158.福知山城 その1

明智光秀は5年間かけて丹波国を平定しました。それを成し遂げた後、光秀が行ったことが福知山城の築城でした。

立地と歴史

謎につつまれた明智光秀の出自

福知山城は丹波国北部にあった城で、現在では京都府の一部となっています。丹波国は現在の人々にはあまり馴染みがありません。この国はそれ程大きくもなく、最終的には京都府と兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においてはその立地が当時の首都である京都の背後にあることから、非常に重要な場所とされました。そのため歴代の将軍や天下人たちは、常に丹波国を直接または重臣たちにより支配しようとしました。1570年代から80年代にかけての天下人、織田信長も同じように丹波国を支配するため、重臣の明智光秀を送り込みました。その光秀が福知山城を築くことになります。

丹波国の範囲と城の位置

明智光秀肖像画、本徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

光秀は、多くの歴史ファンにとって謎に満ちた人物です。彼の苗字「明智」は、高貴な源氏の出である土岐氏の一族であることを示していますが、どのような生い立ちであったかはわかっていません。彼の前半生において知られる数少ないことの一つは、信長の正妻である濃姫の親族だったということです。そして、越前国一乗谷において、将軍候補の足利義昭と出会い、その家臣となりました。これが運命の転換点となり、光秀は義昭と信長を引き合わせ、1568年の上洛により、それぞれが将軍と天下人になるに至りました。光秀は単にコネを持つ人物だったのではなく、優れた政治家であり、知性ある部将でもありました。そのため、実力主義の権化のような信長にも重用されることになったのです。

清須市清州公園にある濃姫の銅像
清州公園にある織田信長の銅像
一乗谷朝倉氏館跡
足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

丹波攻略後に福知山城を築城

光秀は1575年に信長により丹波攻略を命ぜられました。当時の丹波国は、八木城の内藤氏、八上城の波多野氏、黒井城の赤井氏など多くの国人領主たちによって分割統治されていました。その上に彼らは、1573年に義昭を京都から追放した信長に反抗していました。攻略の初期段階は、波多野秀治が光秀に加勢したこともあり、全ては順調に進みました。ところが、強力な武将である赤井直正が籠る黒井城の包囲戦を行っていたとき、秀治が裏切ったのです。光秀は敗れ、撤退せざると得ませんでした。光秀はその後5年間かけて、亀山城などの新城を築き、波多野氏を降伏させ、直正の死後黒井城をついに落城させることで、丹波国を手に入れることができました。それを果たした後、光秀が行ったことが1579年の福知山城の築城でした。

波多野秀治肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城跡から見た八上城跡
赤井直正のイラストレーション、黒井城跡現地説明版より
黒井城跡

この城はもともと横山城と呼ばれていて、福知山盆地にあった丘の端に地元領主が築いたもので、そこからは周辺地域を見渡すことができました。また、その場所は川にも囲まれていて、防御性もありました。光秀は城を大改修し、当時最新の築城技術を導入することにより高石垣や天守を築き、信長の権威を見せつけたのです。それ以外にもこの地域に善政を施し、租税免除を行ったり、洪水を防ぐために川沿いに堤防を築いたりしました。福知山の人々は今でもそのことを記憶しています。光秀は、養子である秀満を福知山城の城主として置き、自らは京都の近くの亀山城を居城としました。

福知山城の城郭模型、福知山城天守閣内で展示
福知山城の復元天守
亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本能寺の変後は、福知山藩の本拠地として存続

