の「裏切り」には疑念が挟まれています。数少ない信頼できる史料を再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。

立地と歴史

Introduction

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。秀秋は、関ヶ原南方の松尾山城に陣を布き、合戦が始まってもなお東軍につくか、西軍につくか明らかにしていませんでした。そして、しびれを切らした東軍の総帥・徳川家康の命による「問鉄砲」に刺激され、ついに東軍に組みし、その勝利に貢献したというストーリーです。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし近年、秀秋の「裏切り」と「問鉄砲」には疑念が挟まれています(白峰旬氏などの指摘)。関ヶ原合戦の記録は、同時代の当事者が記した一次史料がとても少なく、大半は後の時代に記された二次史料に頼っているからです。例えば、「問鉄砲」の記述は、合戦から半世紀以上後の軍記物「慶長軍記」からとのことです(呉座勇一氏による)。「問鉄砲」の事実が揺らぐと、秀秋の「裏切り」のタイミングも、本当に合戦の最中だったのか怪しくなってしまいます。また、秀秋がどのように松尾山城に着陣し、いつ東軍に味方する決断をしたのかとういことも謎めいてきます。最近は、その少ない一次史料・それに準ずるものを再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。それにより、「問鉄砲」の見直し以外にも、いくつも新説が提起されています。それに松尾山城については、通常は小早川秀秋陣と言われますが、そもそも何のために築かれ、使われるはずだったのかも気になります。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこで、この記事では、小早川秀秋と松尾山城との関わりについて、主に3つの視点をもって、従来説を含めた3つの仮説にまとめて、ご紹介したいと思います。
3つの視点とは、
a.関ヶ原合戦前、秀秋はどこで何をしていたのか。
b.なぜ関ヶ原が決戦場となり、秀秋はいつどのように松尾山城に布陣したのか。また西軍諸将はどこに布陣したのか。
c.秀秋は、いつ東軍に加わると決心したのか。
3つの仮説とは、
1.「問鉄砲」を含む従来説
2.小早川秀秋は裏切っていないとする説
3.西軍が松尾山城攻めをしたとする説
です。

ただしまずは、小早川秀秋と松尾山城の、関ヶ原合戦に至るまでの来歴を、簡単にご紹介してから、各説のパートに入ります。

関ヶ原に至るまでの小早川秀秋と松尾山城

秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所の兄、木下家定の五男として1582年(天正10年)に生まれたとされています(足守木下家譜)。幼少の頃より秀吉の養子となり、北政所に養育されていたようです。その当時から秀吉から「きん吾」と呼ばれていました(天正13年閏8月秀吉書状)。そしてわずか7歳のときに元服し、従五位下・侍従(公家成)になり、秀吉の後継者候補の一人として扱われました。秀吉が天下を取った頃には、権中納言に昇進(13歳)、丹波亀山城主にもなっていました。ところが、文禄2年に秀吉の実子・秀頼が誕生すると、翌年に秀秋は、小早川家に養子に出されてしまいます。秀吉が、秀頼の後継者としての地位を安泰にしようとしたためと考えられます。

