207.西方城 その1

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

立地と歴史

Introduction

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。そして、大坂の陣後に突然亡くなり、藩も改易になるなど、退場の有様も謎めいています。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。信吉はその山麓に、二条城とも呼ばれる城館(陣屋)を築きました。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

西方城跡、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

藤田信吉の登場

藤田氏はもともと武蔵国北部(埼玉県)の有力領主(国衆)でした。戦国時代の中頃(16世紀前半)になると、北条氏が台頭し、関東地方の制覇を目指します。藤田氏は、関東管領・上杉氏の配下でしたが、河越城の戦いでの敗戦(1546年)をきっかけに北条氏になびくようになります。そのやり方は、当時の当主・藤田泰邦が、北条氏康の子・氏邦を婿養子として受け入れることでした。北条氏としては、実質その国衆の領地を手に入れることになります。氏邦は、北条氏領国の重要拠点・鉢形城城主にもなりました。

河越(川越)城跡(本丸御殿)

しかし1560年(永禄3年)に上杉謙信の関東侵攻が起こると、北条氏による支配は一時揺らぎます。そのとき氏邦が当てにしたのが、藤田氏の一族・用土氏で、その当主は、藤田康邦の甥の重連(しげつら)でした。重連は北条本家(氏政)にも信用され、謙信亡き後、北条が沼田城を手に入れたときには、その城代の一人にもなりました。

沼田城跡

ところが、1578年(天正3年)、重連が突然亡くなります。北関東統治を安定させた氏邦が、今度は用土氏の存在が邪魔になって、毒を盛ったと言われています。その重連の後釜に、北条本家が指名したのが弟の信吉(当時は新六郎)だったのです。つまり、北条氏内で食い違った思惑の中、重要なポジションを任されたのです(下記補足1)。

(補足1)此の沼田の城は重氏(氏邦)に降りしを、又重連に賜はること安からぬとて、頓て重連に毒すすめて殺しぬ。氏政、重ねて重連が弟弥六郎信吉して、兄が跡を継ぎて沼田の地を守らす。安房守重氏、いよいよ安からぬ事に思ひ、氏政、氏直父子に信吉が事さまざまに讒す。(「藩翰譜」)

ちょうどその時、沼田城を狙っていたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。1580年(天正5年)、昌幸は調略の手を信吉に伸ばしました。信吉はそれまで北条方として真田と戦っていたのですが、一方で北条氏邦から命を狙われていたとも言われます。北条家臣出身の妻が亡くなり、人質に出していた藤田康邦の母も亡くなっていました。機会が訪れたと言えるのかもしれません。信吉は、昌幸に内応し、武田方の城・沼田城の城代になりました。そして藤田信吉と名乗り、北条氏に奪われた家名を、自ら復活させたのです。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

大名家を渡り歩きついに独立大名に

信吉は武田方の武将として、北条からの攻撃をよく防ぎました(沼田平八郎によるものなど)。しかし今度は、武田氏の滅亡・本能寺の変による混乱に巻き込まれます。沼田城は一旦、織田方の滝川益重(滝川一益の城代)のものとなり、信吉は他の城に退きました。滝川氏が本能寺の変を聞き、兵を引き上げるとき、信吉は沼田城での独立を目論見ます。ところが、滝川は城を真田昌幸に返したため、信吉は行き場を失ってしまったのです。信吉は城を奪回しようとしますが果たせず、落ち延びました。その行先は、越後(現・新潟県)の上杉景勝でした。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信吉の武名はよく知られていましたので、景勝は喜んで信吉を迎えました。その頃上杉家は内乱(御館の乱)の直後で、人材不足に陥っていました。また、当時の信吉の妻が海野竜宝(武田信玄の子)の娘で、景勝の正室が竜宝の妹だったという縁故もありました。1582年(天正10年)の放生橋の戦い(対新発田重家)で、信吉は景勝の窮地を救うという活躍をし、重臣に抜擢されました(下記補足2)。信吉もその期待に応え、越後国内外の平定(新発田重家の反乱鎮圧など)に貢献しました。1590年(天正18年)豊臣秀吉による北条氏攻めが起こると、信吉は上杉部隊として出陣しました。そしてかつての主君、北条氏邦がこもる鉢形城攻撃に加わったのです。1ヶ月の籠城戦の後、氏邦は降伏しますが、信吉はかつてのいきさつにも関わらす、氏邦の助命嘆願をしたとも言われます(「埼玉人物事典」)。氏邦は、城攻めの大将だった前田利家のもと(金沢)で亡くなる(1597年)まで過ごしました。信吉は信吉なりに、信義を尽くしたのです。