光秀についての最大の謎はやはり、旧暦1582年6月2日に京都に滞在していた信長を殺した本能寺の変を、なぜ起こしたかでしょう。光秀率いる1万3千人の軍勢は、中国地方に侵攻していた他の重臣、羽柴秀吉を救援するように信長から命じられていたのですが、わずかな供回りと本能寺に泊っていた信長を急襲したのです。この経緯からすると、信長は光秀に全面的な信頼を寄せていたことになります。しかし光秀も、変から(その当時としては)たった11日で中国地方から引き返してきた秀吉によって討たれてしまいます。彼の同僚は誰も光秀を助けませんでした。このことは、光秀には周到な計画がなかったことも意味するでしょう。本能寺の変は、日本史の中でも最大の謎の一つであり、光秀自身がその動機を残さなかったことで、多くの推理・仮説を生み出しています。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』楊斎延一作、1896年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は次の天下人となり、豊臣秀吉と名乗るようになりますが、福知山城は彼の部下たちによって統治されました。17世紀になって徳川幕府が権力を握ると、有馬氏や朽木氏といった譜代大名たちが福知山藩として城と周辺地域を支配しました。福知山は、依然天下人や将軍たちにとって重要な地であり続けたのです。有馬氏が17世紀初頭に城を完成させ、朽木氏が17世紀後半から江戸時代末まで城主となっていました。

丹波国福知山平山城絵図(部分)、出典:国立公文書館

「福知山城その2」に続きます。

49.小谷城 その1

浅井氏が築いた大規模な山城

立地と歴史

浅井氏が本拠地として築城

小谷城は、現在の滋賀県にあたる近江国のうち、北部にあった大規模な山城です。戦国時代の1520年代頃に、この地方の戦国大名であった浅井氏がこの城を築きました。ところが、浅井氏は不幸にも1573年にこの城で滅ぼされてしまったため、浅井の悲劇とともに人々に記憶されることになりました。

近江国の範囲と城の位置

近江国は、東日本と西日本をつなぐとても重要な位置にありました。歴代の将軍や天下人たちは、この国を統治するか、思いのままにコントロールしたがっていました。そのため、例えば織田信長は、1568年に上洛する前に、彼の妹お市を、浅井氏の当主であった長政に嫁がせ同盟を結んだのです。ところが長政は、1570年に信長が浅井氏のもう一つの同盟先である朝倉氏を攻めたとき、信長に反旗を翻しました。信長と長政の長い戦いはこうして始まりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井長政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

織田信長との戦いのために強化

小谷城は、小谷山(標高495m)の尾根上に築かれました。館を伴う多くの曲輪があり、石垣に囲まれていました。城の初期の段階では、これらの構築物は戦うためというよりも、居住のためや権威を象徴するものであったと考えられています。それは、この城の城主が敵から攻撃されたとき、度々城から逃亡していたからです。しかし、信長と戦うことになってからは、朝倉氏からの協力によって、城は強固な要塞として改良されました。また、この城には多くの支城がありました。例えば、大嶽(おおずく)城は小谷山の頂上にあり、峰上にある小谷城の背後を守っていました。

城周辺の起伏地図

長政と朝倉氏は、1570年の姉川の戦いで、信長と野戦を行いましたが、敗れてしまいます。そのため、長政は小谷城に籠ることにし、信長包囲網と呼ばれる他の味方の大名たちが信長を倒すのを待つことにしました。信長は、城を力攻めにすることは諦め、その代わりに少しずつ城を孤立化する策を講じました。羽柴秀吉などの信長の部下たちは、長政の家臣を説得し、信長の味方に引き入れました。その結果、いくつもの小谷城の支城は、戦うことなしに信長側についたのです。

のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長期戦により孤立、そして落城

信長はまた、小谷城の正面に、陣城として虎御前山(とらごぜやま)城を築き本陣としました。このことで、信長側の補給は安定し、一方の長政側は困難となりました。1573年、信長は、最も重要な支城であった大嶽城に滞陣し守っていた朝倉氏を追い払いました。その上で、信長は朝倉氏を、本拠地である一乗谷城まで追跡し、ついには滅ぼしてしまったのです。その結果、小谷城は完全に孤立しました。