木下家定肖像画、建仁寺常光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このときの逸話として、跡継ぎのいなかった小早川隆景が、同じく跡継ぎのいなかった本家の毛利輝元の養子にされないよう、秀吉に秀秋の受入れを申し入れたという逸話(陰徳太平記)が残っています。しかし実際には既に輝元には別の養子(一族の秀元)が決定していたため、隆景が自分の所領(九州)を引き継がせ、秀吉との関係を良好に保つために自ら決断したという見方もあります。文禄4年、秀秋と毛利輝元の養女との婚姻が行われました。輝元からその養女にあてた手紙の中に、秀秋は「利口者」であるとの記述があります。内々の手紙なので、輝元の秀秋に対する評価の一端が伺えます。一方で家臣と度々諍いを起こし、秀吉にたしなめられているので、若年による未熟さもあったと思われます。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時は、秀吉による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)が行われていたため、秀秋の領地(筑前国)は支援基地の一つになりました。秀秋自身も慶長の役では、16歳で初陣(総大将)として朝鮮に渡っています。ところが、1598年(慶長3年)に帰国すると、秀吉から越前国(現・福井県)への転封を言い渡されました。これは、秀秋の朝鮮での軽率な行動(自ら最前線に乗り込んだ)が原因とも言われますが、これも後の軍記物での記述です。実態としては、筑前国を秀吉の直轄領とし、侵攻の統制を強化するためだという見方もあります。代官として、石田三成が派遣されています。秀吉没後は、秀秋は筑前国の領主に復帰し、豊臣一門に準ずる大大名として、五大老に次ぐポジションと認識されていました(九条兼孝日記)。そのとき、関ケ原合戦が起こったのです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つの主役・松尾山城は、近江国(現・滋賀県)と美濃国(現・岐阜県)の国境に位置していて、1570年(元亀元年)には、近江の浅井長政が家臣をこの城に配置したという記録があります(偏照山文庫所蔵文書)。当時長政が、織田信長と対立するようになったからと思われます。その後、信長が近江国を支配下に置くと、一旦廃城となりました。1600年(慶長5年)8月10日、石田三成は大垣城に入城すると、城主・伊藤盛正に対して、松尾山城に新城を築くことを命じました。三成はそのとき、大垣城と岐阜城(8月23日に落城)を拠点に、東軍に攻勢をかけることを考えていました。そして、その後詰(後方支援)として南宮山に毛利勢を入れました。また、背後の松尾山城には毛利輝元が入るはずだったという説(中井均氏)や、そのまた奥の玉城(たまじょう)には豊臣秀頼が入ることを想定していたという説(千田嘉博氏)もあります。いずれにしろ、関ケ原合戦のときには、松尾山城は西軍の有力部隊が布陣するために整備されていたのです。

松尾山城跡に立つ小早川秀秋の幟

「問鉄砲」を含む従来説

関ヶ原合戦の従来説は、明治時代に陸軍参謀本部が作成した「日本戦史」をもって固まったと言われています。歴史の本に出てくる関ヶ原の布陣図も、「日本戦史」のものがベースになっているそうです。今回注目する視点から、従来説をご説明しますが、新説の広まりによって、従来説を補強する意見(笠谷和比古氏などによる)も出てきていますので、併せてご紹介します。

西軍は8月1日に伏見城を落城させましたが、小早川秀秋勢は、主力としてこの戦いに参加しました。その後は表向きは、西軍の一員として行動していました。西軍の主力は大垣城に籠城していましたが、小早川勢は近江国周辺を行軍していたとされています。実際に、秀秋が近江の寺(成菩提院)に出した禁制(兵士に対する禁止事項)が残されています。その一方で東軍側とも交渉していて、東軍に味方する密約も交わしていました。これについては、東軍の黒田長政・浅野幸長からの密書があります。その中では「北政所」の名前を出され、東軍に味方することが彼女に報いることだと説かれています(下記補足1)。

(補足1)(前略)あなた様がどこに居られようとも、この度の忠節が非常に大切です。二・三日中に家康公がご到着されますので、それ以前に決断しなければなりません。我ら二人は北政所様に引き続きお尽くししなければなりませんので、このように申し上げているのです。速やかなご返事をお待ちしております。(8月28日付黒田長政・浅野幸長小早川秀秋宛連署状。訳を「小早川隆景・秀秋」から引用)

成菩提院、米原市ホームページから引用

9月14日に家康が大垣近くの赤坂に着陣すると、得意の野戦に持ち込むために、西上して佐和山城を攻略作戦を立て、その情報をわざと西軍に流しました。その情報を得た西軍総大将の石田三成は、急きょ先回りをして夜中に関ヶ原に布陣しました。秀秋も三成指示により、それまでに松尾山城に着陣していました。これについては、三成が新しい事態に対処するために、自ら選択した結果とも考えられます。戦い直後に吉川広家が、西軍は佐和山に撤退しようとしていたと書状に書いているからです(下記補足2)。しかし東軍の動きが早くなったことで、関ヶ原で食い止めることになったのです。また、西軍諸将は、一旦関ヶ原より西側に移動したようですが、結果的に迎撃しやすい関ヶ原に、ほぼ従来説通りの布陣をしたと考えられます。江戸時代前期に既にそれに近い布陣図が作られているからです(下記補足3)。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測し、わざと松尾山近くの山中に布陣したとされていますが、最終的に関ヶ原の方に前進してきたようです。。

(補足2)これは佐和山へ二重引きをする心づもりであると見えました。(一重目が関ヶ原に当たる)(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足3)武家事記所収の布陣図(山鹿素行)