(補足2)同(天正十年)十月廿七日、新発田の城の戦に、首八十六切つて参らす。景勝、大きに感じ、此の年十二月、長島の城を賜り、藤田が手の者二百五十騎、寄騎の侍五十人、都合三百騎の大将に成れてけり。(「藩翰譜」)

鉢形城跡

上杉はその後会津に転封となりましたが、その時代のハイライトは会津征伐でしょう。秀吉没後は、家康が最強の実力者となり、政権基盤を固めようとしました。例えば、前田利家が亡くなった後、その跡継ぎ・利長を勢力下に収めました。前田としても、後に「加賀百万石」が定まる大きな分岐点でした。1600年、慶長5年の正月、信吉は景勝の名代で上洛しました。信吉はこのとき、上方の状況を見て、上杉家存続のためには家康との融和が必要と考えたはずです。折しも、上杉は領国での新城などの建設、旧領国からの年貢持ち去り問題などがあり、謀反を疑われていたのです。信吉は、帰国すると景勝に対して、上洛して家康に申し開きをするよう説得しました。もしここで景勝が上洛していたら「会津120万石」と今でも言われていたかもしれません。しかし「直江状」で有名な直江兼続を筆頭に、家中は反家康に傾いていました。最近の研究では、景勝自身も家康に強硬な態度をとっていたと言われます。つまり信吉は、上杉家中の「家康に買収され内通している」として完全に孤立してしまったのです。この年の3月、信吉は出奔しました。その行先は、徳川でした(下記補足3)。

(補足3)かかる所に景勝、石田治部少輔三成等と言い合はせたる旨あって、東西に分かれて一時に軍起こさんとす。信吉、是を強ちに諫めしに、直江兼続が為に讒せられて誅せらるべしと聞こゆ。信吉、大きに恨みて、おのが家に二心あらざる由の起請文書きて残し置き、慶長五年三月十三日、会津を去りて都に登り、大徳寺に籠り居て入道し、源心とぞ号しける。(「藩翰譜」)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このとき信吉は、江戸で、家康の跡継ぎ・秀忠に、上杉を讒言し、会津征伐のきっかけを作ったという見解もありました。しかし形勢が固まっていたとするならば、状況を報告しただけなのかもしれません。家康は信吉に、会津への道案内をするよう依頼したとも言われますが、信吉は剃髪、「源心」と号して、京都・大徳寺に蟄居しました。関ヶ原後、家康は信吉を召し出し、下野国西方に1万5千石の領地を与えました。ついに、独立大名の地位を得ることになったのです。

西方城の築城と発展

西方城は、伝承によれば、宇都宮氏の一族・西方景泰が、鎌倉時代後期に築いたとされます(江戸時代に編さんされた「西方記録」)。しかし最近の研究よると、同じ宇都宮氏の一族で、西方宗泰という人物が、室町時代に京都から下野にやってきた以降のこととのことです。確実な史料に西方城の名が初めて現れるのは、戦国時代(1573年、天正元年)になります。

