114.唐沢山城 その1

最後の城主となった佐野信吉は、関東地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには豊臣秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。

立地と歴史

佐野氏が戦国時代に築城

唐沢山城は、現在の栃木県佐野市にあった城です。この城は、関東平野の北端に沿った大規模な山城でした。言い伝えによれば、有名な武将であった藤原秀郷が平安時代の972年にこの城を築いたとされていますが、歴史家によれば、秀郷の子孫であり、この城を長く治めた佐野氏によって作られた話であろうとのことです。調査研究の結果、佐野氏は最初は15世紀まではこの山の西麓に館を構えていましたが、戦国時代になって関東地方で多くの戦が起こるようになって、山の上に城を築いたか拡張したと考えられています。金山城箕輪城など関東地方の他の有名な山城は、この厳しい状況を乗り切るために同じ時期に築かれています。佐野氏は最初はこの山城を緊急事態のときに使っていましたが、やがて生き残りのためそこを居城とするようになります。

佐野市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

佐野氏が当初住んでいた山麓の館跡(現・興聖寺)
唐沢山城跡
金山城跡
箕輪城跡

上杉謙信が執着した城

一方、関東地方を支配したい有力戦国大名は、その有利な立地条件から唐沢山城を確保したいと思うようになります。上杉謙信はそのうちの一人で、その実現に執着しました。そのことを如実に示すエピソードがあります。1560年前後に謙信が最初に関東地方に侵攻したとき、北条氏の大軍が唐沢山城を包囲する中、僅かな近臣とともに城を訪れ、城主の佐野昌綱(さのまさつな)を説得し、謙信への支持を取り付けたのです。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に引き上げると、北条氏は領土奪還を始め、地元領主たちに服従を強いました。昌綱もその一人であり、北条方に寝返りせざるをえませんでした。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城跡

最強の武将の一人とされていた謙信は激怒し、唐沢山城を攻撃しますが、城もまた大変強力であり、強攻策では落とせませんでした。その後、昌綱は謙信に降伏することになりますが、謙信が引き上げると、また同じ事が繰り返されました。その結果、彼らは少なくとも5回も戦いました。謙信は一時、昌綱を城から追放し、親族(虎房丸、人質として引き取った昌綱の子という説もあります)や重臣を送り、城の直接統治を行いました。ところが、謙信はなぜか昌綱に城を返してしまいます。遠くにあるこの城をコントロールする難しさを感じていたのかもしれません。

佐野昌綱肖像画、大庵寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉の援助で高石垣が築かれる

唐沢山城を含む関東地方は、1570年代から1580年代にかけて、北条氏に帰属するようになります。北条氏もまた、謙信が行ったように、この城に一族の北条氏忠を送り込みました。一方、正綱の一族、佐野房綱(さのふさつな)は関東地方から西日本に逃れ、当時天下人として君臨していた豊臣秀吉に仕えました(房綱は当時は天徳寺宝衍(てんとくじ ほうえん)と名乗っていました)。そして、秀吉が1590年に関東地方に侵攻したときには、その先導役を務めたのです。その結果、房綱は唐沢山城の城主に返り咲きました。ところが、秀吉もまたこの城を自身の影響下に置きたかったようです。秀吉は、近臣である富田信高の弟を、房綱の跡継ぎに送り込み、佐野信吉(さののぶよし)となります。そして、彼が最後の当主、最後の城主となりました。これは、秀吉によって関東地方に転封されたライバルの徳川家康を、信頼できる誰かに監視させる目的であったと思われます。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

唐沢山城は、いくつもの峰を持つ大きな山の上に築かれました。山頂と峰上には多くの曲輪が設けられ、そこには矢倉、物見、番所、射撃所(「大鉄砲」「大筒」「国崩し」などと呼ばれました)などが置かれ、敵が来ないか監視し、来た場合には反撃できるようになっていました。峰々や曲輪群は、深い堀切によって区切られ、敵の攻撃を弱らせることができました。城に向かうには南側と西側の2つの主要道があり、山頂近くの大手門の前で合流し、城兵のコントロール下にありました。山麓地区は城主と重臣たちの屋敷地となっていて、防衛のため長大な土塁によって囲まれていました。これらは、佐野、上杉、北条の各氏によって長い期間をかけて構築されてきたのです。

城があった唐沢山
山麓にある土塁跡
山麓にある重臣屋敷跡(隼人屋敷)

この城の基礎部分は基本的には土造りで、当時の東日本での築城においてはそれが一般的でした。しかし、最後の城主となった佐野信吉は、この地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。一方、関東の家康は、そのような高石垣を築く技術や石工集団をまだ持ち合わせていませんでした。すなわち、強力な唐沢山城にある石垣は、家康にとって大いなる脅威と映ったに違いありません。