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦いは、午前8時頃始まりましたが、午前中は一進一退で、西軍は善戦していました。しかし東軍と密約を交わしていた南宮山の吉川勢と、松尾山の小早川勢は動きませんでした。秀秋は東軍に寝返る約束もしていましたが、それもしていませんでした。業を煮やした家康は、小早川勢に対して発砲を命じ、狼狽した秀秋はついに西軍への攻撃を決心したのです。この開戦と、小早川参戦の時間差については、戦いに参加した島津義弘や島津家臣が証言しています(下記補足4)。また「問鉄砲」は否定されているということですが、それに近い話が伝えられています(備前老人物語)。松尾山の麓で鉄砲の音がしたので、秀秋が調べさせたところ、それは徳川方の誤射だったというのです(下記補足5)。それは実は抑制された警告射撃かもしれず、もしかしたら「問鉄砲」ストーリーの元になった可能性もあります。小早川勢は大軍(8千とも1万5千とも)だったので、一部は山麓に展開していて、このようなことに気づくこともあったのではないでしょうか。

(補足4)
慶長五年庚子九月十五日、美濃国関ヶ原において合戦あり。数時間、戦ったが未だ勝負を決せざるところ、筑前中納言(秀秋)が戦場で野心を起こしたため、味方は敗北し、伊吹山逃げ登った。(島津義弘「惟新公御自記」、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)
夜明けとともに東国衆が大谷吉継の陣地へ攻撃を開始しました。6,7回戦闘が繰り返されましたが、小早川秀秋隊が山から降りてきて側面を攻撃し、吉継の人数を一人も残さず討ち取ってしまいました。(神戸五兵衛覚書、訳を「関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足5)小早川軍が松尾山に布陣して東西両軍の戦いを観望していたときのこと、麓の方で自軍に向けた鉄砲の射撃音のするのが聞こえた。そこで小早川の使番は、秀秋の命を受け下山して調べようとした。ところが、そのとき徳川方の武士が下から上がってきて、これは誤射であり御懸念無用にと述べ、調査の必要はないと強く申し立てた。しかしその使番は、調査は主君からの命令であるとして、それに構わず現場の状況をあれこれ調べたところ、単なる誤射ではなくて、かなり複雑な事情がある行為であったようだ。(「備前老人物語」のエビソード、「論争 関ヶ原合戦」から引用)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小早川秀秋は裏切っていないとする説

次は、最近出ている新説(白峰旬氏などによる)から、秀秋と松尾山城に関係するものをご紹介します。まず合戦前の秀秋の所在ですが、実はあまりはっきりしていないのです。近江にいたというのは、秀秋の家老を務めていた稲葉家が江戸時代に幕府に提出して記録に基づいていると思われます(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。そこには、小早川勢が9月14日、松尾山城にいた伊藤盛正を追い出して入城したともあります。それであれば、既に「裏切り」を決断していたように思えるのですが、この記録は稲葉家の徳川家への貢献を強調するよう編集されている可能性があるので、鵜呑みにはできません。一方、大垣城に籠城していたという記録もあります。東軍として浜松城にいた保科正光が、籠城中の武将として、秀秋の名前を挙げているのです(下記補足6)。いずれにしろ、東軍からの勧誘を受けていたのは確かですので、西軍と行動を共にしつつ、迷っていたのではないでしょうか。同盟のため、9月14日付で秀秋の家老宛に出された東軍の井伊直政・本多忠勝連名の起請文があったとされていますが、これも江戸時代の軍記物(関原軍記大成)に記載されているだけなので、確実とは言えません。

(補足6)昨日(28日)、東軍先手衆から何度も報告がきました。それによりますと、大柿城には、三成・秀家殿・秀秋殿・惟新・行長ら、そのほか豊臣馬廻衆の精鋭らが2万人ほどで立て籠もっています。(8月29日付黒河内長三宛保科正光書状、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