城の位置

戦国時代の下野国は総じて、宇都宮城を本拠地とする宇都宮氏の勢力が強かったのですが、国内を統一していたわけではなく、那須氏・小山氏・結城氏・佐野氏らによっても分割されていました。西方城の周りにも、壬生氏・皆川氏がいて、敵にも味方にもなりうる存在だったので、西方城は、宇都宮氏グループの西側の飛び地のようになっていたのです。実際、皆川氏との抗争の場でもあったと言われます(戦国中盤または後半の時期)。やがて、戦国時代後半(16世紀後半)になると、北条氏が南から勢力を伸ばしてきました。佐野氏、小山氏、皆川氏、壬生氏は、北条の傘下となりました。宇都宮氏の当主・宇都宮国綱は、本拠を山城の多気城に移し、北条氏の侵攻に備えました。西方城も、このような状況下で、境目の城として防御態勢が強化されたと考えられます。

復元された宇都宮城
多気城跡

そのころの西方城は山城として築かれ、峰の上には曲輪群があり、それぞれが深い堀で区切られていました。敵の攻撃を防ぐため、土塁・堀・切岸を複雑に組み合わせ、敵の側面に攻撃(横矢)できるようにしました。城への入口は、枡形虎口を多く使っていて、厳重に守られていました。自然の地形を生かしながら、巧みに加工して、攻めにくいように築き上げたのです。

城の地形図(赤色立体地図)、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より
山城の二の丸虎口

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、下野国には、家康の子・結城秀康の領地(本拠は下総国、10万石)の一部が設定されました。西方城も、その中に含まれたのです。その時代の城の状況はわかっていません。一時廃城になったとも、その時期に山麓に城館が築かれたとも言われています。

小田原合戦後の下野国分割状況、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

関ヶ原後、結城秀康は、越前北ノ庄68万石の大大名になり、その後釜の一人として藤田信吉が入ってきたのです。彼は、山麓に陣屋(藩庁)を置いたとされます。この部分は現在「二条城」とも呼ばれていて、京都の二条城を連想してしまいますが、新しい城という意味で「にいじょう(新城)」がなまったものと言われます。山城部分は、普段は使わなくも、何か事があったときには、山麓と連携して使ったとしてもおかしくありません。信吉は城下町も整備し、その名残として、そのときに由来を持つ神社や寺が残っています。

山麓の「二条城」跡
信吉が創建したと伝わる愛宕神社(鞘堂内)

信吉と西方城の最期

藤田信義と西方城の最期は、思いがけずやってきます。そのきっかけは、1615年の大坂夏の陣の時です。信吉は、榊原康勝の軍監として出陣しました。しかし、慶長20年5月6日の若江の合戦で失態を犯してしまうのです。この合戦で幕府軍は、大坂方の木村重成隊などと戦いました。その直前に、木村隊の一部が、小笠原秀政隊に近づいてきたときに、となりにいた榊原隊がともに戦おうとしましたが、信吉がそれを止めたのです。敵の後ろに伏兵が控えていると思ったからです。(下記補足4)しかし実際には伏兵はいなくて、両部隊は戦機を逸したのです(榊原隊は合戦後半に参戦)。小笠原秀政は、将軍・徳川秀忠から叱責を受けました(信吉が弁明)。翌日の天王寺口の戦いでは、両部隊と信吉は、遮二無二戦いました。大坂の陣終結となる日です。小笠原秀政は戦没、榊原康勝は無理な戦がたたって病没、信吉も重傷を負いました。幕府方にもこんな犠牲があったのです。特に榊原康勝の件は、徳川四天王・康政の跡取りだったので重大視され、戦後、信吉は徳川家康から直接尋問されました。信吉は自分の責任を認めつつ、経緯を説明しました。その場の処分はなかったものの、信吉自身の戦傷が重くなり、1616年(元和2年)療養の途上、信濃国奈良井の長泉寺で亡くなりました(59歳)。信吉には跡継ぎがいなかったので、大名としても改易になってしまったのです(下記補足5)。信吉は、長泉寺の住職に、代々「藤田」を名乗るよう遺言していますので、亡くなるまで家名にこだわっていたのではないでしょうか。