城周辺の起伏地図

一乗谷城跡

峰上にある城において、長政は低い方にあった本丸にいました。彼の父親である久政は高い方にあった小丸にいました。信長の部下、羽柴秀吉は麓から一気に駆け上がって中間地点にあった京極丸を占拠しました。それが8月27日のことです。城とそこにいる浅井一族は分断されてしまったのです。久政は混乱に陥り、その日のうちに切腹して果ててしまいます。長政の方は、何日間か持ちこたえましたが、父親と同じように自害しました。城は9月1日に落城しました。

浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現地にある曲輪復元図に曲輪名を赤字で加筆

浅井長政の妻子の運命

信長の妹のお市は、長政の妻でもあったので、まだ城に留まっており、信長によって救助されました。彼女と長政の間には3人の娘と少なくとも1人の息子がいました。この娘たちも同様に救われ、後に浅井三姉妹として知られるようになります。長女の茶々は、秀吉が天下人となった後にその妻となりました。息子の万福丸は、その当時の習わしとして、成人してから復讐できないよう不幸にも殺されてしまいます。長政と久政の首は、これも当時の習いとして京都の公衆の面前に晒されました。信長は、彼らの頭蓋骨を使って髑髏(どくろ)杯を作らせ、宴会で部下たちに披露しました。当時は現在のわれわれとは全く違った多くの風習があったのです。(髑髏杯については、信長だけの特異な行動だったのかもしれませんし、これを敗れた部将への敬意によるものと考える人さえいます。)

お市の方肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像、北ノ庄城跡

「小谷城その2」に続きます。

80.湯築城 その3

この城跡は、愛媛県の決断によって救われました。

特徴、見どころ

丘の頂上からの景色

もちろん、丘の頂上まで登ってみることもできます。その頂上部分は本壇(ほんだん)と呼ばれていて、本丸と同じような位置づけです。現在では展望台として使われています。ここでも発掘調査は行われましたが、出土遺物はほとんど見つからなかったため、あまり城らしい展示物はありません。しかし展望台からは、松山城や道後の温泉街の景色を楽しむことができます。実は17世紀の初頭には、藤堂高虎がライバル関係にあった加藤喜明(よしあき)と伊予国を分割統治しており、喜明が築いた松山城を監視するために、高虎が廃城となった湯築城を一時使っていました。高虎も、今日われわれが湯築城から見る同じ景色を眺めていたのではないでしょうか。

城周辺の航空写真

丘の頂上へ
展望台がある本壇
道後温泉街の景色
松山城の遠景
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治時代の1888年、愛媛県は湯築城跡に道後公園を開設しました。1953年には公園の中に動物園がオープンし、大変な人気となりました。しかし、1987年に動物園は他の場所に移転しました。その理由は、市街地の中で動物園からの悪臭と騒音が問題となったからです。元動物園だった区域は近代的な日本庭園になる予定で、その前に湯築城跡としての調査が行われました。その結果、数多くの遺物や遺跡が良好な状態で見つかったのです。そのため県は跡地の開発計画を変更し、1990年に歴史公園とすることに決定しました。発掘の成果や、一乗谷城のような他の城跡での事例に基づき、湯築城の復元工事が1998年に始まり、2001年に完成しました。城跡は2002年には国の史跡に指定されました。

内堀とそれを囲む土塁
入口に掲げられた湯築城の幟

私の感想

私は、湯築城がこんなにも大変な歴史を乗り越え、残ってきたことを全然知りませんでした。愛媛県の城跡を保存する決定には、今更ながら敬意を表します。もしそれがなかったら、松山城以前の伊予国の歴史を皆忘れ去ってしまっただろうからです。城跡を含む道後公園にはとても良い雰囲気があります。公園を歩いてみた後は、近くの道後温泉街に行き、伊佐爾波神社や道後温泉本館を見学するのもよいと思います。

道後温泉本館
伊佐爾波神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約20分かかります。道後公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅前から路面電車に乗って、道後公園駅で降りてください。
東京または大阪から松山駅まで:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

国史跡 道後公園湯築城跡
・「日本の遺跡39 湯築城跡/中野良一著」同成社
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
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