秀秋の家老だった稲葉正成肖像画、神奈川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、秀秋が開戦時に松尾山城にいたことを示す確実な史料はないのです(白峰旬氏による)。しかし開戦直前の状況として先ほどの吉川広家の書状に「秀家の逆意がはっきりしたので、大谷吉継救援のため、西軍が山中(関ヶ原の西)に移動した」とあるのです(下記補足7)。これによれば、関ヶ原周辺に秀秋と吉継が既に布陣していたことになります。また、戦い直後に伊達政宗は、西軍は南宮山の毛利勢を支援(後詰)するため大垣城から陣を移したと言っています(下記補足8)。これらから考えると、関ヶ原合戦直前、赤坂にいた徳川家康が南宮山の毛利勢を攻めようとし、秀秋が寝返ったことも伝わったので、三成は大垣城から出る決断をしたのだと考えられます。そして南宮山にいた吉川広家は不利を悟り、家康に事実上の降伏をしたのでしょう。そのため東軍は、三成が率いる西軍主力を追って、関ヶ原に進出したのではないでしょうか。なお、西軍が布陣したのは、前述の通り、関ヶ原ではなく、その西の「山中」でした。三成にとっては、そのときその場で戦になるとは想定外だったかもしれません。

(補足7)筑中は早くも逆意を明らかにしました。それにつき、大垣の衆(三成ら)も(かの地(大垣)にいられなくなり)大刑少(吉継)の陣が気がかりとのことで、山中へ向かって引き揚げました。(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足8)大垣城への「助衆」(毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて美濃の「山中」というところへ打ち返して陣取りをした(9月晦日付家臣宛伊達政宗書状、訳を「歴史群像145号」から引用)

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以上が正しければ、秀秋は合戦前日には、東軍への参加を表明したことになります。合戦当日の経緯ですが、西軍は従来説よりも短時間で敗北したと考えられます(下記補足9)。また、開戦時間も早朝ではなく(午前10時頃)、秀秋も当初から戦いに参加したとの記録があります(下記補足10)。開戦時刻については史料によって早朝から10時頃までまちまちですが、以下のようにも考えられます。関ヶ原一帯は当日霧が深く、西軍ではそこに大谷勢が進出していました。そこで東軍先鋒との戦いが早朝に起こり、霧が晴れた段階(10時頃)で、松尾山から降りてきた小早川勢が参戦し、大谷勢が全滅したのです。そして東軍と西軍主力の戦いが山中で始まり、短時間で決着したという流れです。というのは、家康がそのとき発した書状に両者(関ヶ原・山中)の使い分けが見られるからです(補足11・12)。

(補足9)家康方軍勢が山中に押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「歴史群像145号」から引用)

(補足10)15日の巳の刻(午前10時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子の4人が御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した(9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(堀文書)、訳を「動乱の日本戦国史」から引用)

(補足11)今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候(9月24日付小早川秀秋宛徳川家康書状)

(補足12)今十五日午前、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人衆悉討捕候(9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状)今月十五日の午の刻(正午頃)、美濃国の山中において一戦におよび、備前中納言(秀家)、島津(惟新)、小西(行長)、石治部(三成)の軍勢を悉く討ち取りました。(訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

徳川家康最後陣地

西軍が松尾山城攻めをしたとする説

前説においても、秀秋が関ヶ原合戦の最中に「裏切り」を決断したわけではないことがわかりますが、状況証拠の集まりで、明らかに合戦当日に最初から東軍側に立ち、西軍と対峙していたという形にはなっていません(戦とはそういうものかもしれませんが)。それを明確にしてくれるのが「関ヶ原合戦は西軍が、松尾山城に籠る秀秋を討とうしようとして発生した」という説です(高橋陽介氏による)。この説での秀秋の合戦前の行動は、前説とそれ程変わらないようにも思えますが、東軍側のつく意志は早く固めていたことでしょう。

松尾山城跡

前説と異なってくるのは、開戦直前の三成など西軍主力の状況です。この説では、前説で取り上げた吉川広家の同じ書状の解釈が異なり、西軍主力が秀秋のいる「山中」に攻め込み、大谷吉継が後を追いかけているとしているのです(下記補足13)。また、島津家臣の後年の記述によると、9月14日の大垣城の軍議中に注進が入り、秀秋が寝返ったことが判明したというのです。(下記補足14・15)つまり、三成たちは秀秋を討つために関ヶ原方面に向かったのです。

(補足13)宇喜多・島津・小西・石田らが山中へ攻め込んだため、秀秋の逆意は明らかになりました。そのため、大柿にいた者たちも、そこに留まっていることができなくなってしまいました。吉継は心細くなって、山中に向かって撤退していきました。きっとそのあと、佐和山まで撤退するつもりだったのだと思います。(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足14)「然に筑前中納言一揆被起_内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(宮之原才兵衛書上)