(補足4)其合戦場敵備の後に、誉田八幡の森続、森の茂深し。伏奸あるべき地なり。天下の大軍を引請け、御威風にも恐れず、城より出でゝ備を立て、蹈忍へて引入れざるは事は、武術あるべき儀なるに、敵の備唯一重なり、是は伏兵を秘し、東の大軍追来る時、其乱立ちたる中へ、伏を起し討入るべしと考え申候。其時、館林の備を進め、横合に敵を討ち、勝利を得べしと存じ、此理を遠江守へ申談じ控へさせ候所、案に相違仕り、敵伏兵も無く、総崩れ仕り候。(「管窺武鑑」で信吉が徳川家康の尋問に答える場面)

(補足5)元和二年七月十四日、五十九歳にて卒し、男子なければ家たえたり(「藩翰譜」)

大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西方・実相寺にある信吉墓(中央)

ところで、藤田氏の改易には異説があります。信吉の夏の陣での失態が直接の原因であるというもの(下記補足6)と、信吉の失言説もあります(下記補足7)。確かに失態により改易の方が理解されやすいとも思えます。現時点では、失態説の方が一般的のようです。

(補足6)大阪ノ役、指揮ヲ失フヲ以テ封除セラル(「徳川除封録」)

(補足7)大坂より御帰陣之日、能登守信吉言上奉り、「実に易く落城致し候」と祝い申し上げ、御機嫌に背き、面目を無くして高野山へ遁世(「西方記録」)

また、信吉の亡くなり方にも異説があって、自ら命を絶ったとするもの(補足8)、殺害説まであります(下記補足9)。失態→改易→自害というのが、聞き手にはドラマティックに思えてしまうのでしょう。早くに改易されて、家としても残らなかったで、いろんな話が作られたのでしょう。藤田信吉、謎と波乱に満ちた武将の人生でした。

(補足8)六日の戦に小笠原、榊原手に逢わざる事後に御せんさくに付き、小笠原事藤田差図のより申上げて藤田ついに信州へ流罪、これを憤って自殺す(「新編武家事紀」)

(補足9)三太郎(北条氏邦旧臣の諏訪部定吉)。越前中納言秀康卿に仕え、のち伏見に於て藤田能登守某を殺害して自殺す(「寛政重修諸家譜」)

西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。

「西方城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その4

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

特徴・見どころ(辰巳用水紀行)

Introduction

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

辰巳ダム石碑

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

辰巳用水の出発点

辰巳ダムは、洪水調節専用のダムとして、2012年に完成しました。「洪水調節専用」とは、普段は水を貯めこまず、大雨のときに貯水して、下流での被害を防ぐ用途です。当初の計画では、辰巳用水の取水口が水没する恐れがありましたが、ダムの位置が変更になり、辰巳用水用の放流口も設けられました。辰巳用水自体も、2010年に国の史跡に(一部)、2018年には土木学会選奨土木遺産になっています。辰巳用水の取水口はダムの上からも見ることができますが、ダム見学のための展望デッキがあって、そこからの方がよく見えると思います。ここにある「東岩取水口」は3代目で、当初下流にあったものを、取水量確保のために2度移したそうです。柵が付いているところが取水口です。そこから金沢城まで、約11キロメートル続いているのです。

辰巳ダム
東岩取水口

金沢では1631年(寛永8年)に大火があり、城や城下町に大きな被害がありました(寛永の大火)。時の藩主、前田利常は防火・生活用水確保のために城への用水開削を命じました。それを指揮したのが、小松出身の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させました。ところがその功績にも関わらず、藩の歴史書(正史)には用水のことは載らず、彼のこともほとんどわかっていないのです。工事が終わって亡き者にされたとも、別の所で活躍したとも言われています。真相は不明ですが、藩の最高機密だったことは確かでしょう。この用水で素晴らしいのが、取水口から自然の勾配のみで導かれていることです。当時は当たり前だったのでしょうが、今ではかえってすごいと思ってしまいます。特に取水口から約4キロメートルは、手掘りのトンネルを通っています。残念ながら、通常は見学できませんが、ほぼ正確な勾配(200分の1)で貫かれているそうです。技術もすごいですが(先進導坑工法・横穴工法など)、かなりの突貫工事だったようです(「加賀の四度飯」と言われた)。