唐沢山城の高石垣

徳川家康の命で突然の終焉

秀吉の没後、1600年前後に家康が天下を取ったとき、信吉は家康に味方することで何とか生き延びました。ところが、唐沢山城と佐野氏の没落は突然やってきます。1602年に家康は信吉に、唐沢山から近くの平地にある佐野城への移動を命じました。その理由としては、山城の上から家康の住む江戸城を見下ろすことが無礼とされたから、と言われています。そして1614年に信吉はついに、兄の富田信高の罪に連座して改易となってしまいました。総じてみると家康は、信吉のような者が、唐沢山のような強力な城に籠って反乱を起こすことを、防ぎたかったようです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐野城跡

「唐沢山城その2」に続きます。

18.鉢形城 その1

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました

立地と歴史

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました。

城の位置

関東地方の戦国時代の幕開け

関東地方は、1455に起こった享徳の乱によって動乱の戦国時代に突入しました。関東公方の足利氏と、関東管領の上杉氏が対立し、関東一の大河の利根川をはさんで対峙したのです。上杉氏は利根川西岸に五十子(いかっこ)陣を建設し、20年以上もそこに滞陣しました。上杉氏は実際には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれていました。それぞれに家宰がいて、配下の武士たちの処遇や懸案の処理を行っていました。山内家の家宰は長尾氏で、扇谷家の方は太田氏が務めていました。家宰の一人であった長尾景信(かげのぶ)が1473年に亡くなると、主君の山内顕定(あきさだ)は弟の忠景(ただかげ)に跡を継がせました。

五十子陣跡周辺
五十子陣があった頃の関東地方の勢力図、現地説明板より

戦国の風雲児、長尾景春が築城

この決定は妥当なものでした。忠景は一族の中でも年長で経験豊富な人物とみなされていたからです。ところが、景信の息子、景春(かげはる)はそうは考えませんでした。家宰の地位は、彼の祖父から父へと引き継がれていたからです。景春は五十子陣を離れ、1475年に鉢形城を築き、翌1476年には反乱を起こしました。鉢形城は、関東のもう一つの大河、荒川と、深沢川との合流地点にある高い崖の上に築かれました。その場所は半島のように突き出た自然の要害だったのです。初期の城の詳細はよくわかっていませんが、景春にとってそこから五十子陣を攻撃するのは容易だったはずです。陣の南側の城に面する方角には何の防御もなかったからです。新体制に不安を感じた多くの配下の武士たちが景春側につき、1477年についに陣は崩壊しました。

長尾氏の家紋、九曜巴 (licensed by WTCA via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

荒川と城があった崖地帯
深沢川

景春が実際に何を求めて事を起こしたのかは不明ですが、彼は味方とともに多くの領地を得ようとし、敵対していた足利氏とも講和しました。景春は優れた武将でしたが、扇谷家の家宰、太田道灌は更に上手でした。道灌は、江戸時代に政治の中心地となり、現在は皇居となっている江戸城を最初に築いたことで知られていますが、彼自身も優れた軍略家かつ政治家でした。彼は、小机城など景春方の城を一つ一つ落としていき、足利氏とも一時的な講和に持ち込むことに成功しました。そのため、景春は追い詰められ、本拠地の鉢形城に戻ることになります。1478年、道灌は城を攻め、ついには落城に追い込み、景春はそこから逃亡しました。道灌はこの活躍により関東で最強の武将となりましたが、1485年に主君である扇谷定正に殺されてしまいます。道灌の権勢を恐れた結果でした。関東地方は再び動乱状態となり、景春は傭兵隊長として主筋である山内家と生涯戦い続けました。最後には北条氏の創始者、伊勢宗瑞(北条早雲)の食客に落ち着き、1514年に亡くなりました。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城跡(現在の皇居)
小机城跡
北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条氏の支城となる

鉢形城はしばらくの間、山内家によって使われましたが、一旦は廃城となったようです。16世紀になると、山内・扇谷両家による上杉氏の勢力は衰え、代わりに北条氏が関東地方に侵攻してきます。北条氏は相模国(現在の神奈川県)の小田原城を本拠としていましたが、関東地方を統治するために重要な支城を定め、それぞれに親族を送り込みました。鉢形城は、北条の領地の北端に位置していたため、支城の一つに選ばれました。そして、北条氏邦が1568年に城主となりますが、その維持には苦労しました。例えば北条氏が、山内家の後継者で最強の戦国大名の一人とされた上杉謙信と講和を結ぶときは、氏邦は交渉役となりました。ところが、その講和が破綻すると、謙信は鉢形城を攻撃し、城下町に火をかけ、そして去っていったのです。

北条氏の家紋、北条鱗 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
小田原城
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後の城主、北条氏邦