(補足15)「ヶ様之御談合最中に、筑前中納言殿野心之よし注進候、」 (井上主膳覚書)

大谷吉継墓

三成が陣を布いたのは、従来説の「笹尾山」ではなく、藤下村の「自害が岡」という所でした(下記補足16)。島津家臣の後年の記述を検討すると、松尾山に対して、第一陣が宇喜多・小西、第二陣が島津、その東に石田という布陣になっていました。他の史料で「第一陣が石田、第二陣が島津」となっているものがありますが、それは、秀秋を救援するために駆け付けた東軍主力部隊からの見方です。大谷隊は後から来たために、一番東の関ヶ原に布陣することになりました。そのため、東軍先鋒と戦うことになり、結果的に小早川隊と挟み撃ちに遭い、一番最初に壊滅してしまったのです(上記補足4)。同じ史料でも全く違う局面を表わしていることになります。

(補足16)「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」(戸田氏鉄「戸田左門覚書」)

自害が岡

リンク、参考情報

関ヶ原の残党、石田世一の文学館
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋/黒田基樹著」戒光祥出版
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均・内堀信雄編」吉川弘文館
・「新説戦乱の日本史/千田嘉博他著」SB新書
・「論争 関ヶ原合戦/笠谷和比古著」新潮選書
・「関ヶ原合戦を復元する/水野伍貴著」星海社新書
・「歴史群像145号 関ヶ原合戦の真実/白峰旬著」学研
・「新視点 関ヶ原合戦/白峰旬著」平凡社
・「関ヶ原合戦全史 1582-1615/渡邊大門」草思社
・「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった/乃至政彦・高橋陽介著」河出書房新社
・「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」高橋陽介氏・石田章氏論文
・「動乱の日本戦国史/呉座勇一著」朝日新書

「松尾山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

29.Matsumoto Castle Part3

There are defense systems along the passage of the first floor of the Main Tower- machicolations, loopholes (for guns and arrows), and lattice windows. For instance, as many as 117 loopholes were built in this tower. They are the genuine article!

Features

Supporting Systems of Main Tower

You can enter the tower after entering the main enclosure through Kuro-mon (the black gate). It weighs about 1,000 tons on the unstable ground at its base, so 16 thick wooden “main support pillars” stand inside the stone wall base and a ladder-type support foundation was laid across the top of them.

The Kuro-mon gate
The entrance of the Main Tower
One of the 16 main support pillars was preplaced and is exhibited in the first floor
The layout of the 16 main support pillars, exhibited in the first floor
The illustration of the internal structure of the Main Tower (its lower part), exhibited in the first floor

Interior for Fighting

If you go into the first floor, you will see lots of other columns supporting the tower. The floor is separated into the central room, called “Moya”, and the surrounding defense passage, called “Musha-bashiri (directly means “warriors running”). The central room was used as storage and elevated about 50cm above the main passage. This is because the support foundation was doubled-up in this area.

The first floor (the central room)
The first floor (the defense passage), the central room on the left is elevated

There are defense systems along the passage – machicolations (devices for dropping stones), loopholes (for guns and arrows), and lattice windows. For instance, as many as 117 loopholes were built in this tower. They are the genuine article!

The defense systems on the first floor
A machicolation called “Ishiotoshi”
The first floor (the first level) seen from the outside

You can climb the steep steps to the next floor. The second floor is similar to the first one but brighter due to its wide latticed and non-latticed windows. It was used as a waiting place for warriors during an emergency. It is now used as Matsumoto Castle Gun Museum.

The wide latticed window on the second floor
The interior of the second floor
An exhibition of the Matsumoto Castle Gun Museum

Each Floor has Unique Feature

In contrast, the third floor is dark because it is an attic with no windows. It is thought to have been used mainly for storage.

The third floor

The fourth floor is also different from the others. It has fewer columns, high ceilings, and good lighting, so it is believed to have been the lord’s chamber. The steps from the fourth to the fifth are the steepest probably because of the high ceiling. Please be careful. (Taking photographs of the steps is prohibited in the tower, probably for safety and crowded-flow reasons.)