江戸時代の辰巳用水を描いた「金城上水新川口図」、現地説明パネルより
手掘りのトンネル、現地説明パネルより

巧みに流れる用水

続いて、辰巳用水の流れを追ってみましょう。先ほどの辰巳ダムから1キロちょっと下流の地点に「三段石垣」があります。前方が小立野台地で、背後には犀川が流れています。その石垣の最上段のところを用水が流れているのですが(切石のアーチに覆われている)、台地の斜面が崩れやすく、用水の勾配を維持するために築かれたとのことです(全長260m)。この石垣はものすごく実用的で、「色紙短冊積み石垣」とはまるで用途がちがいます。

三段石垣
金沢城の色紙短冊積み石垣

次は、用水の中間点辺りの「土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)」に来ました。金沢藩が、辰巳用水を利用した水車によって、火薬を製造していた場所です。用水とともに国の史跡に指定されています。足元の側溝を水が流れていますが、その元が辰巳用水で、オープンになっています(開渠)。今はきっと農業用水としても使われているのでしょう。こういうところも、自然に流れるようになっています。この辺りでは、辰巳用水沿いに、遊歩道が作られ、散策できるようになっています(約2km)。気持ちのよい散歩道です。もとは用水の見張りをするための道だったようです。:現在は、果樹園・雑木林・竹林に囲まれた道に整備されています。

土清水塩硝蔵跡
側溝を辰巳用水からの水が流れています
辰巳用水と遊歩道

いよいよ兼六園の近くまで来ました。古い土塀が続いていますが、加賀八家の一つ、奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀です。この脇を流れているのが辰巳用水です。この用水の向かう先が兼六園です。ただ、現在では水質確保のため、ずっと上流から兼六園専用地下流路があるそうです。きわめて現代的な用水事情です。

奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀と辰巳用水、その先が兼六園

この近くには、他のおすすめスポットもあって、一つは石川県立歴史博物館の屋外に、用水で使われた石管が展示されています。一瞬大砲の筒かと思ってしまうほどです。この辺りはかつて重臣たちの屋敷地で、ここには加賀八家の筆頭・本多氏が住んでいました。本多正純の弟、本多政重の家です。歴史博物館のとなりには、加賀本多博物館があって、ゆかりの品を見学できます。

展示されている石管
大砲の筒のようです
加賀本多博物館内の展示

それから兼六園入口近くには、石川県立伝統産業工芸館では、松平定信が揮毫した「兼六園」の扁額が展示されています。兼六園の命名者とも言われています。兼六園の名前の由来は、六つの名勝(宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望)を兼ね備えていることですが、少なくとも「水泉」は辰巳用水のおかげです。

「兼六園」の扁額

水泉の地・兼六園

兼六園にはいくつも入口がありますが、辰巳用水が流れてくる小立野口から入って、水の流れに沿ってご紹介したいと思います。

兼六園・小立野口

まず園内の水源を探します。沈砂池です。ここで用水から来た水を浄化します。そこから、山崎山の下の洞窟を通って、反対側に流れ出ています。それが「曲水」です。用水が自然の小川のように変身しています。辰巳用水の説明もあります。

沈砂池
山崎山
曲水
辰巳用水の説明板
曲水を渡る雁行橋

眺望台からの眺めもすばらしいです。その反対側では、曲水が霞ヶ池に注いでいます。あんなすばらしい眺望と、こんな豊かな池を一緒に見れるところが、またすごいです。これも、矛盾した名勝を実現したといわれる兼六園と辰巳用水のなせる技です。