このような厳しい状況に対処するため、氏邦は城を大いに改修しました。この城は当初から自然の要害で、東西と北の三方を2本の川に挟まれた高い崖の上にありました。主な曲輪として本曲輪、二の曲輪、三の曲輪があり北から南に一直線に並んでいました。そのため、敵は南側の三の曲輪から攻める必要がありました。攻撃を防ぐため、曲輪群は深い空堀によって区切られ、高く分厚い土塁によって囲まれていました。土塁の一部は、まるで石垣のように見える石積みによって支えられていました。曲輪の入口は、門と馬出しのセットにより防御されていました。馬出しとは、門の前に接続された小さな曲輪で、背後の大きな曲輪とは細い通路によってつながっていました。防御と攻撃両方に使える陣地でした。

現地にある鉢形城のジオラマ、北方面から見ています
復元された石積み
復元された馬出し

1590年、天下人の豊臣秀吉がその統一事業を完成するため、北条の領土であった関東地方に攻め込んだとき、鉢形城は突然の最期を迎えました。秀吉は20万人以上の軍勢とともに関東地方に赴き、そのうちの約3万5千人が前田利家に率いられて5月に鉢形城を攻撃しました。氏邦と約3千人の守備兵は約1ヶ月間籠城しました。攻撃側は城を強引に攻めることはせず、代わりに城の大手門の南側、約1km離れた車山から大鉄砲により砲撃したと言われています。氏邦はついに6月に降伏し開城しました。援軍の見込みがなかったか、砲撃による損害が大きかったからでしょうか。城は、北条氏の代わりに関東地方に入った徳川氏に引き継がれますが、やがて戦国時代の終わりには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の外曲輪から見える車山
鉢形城跡

「鉢形城その2」に続きます。

17.金山城 その2

ハイキングコース上にある難攻不落の要塞

特徴、見どころ

ハイキングコース上にある城跡

現在、金山城跡は太田市によってよく整備されています。城跡がある山には、城跡へ行くものも含めていくつものハイキングコースが設定されています。多くの人たちがハイキングコースを歩いて、楽しんだりくつろいだりしています。城跡に行ってみようとする歴史ファンであれば、例えば史跡金山城ガイダンス施設から西山コースを歩いてみてはいかかでしょう。

城周辺の地図

史跡金山城ガイダンス施設
施設からハイキングコースへの入口
西山コース
山上の駐車場に到着します

車でなるべく近くまで行ってみたいのであれば、金山ドライブウェイを登って山頂から700m程離れた駐車場まで行くことができます。そこは城でいえば西城の辺りです。西山ハイキングコースも駐車場がある場所に合流するので、城跡への道のりはどちらの場合でも通常そこからスタートします。

金山ドライブウェイの入口
金山ドライブウェイ
山上の駐車場
駐車場近くにある西城虎口跡

敵が簡単に近づけない仕掛け

城跡の中心部分に行くには、東に向かって伸びるオリジナルまたは最近新たに整備された通路を通っていきます。その途中では、いくつもの堀切を見ることができます。これらは、敵が簡単に城を攻撃できないように作られたものです。

現地の案内図

現代になって整備された通路
こちらはオリジナルの通路(途中で途切れてしまっています)
堀切の一つ

特に物見台の前にある堀切は、岩場を深く削り取って作られたものであり、大変印象的です。更には堀切の背後には、二重の関門があって復元された石垣によって囲まれています。この関門へは、堀切にかかった土橋を渡って入っていきます。

物見台前の堀切
物見台下の第一の関門
こちらは第二の関門
物見台周辺の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

関門の頭上にある物見台は展望台として再建されていて、その上からは市街地やその周りの山々が見渡せて素晴らしい景色です。このエリアは城防衛の要の地点だったに違いありません。

展望台として使われている物見台
物見台から関門を見下ろしています
物見台からの景色

石垣・石敷で復元された大手虎口

次に来るのは、実城(みじょう)と呼ばれる城の主要部分で、城で最も大きな「大堀切」と「月ノ池」と呼ばれている石垣で覆われた小さな貯水池によって他と隔てられています。

城主要部の地図

大堀切
月ノ池

その池を越えていくと、谷の中で際立って見える大手虎口が見えてきます。谷の両側を素晴らしい多段階の石垣が覆っています。この虎口はまた、排水路を伴った石が敷かれたいて、まるでヨーロッパの城のようにも見えます。これらの石垣・石敷は、現代になって発掘調査の成果とその後の研究に基づき、一部は元からある石を使って復元されたものです。

復元された大手虎口
谷の北側の多段石垣
谷の北側から南側を見ています
虎口を逆方向から見ています

これらは最後の城主であった北条氏によって完成されたと考えられています。その理由は石垣を積むのに、アゴ止めという技法が使われており(石垣の一番下の段の石が大きくはみ出していて、石垣の崩壊を防ぐようになっています)、この技法は北条氏の他の支城である八王子城でも使われているからです。しかし発掘により、石垣は何度も改修されたことがわかっていて、北条氏より前の大名が石垣を作り始めた可能性もあります。

アゴ止めとなっている部分
八王子城跡

「金山城その3」に続きます。
「金山城その1」に戻ります。