The fourth floor
A side view of the steps to the fifth floor

The fifth floor looks interesting because the back sides of the gables are visible in all directions. It was used as a conference room for the senior vassals.

The fifth floor
The back side of a gable
The fifth floor (the fourth level) seen from the outside

You will finally arrive at the top floor (6th), 22m above the ground. It was planned to have a veranda, but the plan was changed and the walls were built on there outside of the veranda. You can see the line where the veranda was intended to start on the floor. You can also see views of the outside through the wired windows between the walls. It was used as the headquarters of the lord during battle. If you look up at the underside of the roof, you will find the Nijurokuyashin god, which is believed to have saved this tower during the great fire during the Edo Period, worshiped on it.

The top floor
The part which was supposed to be a veranda
A view through the wired windows
The Nijurokuyashin god, worshiped on the underside of the roof

Later History

After the Meiji restoration, all of the castle buildings, excluding the Main Tower, were removed, and finally the tower was sold possible for scrap. Ryozo Ichikawa, a social campaigner came out, and asked the buyer to suspend the destruction of the tower. After that, he collected money by holding an exhibition and giving a detailed explanation in order to get it back, and was successful in the end. However, that was not enough for the tower. Such a large and old building is needed to do continuous maintenance to preserve it in the long term. In the middle of the Meiji Era, The tower began to lean at about six degrees due to the decay of the central columns, and bats began to live in it. Another savior, school head, Unari Kobayashi worked hard to repair the castle. At last, the tower was designated as a National Tangible Cultural Property in 1952. In addition, other primary gates of the castle, such as Kuro-mon and Taiko-mon have been restored. Matsumoto City is considering restoring the main gate as well.

The monument of Ryozo Ichikawa (on the left) and Unari Kobayashi (on the right), at the inside of the main enclosure
The photo of the Main Tower during the Meiji Era, owned by Matsumoto Castle Management Bureau (licensed under public domain via Wikimedia Commons)

My Impression

In conclusion, we can’t be completely sure exactly when and how the Main Tower was built. The history presented in this article is based on the official opinion of Matsumoto City. Some speculate that the Inui small main tower was first built, then, it was modified when the large main tower was added later because it looks like the newer multi-storied type. Others think that the large main tower originally had a different appearance from now, with the veranda on the top and more gables, and modified later. I think it is exciting for history fans to wonder which of these is the truth.

the Inui small main tower is on the left
The interior of the Inui small main tower, many logs are used for the tower, which is one possible explanation for the theory that the tower was first built

How to get There

If you want to visit there by car, it is about a 20-minute drive away from Matsumoto IC on the Nagano Expressway. There are few parking lots around the castle.
By public transportation, it takes about 15 minutes on foot from Matsumoto Station.
From Tokyo to the station: get Hokuriku Shinkansen bullet train and transfer to the Shinonoi Line at Nagano Station. Or take the limited express Azusa at Shinjuku Station.

Links and References

Matsumoto Castle, National Treasure of Japan, Official Website

That’s all. Thank you.
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29.松本城 その3

天守一階の武者走りの通路沿いには多くの防御の仕組みが備わっています。石落とし、鉄砲狭間、矢狭間、武者窓などです。例えば、この天守には合計で117もの狭間が設けられています。これらは皆実戦を想定した本物なのです。

特徴、見どころ

天守を支える仕組み

天守に入場するにはまず黒門を経由して本丸に入ります。天守は不安定な地盤の上に約千トンもの重量があります。そのため、天守台石垣の中に16本の太い土台支持柱が埋め込まれて立っているのと、その上には「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれる梯子状の木枠土台が載せられています。

黒門
天守入口
取り替えられた土台支柱柱のうちの一本、天守一階にて展示
16本の土台支柱柱の配置図、天守一階にて展示
大天守下部の構造図、大天守一階にて展示

実戦的な内装

天守一階に入ると、天守を支える多くの柱を目にするでしょう。一階は身舎(もや)と呼ばれる中央部分と、武者走り(むしゃばしり)と呼ばれる周りを囲む通路状のスペースに分かれています。中央の部屋は倉庫として使われていて、通路からは約50cmほど高くなっています。これは、土台がこの部分だけ二重になっているからです。

天守一階(身舎)
天守一階(武者走り)、左側の身舎が一段高くなっています

武者走りの通路沿いには多くの防御の仕組みが備わっています。石落とし、鉄砲狭間、矢狭間、武者窓(格子窓)などです。例えば、この天守には合計で117もの狭間が設けられています。これらは皆実戦を想定した本物なのです。