眺望台からの眺め
曲水が霞ヶ池に合流する地点にある「瀬落とし」
霞ヶ池

ここからは、金沢城に向かって、栄螺山を見ながら下っていきます。また水路があります。瓢池(ひさごいけ)まで来ました。この辺りに「蓮池庭」を作ったのが、兼六園の始まりと言われています。ここには名所の「翠滝(みどりたき)」がありますが、さっきの水路から流れているようです。演出がすごいです。

栄螺山
途中にある水路
瓢池と翠滝

最後は、少し上の方に戻ってから、とっておきの見どころをご紹介します。噴水です。でもただの噴水ではなくて、水源の霞ヶ池との高低差を使った、動力を使わない「噴水」なのです。次の金沢城にも関係することですので、覚えておいてください。

噴水

辰巳用水 城での行方

金沢城の白鳥堀跡に来ました。上の方に、石川門の櫓が見えます。実はここも辰巳用水と関係あるのです。用水の水が、先ほどの兼六園の霞ヶ池から、石管でここまで落とされ、城内の内堀や二の丸御殿まで上げられたのです。機械もない時代にそんなことができたのは、先ほどの噴水と同じで、「逆サイフォンの原理」というそうですが、上流からの高い水圧を利用していたためです。これも、板屋兵四郎の功績とされています。当時、この原理は「伏越の理」と呼ばれていました。

白鳥堀跡
金沢城の給水の仕組み、現地説明パネルより

白鳥堀跡にはまだ水辺が残っていますが、現在は、井戸水を使っているそうです。堀跡は「白鳥路」という公園になっていて、これも気持ちのいい散歩道です。

堀跡に残る水辺
白鳥路

また、現在の内堀は復元されたもので、地下水を使っているとのことです。

復元された内堀

大手門跡の手前には、唯一そのまま残っている大手堀があるのですが、これも現在の水源は、井戸水と地下水になっています。

現存する大手堀

それでは、辰巳用水を使っている堀はなくなってしまったのかというと、そうでもありません。復元されている外堀(いもり堀)の一部分が、兼六園経由で辰巳用水から給水されているのです。これは、城にとっての、辰巳用水の復活といえるでしょう。それから、玉泉院丸庭園も復元されてから、いもり堀から給水されていますので、間接的に辰巳用水を使っていることになります。かつてのやり方と違う点はあるかもしれませんが、着々と城の再整備が進んでいるのは確かです。

復元されたいもり堀
玉泉院丸庭園

リンク、参考情報

歴史都市金沢のまちづくり、金沢市ウェブサイト
水土の礎
水の物語、兼六園観光協会

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その3」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

36.丸岡城 その2

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

特徴、見どころ

Introduction

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。ここからなら、天守まですぐに行けそうです。ここはかつての二の丸で、裏門があった辺りでしょうか。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

丸岡城駐車場

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天守にアクセス

まず、天守に行くにも、2通りのルートを通って、天守の周りを見学します。最初は、駐車場から本丸の方に登っていきます。この通路は明治以降に作られたのですが(おそらく昭和時代に公園として整備されたとき)、現在、ビジターに一番よく使われています。階段を上がっていくと、すぐ本丸に着いてしまいます。

城周辺の地図

駐車場から本丸への通路

本丸に上がった所は「松の丸」とも呼ばれていて、本丸の正門と不明門(あかずのもん)がありました。実は不明門は、民家に移築されていて、調査により天守と同様の古さであることが証明されています。実は天守はひとりぼっちではなかったのです。現在券売所がある辺りにも埋門がありました。現代は関門がないので、簡単に天守の方に向かうことができます。

松の丸
不明門についての展示(丸岡城観光情報センター)
券売所周辺

もう一つのルートからアクセスしてみましょう。反対側から登ります。こちらも明治以降の通路になりますが、石垣が残っていて雰囲気が出ます(ここは通称「おとこざか」かもしれません)。途中から、天守の周りを歩いていけそうです。石垣が段状になっていて、腰曲輪のようです。昔の絵図(「越前国丸岡城之絵図」)も同じようになっています。城らしい場所です。

反対側からのルート
腰曲輪
「越前国丸岡城之絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館

進んでいくと、井戸があります。説明板によると、一向一揆との戦いのときに、この井戸から大蛇が出て、霞をかけて城を守ったという伝説があるそうです。井戸から上がるところも、門の跡のようになっています。天守に着きました。

伝説をもつ井戸
天守の方に向かいます
天守に着きました

古風な天守を鑑賞

古風な天守のルックスを、改めて鑑賞しましょう。この姿を見ていると、どうしても現存最古の天守に思えてしまいます。無理もありません、この天守は古風な天守の特徴をいくつも持っているのです。

丸岡城天守

一つ目は、望楼型天守であることです。望楼型とは、大きな入母屋造りの建物の上に、望楼を乗せた形式で、初期の天守に見られた特徴です。例えば、新しい型式(層塔型)の福山城天守と比べると、全然違います。

望楼型天守の典型、犬山城天守
福山城天守(外観復元)

次に、最上階に廻縁や高欄(べランダ)が取り付けられていることが挙げられます。これも、初期の天守に用いられていました。でもこの天守には、当初は違うもの(腰屋根)がついていました。廻縁は、外には出られない飾りとして後付けされました。

当初の天守想像図、丸岡城観光情報センターにて展示

それから、板張りの多くの部分がむき出しになっていることも挙げられるでしょう。松本城天守などに、同様の特徴が見られます。松本城の場合は、黒い部分が漆塗の下見板張りになっています。

松本城天守

更には、石垣が古い形式(野面積み)であることと、石瓦を使っていることも、武骨で古風に見せています。丸岡城天守は、現存天守唯一の石瓦葺きで、近隣の北ノ庄城や、福井城も、石瓦を使っていました。寒冷地に適応できる耐久性があったことと、越前国では、笏谷石が優れた石材として知られていました。安土城天守台階段に、笏谷石を使ったタイルがありますが、柴田勝家が織田信長に献上した石を使ったと言われています。しかし、廻縁と一緒で、この天守は当初、こけら葺きで、後から石瓦葺きになったのです。現在まで必要に応じ、瓦の修理・交換が行われていますが、笏谷石の調達は困難になっているため、昭和時代から石川県産の石材を使っているそうです。

天守台石垣
笏谷石の石瓦、丸岡城観光情報センターにて展示
福井城の模型、福井市立郷土歴史博物館にて展示
安土城で使われている笏谷石のタイル
一時使われていた石製の鯱、丸岡城観光情報センターにて展示

最近行われた調査により、この天守は、現存最古ではないことがわかったのですが、天守を築いた本多成重やその跡継ぎたちが、意識して古風なスタイルにしたということなのです。どうしてなのでしょうか。そんなことを考えながら、天守の中に入りましょう。

現存天守に突入

いよいよ天守の中に入ります。この天守は、2重3階、高さは約12メートル、石垣を含めると約18メートルです。現存12天守中、11番目の高さです。でも、低いとは全然感じません。単独で立っている「独立式」だからでしょうか。このまっすぐな石階段も面白いのですが、調査によれば、かつては曲げられていた痕跡があったそうです。階段の脇の石垣に建物があった可能性もあるそうです。謎は尽きません。

天守への石階段

天守一階に入りました。すごい柱の数です。部屋の中だけで、26本もの柱があります。中央の6本を含め、多くは古材が今も使われています。天守全体の重さは公表されていませんが、石瓦だけでも約6千枚で120トンもあるそうです。柱は追加されたり入れ替えられたりしていますので、途中で石瓦に変わったことが関係しているかもしれません。