天守一階の防御装置
石落とし
外から見た一階部分

次の階へは急な階段を登っていきます。二階は一階と似ていますが、幅広な武者窓やその他の窓によって中は明るくなっています。ここは、非常事態が発生したときの武士たちの待機場所となっていました。今は「松本城鉄砲蔵」として使われています。

天守二階の武者窓(格子窓)
二階内部
「松本城鉄砲蔵」の展示

特徴ある各階

対照的に三階は窓がない屋根裏となっているのでとても暗いです。主に倉庫として使われたと考えられています。

天守三階

四階も他のどの階とも異なっています。この階にはあまり柱がなく、天井は高く、中も明るく作られています。よって、城主の御座所として使われたとされています。四階から五階に登る階段は、高い天井のために最も急になっています。気を付けて登ってください。(恐らく安全と円滑な移動のため、天守内での階段近辺撮影は禁じられています。)

天守四階
五階への階段を離れて撮影

五階の内装は面白いもので、四方が破風の裏側によって囲まれています。この階は重臣たちの会議所として使われたと考えられています。

天守五階
破風の裏側
外から見た五階(四層目)部分

そしてついに最上階(六階)に到着します。地面から22mの高さの場所です。ここには高欄が設けられる予定でしたが変更され、その外側に壁が作られました。床面には高欄とその内側を分ける仕切りが見て取れます。よって、外の景色を見るには壁越しの金網を通してということになります。ここは戦の際の指揮所として使われたと考えられています。最上階の屋根裏を見上げると、江戸時代の大火のときにこの天守を救ったと信じられている二十六神が祀られているのが見えます。

天守最上階
高欄となるはずだった部分
金網越しの景色
屋根裏に祀られた二十六夜神

その後

明治維新後、天守を除く全ての城の建物は撤去されて、天守もついに解体され廃材となるべく売却されてしまいました。そのとき、社会運動家の市川量造(いちかわりょうぞう)が現れ、買主に天守の取り壊しを待ってもらうよう要請しました。その後、彼は博覧会を開き、買い戻しの意義を説き、資金を集めることで買い戻しに成功したのです。ところが、それだけでは十分ではありませんでした。このような巨大で古い建物を長期間保存するには継続的なメンテナンスが必要です。明治中期には、天守は柱の腐りから6度傾いてしまい、中にはコウモリが住む有様でした。ここでもう一人の救世主、学校の校長であった小林有也(こばやしうなり)が登場し、城の修復に尽力しました。そして1952年には国宝に指定されました。更には近年、主要な門であった黒門と太鼓門が再建されています。松本市は大手門も復元することを検討しています。

本丸内になる市川量造(左)と小林有也(右)の記念碑
明治時代の天守写真、松本城管理事務所蔵 (licensed under public domain via Wikimedia Commons)

私の感想

結論として、実は天守がいつどのように築かれたかは正確にはわかっていません。この記事で紹介している天守の創建は、松本市の公式見解に基づいています。他説としては、乾小天守が最初に作られ、後に大天守が追加されたときに改修されたというものがあります。より新しい形式の層塔型に似た外見を持っているからです。また、大天守は当初は今と違う姿をしていたという説もあります。そのときには最上部に高欄があり今より多くの破風があったが、後に改造されたというものです。歴史ファンにとっては、どれが本当なのかいろいろ考えてみるのも楽しみの一つです。

左側が乾小天守
乾小天守内部、丸太柱が多く使われているのが最初に作られた根拠の一つとのことです

ここに行くには

車で行く場合:長野自動車道の松本ICから約20分かかります。城周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、松本駅から歩いて約15分かかります。
東京から松本駅まで:北陸新幹線に乗って長野駅で篠ノ井線に乗り換えるか、新宿駅から特急あずさ号に乗ってください。

リンク、参考情報

国宝 松本城、公式ホームページ
・「図説 国宝松本城/中川治雄著」一草舎
・「シリーズ藩物語 松本藩/田中薫著」現代書館
・「城の科学/萩原さちこ著」講談社ブルーバックス
・「よみがえる日本の城14」学研
・「日本の城改訂版第3号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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「松本城その2」に戻ります。