天守一階

部屋の中を歩いてみましょう。「石落とし」がありますが、実際には「格子出窓」と言っていいものです。狭間や通常の格子窓もあります。さすがにたくさん備えられています。城の模型もあります。

石落とし
格子窓、狭間
城の模型

二階に行きます。とんでもなく急な階段です。傾斜は65度あります。ロープまでついていて、これは大変です。

二階への階段

二階に昇りました。望楼型で、一階の屋根裏部屋の位置付けなのですが、意外と明るいです(狭間・屋根の窓から採光しています)。本多親子のディスプレイがあって、かっこいいです。二階は柱が少ない空間ですが、周りはいろいろあります。まず、東西にある破風の内側が部屋になっています。また、南北にある切妻屋根の中も出部屋になっていて、中に余裕で入れます。石瓦が間近に見学できます。守備兵がこもって戦うための場所だったのでしょう。

天守二階、本多親子のディスプレイ
破風の内側
切妻屋根の中の部屋
石瓦がよく見えます

そして、最上階への階段です。傾斜はさらにきつく、67度です。がんばって昇るしかありません。最上階は開放的で、昇った甲斐がありました。ここからは、東西南北全方位の眺めを楽しむことができます。昔は戦いのための物見をしたのでしょうが、今は平和で豊かな街を眺めることができます。屋根の骨組みも直接見えます。笏谷石で作ったかもしれない鬼瓦の裏面も見えます。

最上階への階段
天守最上階
屋根の骨組み
最上階からの眺め(西側)
鬼瓦の裏側

内堀ラインから天守を眺める

まずは、現在の地図と、昔の絵図を比べてみましょう。現在の地図の赤いラインが昔の内堀です。ただ、ほとんどは市街地になってしまっていますので、天守のビュースポットを探したり、これからの城跡の開発プランについて、紹介します。

現在の地図

「越前国丸岡城之絵図」の内堀部分、出展:国立公文書館

駐車場から、天守と反対方向に進みます。右側には「一筆啓上 日本一短い手紙の舘」があります。その辺りから左に曲がります。五角形の内堀の頂点の一つです。なぜ五角形の形をしているかというと、攻めてくる敵を混乱させるためにこうなったという説があります。

一筆啓上 日本一短い手紙の舘

北側から西側に回り込む辺りに追手門がありました。もうすぐ天守のビュースポットです。また天守が見えてきました。お天守前公園です。丸岡城天守は、丘と石垣と建物合わせて、高さが35メートル以上あるはずです。ここからだと、その高さを丸々感じることができます。石瓦の屋根もはっきり見えるので、渋さが光ります。

追手門があったと思われる辺り
お天守前公園
天守がよく見えます

先に進んで南側を回ります。民家が多い場所です。実は、この内堀を一部復活させる計画があるのです。もちろんすぐにはできませんが、半世紀くらいかけて、建て替えの際にお願いするなどして、公有地化を進めるそうです。遠大な計画です。現在は、丸岡城観光情報センターなど、天守周辺の整備を進めています。駐車場に戻ってきました。内堀一周、達成です。

民家の合間から見える天守
丸岡城観光情報センター
駐車場に戻ってきました

リンク、参考情報

丸岡城公式ウェブサイト
坂井市 丸岡城国宝化推進事業
・「丸岡城 ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「一筆啓上 家康と鬼の本多作左衛門/横山茂著」郁朋社
・丸岡城研究調査パンフレット「知られざる丸岡城」
・「丸岡城お天守物語~天守を守った人々~」坂井市
・「坂井市埋蔵文化財発掘調査報告書 丸岡城跡」2021 坂井市教育委員会
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市
・「江戸期天守と大名支配」中尾七重氏研究論文
・「本多作左衛門重次と子孫たち」取手市埋蔵文化財センター第2回企画展資料
・「福井の戦国 歴史秘話 第5号」平成29年6月30日福井県発行資料

「丸岡城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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